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ありえない関係の二人がエモすぎる! 竹宮ゆゆこ『あれは閃光、ぼくらの心中』第一章公開

WEB別冊文藝春秋

 『とらドラ!』シリーズや『砕け散るところを見せてあげる』など、
青春期の衝動を圧倒的熱量で描き出す異才・竹宮ゆゆこさん。
そんな竹宮さんの最新書き下ろし文庫、
『あれは閃光、ぼくらの心中』が、6/7(火)に刊行されます!

 本作の主人公は、音大付属中学に通う嶋幸紀・15歳。ピアノ一筋だった人生に暗雲がたちこみ、冬の夜に自転車で家出するところから物語が始まります。道に迷いヤンキーに追いかけられた先で遭遇したのは、夜空にギラギラと輝く25歳のホスト、弥勒。行くあてのない嶋は酔っぱらった弥勒に縋り、部屋に転がり込むと、そこは――。
 それぞれに問題を抱え、行き場のない二人。そんな二人が互いにおずおずと手を取り合う姿に、胸が締め付けられます。
 
 竹宮さんが「自分の好きなものを全部詰め込んだ、集大成的作品」と語る本作。嶋と弥勒、ふたりのエモすぎる関係の行く末を、ぜひ見守ってください。まずは冒頭、二人が出逢うまでを先行公開いたします。
 ご感想はぜひ #あれは閃光 をつけて教えてください♪



『あれは閃光、ぼくらの心中』


『いつかきっと、めぐりあえる……』
 誰かが昔、そう言った。
 二度と戻らないはずだったドアを開いた瞬間、なぜか突然思い出した。
 最近は色々なことを思い出す。こういう下らないのも、大事なのも。おまえに話したいこともたくさんあって、本当にたくさんありすぎて、どこから話せばいいのかわからない。人の間を縫うように歩きながら、俺はほとんど途方に暮れた。
 たとえばこうか。おまえを手放して、俺はすべてを——いや、もっと前だ。
 俺が最初にその噂を聞いたのは小学生の時で——違うな。そうじゃないな。
 まずは、そうだ。あの部屋のこと。
 あの部屋は、姉が買ってくれた。俺の年季が無事に明け、歌舞伎町から町田の店に移ってしばらく経った頃。俺は二十二か三、多分それぐらい。
 ある日、姉は言った。「彼氏ができたよ」と。「中年と中年、奇跡のコラボよ」と。
 夜は俺のストーカーとしていかれた活動に勤しんでいた姉だが、昼はまともな企業の管理職で、その仕事先で出会ったまともな男と付き合うことになったという。俺が知る限り、姉には生まれて初めての恋愛沙汰だった。よっぽどのことだったんだろう。よっぽど、そいつを好きになってしまったんだろう。
 姉は俺のストーカーを演じるのをやめた。そして町田に小さな中古マンションを一部屋買った。それを俺にくれた。なぜ、なんて考えても無駄だ。考えがそこに至った経緯を正しく理解することは、俺にも、誰にも、多分姉自身にもできない。
 なぜなら姉は矛盾の塊だから。
 姉の言葉を整理すれば、「ここでずっと暮らして」「ホストも続ければいい。でもとにかく」「私の知らないところには絶対に行かないで」「一生」……とのことだった。
 親の家でもなく、姉の家でもなく、自分の家。そう呼べる場所で暮らすのは初めてだった。俺の暮らしはやばかった。なにしろ家出をして以来、少年院での二年を除けばまともな生活なぞしたことはなく、一般人のルールなぞ知るわけないし知りたくもなく、ただなにもかもが面倒で、酔って、帰って、眠って、起きて、シャワーして、グダグダして、仕事に出て、の繰り返し。それ以外のことはなにもしなかった。姉は様子を見たがったが、来るなと言って鍵も取り上げた。それは姉の言う通りにそこで大人しく暮らす条件でもあった。
 寝る時も、起きた時も、俺は一人だった。俺が手品かなにかのように突然ふっと消えたとしても、誰も気付きもしないだろう。いつか本当にそうなればいいのに。そうやって消えられたら、それが一番いいのに。そんなことばかり考えていた。馬鹿なりに本気だった。いつか、なんて悠長なこともやがて言っていられなくなったのだが。まあとにかく、それがあの部屋だ。二十五歳の俺が一人で暮らしていた、あの。

