今村翔吾『海を破る者』冒頭試し読み
序章
時を追う毎に一人、また一人と、集まって来る。
壁の無い茅舎のような粗末な御堂には、弟子や教えを聞きに来た近郷の僧で溢れ返り、その周囲を数十の民たちが取り囲んでいる。
一遍はすくと立ち上がった。他の僧たちも慌てて立ち上がろうとするのを手で制す。
「まだよ」
弟子の一人が物言いたげな目をしている。
「暑いな」
一遍は手で大袈裟に顔を扇いでみせた。
狭い御堂に三十人以上の僧が詰まっており、その中心に一遍は座していた。折角、心地よい風が吹き抜けているのに、ここは人の壁に遮られて蒸し暑くて敵わない。
集まってきた民の顔をよくよく見たいと思ったのだ。己がいると聞いて駆け付けた者もいようが、これは何の集まりなのかと首を捻っている者も散見される。何か面白そうなことをやっていると興味半分で来た者も多分に含まれているようだ。
弘安五年(一二八二年)、仲春の頃である。桜吹雪でも見られると思ってやって来たのかもしれない。だがこの片瀬の館に、付随して建つ御堂の前には、小汚い阿弥衣に身を固めた僧が群れているだけ。がっかりした者もいるのではないだろうか。
「すまないな」
何も知らずに集まった民が些か不憫に思えて、口から微かに声が零れ出た。
「如何なさいました?」
余程耳聡いようで、賑わいの中でも聞きつけて先ほどの弟子が尋ねてきた。いや、生来真面目な性質で、己の一言一句を聞き逃すまいと努めているのかもしれない。
「いや、何でもない」
苦く頰を綻ばせて、増え続ける衆を見渡す。
信心から駆け付けて来た者は、すでにこちらを拝みつつ念仏を口中で転がしている。その姿を尊く思う。一方で、別に何も知らずに集まった者たちを蔑む心はもとより無い。むしろ皆が好奇に目を輝かせているのを見ると、これこそが人が人たる所以ではないかと心が躍るのだ。
未知のものに訳もなく惹かれる心。これは人が生まれながらに持っているものではないか。その証左に、集まって来た者たちに老若男女の境は見られない。身分も様々で、武士やその妻女、行商、百姓、他宗と思しき僧の姿まであった。
一遍は若くして、人というものが解らなくなった。
己の一族が骨肉の争いをし、それを懸命に止めようとした父が渦中に巻き込まれて死んだのだ。血を分けた肉親すら殺し合う人という生き物に絶望し、全てを放り出して修行の旅に出た。
そして三年前、信濃国佐久郡伴野庄小田切の地で、
——踊念仏。
なるものを始めた。
これは市上人空也が始めたものであるが、世間にそれほど知られてはいなかった。詩、絵、書、陶など、人は様々な感情を芸に込める。その中にあって踊りは最古のものであろう。踊りは喜怒哀楽の感情を発露させる不思議な力がある。
そこには偏見も我執も見られず、ただ共に手を取り合う。その姿で唱える念仏こそもっとも純なるものではないか。
「まだ集まって来るようだ」
一遍はひょいと身を乗り出して遠くを見た。こちらを指差しながら、四、五人の百姓が駆け足で向かってくる。少し遅れて幼子を抱きかかえた女の姿も見えた。
「お師匠様、早く念を始めねば」
先程とは別の弟子の一人が顔を強張らせながら言った。
二日前のことである。一遍たち一行が鎌倉に入ろうとしたところ、幕府の御家人たちに止められた。
念仏を口にして大人数が踊り回る様は、彼らの目には異様に映るからか。それとも秩序を揺るがす扇動と取ったのか。はたまた既存の仏教があれこそ邪宗だと告げ口したか。あるいはその全てかもしれない。この三年間、各地を遊行して踊念仏を行ってきた中で、幕府が己を警戒しているということは勘づいていた。その危惧が間違っていないことが証明された。
何も幕府に楯突くつもりはないし、他宗を貶めるつもりもさらさらない。荒んだ心の者たちの救済になることだけを望んでいると懇々と説いたが、御家人はけんもほろろに撥ね退ける。挙句には即刻立ち退かねば斬るとまで言い放った。
仕方なく鎌倉入りを断念したものの、踊念仏の噂は諸国を駆け巡っているらしく鎌倉に住む者たちも、
「ここで出来ぬならば、何処にでも付いて参ります」
と、熱心に訴える。そこで鎌倉から数十人を引き連れ、同じ相模国片瀬にやって来たという訳だ。近隣の者たちが続々と集まり、今やその数は百を超えようとしている。一人でも多くの者の救いになるならばと、こうして始めるのを暫し猶予している。
一遍が人波を縫って歩みだしたので、弟子たちは待っていたとばかりに頷く。
「まだじゃ」
「では何処へ……?」
「糞をして来る」
「は……」
ぽかんとする弟子たちに向け、一遍は口に手を添えて囁くように言った。
「何度も言わすな。昨日の菜が生茹でじゃったようで腹が痛い」
「お師匠、このような時に!」
声を上げたのは新参の弟子である。付いて行く者を誤ったと思ったのかもしれない。顔を赤らめており語調も強い。それをいなすように一遍は柔らかに答えた。
「このような時も何も、糞は時を選んではくれぬ。人は生きる限り物を食らい、やがて捻り出すものよ」
一遍は己の尻をぽんと叩いて片笑んだ。今でこそ多くの者が慕ってくれ、師匠と呼ばれ、もっともらしくしてやらねばと思っている。しかし生まれたままの己は奔放で闊達な性質である。子どもの頃は故郷の伊予で、
——がねさく。
などと呼ばれていた。つまりは悪餓鬼だとか、暴れん坊という意である。己が多分にこのような気質だと古参の弟子たちは重々承知しており、苦笑しつつ、どうぞといったように手を宙に滑らせる。新参の弟子だけが目を丸くしているのが可笑しかった。
一遍は御堂から素足のまま降り立つと、衆もいよいよ始まるのかと感嘆の声を上げる。
「今少し待ってくれよ。まだ近郷から集まっているようだ」
片手で拝むようにして皆を搔き分け、一遍は少し離れた茂みの中に飛び込むと、さっと阿弥衣の裾を捲し上げた。丹田に力を込めると、やがて特有の臭いが鼻先に漂う。
「口にする時は臭くないのにおかしなものよ」
目の前で揺れる草をじっと見つめながら一遍は独り言を零した。思えば人はその躰で一生を表しているようにも思えてくる。人は何一つ身に着けずに生まれてくるが、多くの偏見や我執を身に着けて悪辣な姿へと変貌していく。
「いや、待て……」
一遍は唸りながら呟く。これを悪臭と断定することこそ偏見ではないか。現に蠅はこの臭いを好んでやってくる。人にとっての花の芳香のようなものかもしれない。そのようなことを大真面目に考えている内に用が済み、一遍は手頃な葉で尻を拭いて立ち上がった。
茂みから姿を現すと、集まっていたものが一斉に拝む。始まる前に、一人で何か崇高な儀式でもしていたと思ったのかもしれない。
「すまぬな。ちと腹の調子が悪かったのだ」
一遍は流石に恥ずかしくなって項を搔いた。
「上人様も糞をされるので?」
どこかで己の噂を聞いて来た百姓なのだろう。きょとんとした面で尋ねた。
「お主は儂を何だと思っているのだ。今日なぞは、こんなに大きな糞を捻り出してやったわい」
