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【4夜連続公開】朝倉かすみ「よむよむかたる」#011

ついに完成した記念冊子に胸をときめかせる一同。そんな中、読書会を急遽欠席したマンマの息子から電話がかかってきた。

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6 一瞬、微かに

 さもありなん。やすの頭にひょいと浮かんだフレーズだ。さもありなん、さもありなん。それが繰り返されている。手持ちののひとつではあったが、使ったことは一度もなかった。なのにさっきから脳内にバーゲンセールのはんそくポップみたいにべたべたと貼られていく。
 九月二日金曜日。例会の最中である。ふた月振りというのに空気が重い。まるで七月の例会を引きずっているようなのだが、さもありなん、会長がまたしても入院中なのである。
 七月下旬に退院したらしいのだが、ひと月も経たないうちに症状が重くなったようだ。ストイックな入院生活から解放されるやいなや食べ放題の毎日を送りだしたという。「タチが悪いのは、『好きなものを好きなだけ食べると怒られる』と学習したせいか隠れ食いをするようになったことで、しかもそれがけっこうなドカ食いで」とこぼすユリちゃんのため息が受話器越しに湿っぽく伝わってきた。「ダイエットでいうリバウンドみたいなものですかね」と安田が応じると、「ですかねぇ、とにかく信じられないくらい食べたがるんですよ」とまた大きなため息を吐き出すユリちゃんだった。
 会長は、足の爪からばいきんが入り、グジュグジュになったのを機に入院となったそうだ。インスリン注射を打つ手技の再指導も受けているらしく、「と言っても針や単位のセットまではやってくれる人がいるんです。本人は『ハイ、押して』と言われて注入ボタン押すだけなんですよ。それっぱかしでもーアーダコーダ、アーダコーダ文句言って、ホラ、あのヒト昔とったキネヅカでヘンに滑舌いいじゃないですか。それがマタほんっっとに憎たらしくてねぇ」という、そんな現状であるらしい。安田としては「そうなんですね……」としか応じようがなく、「えーーっと」と間をつないでからこう言った。「じゃあ『読む会通信』はぼくのほうでやらせてもらいます。とても会長のようにはいきませんけど、次回の読みの割り振りと会長の近況をお知らせするくらいでしたら、なんとかなるかと。とにかく会長には、ゆっくり養生して、早く戻ってきてくださいと。みんな首を長ーくして待ってますと。やっぱり会長がいないと気の抜けたサイダーみたいだってみんな言ってると、そのようにお伝え願います」
 かくして二回連続して会長のいない例会となったのだった。当然、読む会メンバーの寂しさは募る。そこに今日はマンマの不在が重なったものだから、会のトーンがいっそう暗くなるのも、さもありなん、だった。
「ヤーごめん、野暮用できちゃってサァ、今日の例会チョット遅れるかもしれないけど、気にしないで先に始めててーって、今朝、電話で」
 シルバニアが何度も言った。マンマの口にした「チョット遅れるかもしれない」の「チョット」を強調し、「なるべく早く来てちょうだいナ、美人さんがいないと盛り上がりませんので」と伝えたら、「そりゃそーだ!」ってエバるから二人してアハハって笑って、「マァしょってる!」って言い返してまた笑って、と続けたあと、
「野暮用が長引いてるのではないかと」
 と首をかしげ、「きっと銀行か郵貯のなにかだと思う」と見解を述べた。「ファンドとか定期とかのなにか」と付け足し、「だって読む会に遅れるほどの野暮用といえば資金運用のハナシに決まってますので。資金がなけなしであればあるほどまなこになるものです。それが係の人につけ込む隙を与えてしまい、新商品をコッテリ勧められるハメになっているのでないかと」と自信ありげにうなずくと、皆も深くうなずき同意した。「たしかに雀の涙ほどの額でも放してなるものかって意気込みで相談に乗りたがりますからネェ」「オジイチャン、寝かせてるのはモッタイないでしょーってね」「うんうん寝かせるなーつってネ」と会話がつながり、「コッチはいつ寝つくか分かりませんので」で笑い声も起きたのだが、いつもの爆発力はなかった。