 おまえは十五歳だった。名前はしま。世の中のことなんか、なんにも知らなかった。

***

 嶋幸紀しまゆきのりが家出を決行したのは十五歳の冬。十二月十七日、22時27分のことだった。

 終業式の後、母親とともに帰宅したのが昼下がりの十三時。嶋は玄関に上がるなり通学バッグを放り出し、一直線にリビングに向かい、手も洗わず、うがいもせず、制服のままコートすら脱がずにソファの長辺にダイブして寝転がった。
 それからかれこれ九時間。
 九時間、同じ体勢でいた。
 その間、放置されていたわけでもない。母親はずっと「鞄を片付けて」「うがいは」「手を洗ってよ」「着替えなさい」「落ち込むのもわかるけど」「お昼はどうするの」「ラップしておくからね」「夕飯はどうするの」「ラップしておくからね」「あんたまだ食べてないの」「どうするのよ」「ちょっと」「大丈夫なの」「どうなの」「冷蔵庫に入れておくからちゃんと食べなさい」「お母さんもう出るからね」云々うんぬん、うるさく言い続けて駅へ出かけた。一つ下の弟はドタバタ騒がしく二階の自室から降りてきて「兄貴どしたん?」普通に昼食を食べ「兄貴どしたん?」普通に学校のプリントを広げ「兄貴どしたん?」普通に嶋が占拠するソファの短辺でスマホをいじり「兄貴どしたん?」夕飯を食べて「行ってきまーす!」云々、いつもの調子で塾に出かけた。
 家には今、嶋の他に誰もいない。
 二十二時のニュースが始まる。
 テレビは音を消しているから、聞こえるのは時計の音のみ。そう、時計の、針の音。こいつがさっきからチッチッチッ、九時間休まずチッチッチッ、延々ずっとチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッ——で、現在二十二時。ということは。
(……35時間と30分経過)
 35時間と30分前まで、時計の音が聞こえるなんて知らなかった。頭の中にはいつだって音楽が溢れるように流れていた。音楽が消えた世界のこんなに白けた静けさを、時計の針のこんなに容赦ない進み具合を、知らないままで生きてきた。
 嶋は、目を開いてテレビを見ている。見ているというか、眼球がたまたま北東57度、テレビが設置してある壁の方に向いている。その顔の上で眼鏡が盛大にずれている。右の鼻当てが左の目頭に刺さっている。近眼である。乱視である。ほとんどのものはろくに見えない。しかし嶋はずれた眼鏡を直そうとしない。ぴくりとも動かない。顔色は青い。手足は冷たい。死体によく似ていた。
 Y音楽大学付属中学校ピアノ科三年嶋幸紀——本人は知らないがピアノ科の他の生徒の間では時に『yknr』あるいは『やきのり』しかし大抵は『嶋』とそのまま呼ばれている——が、最後にピアノに触れてから、これで35時間と30分が過ぎた。
 今から35時間と30分前。
 Y音楽大学付属中学校では二学期の期末考査の実技試験が行われていた。嶋にとって、それは最後のチャンスだった。が、しくじった。ピアノを三歳で習い始めて以来の最低最悪のクソ演奏をよりによってこの日、この大事な最後のチャンスの場で披露しながら、嶋は失神していたのかもしれない。幽体離脱した。二メートルほどの高さから自分の姿を見下ろすと、脳が内側からブスブスと燃え、焼けた頭蓋骨から黒煙がもくもくと立ち上っていた。そんな白昼夢を見るほどの大惨事は、十二月十六日10時30分、中ピアノ室Dで起きた。
 それからピアノには触っていない。触りたくない。触れなくなった。今に至っては近付くのすら嫌で、二階の自室の隣にはピアノを置いた防音室があるからもはや二階にも上がりたくない。他人が弾くピアノの音も聴きたくない。だからテレビの音声を消している。というかそもそもテレビ自体をつけたくなかった。つけたのは弟だ。嶋は死体に似たまま弟がソファ座面に投げ出したリモコンを肘の下に隠匿いんとくし、肘関節の出っ張りを用いて最低限の動作で消した。が、テレビにはなんと本体ボタンなる機構がある。弟はスタスタとテレビに接近し、またつけた。嶋は消した。弟がつけた。嶋は消した。弟がつけた。リモコン対本体ボタン、パワーは互角。テレビはいっそ哀れなほど敏感にチュンパチュンパついたり消えたりした。何度か刃をというか電気を回路上で激しく交わし、攻防の末に、消音でつける、で落ち着いた。弟が塾に出かけてからもわざわざ消すのが面倒でそのままにしてある。これなら一応自衛は可能だ。BGMとして不意に流れるピアノ曲をシャットアウトできるのはもちろんのこと、あのおじさんとの遭遇から己を守ることができる。
 あのおじさんとは他でもない。ピアノの売却を懇願してくる、あのおじさんのことだ。
 猫を吹っ飛ばしながらピアノの蓋が開くと、鍵盤の上に軽快なピアノのメロディーとともにあのおじさんが現れる。精子の妖精みたいなダンサーたちを従えて、ピアノを売却して欲しい、電話をかけて欲しい、そう訴えかけながら歌い踊る。世間では、あのおじさんを見ると赤ん坊が泣き止むなどとも言われているが、今の嶋にとっては恐怖の対象でしかない。なにしろCMだから遭遇を予期できない。視覚と聴覚の両方にピアノの存在を突然食らう羽目になる。まともに被弾すればメンタルが壊れる。また幽体離脱してしまう。それでも音さえ消していれば、猫が見えた瞬間に目を閉じることができる。だから、テレビはつけるなら消音。そうすれば聞こえるのはチッチッチッ、そう、これだけ、あとは無、真っ白、チッチッチッチッチッチッチッ——眼球をわずかに東へ。置き時計を見やる。眼鏡が用を為さなくてもギリ読める。
(……35時間と35分経過)
 眼球を戻す。
 ピアノと離れてから、それだけの時が過ぎた。
 両手の指は腹の上に重なったまま動かない。まだそこにあるのかどうかすら、今はもう確信がもてない。とっくになんにもなくなっているのかもしれない。