大袈裟に諸手を広げて語ると、衆の中に幾人かいる子どもたちが、きゃっと可愛らしい笑い声を立てた。子どもは糞だとか小便だとか言うと決まってこのように笑う。伊予にいた昔も、巡った諸国でも同じ。これも人の不思議の一つと数えられるのかもしれない。
「上人様は修行を重ねておられるので……」
「糞が出ぬ修行があるのなら、儂に教えてくれ」
困惑しながら言う百姓に向け、すぐに返したので衆からどっと笑い声が上がった。
「儂も人。お主らと何も変わらぬ。もがきながら生きている」
そう続けると、皆が天から弾かれたように頷いた。
「お師匠!」
御堂の中から弟子が張り詰めた声で呼ぶ。それで一遍もようやく気付いた。
「ああ、来たな」
鎌倉からここに至るまで、ずっと後を尾けられていた。他国で行う分には流石にその全てを止められないが、鎌倉のお膝元である相模では何としても妨害したいというところか。尾行していた者が片瀬で行うようだと伝えたのだろう。遠くから数騎、土煙と共に此方に向かってくるのが見える。
「また他の地に移りましょう」
「いや……」
集まった者たちも、迫ってくる御家人に気付いてざわついている。
「鉦鼓を」
弟子たちに向けて短く言った。鉦鼓とは掌大の鉦で、木槌で叩いて音を鳴らすものである。元々は雅楽の楽器であったが、後に仏教に取り入れられて梵音具となった。
「しかし——」
「儂も立ち向かうとする」
儂はでなく、儂もと言ったことに首を捻る者もいた。
「何も悪いことはしちゃあいない」
一遍はにかりと笑ってみせた。こちらにつられて皆が微笑み、同時にその眼に覚悟の色が浮かぶのが分かった。
「その通りでございます」
弟子たちが鉦架をさっと首に掛ける。鉦鼓を吊り下げる支板のことである。
鉦鼓を担当していない者たちも持蓮華を眼前に取り出す。木製で茎の先に蓮の蕾を模した形状のもので、念仏の際に合掌した手に挟むようにして持つ仏具である。
一遍は小さく頷いて細く息を吐く。そして流れるような所作で手を合わせると、宙に溶かすように静かに念仏を唱え始めた。弟子たちがすぐにそれに続き、鉦鼓の高い音が鳴り響く。一瞬、感嘆の声を上げた民たちも、口々に念仏を唱え出し、その声は徐々に大きくなっていく。
——二河に道を。
心中で強く念じた。
二河白道。唐の善導が書いた「観経疏」に典故を持ち、本邦では法然が「選択本願念仏集」でこの比喩を用いて念仏の意義を説いた。
人世と楽土の間には大きな河が流れており、大水と業火が満ち溢れている。水は貪愛、貪ること、愛着すること。炎は瞋憎、瞋ること、憎むこと。その二河にはさまれた極楽浄土に通じるたった一本の細く白い道こそ、念仏であると考えられている。
民はそれを知らない。そう、ただ心のまま唱えればそれでよい。血も繫がらず、もう終生会うことのない他人と肩を寄せ合い踊ることで、愚かしくも美しい人を感じればよい。その先に必ず信心が、救済が、極楽浄土があるはずだと信じていればよい。
一遍が素足のまま地を歩み出すと、半数の弟子たちも御堂から飛ぶように降りてきて踊り出す。跪いていた民たちも立ち上がり、それに倣うように踊り出した。
熱気が一気に立ち上り御堂を包み込む。皆の動きが大きくなり、際限なく念仏が高まっていく。
「止めよ!」
御家人たちが駆け付けて来た。騎馬の者が二人、内一人は鎌倉入りの際に立ちはだかった男である。あの日と同じ白い直垂、斑の馬に跨っている。この者が頭格と見てよい。
他に徒が三人。その中には、ずっと己たち一行を尾行していた浅黄色の小袖の男もいた。だらしなく開いた襟から胸毛が覗いている。
「停止、停止じゃ!」
御家人は馬から降りると、こちらに近付いてさらに吼えた。しかし衆の中には止めるどころか、一瞥する者すらいない。むしろ抗うように手足の動きを大きく、念仏の声を高らかにしていく。
唾を飛ばして叫ぶ御家人の声も搔き消される。他の武士たちは啞然として見守るのみである。
「お前たちも止めよ!」
頭格に言われて我に返ったようで、慌てて制止しようとするが、御堂の周囲を踊り回る衆に弾かれるのみである。
「ええい——」
頭格は己の下へと近付いてくると、勢いよく太刀を抜き払い、喉元に突き付けた。
「お師匠様!」
「止めるな! 唱え続けよ!」
慌てて駆け寄ろうとした弟子たちを一喝した。弟子の一人が下唇を嚙んで頷く。その間も衆の念仏踊は衰えない。すでに己のことは眼中になく没頭しているのだ。
弟子たちが再び唱え始めたことで、さらに念仏は天を衝くほど大きくなっていく。
「貴様……一遍智真だな」
「そうだが」
「止めさせよというのが聞こえぬか」
頭格は黄ばんだ歯を覗かせて怒りの視線を向けた。刃の先が見えぬ。喉元一寸のところまで来ているのが分かる。それでも一遍は笑った。
「止まるかよ」
「何……」
眉を顰める頭格に向け、一遍は捲し立てるように言い放った。
「人は人が故に、時に人を人と思わぬ時がある。だがそれを是とすれば人は人でなくなる。またそれを是とするほど人は弱くは無い……一度繫がろうとした人の想いを止めることは、またこれ何人たりとも出来ぬものよ!」
「何を訳の解らぬことを!」
激昂したからか太刀の鋩が喉に当たり、つうと温かいものが流れていく感覚が走った。
「ちと、貴殿には難しかったかな?」
一遍は悪戯っぽく片笑んだ。それが嬲るように映ったのであろう。頭格は顔を曼殊沙華の如く赤く染め、太刀を握る手が小刻みに震えている。
「人は必ず、共に手を取り合い生きていけると儂は思っている」
一遍は脚をゆっくりと上げた。踏み出そうとしたのを察し、頭格の顔が憤怒から恐怖に移り変わるのが分かった。此方が一歩踏み出したと同時、頭格がたじろぐようにして一歩下がった。
さらに一遍は歩を進める。頭格はそれに合わせて後退する。よく見れば子猿のような可愛い顔をしている。きっと母はこの者の誕生を喜んだのだろう。そのようなことを考えると愛おしささえ感じた。男は怯えに似たような表情のまま後ずさりし、やがて石に躓いて大きな尻餅をついた。
「貴殿と儂もな」
差し伸べた手を、頭格は愕然として見つめていた。一遍は男に差し伸べた手をそのままに、衆に向けて大音声で叫んだ。
「さあ、皆の衆。人世を踊れ!」
念仏は最高潮を迎える。人々は躍動する。舞う土埃が春塵を色濃くしていく。噎せ返るほどの熱気が渦巻く中、一遍は西の空を見上げた。
——今、お主は何を見ている。
一遍は心中で呼びかけた。あの男は伊予にいる。最後に会ったのは昨年、桜吹雪が舞い散る春のことであった。今日も雄大な海の遥か向こうを見つめているのだろうか。
第一章 邂逅の夏
六郎は時折一人で漁に出る。
釣り竿一本を持って小舟に乗り込み、自ら櫂を漕ぐ。獲物を獲るのも好きだったが、こうして海原の中にぽつりといる事自体を好んだ。
白波に揺られ竿を垂らし、海猫の声に耳を傾けながら六郎は目を細めた。海原の中で、海の果てを見つめ、あの先に何があるのかと夢想する、子どもの頃からの癖は変わっていない。