 とはいえ、読む会にとって嬉しいトピックはあったのだ。市立文学館事務員・いのうえさんが見学に来たのである。
「失礼します、です」
 井上さんが喫茶シトロンの玄関を開けたのは午後一時すぎだった。先月、安田が申し伝えた時間通りだ。「誰?」とみんなが玄関に注目する中、安田は「今日はなんとゲストをお呼びしています」と立ち上がり、井上さんを迎えに行った。両手をグーにして土間に突っ立つ井上さんの背に手を添えようとしたのだが、寸前で躊ためらわれた。猫の手みたいな指のまま、「こちらへ」と声をかける。井上さんが読む会を知ったきっかけなどろうしながら席に戻るあいだ、みんなからは「ヒャア」とか「エー」の歓声が起こった。「ホントにかい」とか「我が読む会も大したもんだネェ」の声も聞かれた。みんな、顔をホクホクさせていて、でたて熱々のじゃがいもみたいだった。ちようネクタイが立ち上がり、井上さんに席を譲る。「どうぞ」と指を揃えた手を拝むように上下しながらマンマの席へと中腰で移動した。
「井上あやさんです」
 安田が紹介したら、井上さんは、
「ただいまご紹介にあずかりました井上です。初めましてです。安田さんのご好意で見学させていただく運びとなりました。和やかな空気感ができあがっているところ恐縮です。招かれざる客と存じますが、せめて乱入者とならないよう、この巨体ごと気配を消すよう努める所存です」
 と深く頭を下げた。美容室に行ってきたばかりというようなマッシュルームカットがさらさらと揺れるやいなや、ぱちぱちぱちぱち、拍手の音が鳴り響いた。井上さんの自虐ムーブは感知されなかった模様である。若い人だ、若い人が来たよ。どの目もそんなシンプルな喜びで輝き、どの口も、なにかちょっとした冗談を言いたくてならないようにムズムズしている。真っ先に抑えきれなくなったのは意外にもシンちゃんだった。
「ひょっとして、やっくんのカノジョだったりして?」
「違います」
 にこやかに否定した安田を無視し、にやにや笑いのシルバニアが続く。
「なんとおっしゃるウサギさんですので。カノジョでないとこんなトコまで連れてきませんので」
「違いますよー」
「まーそうムキにならなくても。お相手に失礼ですゾ」
「だから違いますって」
「ヤーよかったネェ。やっくん、おめでとう」
 ウッ、と口を押さえ、まちゃえさんが声を詰まらせた。もうむせび泣いている。自分の手提げを手探りしてひざに載せ、エッ、エッ、とえつしながら中を搔き回した。それを見たシンちゃんが手提げからティッシュを取ってやり、まちゃえさんに渡した。シンちゃんは安田へと目を移し、まちゃえさんの背を優しく叩きながら言った。
「嬉しいんですよ。やっくんはいつまで独り者でいるつもりなんだろうって気にしてましたから。あんなにイイ人なのに、こんな年寄りにばかし付き合わせて、あたしがたは大した心丈夫だけど、やっくんはそれでイイのかなー、やっくんの青春バ奪ってないかなーって」
「そうなんだワ。やっくんまでももさんやたけさんみたいなことになったらどうしようかと思って、あたしモー気が気でなくてサ」
 すぐに泣き止んだまちゃえさんが晴れやかな笑顔で補足した。急に引き合いに出されたシルバニアと蝶ネクタイは反射的にムッとしたのち、それぞれおどけた渋面をつくってみせた。ふたりとも未婚である。シンちゃんと安田は「やっ」とか「あっ」の声を発し、口をぱくぱくさせて取りなそうとしたのだが、まちゃえさんの次の言葉に搔き消された。
「あたしはネェ、ほんっとしんじつ、、、、こっころから嬉しいのサァ。やっくんがカノジョに会わせてくれてサァ。あきのりは会わしてくんなかったからネェ。カノジョいるんだろうナァとは思ってたけど、年頃の男の子に面と向かって訊くのもなんか可哀想な気ぃして知らんぷりしてたんだワ。デ、けっきょく、そのままサァ。さんに会えたのはあの子のお通夜だったからネェ」