 嶋の中の空洞に、時間だけが降り積もっていく。どんどん増えて、膨れていく。どこまでいったら「終わり」なのだろう。もう取り返しがつかないとわかるのはいつだろう。なにもわからないまま、時は最後の瞬間に向かって容赦なく進み続ける。わかるのは、そのときは近いということ。それはすぐそこまで迫っているということ。
 もうすぐ終わる。
『——そうですね』
「ひっ!」
 突然テレビの音声がサウンドバーから出力されて、飛び上がるほど驚いた。その衝撃でカチャリ、眼鏡が顔面上の最適位置に戻る。
『では、次のニュースです。かつて一世を風靡ふうびしたあのゲームが、十年の歴史に幕を下ろすことになりました』
 肘かどこかがリモコンに触れたのだろうか。再び音を消そうとするが、慌てたせいか掴んだリモコンを床に取り落としてしまった。九時間にわたって活動を自粛していた身体を軋ませながら拾い上げると、裏の蓋が外れて電池が行方不明になっている。どこかに転がり出たのだろうが、足元には見当たらない。
 息をつき、もそもそと床に這いつくばってソファの下を覗き込んだ。よく見えない。テレビからは、『うそ、終わっちゃうんだ!』『つか逆にまだあったんすか?』『高校の時みんなやってた!』『うちは親に禁止されてました』街頭インタビューとおぼしき男女の声が賑やかに聞こえてきて、女性アナウンサーの澄んだ声が後を引き取る。
『めぐバス、といえば、ご存じの方も多いのではないでしょうか。そうです。今夜の話題は、〝めぐりあいユニバース〟です』
 そういえば、そんなゲームもあったっけ。電池の一本や二本は余裕で飲み込めるほど長いラグの毛足の中を手でわさわさと探りながら、耳だけで適当に聞き流す。
『十年前の十二月二十四日、18時00分にサービスが開始された〝めぐりあいユニバース〟、通称めぐバスが、今年十二月二十四日17時59分をもって終了することが本日発表されました』
 電池は見つからない。頭に血が上って身を起こす。テレビにはゲームのオープニング画面が映っている。虹色の星雲がきらきらと渦巻くその宇宙には、嶋もかすかに見覚えがあった。退屈な親戚の集まりに連れて行かれた時に、年上のいとこがユーザー登録するのをすぐ隣で眺めていたのだ。もう何年も前のことだ。今このニュースを見るまでは思い出すこともなかった。
『二十代、三十代の方からは寂しい、懐かしい、という声が上がっていますね』
『ちょうど我々もその世代ですよね。それではめぐバスがどんなゲームだったか、ここで改めて十年の歴史を振り返ってみましょう』
 めぐりあいユニバースはブラウザで遊べるオンラインゲーム——ということすら、こうしてテレビで解説されるまで嶋は理解していなかった。
 ゲームを開始すると、新たな星を発見したという設定で、特定の座標で示される星のアドレスがユーザーに一つ割り振られる。作成したアバターでその星に降下し、歩き回って探索するというのがめぐバスの基本的な遊び方だった。しかしこのゲームが若者の間でブームになった理由はそこではなく、メッセージを飛ばすことで他の星とコミュニケーションが取れる、という部分にある。友人同士で座標を教え合えば連絡ツールになるし、適当に打ち込んだ座標にメッセージを送ってたまたまそれが誰かに届けば、見知らぬ相手と出会うこともできる。めぐバスは探索ゲームでありながら、実際にはコミュニケーションサイトとして爆発的に流行したのだ。アイドル声優が「いつかきっと、めぐりあえる……」とささやくCMは、一時期メディアを文字通りジャックした。
 しかしサービス開始から二~三年後にはスマホとSNSの時代になり、自然と流行にかげりが見え始める。その頃を境にフィッシングサイトへ誘導される詐欺メッセージが激増し、売買春や違法薬物取引などの犯罪行為に悪用されるケースも表面化して、めぐバスはにわかに社会問題となった。運営会社は対策として、簡単に見知らぬ相手にメッセージが届かないように座標を複雑化したが、結果として出会いの機能はほぼ失われ、ネット上では「いつまでも全然、めぐりあえない……」と揶揄やゆされ、残っていたユーザーも減り続け、今ではすっかり世間からも忘れ去られ——
『十周年を目前についに終幕、ということになったんですね』
『はい。まさしく一つの時代の終焉しゅうえんですよね。私、実は中高生の頃はかなり熱心なユーザーだったので、青春時代を懐かしく思い出してしまいました』
『わかります、私もユーザーでした。最初、真っ暗な宇宙のずっと遠くに、いきなり星の着陸地点がキラッと光って見えるんですよね。そこに向かって、ひゅーっとまっすぐ降りていって』
『そうそう! ものすごい高揚感がありましたよね。これから一体なにが始まるんだろうって、ワクワクした記憶があります』
 やっと電池を発見した。ソファの足の陰に転がっていた。拾い上げ、セットし直す。裏の蓋をカチリとはめて、リモコンをテレビに向ける。
『個人的に、最終日は久しぶりにログインして、最後の瞬間をこの目で見届けようと思っています』
 消音ボタンを押そうとしていた嶋の動きが止まった。
「……は?」
『さて、次のニュースです。永田町にも木枯らしとなるのでしょうか。また新たに明るみに出た政治とカネの問題を巡って、与党内にも任命責任を問う声が——』
 まだ動けない。
 リモコンをテレビに向けたポーズのまま、嶋はようよう首だけを右に60度ほど傾ける。ものすごく聞き捨てならないことを聞いた気がする。めぐバス、ではないのだ。めぐバスにはなんの思い入れもない。そもそもユーザーですらない。どうでもいい。問題はそこではなくて、
(『最後の瞬間』なんて、そんなに見たいか?)
 そこだ。
 なんでだ。
 アナウンサーの発言にはまったく頷けない。頷けないどころの騒ぎじゃない。たとえこの首をむしられたって理解できない。