未だ己の知らない陸があるかもしれない。ならばそこには身に着ける衣服はもちろん、相貌も異なる者たちが営みを送っていることも考えられる。もしかしたら家ほど大きい獣、七色に変化する蝶、角を携えた鯨さえいるのではないか。海を眺めていれば、時を忘れていつまでも耽っていられるのだ。怒りも、哀しみも、孤独もその時だけは紺碧が吸い取ってくれる。
六郎の姓名は河野六郎通有と謂う。鎌倉幕府に仕える御家人である。それも並の御家人ではない。幕府を開いた源頼朝公が、日ノ本に数多いる全御家人の中で、
——源、北条に次ぐのは河野よ。
と、称えたほどの名門、伊予河野家の当主であった。
だが六郎の曽祖父である通信が承久の乱の折、京方に加担して惨敗した為、所領のほとんどを幕府に没収される憂き目にあった。
一族の大半が京方で戦ったが、数少ない例外が通信の三男の通久で、これが六郎の祖父にあたる。
領地を大幅に減らしながらも命脈を保った通久には二人の子が産まれた。兄が六郎にとっては伯父にあたる左衛門四郎通時、弟が弥九郎通継。弥九郎通継が六郎の父である。元来ならば伯父の通時が河野家を継ぎ、父の通継は分家されるか、その郎党として生涯を終えるはずであった。
しかし文永四年(一二六七年)、祖父は突然、伯父を義絶して、父を当主にすると宣言した。今から十一年前、六郎が齢十八のことである。その理由は、
——伯父が祖父の愛妾と密通した。
というあまりに外聞が悪いものであった。
曽祖父の代に比べ、領地は四分の一ほど。御家人の中での位も最末端にまで落とされたことで、祖父は自暴自棄になっていた。すでに裕福でもないのに毎日のように酒を呷り、若い妾を何人も囲って淫に耽る。そのような中で特に気に入っていた愛妾を寝取られたので、その怒りは凄まじいものであった。
「必ずや四郎のそっ首を叩き落せ!」
祖父は形相を憤怒に染め、老境の妬心の凄まじさに、六郎は恐怖すら抱いたものである。
事態はこれで済まなかった。伯父の通時が、
「密通していたのは儂ではなく、弟の通継の方だ」
と、反論したのである。
つまり六郎の父が、祖父の愛妾と通じていたというのだ。
だが祖父は当初の通り、伯父を疑っており、強行して父に跡を継がせた。伯父は納得せず、鎌倉幕府にそのことを訴えたのである。
祖父のことを悪く言うのは憚られるが、当時の六郎でも、
——耄碌している。
と感じ、戸惑いを隠せずにいた。
それ故に祖父は鎌倉幕府の裁定を待たずして兵を起こし、父と共に伯父を攻め立てるという暴挙に出たに違いない。だが伯父はその二人よりも遥かに戦に長けており、寡兵にも拘わらず何度も跳ね返すことになる。
内乱の翌年に祖父は病で死んだが、父と伯父の戦いは続いた。
「ここで負ければ、お主が家督を継ぐことも出来ないのだぞ!」
六郎はすでに元服しており、父は厳かに出陣するように命じた。
しかし六郎はそれを拒んだのである。双方が祖父の愛妾と通じたと相手を訴え、その真偽は一向に判らないが、どちらかが噓を吐いていることだけは確か。しかも発端となった祖父、愛妾はもうこの世にはいない。血を分けた兄弟が刀槍を取って争うなど何と愚かしいことか。これほど滑稽なことはない。
そう言った六郎を、父は激しく罵倒して、一時は廃嫡するとまで言った。しかし六郎のこの主張に賛同し、二人が和解するよう奔走してくれた人がいる。
「六郎、お主はこれ以上出るな。儂に任せておくがいい」
そう言ってくれた人の名を、別府通広と謂う。
六郎の一族は代々皆が「通」の字を用いるためややこしいが、反面これだけで眷属だということがすぐに判る。通広は愛妾に溺れた祖父の兄で、六郎から見れば大伯父に当たる人だ。
母が百姓だったことで、庶兄という扱いになり、早くから仏門に入れられていた。乱の折にも西山上人証空の下で僧として学んでいたため、どちらにもつかずに参加していない。だが遠縁の別府家の血が絶えたことで、祖父に強く請われて跡を継いだ。以後、半僧半俗のような暮らしをしていた人である。
六郎は、思慮深く温厚で、武士のみならず百姓や漁師、誰とでも分け隔てなく接する通広のことを一族の中で最も好いており、
——別府のおんじ。
と、呼んで慕っていたものである。
別府のおんじは弘長三年(一二六三年)、六郎が齢十四の頃に突如、
「儂は死んだ」
と突拍子も無いことを言い出して、葬儀まで上げてしまった。他国に僧の修行に出ていた息子が驚いて戻ったほどであるから、領民も皆がそう信じ込んでいたのは間違いない。だが実際は、おんじは世のしがらみの一切を捨てて本格的に仏門に入り、修行を重ねた後、やがては諸国流浪の旅に出ようとしていたのである。今思えば、その頃から一族はぎくしゃくしており、やがては争いが起こると看破して、それを忌み嫌った行動だったのかもしれない。
ともかく、これまで一切俗世と関わりを断っていたそのおんじが、何を思ったか六郎を支持し、父と伯父の争いに心を痛めて仲裁を買って出てくれたのである。
いくら一度世を捨てたとはいえ、一族の最長老でもある別府のおんじのことを、双方無視することも出来ない。領地を二つに分割して和議を結ぶ方向で話は進んだ。
だが間もなく和議が成るという文永八年(一二七一年)、事件は起こった。その日のことを六郎は今でもまざまざと覚えている。
夜半、物音に気付いて飛び起きると、屋敷の前には松明を持った郎党たち。父が秘密裡に郎党を結集して、伯父に夜襲をかけんとするところであった。
「父上、お待ち下さい! 和議はどうなるのです!?」
寝間着のまま転がるようにして出て、六郎は父を必死に制止しようとした。父、伯父、別府のおんじの三者の会談に、嫡男であることを理由に六郎も陪席していた。一族どうしの不毛な戦いに疲れ果てたようで、六郎から見ても伯父は心から和議を望んでいるように思えた。それに二年に亘って両者の間を腐心して周旋した別府のおんじはどうなるのだ。そもそも血を分けた一族なのだから、信じあえるはずではないか。そのようなことを無我夢中で六郎は訴えた。
しかし、すでに甲冑に身を固めた父は馬上から、
「親子兄弟とて関係ない」
と、冷ややかに言い放った。つまりは己のことも信じていないという意。伯父を攻めるのを拒んだ己を、ずっと憎く思っていたのかもしれない。一度生まれた疑いの芽を摘むのはこれほどまでに難しく、人を変貌させていくのかと、六郎はこの時ほど父を遠く感じたことはなかった。
それと同時にその時に六郎は、
——父は真に密通していたのではないか。
そう直感した。確証がある訳ではないが、父は晩年、嫉妬に狂った祖父に酷似していた。父が言う「信じられぬ」の中には、息子の己を含めた一族だけでなく、件の愛妾まで含まれているのではないか。もともと武士は親兄弟で争うことも珍しく無い。しかし今、父の猜疑心を煽っているのは何か別のものではないか。
