大木亜希子×今井真実――再出発を目指すシェフを救った、ステークアッシェ〈レシピ付き〉
読んで作って癒される
「マイ・ディア・キッチン」
作家・大木亜希子さん×料理家・今井真実さんの夢のコラボレーション!
料理小説「マイ・ディア・キッチン」第二話に登場するお料理は…
ステークアッシェ
ラストに今井さんによるレシピつき!
マイ・ディア・キッチン
第二話
目が覚めると、見慣れない天井が目に飛び込んできた。
窓からは朝の光が射し込み、鳥のさえずりが美しい。なんと穏やかな気配だろう。私の唸り声以外は。
「大丈夫? 怖い夢でも見たのかい?」
扉の向こうから優しい声が聞こえる。すぐに天堂さんの声だとわかった。
私はかろうじて呼吸を整えると、扉越しに「大丈夫です」と答えて状況を整理する。
ここは、夫と住んでいた家ではない。「Maison de Paradise」の二階・居住スペースだ。
昨夜、私は縁もゆかりもなかったこの店に着のみ着のまま辿りつき、住み込みの料理人として働くことになった。
たしか天堂さんと那津さんと閉店後にワインで乾杯し、就寝のために二階に上がったのが深夜一時。
一階の厨房から階段で二階に上がると、真っ先に広いフローリングが目に飛び込んできた。二十畳はあるだろうか。南側には大きな窓があり、すぐそばに木製の大きなテーブルと椅子が置かれている。その奥には、黒い二人掛けのソファーとローテーブルが配置され、隅にはコーナーラック、床にはモロッコ風の美しいフロアランプが置いてあるのが印象的だった。
リビングの北側には二つの扉が並んでいる。個室が二つあるようだ。
階段の方を振り返ると、南東の端に半独立型キッチン、反対の西側には「bathroom」「toilet」と銀色のルームプレートが吊るされた二つの扉が見えた。
アンティーク家具で統一された室内は洗練され洒落ていたが、彼らにとっては散らかっている状態に入るようで、しきりに二人とも「汚くてごめん」と詫びてくれた。
天堂さんは使い捨ての歯ブラシやスマートフォンの充電器、Tシャツなどをせっせと家中から搔き集めてくれ、那津さんは手早く掃除機をかけキッチンで洗い物をしていた。
大柄な男性ふたりがバタバタと駆け回る姿をただ眺めることしか出来なかったが、室内のところどころに設置された温かみのある小さな電球形のランプが私の心を落ち着かせる。
何か手伝いたいと申し出たが、那津さんから「戦力外通告。とりあえず風呂入っといで」と告げられてタオルや洗顔フォームを渡されると、結局、促されるまま浴室に足を運んだ。
急いでシャワーを浴びてリビングに戻ると、二つ並んでいた扉の手前の部屋が開いており、中を覗くと壁一面の本棚に本が並んでいる。おそらく、普段は天堂さんの書斎なのだろう。
部屋の中央にはシングルサイズの布団が敷かれ、私のために彼らが用意してくれた今夜の寝床なのだと分かった。
「今日はもう遅いから、明日のことは明日考えましょう。僕らは朝シャワーを浴びます」
ガウンに着替えた天堂さんは眠そうに私に微笑み、那津さんも「眠さの限界」と同調する。
彼らは隣の部屋に入り、私も布団を敷いてもらった部屋に促されて、就寝の準備をした。
布団に潜ると、パリッとしたシーツが気持ち良くて涙が出た。他人に布団を敷いてもらうのなんて、何年ぶりだろう。
見知らぬ土地で、出会ったばかりの男性達と暮らす現実に緊張していたが、瞼を閉じると少しずつ眠気が押し寄せてきた。
一方で、脳の一部は未だ覚醒しているのだろう。まどろんでいる内に、結婚直前の、あの日の出来事が瞼の裏側に蘇る。それは、私達夫婦が暮らす予定のマンションの入居審査に通った日のことだった。
「葉ちゃんが今まで貯めたお金は、幾らある?」