 今の嶋にとって、見たくないものナンバーワンがまさにそれだった。道端の吐しゃ物よりもかれたカエルよりもタンチョウヅルの頭頂部よりも見たくない。それほどまでに見たくない。見ないですむならなんだってする。なんならこの目を自ら指で突いて潰してでも、いや、さすがにそれは無理だけど、しないけど、でも走って逃げるぐらいのことはする。チッチッチッと今この瞬間も音を立てて目の前に迫り来る『最後の瞬間』にくるっと背を向け、全力疾走で駆け出して、どこまでも遠く、見えなくなるまで遠く、誰にも捕まえられないところまで遠く、二度と戻れないぐらい遥か遠くに、このまま逃げてしまいたい。本当はずっとそうしたかった。でも無理だから、逃げられないから、だから仕方なくただこうしてここで一人で終わりを待って、
(……あれ?)
 ふと辺りを見回す。一人だ。突然その事実に気が付いた。
 今、ここには自分一人。
 母親は父親を迎えに駅まで行っているし、弟は塾。自分がどこへ出て行こうと見咎める家族はいない。つまり今なら逃げられるんじゃないか? 逆に、なぜ逃げられないと思っていたんだろう。なぜ聞きたくもないチッチッチッを大人しく聞いているんだろう。なぜ見たくもない『最後の瞬間』を大人しく待っているんだろう。すぐそこまで迫っているのに、そんなの絶対に見たくないのに。なぜ、自分は逃げずにここにいる。
 逃げればいいじゃないか。
 眼鏡をひねり、時計を見た。22時15分。あとすこしでみんな帰って来る。もう迷っている場合じゃない。どうせならもっと早く気付けばよかったが今さらだ。
 身体を起こすやリビングを飛び出した。手まで使って登攀とうはんするように二階へ駆け上がり、左回転でバンクしながら自室に突入。紺色無地のナイロンのバックパックを引っ掴み、なにがいるかなんて全然わからないからとりあえず手近にあった洗濯済みのパンツやソックス、あとなんだ、財布、は鞄の中だ、廊下に置きっぱなしだ、そうだ通帳、お年玉、ていうかスマホ、も鞄の中だ、それとあと、いやもうわからない、ペンケースだのメガネケースだのそこらの物を適当に突っ込んでもうこれでいい、力いっぱいジッパーを閉めて着たままだった制服のコートの上に背負い部屋から飛び出しかけて、そうだ、思いついてストップ、引き返してベッドの上掛けをはがしてその中に枕やクッションや毛布を縦長に丸めて突っ込む。上掛けを戻す。部屋を覗くとここで寝ているように見えるはず。こんな姑息的偽装工作はどうせ長くはもたないだろうがただの時間稼ぎだからこれでいい。ここには二度と戻らない。
 部屋を後にして階段を二段飛ばしに駆け下りる。リビングを通り過ぎようとして、もう一度その足が止まる。ちらっと時計を見る。35時間と53分経過。時計を片手で引っ掴んだのは衝動を自覚するより早かった。思いっきり床に叩きつけた。しかしラグに衝撃が吸収されて時計はビクともしない。二度同じことを繰り返したが針の音は決して止まない。嶋はテレビ台の下の棚を開け、あらゆるケーブルが絡み合う通称魔窟の奥の奥の奥に時計を無理矢理ねじ込む。足で蹴って棚の戸を閉める。それでも「……っ!」チッチッチッ——生まれつき感度が良すぎる耳をついに両手で力いっぱい塞ぎ、今度こそ走って逃げ出した。
 行き先はどこだ、とにかく都内か、渋谷とか新宿? いやもうなんでもいい、逃げられればどこでもいい。ネットカフェみたいなところがあればきっと泊まれる、ああでも駅方面に今向かうのだけはだめだ、帰ってくる親と会ってしまう。目まぐるしく考えながら置きっぱなしにしていた鞄から財布とスマホを取り出してポケットにねじ込む。足をローファーに突っ込む。思いっきり大きく玄関ドアを押し開く。が、外へ出てから自転車の鍵を部屋に置いてきたことに気付き、
「あっ、くそ!」
 勢いを削ぐ己の迂闊うかつに頭を抱えるが、そのとき、
「兄貴どしたん?」
 軽いブレーキ音が住宅街に尾を引いた。ちょうど帰宅してきた弟の自転車のライトに目を射られる。
「眩しいぞ弟!」
 張り倒したくなるが、何も知らない弟はのんきそのもので、
「こんな時間にどっか行くの? 兄貴が夜の外出なんて珍しいじゃん」
 なにがおもしろいのかにこにこしながら自転車を押してガレージに向かおうとする。どうでもいいことだがすでに嶋より数センチ身長が高い。その横っ面を張り倒す代わりにダウンジャケットの腕を掴んで引っぺがし、ハンドルを脇から奪い取った。
「ちょっと、なにすんの」
「家出する。おまえはしばらく俺がいるふりをして時間を稼げ」
「……えーっと、さすがに色々と突然すぎるんだけど。つか俺の自転車……」
「俺は具合が悪くて部屋で寝込んでいる。そう伝えろ」
「誰に? あ、ちゃんママとちゃんパパか」
「食事はすべておまえが部屋に持っていくと言って、隠れて全部食え。あたかも俺がずっと部屋にいるかのように振舞い続けろ」
「ほぼ武田信玄じゃん」
「そんな人は知らない」
「そっかそっか、でもまたなんで?」
「俺は兄でおまえは弟だからだ」
「いやそうだけどさ、でもそうじゃなくてさ、んーと、うん。いつまで?」
「永遠にだよ!」
「どこ行くの?」
 答えなかったのは、自分自身その答えを知らないからだ。弟をそこに置き去りにして、嶋は奪った自転車で真冬の夜道を一人漕ぎ出す。誰にも見えない暗闇で、そのとき時計は22時27分を指している。
 とにかく都内だ。そう決めた。北上して都内を目指す。横浜、川崎、と進めばいいはず。それだけを胸に、もう後ろは振り返りもしない。夢中でペダルを踏む。必死に逃げていく。時間はそれでも止まらない。誰にも見えない暗闇で、それは今も降り積もる。中三男子としては小柄な方の嶋の身体の内側で、不安と恐怖に変質していく。
 その、4時間38分後だ。
 嶋幸紀がたった一つの小さな光を見つけ、ひゅーっとまっすぐ降りていったのは十五歳の冬。十二月十八日、03時05分のことだった。