これは合戦になる。六郎は慌てて具足を付けて、急いで父の後を追った。六郎が駆け付けた時には、すでに父の手勢が伯父の館に襲撃を掛けていた。
何とか割って入ろうとしたが、篝火に焦がされた夜天には矢が飛び交っている。無暗に飛び込めば死ぬることは間違いない。六郎の脚が竦んだ。
六郎が躊躇っていると、闇を切り裂くようにして一騎が走り込んで来た。平装の老人。それがすぐに別府のおんじであることが判った。
おんじは、矢と怒号が渦巻く中に迷うことなく飛び込んでいき、争う両陣営に向け、
「即刻、争いを止めよ! 今は河野が争っている場合ではない!」
と叫び、戦を止めようとしたのである。その姿に六郎は震え、同時に己の怯懦を恥じた。郎党たちも一族の長老が間に割って入ったことで、弓を下げ、薙刀を収めて成り行きを見守った。
静寂は一瞬であった。その場にいた全ての者があっと声を上げた。一本の矢が飛翔し、おんじの喉元を射抜いたのである。
「誰だ、矢を放ったのは!?」
すぐに父が叫んだが、名乗り出る者はいない。それもそのはず。皆がおんじに視線を注ぐ中、六郎だけははきと見ていた。矢を放ったのは父、その人であったのだ。
「父上、何を!!」
我を忘れて咆哮したことで、父はこちらを一瞥し、小さく舌打ちをする。このまま、おんじを殺したことが露見しては分が悪いと思ったのか、父はすぐに、
「伯父上の弔い合戦だ! 通時を赦すな!」
と、馬上で刀を振って郎党を捲し立てた。
戦とはおかしなものである。いや、人に深く物事を考えさせぬ不思議な魔力が秘められているとしか思えない。矢を放った者が誰かは判らないにせよ、父側の陣営から飛んできたのは確か。それを弔い合戦と称するなど笑止千万であると常なら思うはず。それなのに父の言葉は郎党を呑み込み、伯父の屋敷に攻撃を再開した。
纏まりかけていた和議を一方的に破談にし、さらにそれでも止めようとした別府のおんじを殺し、なおも攻撃を仕掛けるのだ。伯父の通時が激怒するのも仕方がないだろう。
館の門が開かれ、憤怒に顔を染めた伯父を先頭に、二十ほどの騎馬が突撃してきた。寡兵で打って出るとは予想しておらず、郎党たちは瞬く間に蹴散らされる。
そして伯父はついに陣営の奥深くに斬り込んでくる。
「弥九郎!!」
「黙れ!」
眼前に迫った伯父が咆哮し、即座に父が怒鳴り返す、たったそれだけの短いやり取りである。だがそこには兄弟だからこそ通じる多くの言葉が含まれているのではないか。六郎はそのように感じた。
些か伯父が躊躇ったように見えたが、一方の父は鬼の形相で刀を振り上げて迎え撃つ。二つの馬が重なるようにすれ違い、父はどっと地に落ちた。
目の前で父を討ち取られて茫然としていると、ここでまたおかしなことが起きた。六郎が父を責めたことで、戦場にいることは既に皆が知っている。父を討ち取られて大混乱に陥った郎党たちが、六郎の下に走ってきて指示を仰いだのだ。
「伯父上! もう戦を——」
身の丈五尺八寸(一七六センチメートル)と体格に恵まれた伯父である。馬上で刀を車輪のように振り回し、その顔には返り血がべっとりと付いている。六郎は呼びかけたが、戦の喧騒に遮られて届かない。よしんば聞こえたとしても、禍根を残さぬために己を討ち取ろうとするかもしれない。そこまで考えが過ぎった時、六郎は、
「退け!」
と郎党たちに命じ、自らも踵を返してその場から離れていた。こうして六郎は自身が望まないにもかかわらず、一族の揉め事を引き継ぐことになってしまったのである。
翌日から六郎は何とか伯父と和解出来ぬかと模索した。しかし、一度騙し討ちを食らった伯父としてはなかなか信じられるはずもない。しかも今回は両者を宥めてくれた、別府のおんじがいないのだ。
おんじには一人子がおり、当時は三十三歳。同じく半僧半俗の暮らしを送っていた。この者に仲介を手伝って貰おうと思った。だが父が無残に殺されたこと、一族の無情なる争いに心底辟易したのだろう。武士としての籍を完全に捨て去って出家し、この件には一切関わらないと宣言された。
万事休した六郎に転機が巡ってきたのは、翌文永九年(一二七二年)秋のこと。どちらかに肩入れすることを避け静観していた鎌倉幕府が、突如として、
——両者、矛を収めるように。
と、和与を命じてきたのである。
祖父通久、父通継、愛妾と、当事者の内三人がすでに世を去っていることで、密通の真偽を確かめることは最早出来ない。故にそれは審議しないので、共に歩み寄れというのだ。
六郎はあまりの唐突さに驚いた。だが後に知ったことだが、この背景には国を揺るがすほどの重大なある事態が関係していた。
——蒙古帝国。
大陸北方で勃興し、僅か六十余年の間に驚くべき早さで拡大している騎馬民族国家である。その勢いは今も止まることはなく、隣国を呑み込めば、その向こうの隣国。さらにそこを併呑すれば、また次へと進み続けている。大地が尽き果て、海の端に至るまで止まることはないのではないかという勢いらしい。
蒙古帝国は広大な領地を、何人かの子や将軍に割り振って四方八方に領地を拡大し、大陸の王朝に倣う格好で、その中枢に「元」と謂う国を建てたという。
この元がずっと日ノ本の征服を窺っており、鎌倉幕府は全国の御家人に対し、ことあればすぐに動けるようにと通達を送っていた。
そして河野家が身内で揉めている頃、いよいよ元が日ノ本に攻め寄せる動きを見せたのである。河野家は没落したとはいえ「船大将」と呼ばれた家柄で、代々、船の操舵術を受け継いでいる。全国の御家人を、最も攻めて来る可能性の高い九州に運ぶにおいて、瀬戸内の河野家の力を使おうと幕府は考えていた。故に内輪揉めをすぐにでも止めたいと考えたのであろう。
六郎としては願っても無いことですぐに了承し、伯父もまたこれに応じた。こうして年も暮れる師走二十六日に、足掛け五年に亘った河野のお家騒動は収束することになったのである。
それから六年が経ち、六郎は齢二十九になっていた。
伯父とわだかまりが無いといえば噓になる。あれから一度も、密通のことについては触れて無い。それが真実であっても、濡れ衣を着せられたのであっても、触れられて快いものではなかろう。
「よい風だ」
六郎は海の切れ目を見つめながら嘆息を漏らした。心地よい海風が頰を撫でてゆく。この風はどこから来たのだろうか。異国の地からはるばる渡ってきたのかもしれない。
ふと己の凄惨とも、滑稽ともいえる過去を思い出していたが、海はそれを吸い込むように忘れさせてくれる。
「来るか」
誰に話しかけたわけでもない。敢えてそれを求めるならば海猫か。風向き、潮の流れからそろそろ釣れそうだと読んでいる。
「おーい、海若。古泉様が呼んでおる」
遠くの船から漁師の一人が呼びかけてきた。六郎は小さく舌打ちした。いよいよこれから釣りが面白くなるところではないか。
「放っておけ」
面倒臭そうに返答したが、内容が気にならないでもない。