今後の家計について話し合っていたところ、英治はさりげなく私の貯金額を探ってきた。不意に問われて、思わず「なぜ?」と答えてしまった。それまでの話し合いでは、結婚後は英治の収入で暮らし、私は仕事を辞めて家事を担うことで決まっていたからだ。
独身時代の貯金は緊急時の〝生活防衛資金〟として考えていたし、彼は結婚後、私をアルバイトには出さないと頑なに言うので、このお金だけはどうしても自分で守りたかった。
英治は、さも当然という表情で言った。
「これまで貯めたお金は、全部僕の口座に入れておいてね」
戸惑いを隠せず、いつお金が必要になるか分からないから貯金を渡すのは勘弁してほしいと告げたが、彼は「え?」と不機嫌な表情を返す。
しばらく押し問答が続いたが、最終的に色々と考えることが億劫になり、私は貯めていたお金を全て渡してしまった。というか、通帳とカードを引ったくるように奪われて、やむなく暗証番号を教えてしまったのである。
結婚相手を、見誤ったかもしれない。そんな気持ちがチラッと頭をよぎった。しかし、その思いは心の奥底にしまった。結婚という船は、とっくに動き出していたし、後戻りするには遅すぎると思ったからだ。
一向に夢から醒めずうなされて、いつのまにか私は「アー」とか「ウー」とか声にならない声を叫んでいたようだった。
——何度目かの自分の声で目が覚めると、「大丈夫?」と天堂さんの声が聞こえた。声がする方向に必死に歩を進めるうちに、私は現実世界へと戻っていた。
「僕は仕事に出るけど、夕方には戻るね。そうしたら、色々と作戦会議しよう。困ったことがあれば那津に言うんだよ」
「はい。分かりました」
扉越しに努めて明るく答えると、彼は軽やかな足取りで階段を降りていく。
タンタンタン。
聞いているだけで落ち着く生活音を聴きながら、同時に私は異変も感じていた。
身体が、鉛のように重い。起きようと思っても、起き上がることが出来ない。
理由はなんとなく分かった。私は、この家に避難出来たことに安堵している。だからこそ、結婚生活で溜め込んだストレスが今になって噴出しているのだと思う。
しかし、それは天堂さんと那津さんに関係のないことである。この家に住まわせてもらう以上、彼らには甘えず自分でどうにか解決しなくてはならない。
首元の汗を拭い、出来るだけゆっくりと深呼吸してみるが、なぜか上手く息が吸えない。
枕元の充電ケーブルからスマートフォンを手繰り寄せる。画面を見ると「百二十九件」とおびただしいLINEの通知が来ていた。
『英ちゃんから聞きました。家を飛び出したって、どういうことですか?』
『何か辛いことでもあったのかしら? 風水の先生に視てもらうのはどう?』
『裸足でご近所を走り回ったそうね。大人として恥ずかしいと思わない?』
いずれも英治の母親からで、深夜も数十分おきにエスカレートした文面が届いていたことに戦慄する。世界中で私だけが取り残された感覚に陥り始めた頃、勢いよく部屋の扉が開いた。
「居候の身で昼まで寝続けるって、結構良い度胸してるよな」
目の前に、首にタオルをかけたパーカー姿の那津さんが立っていた。シャワーを浴びた後のようで、濡れた髪からはシャボンの香りが漂っている。
「……あの、せめて扉、ノックしてくれません?」
突然のことに動揺しながらも、私はさりげなく那津さんに注意する。しかし、彼は少しも動じなかった。
「なぁ。口減らしって言葉、知ってるか?」
「え?」
「生活費を減らすために、子供を奉公に出すこと。家族が少ないほうが、金がかからないじゃん」
「はぁ」
「昨日は可哀想だから、泊まらせてやっただけ。もし役に立たないならアンタを口減らしに出します」
那津さんはウェーブがかかった髪を丁寧にタオルで拭きながら、私を見下ろす。その瞬間、自分が同居一日目にして追い出されそうだと初めて察知した。何か反応したい一方で、どうにも身体が動かない。その代わりに一言だけ、声を振り絞った。
