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大前粟生「サウナとシャツさん、ふつうの男」前篇

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モブキャラのような俺の前に現れた十六万円の最高のシャツ。
没個性への希求と、初めての衝動の狭間で、俺は――

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「オレらの仲っていつまで続くんやろうなあ」
 隣でヤチがそう言った時、俺は恥ずかしくてうれしくて、どうしてかその言葉は、俺から出てきたみたいに体に馴染なじんだ。
「それなー」
 八畳ほどのサウナ室は大方埋まっていた。俺らは全部で四段あるひな壇のような席の一段目に腰掛け、熱を耐えていた。
 ヤチをはさんで反対側に腰掛けている甲斐田かいだ流星りゅうせいが、壁に掛けられた温度計をじっと見つめながら同意する。流星はだいたいなんでも同意する。だから俺は一緒にいて疲れないけど、たまにヤチは流星のそういうとこにイラッとしている。
 今はどうだろうかと、俺はヤチの横顔を覗き込んだ。カミソリ負けで荒れた頰に手をあてて、ぼんやりしている。流星にイラついてはいないみたいで、俺は安心する。
 ヤチは最近、ヒゲ脱毛の無料体験にいってみたらしい。本人ははっきりとは口に出して言わないけど、ヤチはK―POPアイドルの醸し出す美しい陶器みたいな雰囲気を目指している。脱毛って中途半端なところで止めると、かえって毛の量は増えてしまうようだ。ヤチには脱毛に通い続ける金なんて当然なく、ヒゲは頰のあたりまで範囲が広がり、それが許せずこまめに剃っている。
 俺は、ヤチがひとりで脱毛したことが、なんとなくショックだったんだよな。
 いや、そりゃ、脱毛サロンなんて連れ立ってはいかないだろう。そういうことじゃなくて、ヒゲがコンプレックスだったんだなって、最近まで知らなかったことがだ。
 俺ら四人の中にも秘密があったんだな、ってこと。それでその秘密は、脱毛の失敗によってもう秘密じゃなくなったから、ヤチは話してくれた。もう大事じゃなくなったから共有してくれたんだよな。
 俺はなんで、そのことに虚しさを感じてるんだろう。
 サウナで人のことをじろじろ見るのははばかられたから、俺も温度計を見る。サウナ室は九十度くらいで落ち着いている。
 流星の隣で、むらかずが、ふぅぅ、と息を大きく吐いた。顔中の汗を手で拭って、そのまま黒髪を搔き上げた。一美は俺らの中でいちばん顔がつるっとしていてパーツのひとつひとつは歌舞伎役者みたいに濃い。頭の回転が早くて、よく学科の女子から〝スペックが高い〟なんて言われてる一美が、その話題については前々から考えていたとでもいうように、ヤチの話を引き継いだ。
「でもガチな話どうなん? まだ二年生の夏休みやのに、早いやつはもう就活の準備しはじめてるやん。先輩らとか見とってもガチで忙しそうやし。そこで仲間できたら、そこの仲間とまあ仲良くなって、それまでつるんでた連中とは自然に距離ができてくとか、あるよなあ」
「一美はなんかさ、大人やんな」
 と俺は言った。喉の奥に熱気が通りはじめたのを感じる。腹の表面は先ほどの水風呂と外気浴での冷えが残っていて、つまむとぬるぬるする。俺の口調は真面目なものだった。こういう褒め方をすると一美は照れて、そのことで俺ら四人の雰囲気がなんとなく良くなるってこと、俺はわかってる。
 それから俺は、でもちょっと真面目感が強かったかな、もうちょっと笑いを入れたいと思って話を続ける。
「将来のこととか全然リアリティないよな。夢とか希望とか、ないし。俺、小学生の頃から、安定した暮らしがしたいって思ってたし。夢とか、ほんまなんそれ。あるわけないやん」