 一体、なぜ。「うら待てぇ!」ズガガー! 「チャリ寄越せぇ!」ゴゴゴー! ぎゃはははは! なんだこれは。どうしてこうなった。なぜこいつらは自転車を欲しがる。そもそもなぜ、午前三時に自分は町田にいる。
 なにもわからないまま嶋は無言、「……! ……! ……!」見知らぬ町の暗い路地をひたすら逃げ惑っていた。もちろん本当は気分の赴くままギャー! とか存分に叫びたいが、今は無意味な感情の反応にカロリーを割く余裕などない。残された体力のすべてを絞り、両脚の筋肉に一滴残らず注ぎ、生存本能を燃やし尽くしてペダルを漕いで、ヤンキー二人組の追跡から逃れなくてはならない。とはいえ奴らはキックボードとスケートボード、自転車の方が速いはずだがなにしろ嶋には土地勘がなかった。身を隠せる場所もわからないから、目の前に続く道をただ闇雲に進むことしかできない。追っ手を撒くテクニックなどそもそも嶋にあるわけもない。
 横浜に向かっていたのだ。
 なかなか着かないな、とは思った。途中のコンビニで休憩もしたが、それにしても街の灯が遠い。寒いし眠いし疲れてもいた。これ以上進むのは難しいかもしれない。心が挫けかけた時、それは忽然と目の前に現れた。
 町田駅。
 嶋は最初、疲労のあまりに幻覚が見えたのだと思った。しかしその建造物はあまりにもまざまざと現実感を伴っていたし、標識、看板、街並み、目に入るもののすべてがここは町田であると告げていた。認めざるを得なかった。町田だった。つまりどうやらどこかでとんでもなく道を間違えていたらしい。……よし、落ち着け。自分に言い聞かせた。とにかく一旦落ち着いて、ここからどうリカバリーするか考えてみよう。人気も絶えた街角で足をついたまま停車し、バッテリーをケチって極力見ないようにしていたスマホを取り出そうとした。そのとき、そいつらに見つかった。第一声が「チャリィ!」だった。蛮族の挨拶かと思ったが、「チャリがおるぅ! ひゃあ~!」「ひゃはぁ~! チャリ寄越せぇ!」なんのことはない、ヤンキーの追いはぎだった。
 めちゃくちゃ追われた。逃げても逃げても振り切れなかった。ゴミゴミした通りを直進し、酔っ払いが点々と転がる飲み屋街を抜け、ゴミ袋があちこちに置かれたシャッター街に出ても、「待てぇチャリ眼鏡ぇ!」「眼鏡も寄越せぇ!」
(眼鏡まで!? 度も合わない他人の眼鏡まで欲しがるのか!? ばか! 眼鏡屋いけ! その前に眼科いけ! 視力測れ!)
 目の前は丁字路、慌ててハンドルを切って狭い裏道に突っ込んでしまう。まずい、暗い、道幅すらよく見えない。ライトが白く照らすのは目の前のわずかな範囲だけ。方向感覚などとっくにないし、転びでもしたら一巻の終わりだ。チャリも眼鏡も奪われて、自分も町田のヤンキーにされてしまう。
(本当に、どうしてこうなったんだよ!?)
 声に出せない代わりに胸の中だけで叫んだ。おまえが道を間違えたからだよ! 答えも胸の中だけに返ってきた。それはそうだ。そうなんだが、それにしてもこんなはずではなかった。ヤンキーから逃げたくて家を出たわけじゃない。逃げたかったのは、『最後の瞬間』からだ。今ならもっとはっきりわかる。嶋は、帰宅してくる父親から逃げたかった。
 終業式の今日、というかもはや昨日か、専科の担任は母を学校に呼び出した。特別に行われた三者面談の場で、嶋に系列の普通科高校を受験するよう勧めるためだった。「このまま付属高校に進んでも先はない」「年明けにはもう決断しなければいけない」「ピアノ以外の人生を選ぶなら本人のためにも早い方がいい」——母は、頷きながらそれを聞いていた。帰りの車の中で、お父さんが帰ってきたらちゃんと話さないとね、そう言った。父親は医師で、今は近県の病院に勤務している。金曜の夜に帰ってきて、週末は葉山の自宅で家族と過ごす。父も頷くだろうと嶋は思った。ピアノ科を辞めて、普通科を受験するように言われるはずだ。
 こうなったのはすべて自分のせいだった。一体いつから、どこから、道を間違えていたのだろう。直近の分岐点はあの中ピアノ室Dでの大惨事か。思えばあれは、まるで今の自分の姿を暗示していたかのようだ。ヤンキーの追跡から逃げ惑いながら、あの日のクソ演奏を思い出してしまう。本当に、まさしくこんな感じだった。こんなふうに一メートル先のこともわからない道を闇雲に突き進み、ガタガタのわだちにはまりまくり、コントロールを失い、バランスを失い、今いる場所もわからなくなって、なにもかもがめちゃくちゃになって、この手の中でバラバラにぶっ壊れていって、結局、全部だめにしてしまって……喉にせりあがる震えを飲み込む。飲み込んで、ひたすらペダルを漕ぎ続ける。漕いで漕いでさらに漕いで、狭くて暗い裏道からやっと抜ける。その先は勾配のきつい下り坂、突然の急加速に背が冷える。と、前輪がなにかを踏んだ。弾んだ。「あっ、」ハンドルを取られる。そのまま自転車はグラグラと左右に踊り「うわ、」タイヤは横滑りして横の植え込みの中に突っ込む、そう思った次の瞬間だった。嶋の視界いっぱいに、黒い夜空が大きく広がった。
 突然の浮遊感。
 闇の中に投げ出される。
 自転車から手が離れてしまう。
 植え込みの向こう側は崖になっていて、数メートルの高さからのフリーフォール。真下はアスファルトの道路。あ、これ。死ぬ。そう感じた瞬間、両手を握り、脇の下に隠していた。嶋の反射は指を守った。脳内に一瞬の思考が(馬鹿だな)閃く。(もう意味なんかないのに)無防備な頭から固い地面に落ちていくその真下に、
 光が、