古泉庄次郎は河野家の年嵩の郎党で、何事にも奔放に振る舞う己をいつも口うるさく諫めて来る。
「いいのか、血相を変えておられたぞ。何でも市が大変な騒動らしい」
六郎は溜め息を漏らした。
政向きのことは全て郎党たちに任せており、市の管理もその一つである。商いで諍いでも起こったのか。己を呼びに来るとは、余程の大事かもしれない。
そういえば一刻ほど前、六郎が小舟で海に出るのと入れ違いに、大きな船が湊に入って行った。あの船に関わることなのではないかと直感した。
「争いか?」
億劫な返事に、漁師は苦笑して首を捻る。
「俺も岸から呼んでくれと言われただけなんで、詳しいことは解りませんぜ」
「仕方ない」
いくら至福の時を満喫しているとて戻らないわけにはいかない。竿を手早く仕舞うと、代わりに櫂を摑んだ。
見上げた空は海との境目を見失ってしまうほど蒼く、二度目の溜め息を吸い込んでゆく。
承久の乱で殆どの領地を取り上げられた河野家に残されたのは、猫の額ほどの僅かな土地のみである。ただでさえ苦しい状況の中身内で争いを続けたのだ。武具を揃えるために蓄えていた銭や米は底をついた。
再び武具を買い揃えることは勿論、新たに船を作るどころか、古い船を修復することも儘ならない。幕府は和議を斡旋した後、
——九州に赴き元に備えよ。
と命じてきたが、河野家には朽ちた船しか残されていなかった。噓をついてもすぐに露見すること。六郎が河野家の現状を包み隠さずに告げると、幕府の使者は閉口して帰って行った。このような襤褸船で敵を迎えたとあれば、日ノ本の武士の名折れ。かといって河野家だけに何も命じぬのでは不平が出る。
——河野家には瀬戸内の警備を命じる。
と、無理やりの任務を与えることで言い訳とした。
幕府の未曽有の危機にもかかわらず、武勲を立てるどころか、戦場に赴くことも出来ない。このことを河野家の郎党たちは誇りを失したと激しく口惜しがった。しかし正直なところ六郎はそれほどの想いを幕府に持っている訳ではない。そもそも幕府は朝廷から政の権を簒奪したのであり、それが朝廷に復したとしても別に結構とさえ思っている。もしかしたら京方について戦った曽祖父も似たような考えの持ち主だったのかもしれない。
——だが今回は違う。
蒙古帝国は各地で略奪を働き、抗う者たちは徹底的に鏖にしていると聞く。もし日ノ本に攻め寄せて来たら、この伊予に生きる者たちとてただでは済まないだろう。仮に戦いを放棄して命を永らえようとしても、幕府が戦い続ける限り同じ結末を迎えるだろうと六郎は肌で感じている。
ともかくそのような悪況でありながら、河野家は幕府の要請に応えられなかったのだ。不名誉な話ほどすぐに広まるもので、河野の内輪揉めのことも、その原因が愛妾との密通疑惑であることも、日ノ本中の御家人に知れ渡ってしまっている。九州に行けなかったとて、これ以上家名が傷つくことなどなかろうと、六郎は開き直る気持ちもあった。
それよりも早急に対応せねばならないのは日々の暮らし。内輪揉めのために蓄えは底をつき、とてもではないが少なくなった領地では民を養うことが出来ない。新たに田畑を切り開くことは考えたが、これには暫し時を要する。そこで六郎は郎党たちに向け、
「商いをしよう」
と、提案したのである。
これには郎党のほぼ全員が猛反対した。武士が商いをするなど、ご先祖様に何と申し開きをすればよいか云々。
それでいながら、今更誇りなどあるものか、なり振り構っていられぬ、どのように冬を越せというのだ、と六郎が矢継ぎ早に尋ねると、皆が黙り込む始末。
「このままでは河野の家が真に絶えてしまうぞ」
そこまで言っても郎党はまだ煮え切らない。そんな時、説得に協力してくれたのは意外な人であった。内紛の一方の張本人、伯父の通時である。
「六郎が惣領なのだ。従うのが武士というものだ」
評定の場でそう言い放った。
流石に自身も子飼いの郎党を養っている身。このままでは立ち行かぬことを重々解っているのだろう。加えて河野家を衰えさせた負い目があったのかもしれない。ともかくそのことで郎党たちも渋々納得し、ひとまず六郎の構想に従うことになった。
商いといっても、何も郎党に行商の真似をさせる訳ではない。
——海から銭を得よう。
と、考えたのだ。
まず六郎が目を付けたのは漁師たち。各々が勝手気儘に漁を行っていたため、漁場の諍いは尽きなかった。また群れることはせず、それぞれで船を出していたので、漁師たちの中には海賊に襲われる者が多発していた。
六郎はこれを組織立て、漁場争いの仲裁、集団自衛での海賊対策を行った。これによりそこから僅かな税収を得ることに成功したのである。
気性の荒い漁師たちが、年若な六郎に懐いたのは船大将の家柄だというだけではない。河野家の船はすでに朽ちて、承久の乱以降はまともに海に出たこともない。郎党たちの操舵の技もすっかり失われていた。そんな河野家を面と向かっては言わぬものの、漁師たちも侮っている。
ただ六郎だけは違った。六郎は漁師の業を敬い、十七、八の頃からこっそり家を抜け出して自らも漁に出ていたのである。
当時の父は伯父と険悪になり始めた頃で、そのようなことに構いはしなかった。六郎も家中の醜い争いから目を背けるように毎日海に出た。一部の郎党には、
「漁師の真似事なぞ、武家がするものではありませぬ」
と叱る者もあった。そんな暇があるならば弓馬の訓練をしろとも言われる。彼らにとっては漁の業など賤しいものに映るのであろう。六郎はその点もまったく理解出来なかった。
海に臨む漁師の技と、敵を退ける騎射の技。それに甲乙をつけることは出来ないし、つける必要もないと思っている。
そして己には海の業のほうが、
——性に合っている。
と、考えていた。
若い六郎が漁の技を教えてくれとせがむと、漁師たちも初めは武士の酔狂と取ったようだ。だが下手くそだが懸命に網を投げ入れる六郎に愛嬌を感じたようで、こぞって師匠になろうとした。何故、受け入れてくれたのかと後に尋ねると、
「海が好きなのが解るからさ」
という答えが返ってきた。そんな至極単純なことでいいのかと尋ね返すも、皆がそれでいいと返す。御託を幾ら並べるよりも、その方が余程大切だと皆が口を揃えて言った。
六郎は細身の瓜実顔、涼やかな目、高い鼻梁を持ち、その面はかつてこの地を支配した平家の公達のようであった。
その相貌の優雅さとは反対に、日々漁に繰り出すため髪は潮風に晒され、赤茶けて艶を失っていた。それでも驚くほど肌は白く、日に当たると紅を差したように赤く染まるものの、どうしたわけかその後褐色になることはなかった。
当初は網を投げるのも覚束なかった六郎も、当年二十九となった今では熟練の漁師でも舌を巻くほどの腕前となっている。漁師たちはそんな六郎のことを、
——海若。
と、親しみを込めて呼んでいる。