 サウナ室用の一二分計の針がちょうどてっぺんを指した。俺らの後ろの段にいた何人かの男たちが辛抱たまらんといった様相で呻き声を漏らしながら、席を駆け降りて出ていった。
 スペースができたから、すいません、すいません、と男たちの合間を縫って俺らは四人いっぺんに最上段の席に移動した。
 毛穴という毛穴から汗が噴き出し、だんだんと俺らの体は、外側や内側といった境なんてなくなって、ただ熱の塊になる。そのうちに考え事もうまくできなくなる。生きてるだけでずっとまとわりついてくる不安とか、慢性的な金欠だとか、バイト先のストレスはうまく頭にのぼってこなくなる。この熱気の中では、なにもかもがどうでもよくなってくる。
「暑い」だけがここにある。
 そのために俺は、俺らは、サウナにきているのかもしれない。
 いや、「俺」も「俺ら」も、この場では消え去っていく。
 暑い。暑い。暑い。暑い。
 それしか考えられなくなってきて、時間が経つのを待ち焦がれる。
「ぐきゅわ~~」
 前の席に座っている筋骨隆々のボディビルダーみたいなおっさんが天井を見上げ、祈るようにか細い声で呻いた。サウナキャップを被り、備え付けのものではない折り畳みマットを尻に敷いている。サウナガチ勢だ。
 八畳ほどのサウナ室には、ガチ勢らしき人が数人いた。他には、俺らみたいな大学生っぽい人や、刺青はないけどどう見てもカタギには見えない人。腹がでっぷり出て豊かな白髪で貫禄のある金持ちそうなおっさん。顔中が髭に覆われてがっちりした体格の人。隅に並んで腰掛け、たまにIT用語らしきカタカナを口にしては笑っているふたり組。いろんな人がサウナ室を入れ替わり立ち替わりし、みんな熱の塊になっていく。
 縁もゆかりもない男たちが同じ暑さを耐え忍び、声を殺して苦しんでいる。
 なんだか妙な一体感を感じてしまう。
 話したこともないのに、目の前のおっさんも、今入ってきたおっさんも、俺らと反対側にいて姿の見えないおっさんも、まるで仲間みたいに、当たり前だけど、みんな裸。裸っていう服を着てるんじゃないか?
 裸っていう制服……。裸というユニフォームなんだ……!
 それが重要な気づきであるみたいにハッとする。
 そうだ。
 苦しさの中で自分が消えてる感じ。
 俺なんて、俺らなんて何者でもなくて、そのことで大事なものが許されている感じ。
 許されているって、なにが?
 時計に目をると、俺らが入室してからまだ四分しか経ってなかった。
 一、二、三、四……と俺は暑さを耐え忍ぶように、脳内で一秒一秒を数える。
 血が頭に集まってぼうっとする。サウナ後になにをたべようかと考えて暑さを紛らわそうとする。
 ここのサウナはカプセルホテルの八階にある。十一階レストランのオムライスはサウナ後のご飯―いわゆる〝サめし〟として有名だけど、俺らはたべたことがなかった。今までたまたま誰かに用事やバイトがあって機会を逃し続けていたけれど、今日はこのあと夕方までみんなフリーだ。オムライスはインスタで写真を見た限りいたってシンプルな、昔ながらといった見た目だけど、だからこそ特別感がある。
 でも、オムライスのことを考えても全然楽しくはない。
 だってここはサウナ室の中で、暑いからだ。
 しっかり焼かれたたまごとか、べちゃべちゃしてそうなチキンライスがだんだん気持ち悪く思えてくる。
 ミスった。
 オムライスのことなんて、水風呂か外気浴の時に考えるべきだった。俺はがっくりとうなだれる。考え事に向いてない状態で考え事なんかするべきじゃない。そんな当たり前の後悔も、すぐ熱に覆われて機能しなくなる。
 ふと隣を見ると、ヤチも流星も一美もうなだれていた。
 もしかして、三人とも今オムライスのことを考えてた?