「朝からずっとこんな状態なんです。……自分でも情けなくて」
混乱する状況を精一杯、伝えたつもりだ。しかし、彼は鼻で笑う。まるで美しい顔をした悪魔のようだった。
「状況だけ説明されても、こっちはどうしたら良いか分からないんだけど。アンタさ、自分が悲劇のヒロインにでも、なったつもり?」
哀しみに近い怒りを抱く。まがりなりにも昨夜、私は店の厨房に助っ人として入り、彼らを助けたはずである。馬鹿にされる筋合いはないし、那津さんも喜んでいたではないか。
思い切って、今の状況を話すことにした。夫と暮らす家に強制送還されることも懸念したが、誤魔化していても埒が明かないと思ったのだ。
「すみません。実は朝から、何もやる気が起きなくて。起き上がることさえ億劫なんです」
数秒の沈黙が訪れた後、室内にグーという音が響く。暗澹たる思いに反して、なんと私は盛大に腹を鳴らしてしまったのだ。彼は驚いた表情をしてから、ニヤリと微笑む。
「食欲だけはご立派なようで」
好奇の眼差しを向けられて、羞恥心でいっぱいになる。
「我慢できます。今のは気にしないで下さい」
虚勢をはろうとした瞬間、冷たい水が顔の上にぽたりと一滴、滴り落ちた。彼の顔がすぐ目の前まで迫ってきたのである。
「肌のくすみヤバいし目の下にクマもあるよ。そういう時に大事なのは、栄養補給だろ。しかも、お粥なんて優しいもんじゃダメで、牛肉食べろ、牛肉。牛肉の効能は天才だから。よく髭のおっさんにも食べさせてる」
「はぁ、髭のおっさん、ですか」
「天堂のこと。ま、どんなに辛くても腹は減るんだよな。やっぱ、肉だな。今のアンタに必要なのは」
そう言うと彼は、扉を開けたまま出ていく。
十分ほど経った頃、那津さんは青いエプロンをつけて再びやってきて、私の枕元にランチョンマットと皿を置いた。
「ほら、食いな」
香ばしい香りがする物体を、ナイフとフォークで切り分けてくれる。フォークの先端には光沢のある肉の塊が刺さり、思わず舌舐めずりをしそうになるが、一応、確認した。
「いただいて良いんですか?」
その言葉を聞いた彼は、「おう」と頷きながら意外な行動をとった。なんとランチョンマットの端をつまむと、スーッと床を滑らせて部屋の入り口まで肉の載った皿を遠ざけたのだ。
「へ?」
思わず声にならない声が出る。
「但し、ここまで食いに来られたらな」
彼が何を言っているのか、分からなかった。
「食いたいなら、這ってでも食え」
その瞬間、頭に血が上るのが分かった。これほどまでの辱めを受けて、肉を食べる必要があるのだろうか。
「……あまりにも人権蹂躙じゃないでしょうか?」
「なんでも人がお膳立てしてくれると思ったら、大間違いだよ。最後の一歩は自分で来い」
彼は淡々と呟くと、扉の前であぐらをかく。一連の流れがあまりにも軽やかに行われ、私は呆然としてしまった。
目の前の肉まで、約一メートル。
人としてのプライドを優先するべきか、食欲のために潔く這うべきか。
変わらず私は布団の上で横になっていたが、意を決して深呼吸をし、身体に号令をかける。すると、一気に上半身が上がった。その瞬間、「あっ」と自分でも驚くほど大きな声が出たが、彼はノーリアクションだった。
四つん這いの状態で扉に向かう途中、まるで自分が獲物を狙う獣のように感じる。惨めな気持ちを隠すようにして、目の前の那津さんに声をかけた。
「那津さん。これ、あれですよね?」
「ステークアッシェ。繫ぎを入れない、ハンバーグとステーキの良いとこどりの料理」
その料理を一度だけ作ったことがあった。