六郎の商いはそれだけではなかった。それが今、六郎が向かっている「市」であった。伊予は瀬戸内の入口に当たるため、九州と畿内を繫ぐ海運の要衝に当たる。畿内と九州を行き来する商人の船が途中、水や食料を調達するために立ち寄り、伊予国内で物を売る行商たちと一緒になって、自然発生的に市が立つことがあった。折角そのような地を治めているのに、これを見逃す手は無いと考えた。
水居津と呼ばれる船を入れやすい浜に、河野家が主導して市を立て、領内ではその地以外での商いを禁じたのである。この津は伊予では最も大きな平野を背負い、内陸部へと続く宮前川で物資を運ぶことも出来る。近くには古くから「熟田津の石湯」と呼ばれる温泉も湧き出し、船旅の疲れを癒す者も多い。そもそも人の集まる条件を幾つも兼ね備えていた。
人が集まれば物が売れるのは当然である。人が人を呼んで、四国、九州、畿内のみならず、今では遥か大陸から来た船まで立ち寄るほどになっている。この時に船の大きさに比して入船税を取るようにした。
他国からの船だけに税を掛けるならば、地場の商人や、魚を売る漁師も文句は無い。むしろ立ち寄った彼らに飛ぶように物が売れたから喜んだ。
この二つの財源をもって、河野家は衰退に何とか歯止めをかけることが出来たのである。
六郎は岸に寄せた小舟から飛び降りると、足早に水居津の市へと向かった。
「海若!」
朝に水揚げした魚を売りにきていたのだろう。顔馴染みの若い漁師が血相を変えて声を掛けて来た。
「久しぶりだな。達者にしていたか」
軽く手を上げて鷹揚に応じる。呑気に見えたのだろう。漁師は頰を歪めながら己の背後を指差した。
「大変な騒ぎになっていますぜ」
「何があった」
「それが……何と申せばよいか……」
上手く口に出来ないようで漁師は言葉を濁す。
「まあ、この眼で見るさ」
六郎は困り果てた漁師を横目に歩を進めた。
確かに騒ぎにはなっている。いつもならば六郎が市を通れば、漏れなく皆が声を掛けてくる。だが今日に限っては市を行く己など眼中になく、皆が誘い合って騒ぎのもとへと向かって行く。中には大切な商品を置いたまま駆け出す者もいた。
海賊が上陸したということではあるまい。それならば市の皆が向かうのも変であるし、漁に出ていた六郎でも気づくはず。
——やはりあの船に何か関係あるのだろう。
人込みの向こう、先刻海ですれ違った一等大きな船が停泊しているのが見えた。皆が口々に言うことに耳を欹てると、
「妖らしいぞ」
などと声を震わせている者もいれば、
「いや、天女様が降りてこられたらしい」
と、感嘆を漏らす者もおり要領を得ない。
「悪い。道を開けてくれ」
六郎が声を掛けたことで、ようやくこちらに気付く。衆が分かれて出来た道の真ん中を六郎は進んだ。
「御屋形様!」
漁師たちのみならず領内の民には「海若」の名がすっかり浸透し、家督を継いだ今となってもそう呼ぶのは河野家の郎党だけである。
「古泉様、御屋形様がお見えに」
「ようやく来られたか! 遅すぎますぞ」
郎党に呼ばれて白髪の男が眉を吊り上げて振り返る。
古泉庄次郎春政。己をここに呼んだ河野家の郎党である。当年六十四で、その髪は雪を降ろしたように白いが、未だ弓を取れば家中で一番の腕前。自ら三国時代の勇将、老黄忠にも引けを取らないと嘯いている男である。
庄次郎は六郎が幼年の頃は傅を務めていたこともあり、未だに小言を零さずにはいられないらしい。六郎にとっては所謂、
——爺。
に当たる存在であった。
「何があった?」
「あれをご覧下され」
庄次郎が口辺の深い皺をなぞりつつ顎をしゃくった。
これほど衆を搔き分けてきたが、まだ人だかりは絶えていない。人々が弧を描くようにして集まっており、その中央に筵が敷かれ、十数人の者が横並びに座っている。いずれの衣服も垢塗れで、まるでなめし革のようにてかっている。無造作に結んだ髪も脂が巻いて塊の如くなっていた。いずれも喉輪を付けられて、そこから伸びた縄の先を束にして握っている、でっぷりと肥えた男の姿も見える。
「人買い……か?」
行商が扱うのは何も物ばかりではない。人が売買の対象になるのも珍しいことではなかった。労働力を欲する豪農や、船を増やそうとする漁師などは男子をこぞって買う。また売られているのが器量のよい女ならば妾にしようとする者もあった。親を失って食うに困った子どもなどは、飢えて死を待つよりはそのほうがましと、望んで人買いの世話になる者もいる。だが頭ではそう理解しているものの、六郎は人買いを見る度に心が激しくざわめくのだ。
「人買いは珍しゅうござらぬが……」
庄次郎も先ほどの漁師と同じく言葉が続かない。
この眼でしかと見ようと六郎はさらに歩を進めた。人だかりが割れ、六郎は売られている者たちの中央に出る格好となった。
——これは……。
六郎は息を呑んで立ち尽くした。
それは幼少の頃、初めて海を見た時の感覚に酷く似ていた。何故、これほどまでに青く美しいのか。海の先には何があるのか。海の底はどこまで行けばあるのか。吸い込まれて消えてしまいそうな得体の知れない恐怖を感じつつも、それも含めて魅力を感じ、息を呑んだ子どもの頃を思い出していた。
これまで大陸から渡ってきた商人たちから、世の中には考えられぬような目の色、髪の色をしている者がいるという噂を聞いたことはあった。それが六郎の海の果てへ抱く興味をさらに搔き立てたのは間違いない。
幼い頃、その噂を鵜呑みにした六郎は、目を輝かせて郎党たちや漁師たちに語って聞かせたが、どの者の反応も似たようなものであった。
「お伽話でももっとましに作られている」
と、小馬鹿にしたような言葉が返ってきたのだ。
だがそれは確かに眼前に存在している。六郎は心のどこかで信じていたからこそ、周囲の者と異なり、女の存在をすぐに受け入れることが出来た。
輝石を塡め込んだかのような透き通った碧眼に、陽の光に溶け込みそうな黄金色の髪。白雪のような肌を持ったこの女は、上目遣いにこちらを見つめている。
人買いはむしろ見目良くしておかねばならないと考えたのか、女だけは丹念に洗髪をしているらしく、金糸の如き髪が潮風に揺れている。
他に見比べる対象が居ないため、歳の頃はしかとは分からなかったが、二十歳は超えてはいないだろう。
ふと周囲を見渡すと、「それ」を見た人々の反応は、三種に大別されている。
白昼に物の怪を見たかのようにただ驚く者。異形の者に近づくことにより、神仏の祟りを恐れて目を覆う者。好奇心から怖いもの見たさにまじまじと観察する者。
しかし、六郎はそのどれにも当てはまらなかった。
「引き取れるか」
思わず口を衝いて出た。自身でも判るほど声が上擦っている。
「物好きな人もいるもんだ。引き取ってくれるならば安くしておくよ」
人買い、人売り、所謂奴隷商人は蝦蟇のような頰肉を弛ませて卑しい笑みを浮かべた。
商人は筑前で売られていた異国人をかき集めてきたらしい。その中に珍しい容姿のこの女がおり、高値で売れるはずだと高を括っていたという。しかしその思惑は外れ、女の相貌があまりに奇異な為か皆が恐れて買い手がつかなかったらしい。