『ひゅーっとまっすぐ降りていくんですよね』

 ——見えた。
 真っ暗な、温度のない深い闇の中を一人行くあてもなく漂っていると、突然ずっと遠いところに小さな光が灯った。
 思い出した。
 それはまるでこの世にたった一つ、誰かのために特別に用意されたもののように思えたのだ。誰かのためにずっと前からそこにあって、誰かをずっと待ち続けていて、そして今、誰かのために光っている。ここだ! と叫ぶように。ここに落ちてこい、——!誰かの名前を呼ぶように。そう思ったのだ。その光に座標を定める。億千万の星の海を抜け、渦巻くガスの雲を抜け、一直線の軌跡を描いて、遥か遠い宇宙の果てからたった一つ、自分のためだけに灯されたその光を目指してまっすぐに降下していく。
 あの日、いとこのノートパソコンのディスプレイに流れたゲームのムービーを見ながら幼い嶋は息を飲んだ。そしてまさに今、ひゅーっと夜の闇から光を目指してまっすぐ落下しながらそういう光を、いやでもあれは、
(人だ!)
 気付いた時には、もうその両腕の中に受け止められていた。
 衝撃を支えきれず、そのまま折り重なるようにぐしゃっと体勢が潰れる。二人して路上に転がる。
「……ってぇ……」
 苦し気な呻き声。嶋はそんな声すら出ない。胸を打って息ができない。指は——指は動く。生きてる。眼鏡も無事だ。四つん這いでなんとか身を起こした。顔を上げる。その人を見た。
 冷たいアスファルトに座り込み、かきあげた長い前髪は銀。真っ白な毛皮の上着の中にスパンコールのシャツを着て、前を大きく腹まで開けて素肌を見せている。
 闇夜の中で、男はギラギラと極彩色に輝いていた。
 普通ではない。そう思った。現実の人間には見えない。この世の生き物ではないみたいだ。神話に出てくる鳥のような、触れば指が通り抜けてしまいそうな、地面から数センチ浮かび上がっているみたいな……瞳が、嶋に向く。嶋を見るなり吹き出す。人間か。そりゃそうか。人間なら笑いもするか。だって「た、」今の自分は多分相当、
「たすけて!」
 みっともない。まだひくひくと痙攣けいれんする肺、気道、横隔膜。ぬるっと熱い鼻の下を拭った手には血がべっとり、「追いかけてくるんだ!」甲高くひっくり返った声で喚きながら無我夢中、目の前のギラギラ男に真正面から飛びつく。命がけの必死さでその胴にしがみつく。触れた生身は汗ばんで熱い。いる。ちゃんとここに存在している。異次元から投影されたホログラムなんかじゃなくて、確かにこの人はここにいる。
「ずっと追いかけてきて、もうどこにも逃げられない! ここがどこかもわからないし、どこに行けばいいのかもわからない! 俺にはどこにも逃げ場がない! お願い、たすけて……!」
 男のシャツを掴んだ手に、嶋は渾身の力を込めた。絶対に離すまい。全力で、震えながら、そこにあるものを握りしめた。絶対に絶対に、絶対に離すまい。
 なにかがひらりと目の前に近付いてくるのが見える。白い蝶のような掌が、嶋の鼻血をぐいっと拭う。そして、
「いいよ」
 男は頷いた。微笑んだ。
 その息の半端ない酒臭さに、ここでやっと気が付いた。鼻血の血腥ちなまぐささ越しにもはっきりとわかる。さらに香水の匂いもすごい。甘ったるいやらむせ返るやら、とにかく尋常な濃度ではない。この上空のオゾン層にも矢のように突き刺さり、穴を開けているに違いない。環境が壊れる。地球かわいそう。一瞬たじろいだ嶋の手を、男はすごい力で掴んだ。そのまま引っ張って立ち上がらせ、
「連れて行ってやるよ」
 ふらつく足で走り出す。「あっはっはっはっ!」高らかに笑っている。その様子はどう見ても普通ではない。明らかにやばいレベルの酔っ払いだ。しかもそのくせ走るのはやたら速く、嶋はとにかく必死に手を掴み返して、もはや為すすべなく引きずられていく。脳裏を拉致らちの二文字さえよぎる。
 住宅街にまだ朝は来ない。闇の中を駆け抜けていく二人の姿を、見ていた者は誰もいない。