 それでも会えてよかったヨゥ、明典のおかげサァ、とまた咽び泣いた。一旦丸めたティッシュをほじくるようにして広げ、「明典が会わしてくれたんだヨゥ」と目にあてるのを見つめる井上さんの横顔を安田は視界のすみで捉えていた。
 まろやかなおでことほほと後頭部。やはりまるまるとしたフェイスラインがふっくらした猫背に乗っかっていて、赤ちゃんぽい。視線をまちゃえさんに向けているので、白目の分量が常にも増して多く見えた。青みをたたえた張りのある白目だ。半開きになった口元の富士山みたいな上唇といい、まったく幼な子のようだった。目の上ぎりぎりで揃えた前髪と黒く濃いまつの触れあっているところが震えるようにチラチラ揺れていて、いたいけですらあった。
 みんなに冷やかされているあいだも、安田は視界のすみで隣席の井上さんを気にかけていた。案の定井上さんは自虐ムーブを発動させていたようだが、それは口をモグモグ動かすだけの密かなものだった。やや肩を怒らせ、グーにした両手を膝に置いたままの姿勢は誰が見ても「固まっている」状態で、どうやら井上さんは自虐すらできないほど緊張していたらしい。それが解けないうちにまちゃえさんの口から美智留や明典さんの名前が出てきて、ますますからだが強張ったようだった。
 ごくっ。井上さんはつばを飲み込んだ。あめだまが通るように喉が動く。場が静まっていたものだからクリアに響き、みんなの視線が「え今の誰?」というふうに動いた。
「すみません、思わずかたを」
 固唾を少々、と井上さんが腰を浮かせたら、みんなは「座って、座って」の身振りをしながら「なんも気にすることないヨゥ」の顔つきで「そうかい、固唾かい」「なるほどネェ」など小鳥の鳴き声のようにさえずった。
「こう見えてけっこう固唾飲み込みがちで」
 ハハハ、とうつむいた井上さんにあわせて、みんなもフフフと笑った。まちゃえさんまで笑っていて、その声に気づいた井上さんが顔をあげ、目と目が交わった。まちゃえさんが改めてふふっと笑いかけ、井上さんがふふっと返した。そのようすにふふっとなったシンちゃんと目が合って、安田は自分もふふっとなっているのに気づいた。実は井上さんはお二人の……とうっすら念を送るようなきもちでシンちゃんにうなずきかけたのだが、シンちゃんから返ってきたのは、いつも通りのうなずきだった。安田の頰に、やっぱ無理かみたいな笑みが浮かぶと、シンちゃんはまた機嫌よさそうにうなずいてきた。
 これで井上さんの緊張が少しほぐれた。安田がマンマの代読を頼んだときも「滅相もない」とか「あまりにも時期尚早」と固辞の姿勢を見せはしたものの、そんなに長く引っ張らずに引き受けてくれた。
 そんなこんなでようやく例会のムードが上向いた。なのに読みに入るとふたたび雰囲気が重くなるのだが、これもこれとて、さもありなん、今回読んだのは第四章なのだった。
〈ぼく〉とこぼしさまとの交流が順調に深まり、〈おちび先生〉への認知も成功した矢先、有料自動車専用道路が建設されることになった。ルート候補は二つあり、小山を潰す案が優勢だ。回避すべく〈ぼく〉、〈おちび先生〉、こぼしさまは協力して秘密の作戦を実行、みごと成功させる——。
 あらすじだけでいえば、みんなで力を合わせて絶体絶命のピンチを乗り越えた「めでたしめでたし」の回である。井上さんのデビュー読みもみんなに絶賛された。雑味のない声での安定した読みに一同聞き惚れ、終わったときには熱のこもった拍手が起こった。「いやいやいや、エヌエッチケーのアナウンサーも裸足で逃げるほどの読み!」「そう! まさにエヌエッチケーですので! 特にわたしの好きだった、あの『とうげぐんぞう』の語りの、あの人……」「『峠の群像』? がたけんの?」「大河。赤穂あこうろう。その語り手の人にちょっと似てて」「分かる! あの人ネ」「アーでも出てこない!」と井上さんに似ているらしいアナウンサーの名前探索にしばし集中したのち、諦め、「とにかくあの人に似てる」「素晴らしい」と褒めちぎった。

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