「勘違いするな」
六郎が女を欲したのは肉欲を満たす為ではない。牛馬のように何かの役に立てようとするのとも違う。また華美な調度品を買って愛でたいという欲求とも異なった。
——この女の話を聞いてみたい。
という至極単純な思考である。海の向こうに何があるか、この女ならば知っているのではないかと直感したのかもしれない。
六郎が買うというので、物珍しさに群がっていた野次馬からどよめきに似た歓声が上がった。
「海若は正気か」
「神仏の罰があたるぞ」
などと衆は口々に騒ぎ立てるが、不思議と気にならなかった。六郎の視線は女に注がれている。
女は急に衆がどよめいたことで、何が起こったのかというように怪訝そうに首を振って様子を窺っている。
——言葉が通じぬのだろう。
それでも女は己の身に何が降りかかっているのか察したらしく、顔を強張らせた。女の奴がここに来るまで何の辱めも受けなかったとは想像し難い。相当な恐怖にも遭っただろう。それでもその青い瞳には光が宿っていた。
「御屋形様、正気でござるか!?」
慌てて近寄って来た庄次郎が唾を飛散させた。六郎は頰に付いた唾を拭いながら苦笑する。
「ああ」
「思い留まって下され。神仏の祟りが——」
「庄次郎はそっちか」
「そっち?」
庄次郎は気勢を削がれたようで、きょとんとした。
「何でも無い。ともかく俺が決めたことだ」
大抵のことは皆が言うままにしているが、一度言い出したら聞かないことを、付き合いの長いこの老郎党は熟知している。庄次郎は頭を抱え込んで深い溜息を零した。
「後で屋敷に銭を取りに来い」
「承りました。おい、立て」
商人は今すぐ連れて行くものと思ったのか、女を促して立ち上がらせた。
なるほど。簡単な言葉ならば通じるらしい。長い睫を震わせ、ほんの少しばかり視線を流した。誰かに助けを求めるような仕草である。
その時、売られていた者たちの中から、六郎と同じ年頃の男が猛然と立ち上がり、凄まじい剣幕で怒鳴りつけてきた。この国の人々とさして変わらない面相、幾度か聞いたことのあるその言語から高麗人のように思われる。内容は解らないが、どうやら罵っているらしい。
「何を言っている」
六郎は商人に尋ねたのだが、思わぬところから返答が来た。
「倭語で話せば解るか。この恥知らず」
驚くことにこの高麗人は日ノ本の言語を遣う。若干の訛りはあるものの、極めて流暢に話すのである。
「俺のどこが恥知らずだというのだ?」
六郎はひょいと首を捻った。挑発したつもりはない。真に解らなかっただけである。
「銭で女を買い、己の意のままにしようとしている。これを恥知らずと言わずして何と——」
「止めろ!」
咄嗟に止めたが遅かった。男が言いかけた時に、商人が高麗人の喉輪に巻いた縄を強く引いたのである。高麗人は首を締め付けられ後ろに蹌踉めくと、奇声を上げ尻もちをついた。
「手荒な真似をするな」
六郎は商人を見据えながら低く言った。
「すみません。黙らせようと……」
商人は阿るような笑みを浮かべていたが、こちらの殺気に気付いたのか頰を引き攣らせる。
一方、高麗人は片膝を立てて首をさすりながら何度も嘔吐いているが、決して屈することなく、獣のごとく爛々と輝く眼で六郎を睨み付けていた。
「怪我はないか」
「心配される覚えはない」
「何と言おうとした」
「聞こえたろう。恥知らずの倭人」
「ああ聞こえた。だが俺はこの女子を手籠めにする気などない」
「嘘をつくな」
高麗人は今にも食い殺さんばかりに歯を剝いた。尖った八重歯が二本覗き、狼を彷彿とさせる相貌である。女は戸惑いながらも男に哀願の目を向ける。これまでも高麗人は女を守って来たのだと透けて見えた。
「俺がお主の立場でもそう思うだろうな」
六郎が認めたものだから、高麗人は少し気勢が削がれたようになったが、すぐにまた睨みつけて罵った。
「お前のような善人づらした者に何度騙されたことか」
それは己だけではなく、世の全ての者に向けて宣言しているように思えた。高麗人もここに来るまで多くの奴が買われていくのを見ており、己が何を言おうと無駄だということも知っているはず。それでも高麗人は、なお抗おうとしている。それが過ぎ去りし日の己に被り、無碍にする気にはどうしてもなれなかった。
「では如何にすればよい」
「俺も連れて行け」
「よかろう」
六郎が即答した為、却って高麗人は呆気に取られている。なるほど確かにその手があるかと素直に納得している。乱れた髪が口中に入っているのも気づかぬほどである。
「この高麗人も引き取る。後で二人とも送ってくれ」
そう言い残した六郎は踵を返すと、その場にいた全ての者の視線を一身に浴びながら歩み始めた。燦々と降り注ぐ陽が、潮風の匂いを際立たせる。弘安元年(一二七八年)の晩夏のことであった。
河野家の本貫地は風早郡河野郷である。先祖は国衙の役人として働いていたが、源平合戦で活躍して以降、この水居津の辺りまで勢力を広げることになった。
承久の乱で失ったのは、本貫地である風早郡なのだ。故に亡くなった父、伯父、郎党に至るまで、いつか河野発祥の地を取り戻すという宿願がある。だが六郎は流石に口には出せぬものの、
——残ったのが水居津でよかった。
と、心より思っていた。
風早郡河野郷は内陸部にあり山も険しく決して水田も多くない。この水居津に残った領地は広さこそ風早郡のそれに劣るものの、海がある。海が無ければ今のような実入りを作ることは出来なかった。それに水軍大将の家といわれながら、領地が海に面していないなど笑い話にもならないだろう。
こうして水居津から宮前川を上ったところにある小高い丘に、父の代に館を建ててそこに暮らし、領内における政庁の役割も果たしている。館の規模は大したものでもないくせに、大層に堀や、高さ二間(約三・六メートル)ほどの土塁を巡らせてあるのは、父と伯父が争っていた頃の名残である。
六郎が館に帰って一刻もすると、さっそく百姓や漁師たちが訪ねて来た。
——海若が高麗人と、得体の知れない女を買ったらしい。
という噂が、瞬く間に巷に広がったようだ。市の見物に間に合わなかった者たちが、一目見ようと集まって来ているのだ。
このように気軽に領主の館を訪ねて来るなど、他の地では考えられないことかもしれない。現に河野家でも父の代では無かった。しかし六郎が毎日のように町を歩き、百姓に声を掛け、漁師と一緒になって釣りをするので、民にとって六郎はすっかり近しい存在になっている。近郷の百姓たちが、立派な大根が取れたと持ってきてくれることなどもあった。
一方で、庄次郎などの古い郎党は、
「これでは河野家の威厳が……」
などと、いつも小言を漏らしている。
館の縁側を開け放ち、送り届けられたばかりの高麗人と女と共に座った。これで庭からもこちらを見ることが出来る。決して広くない庭に老若男女の見物人が満ち溢れており、時折感嘆の声が上がった。
「まっこと青い目をしておる」