***

 そのマンションの一室は、男の自宅のようだった。
 玄関に入ると照明が勝手につく。男は嶋に「入れ」とも「入るな」とも言わない。振り返りもせず、戸締りもせず、革靴を脱ぎ飛ばして、一人で先に中へと上がる。廊下を進んでいく間も身体はふらふらと大きく揺れ、両肩を左右交互に壁にぶつけまくっている。嶋もその後を追い、ローファーを脱いで室内に上がった。スリッパなどはなさそうで、ソックスで冷たい床板をぺたぺたと踏んでついていくしかない。廊下の先にドアがあって、男はそれを身体の幅の分ほどだけケチくさく押し開いた。その隙間からダウンライトがつきっぱなしの部屋が見えた。
(えっ……)
 嶋は、息を飲んだ。足が止まる。それ以上は進めなくなって、半端に開かれたドアの手前で立ちすくむ。
 ドアを全開にしないのは、向こう側の物がつかえているかららしい。そこは恐らくリビングなのだろうが、床はまったく見えない。丸々膨らんで口を縛ったレジ袋だのスナック菓子の空き袋だのくしゃくしゃに丸まった服だのペットボトルだのタオルだのチラシだの紙屑だの紙袋だの、とにかく色々なにかもうよくわからないものが無数に積み上がり、床面をびっしりと埋め尽くしている。深さは膝の高さぐらい。まるでさいの河原、そのゴミ版だ。鬼はあの男。だって歩きながら平気でゴミの塔を蹴り飛ばしている。ソファやローテーブル、テレビなどの家具も一通りあるにはあるようだが、それらもすべてゴミの層の中に沈んでいる。そこら中から攻撃的に突き出しまくっている針金ハンガーは罠かなにかなのだろうか。侵入者をあれで捕らえようとでもいうのか。でも「いてっ……」本人が引っ掛かっているのはどういうことなんだ。
 汚部屋だ。
 嶋は思わず一度目を閉じた。数秒おいて、そっと開く。……汚部屋だ。しみじみと汚い。こんなに汚い部屋は生まれて初めて見た。本当にこれまで見たことがないレベルだ。こんなところで一体どうやって暮らしているのだろうか。食事したり眠ったり寛いだり、そういう普通のことができるのだろうか。しかも部屋は汚いうえに妙に暑い。真冬だというのにむわっと嫌な感じの熱気がこもっている。エアコンかヒーターがつけっぱなしになっているのかもしれない。換気もせずに、ずっと。なにそれ。ひどい。最悪。信じられない。もうそんな月並みな言葉しか出て来ない。
 虚ろな目をして立ち尽くす嶋の様子に、しかし男は気付きもしないらしい。慣れた様子でゴミを蹴りつつ、時折ハンガーに脛を刺されつつ、獣道を踏み分けて部屋の奥へと歩いていく。そして服をどんどん脱いでいく。脱いだものはそこらにそのまま投げ落としていく。指輪や時計も外すなり次々放る。煙草の箱も、ライターも放る。小さな物体はどんどんゴミの中に埋もれていく。
「……あ?」
 やっと存在を思い出したみたいに、嶋の方を振り向いた。ぐらぐらと盛大にふらつきながら、細いスラックスのポケットからスマホを掴みだす。それもポイ、というかゴトッ。投げ捨てた。すでに上半身は裸で、
「ああ……これ。な。部屋、汚えよな。やべーよな。わかってんだよ、自分でも……」
 むき出しのうなじに絡みつく鎖みたいなアクセサリーも、うっとうしそうに身をくねらせて外す。ポイ。
「どうにかしねえと、って……いつも……つか、もう、ずっと……でもさ、」
 ベルトもカチャカチャと外し、ずるっと引き抜き、投げ落とす。スラックスもそのまま足首まで脱ぎ下ろし、子供みたいに爪先で蹴り飛ばす。ソックスも同じように蹴り飛ばす。ふと嫌な予感がした。一体どこまで脱ぐつもりなのだろうか。男はもはやその身にボクサーパンツしかまとっていない。それはさすがに残すんだよな? 疑問というよりは懇願に近い思いを抱きつつ、嶋は男の後ろ姿を見つめる。男の両手がボクサーパンツのゴムの部分にかかる。まさか、だよな? ちょっと腹周りの締め付け具合を調整したいだけだよな? そうだよな? 嶋の思いは、しかしつるんと裏切られた。
「てめーじゃもう、なんか……どうにもできなくてさ……」
 躊躇ちゅうちょなく全裸。ゴミの山の中に放り投げられた使用済みボクサーパンツの行方はようとして知れない。いやでもまだセーフだ。見えるのは全裸の背面、尻だけ。男は後ろを向いているから大丈夫。まだいける。そう思った次の瞬間、
「あ、そうだ」
 くるりと向き直り、男は嶋を見た。男の全裸を真正面から食らってしまって心底げんなりする。そんな嶋の心境に思いを馳せることなど一切なさそうに、男は鼻先までゆるくうねりながら落ちる銀の前髪を気だるげにかきあげる。
「おまえ、さっき行くとこねえっつってたよな。……もしもこれ、この部屋のゴミとかさ、全部きれいに片付けられたら、おまえにここやるよ」
「えっ!」
 突然の話に、びっくりして思わず目を瞬いた。クリアになった視界に全裸。しかし負けない。
「ここやるって、くれるってこと? ここに俺、住んでいいの? ずっと?」
 男は「ん」、半ば目を閉じ、前後に揺れながらこっくりと頷く。
「ほ、ほんとに?」
「まーじまーじ。ここ、っつうか……」
 自分の周りをぐるっと指差して、
「ぜーんぶ、やるよ」
 さらに何度か深く頷く。
「じゃあ片付ける! きれいにする!」
 嶋の返答は、果たして耳に届いたのだろうか。男は頷きながらやがてゆっくりと前傾して、そのまま顔面からゴミの中に倒れ込んだ。沈黙は数秒。すぐに寝息が聞こえてくる。
 嶋はいまだ戸口に突っ立ったまま、部屋の中に入れていない。早すぎる展開にもついていけていない。ずるずると廊下の壁に背中をつけて、その場にゆっくりと座り込む。
(この部屋を、くれる……そう言ったよな)
 それが本当ならすごい。先の展望などなにもなく、ただ逃げたいだけの一心で闇雲に突っ走ってここまで来てしまったが、やっと具体的な救いの道が見えた気がする。ここに隠れていられれば、『最後の瞬間』なんて永遠に見ないですむ。