 フフフッと俺は笑いそうになる。俺ら四人でひとつみたいだ。
 俺は、もっと深く、丸くなって、そのまま宇宙のただ一点となり消滅するくらいの気持ちでうなだれた。
 しばらくそうしていると、ふっと空気が緩む気配がした。頭を下げたまま目だけで見ると、紺色のポロシャツを着た、俺らと同年代くらいのスタッフさんがサウナ室に入ってきていた。
 手にバケツとしやくを持った彼は、少しかしこまった様子でこう言った。
「入れさせていただいてよろしいですか?」
 わっ。
 ロウリュだ……。
 内心驚いていると、
「「「よろしくお願いします」」」
 サウナ室にいた男たちが、誰からともなく声を揃えた。
 俺はその一体感にくすぐったさを感じながら、スタッフさんに会釈する。なんだか彼が、たいそうありがたい存在に思えたのだ。体が勝手に、他のみんなみたいに感謝の意を表さなければ、と反応した。
 スタッフさんはバケツの中のアロマ水を柄杓ですくい、サウナストーブに積まれた焼け石に注ぐ。ジュアアア、と音を立てて白い蒸気が発生した。さらに、スタッフさんは、手に持った大きなタオルをひゅんひゅんと頭上で回しはじめたのだ。アロマを含んだ香り高い蒸気が部屋の隅々まで行き渡っていく。生々しい草の香りがタオルの回転によってかくはんされていく様は、ひゅんひゅんを超えてもうぶんぶん。
 熱と風を司る彼はただのスタッフさんじゃない。
 アウフギーサー……熱波師だ!
 ここが舞台上であるかのように前後にステップを踏みながらタオルを操ったかと思うと、今度はタオルをピザ生地のごとく回しはじめた。優雅に、それでいて激しくかたちづくられていく円によって熱が波打ち、風となって伝わり、そしてすべてが渾然一体となっていく。ひと呼吸おいたあとに、「またロウリュさせていただきますね」とスタッフさんは言ったが、水を注ぐ前に、最近の天候のことやサウナストーブの調子など―スタッフさんたちでサウナストーブにあだ名をつけたりしているらしい―軽く口上が述べられた。
「……では改めてよろしくお願いします」
 スタッフさんがお辞儀をすると、男たちから割れんばかりの拍手が起こった。
 そして二度目のロウリュのあと、また熱波がやってくる……!
 タオルの両端を持ち、手を頭のうしろで交差させ、風を取り込むように勢いよく前に振り下ろす。パンッ……パンッ……音と共に男たちの体に熱波がぶつかる。スタッフさんが首振り扇風機のようにタオルの向きを変えて熱を行き渡らせたあと、三度目のロウリュ。ジュアアア。
 そして、ひとりひとりの客に向けてタオルが振り下ろされた。男たちはにやにやと微笑みながらスタッフさんに会釈をする。俺は、なんだこいつら、と思いながらも、俺に向けて放たれた質の高い熱と風を浴び、にやけが止まらない。最後にもう一度スタッフさんはロウリュをしてくれて、背中に大きな拍手を受けながらサウナ室を出ていった。
 鼻うがい。
 まるで鼻うがいをしたみたいじゃないか。
 喉から鼻にかけてアロマの爽やかな香りが抜けるのを感じる。
 肌がもう「暑い」を飛び越し、痛い痛いと悲鳴を上げはじめる。唇と眼球がひりひり焼けつきはじめ、俺は頭にかけていたタオルで顔全体を覆う。それでももうダメだ。室温は優に一〇〇度を超えている。
 水風呂を求め、男たちが次々とサウナ室を飛び出していく。俺らはどうする? ああ、まだ八分しか経っていない! 助けを求めるように周囲を見渡すと、残っている人たちはみんな苦悶の表情を浮かべ、ため息や咳払いと共にもじもじと体勢を変え、時間をやり過ごしている。
 すべては最高の〝ととのい〟のため。
 サウナ―水風呂―外気浴。このサイクルを俺らは三セットこなす。実は俺は、サウナ室にいる時間は六、七分がちょうどいいのだけど、十分間は耐える、というのが俺らのきまりだった。
 いや、きまりという言い方は大げさか。
 それでも暗黙の了解みたいに俺らは、いつも共に行動をしている。
 大学に入った時からそうだった。
 俺はどうしてか、俺らの関係がもう失われてしまったものみたいに、懐かしく思い出す。

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