舐め回すように見ているのは、河内源氏の末裔を称している村上水軍の四代目、村上甚助である。
甚助の父も承久の乱の折に河野家に従い戦った為、領地の全てを奪われて没落している。六郎はこの男を漁師たちの網元である自身の補佐役に任じていた。
歳は四十であるが漁で鍛えられた逞しい体軀は若者のよう。笑えば鞣し革のように日焼けした顔から白い歯が覗き見える。
「御屋形様の物好きには困ったものじゃ」
拗ねたように少し離れたところに座る庄次郎は、白い鬢を搔き毟っている。
「怖がっておるではないか。止めよ」
男達に囲まれた女が怯えていることを察した六郎は、民を掌で制した。もとより晒し者にするつもりはなかった。肌、髪、目の色は確かに違う。だがこの女が妖などではないことは見れば分かる。秘匿すればかえって人々の恐怖を煽ることとなり、よからぬことを考える輩が出ることを危惧したのだ。
だがそれが裏目に出たようで、女は男たちが覗き込む度に、びくんと肩を強張らせていた。
「離れろ。倭人ども!」
ここでも高麗人が喚き散らしただけでなく、覗き込もうとした漁師を突き飛ばした。そのせいで瞬く間に屈強な男達に取り押さえられ、踏まれた蛙のように床に張り付いて呻き声を上げている。
「今日のところはもう帰れ。この者達とゆるりと物語りたい」
六郎は衆に向けて言った。押し掛ける人は後を絶たない。このままで埒が明かぬし、妖の類でないということは十分に理解させられたであろう。
「よいものを見た。皆、引き上げるぞ」
甚助が意を察して呼びかける。不満の声も漏れたが、その気になればいつでも見られると甚助が付け加え、集まっていた者たちは渋々館を後にした。
「お主たちも下がれ」
残る部屋の隅で渋面を作る庄次郎を始めとする郎党たちに向けて言った。
「しかしですな……」
女はともかく、高麗人は先ほどから激昂している。庄次郎はもし己の身に何かあればと心配しているらしく、なかなか腰を上げようとはしない。
「心配ない」
六郎は掌を向けてゆっくりと首を振った。
六郎に太刀や弓、組討を教えたのは庄次郎。胡乱な真似をすれば取り押さえるくらいは一人で出来る。庄次郎はその腕前を重々知っているからこそ、再び深い溜息をついたものの、皆と共に下がっていった。
部屋には三人だけとなった。先ほどまでの賑わいが噓のようで、室内には囂しい蟬の鳴き声だけが響いている。
高麗人はようやく昂りも収まったようで、下唇を嚙みつつも大人しくしている。
女も落ち着いている。人が去ってからというもの、ずっと庭に目をやっていた。何を見ているという訳でも無い。その視線は入道雲のそそり立つ夏空に注がれている。
「さて……ようやく静かになった」
六郎が切り出したが、高麗人は反応を示さない。女はこちらを見た。やはり言葉を理解していないようで、訝しんでいる。その肌は雪を彷彿とさせるほど白く、どこか夏と不釣り合いに思えた。
「名をなんという」
続けて訊くが返答は無い。高麗人は少なくとも分かるはずだろう。
「教えてくれないか」
「はん……」
三度、努めて優しく語り掛けると、高麗人はようやく口を開いた。その目にはやはり猜疑心が宿っている。
「はん……か。どのような字を書くのだ?」
「字などない」
「はて、何故だ?」
「そういうものだ」
高麗人はこの国の民と同様に高貴な身分の者を除いては姓を持たないという。また文字も漢民族のものをそのまま使い、一部の貴族だけ読み書きが出来る。庶民は己の名を書き記すことなど生涯無いらしい。
「字が無いと不便もあろう」
「別に……」
「こう書いてはどうだ。繁……縁起がよい」
掌を指でなぞりながら六郎は微笑みかけた。
「好きにすればいい」
繁はそっぽを向き舌打ちした。己のことを嫌っているのだろうが、反対に六郎は繁のことをどうも嫌いにはなれなかった。郎党たちにも、集まって来た漁師や百姓たちにも憤怒の眼を向けていた。全ての者に憎悪を向けている繁は、どこか一族の愚かな争いを憎んでいた頃の己に似ていると思うからかもしれない。
「お主の名は何と言う」
「れいなは倭語をほとんど話せぬ」
六郎の問いを遮り、繁が代わりに答えた。名を呼ばれたことで己の話をしているのは分かるのだろう。碧い眼で六郎たちを交互に見つめる。
「れいなか、変わった名だ。どのような字を書くのだ」
「知るか」
何事も試してみなければ気の済まない性分である六郎は、下人を呼びつけ紙と筆を用意させた。
「名を書けるか?」
言葉が通じぬならば、身振り手振りで伝えるほかない。己の鼻先にちょこんと指を置いた後、残る手で筆を宙に走らせながら尋ねた。
それで伝わったようで、女はぱっと細い眉を開いて頷く。筆を持たせようと膝をにじらせると、女はさっと手を胸元において退いた。再びその顔に怯えの色が浮かんでいる。ここに至るまでの日々に想いを馳せると、六郎の胸は詰まった。
「何も悪いことはしない」
六郎は努めて穏やかに話しかけたが、女の強張りは取れない。言葉の偉大さを痛感して、六郎は困り果てた。これも身振りで伝えるしかない。少しわざとらしいのではないかというほどの笑みを浮かべつつ、六郎は筆を逆さに持ち替え、距離を取ったまま差し出した。
「書いてくれないか」
女はこくんと頷くと、摘まむようにして筆を受け取る。そしてすぐに紙に向かって筆を走らせた。
「これは面白い」
六郎は感嘆の声を漏らした。蚯蚓が這ったような文字とも言えぬものが書かれている。女の生まれ故郷ではこう書くのだろうか。このようなものを一度見ただけで覚えられる者などこの国にはいまい。
「よいか」
六郎は微笑みかけながら、女からそっと筆を受け取る。僅かであるが、女の表情が柔らかくなったような気がした。六郎は大きく残った余白を埋めるように文字を書いた。
「令那」
本当は「麗那」としたかったが、己がこの蚯蚓文字を難しいと思うと同様、画数の多い名は覚えにくかろうという配慮である。
「ここでの……名だ」
指で地を、次に先ほどのように鼻先を指して伝えようとした。これも伝わったようで、令那は初めて笑みを浮かべ頷いた。
「おお、笑った」
「わらった……」
令那が繰り返した。初めて聞いたが、何とも澄んだ美しい声である。思わず聞き惚れていたが、六郎ははっと我に戻って口を開いた。
「そうだ。笑う……これだ」
両の頰を人差し指で押し上げるようにした。その顔が可笑しかったのか、今度はふっと息を漏らして令那は笑った。
「それも笑うだ」
「わらう」
令那は薄い唇を動かして反芻して見せた。
「令那……六郎」
風を起こさぬほどゆっくり手を動かして令那を、次に己を指差した。
「ろくろ……」
「惜しいな。六郎だ」
「ろくろ」
「うむ。それでも良い」
六郎が頰を緩めて眉を開くと、令那も嬉しそうに目尻を下げたように見えた。繁は腕を組んで憮然とした様子でこちらを盗み見ている。
(つづく)
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