(でも片付けるって、このカオスを? そんなの本当に可能なのか?)
 目を上げ、ちょっと横を見ればそこには汚部屋。ゴミが立体的に堆積しまくって、どういう間取りの部屋なのかさえぱっと見ただけではわからない。こんな中学生如きにどうにかできるものなのだろうか。ブルドーザーとかで掘らないといけないレベルの作業ではないのか。なにか資格とかいるんじゃないのか。
 不安に心が沈みかけるが、いや、と勢いよく首を振って悲観的な考えを打ち消す。やれるかどうかじゃない。やるのだ。どうにかして片付けることさえできれば、それで問題は解決する。だったらやればいい。すでにやると答えもした。だったらもうそれだけだ。それ以外を考えるな。
 嶋は小さくなって膝を抱え、力を入れて目蓋を固く閉じた。とにかく今は眠ろうと思う。朝まで眠って、もうとっくに尽きている体力を回復させて、明るくなってから落ち着いて状況を確かめよう。不可能を可能にする方法を考えてみよう。明日明日、とにかく明日。そう腹を括って眠気の訪れを待つことにする、が。
(……知らない男のむき出しの尻がすぐそこにあるのか)
 やはり、どう考えてもこの状況は異常だ。そうあっさりと眠れるわけもない。目を閉じたまま、はあ、と思わずため息をついてしまう。汚部屋が伝染性の負のオーラでも発生させているのか、考えもついくよくよと暗くなる。
(こんなことになるなんて、考えたこともなかった)
 自分の傍らにあり続けるのは生涯ピアノだけだと思っていたのに、実際に今、傍らにあるのはゴミに埋もれた男の尻。横浜に向かっていたはずなのに、ここは町田。本当に、自分は一体どこでこんなに大きく道を間違えてしまったのだろう。
 最初はとてもシンプルだった。祖母が趣味で弾くピアノが好きだった。それだけだった。背の高いチャイルドチェアを隣に並べてもらって、いつもすぐ近くで演奏を聴いていた。その祖母が急に亡くなって、黒い服を着せられたある日、嶋は一人でピアノの前に座った。習ったことはなかったし足もペダルに届かなかったが、それでも生まれて初めて鍵盤に触れた小さな手と指は、乙女の祈りを、メヌエットを、きらきら星変奏曲を、わたしの城下町を、祖母の癖まで完全にコピーしていた。いつの間にか喪服姿の大人たちが集まってきて、茫然と自分を見ていたのを覚えている。それが三歳の時だ。
 本格的にピアノを習い始めたら、他にはなにもいらなくなった。友達もいらない。おもちゃもいらない。スポーツもしない。遊びも知らない。勉強もできない。それでよかった。そうしたかった。ピアノを弾くのが好きだから、ずっと弾いていたかった。ただそれだけで嶋は生きてきた。だから音大付属中学に無事に合格した時は、本当に嬉しかった。あとは高校、大学とエスカレーターで進み、そしていずれプロのピアニストになる。そうすればずっとピアノを弾いていられる。我ながら無邪気にそう信じていた。
 調子が狂ったのは三年生になってからだ。実技の成績が突然がたっと落ちた。理由はわからない。教師との相性というわけでもなく、例えばピティナもひどい結果だった。いきなり下手になったとも現実的には思えなかった。同年代の周囲が伸びて、置き去りにされたのかもしれない。とにかく、その時にはすでに間違えていたのだ。これまでのやり方では通用しなくて、かつての天才児も気付けばピアノ科の底辺。最下位。ドベ。どんなに真剣に弾いても、正確に弾いても、感情を込めて弾いても、「だめ!」「違う!」「やり直し!」教師に止められた。このままじゃ先はないと何度も言われた。普通科への進学も考えろと、実は二学期に入った頃にはすでに言われてもいた。だから期末考査に賭けていたのだ。教師の評価を覆す最後のチャンス。起死回生の大勝負。これまでにないほど必死に練習した。学校ではもちろん、自宅でも防音室に閉じ籠り、寝食も忘れて課題曲に没頭した。だけどある日、鍵盤に触れようとした指がかすかに震えた。あれ? と眺めた手の平が、じわっと冷たく汗ばんだ。なにかおかしいと感じた。そんな小さなことに一旦気持ちが向いてしまうと、その後は転がり落ちるようだった。なにもかもが致命的なエラーに思え、すべてが崩壊する予兆に思え、些細ささいな変化にいちいち怯えた。指の震えも止まらない。震えはやがて全身に及ぶ。寒気がする。吐き気がこみ上げる。実際に何度も吐いた。椅子に座ると目の前が揺れた。地震だ、と何度も立ち上がっては辺りを見回した。まったく揺れない電灯の紐を、裏切られたような思いで見つめた。なにかが起きてはいたのだ。でもそのなにかがわからなかった。それでも練習はしなくてはいけない。負けてはいけない。勝たなくてはいけない。
 なにしろ最後のチャンスだ。「だめ!」「違う!」「やり直し!」
 うまく弾かなくては。「だめ!」「違う!」「やり直し!」
 ここでしくじったらもうピアノを弾けなくなる。「だめ!」「違う!」「やり直し!」
 ピアノを失ったら自分にはなにも残らない。「だめ!」「違う!」「やり直し!」
 友達もいなくて勉強も運動もできない、好きなものもやりたいことも夢も未来もなにもない、普通のことはなにも知らない。「だめ!」「違う!」「やり直し!」
 ——やり直せたらよかった。
 どこかで間違いに気付けていたら。来てしまった道とは違う道を、正しい道を、選べていたら。そうできていたらよかった。そうすれば、こんなふうにはならなかった。
 薄暗い汚部屋の入り口で身体を丸めたまま、嶋は自分の膝に顔を擦りつけた。どれだけ悔やんでも、くよくよと考え込んでも、この現実は変わらない。ここは町田。すぐそこに尻。眠れるわけなんかない。絶対に、眠れるわけなんか……


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