——英治と暮らしていた頃、厳しい食事制限を課す彼に対するささやかな抵抗をするため、私は一度だけあの家のキッチンで作ったのだ。ただし、夫が定時よりも早く帰宅してしまったことで結局、ひとくちしか食べられずゴミ箱に捨てるハメになった。
「無事に辿り着きましたけど」
やっとの思いでそう呟き、彼からフォークを受け取ろうとする。しかし、思いがけず彼は直接、私の口まで肉を運んでくれた。その瞬間、肉汁がわずかに顎先に垂れて肉の旨味が口内に広がった。脳天を貫くほど美味しい。
「もう一口、お願いします」
気がつけば私は、図々しい言葉を口走っていた。しかし、意外なことに、そこからの那津さんは笑ったりからかったりせず、大真面目な顔でせっせと肉を口に運んでくれた。
ふと、涙が出た。彼が私の空腹をなおざりにすることなく、美味しい料理を作ってくれたことが嬉しかったのだ。
一方で、「這ってでも食え」という言葉が私の尊厳を崩壊させたのも事実で、彼の優しさと厳しさの狭間で混乱している。歯に衣着せぬ言葉の数々は、今後の暮らしの厳しさを予感させた。
肉の塊を食べながら咽び泣く女の形相は常軌を逸していたに違いないが、背に腹は代えられない。
「ご馳走さまでした」
猛烈な勢いで食べ終えて心から礼を言うと、那津さんは淡々と「お粗末さんでした」と言って後片付けを始める。使った食器を全てキッチンに運び終えると、再び私の部屋にやってきて言った。
「よし、飯も食ったし。とりあえず一度行ってみようか」
てっきり病院に連れて行かれると思い覚悟を決めたが、彼は意外な場所を告げた。
◆
那津さんは仲間達とダンスレッスンを行うので駅前のスタジオに一緒に行ってみないかと私を誘ってきた。
私はTシャツに短パンというラフな出で立ちのため、この状態で外出は厳しいと思い断ったが、彼は返事を聞いても尚「俺らの踊りを見たら驚くぞ~♪」と小躍りして、私を連れていく気満々だった。
強引な態度に呆気にとられるうちに、彼は「着替える」と言って寝室から去ってしまう。残された私は立ち上がろうと試みたが、そこまではまだ自由に身体が動かなかった。
しばらくすると、Tシャツとカーゴパンツに着替えた那津さんがやって来て告げた。
「じゃあ行くぞ」
彼は、ごく自然におんぶの姿勢をとる。
「いや、いいです。さすがに重くて無理だと思います」
突然のことに動揺するが、彼はきょとんとした表情で私を見つめる。
「無理かどうかは聞いてない。俺達のダンスを見たいの? 見たくないの? さっきから言ってるじゃん。悲劇のヒロインじゃあるまいし、人任せにしないで自分の頭で考えなよ」
随分な物言いだった。しかし、悔しいことに何かが的確に突き刺さる。私は観念して本音を告げた。
「どちらかというと、行きたいです。でも……」
彼は言葉尻を待たず「OK」と言うと、再びこちらに背中を向ける。私はつい勢いで、身を委ねることにした。いざ乗ると、その身体は華奢な見た目に反して、しっかり背筋がついており安定感が凄い。彼は抜群の体幹で階段を降りると、玄関でサンダルを履かせてくれた。
「これだけ持ってくれる?」
出掛ける直前、那津さんはやや大きいサイズの赤い巾着袋を私に渡した。重みがあるが、中身までは分からない。
外に出ると太陽の光が眩しく、周辺には閑静な住宅街が広がっていた。
「もしもギブアップしたい時は、遠慮なく置き去りにしてください」
躊躇いながら那津さんに声をかけるが、彼は「そんなことはしない」とキッパリ言って闊歩を続ける。
その後、交差点で信号待ちをしていると、居合わせた二十代半ばと思しき二人組の女性がヒソヒソと何やら呟いていた。
「男におんぶさせる女って、メンヘラ感、凄くない?」
「やめなよ。聞こえるって」
さりげなく陰口を言われ、顔から火が出そうになる。次の瞬間、さらに驚いた。那津さんは声の聞こえた方向に自ら進んでいくと、笑顔でこう宣言したのだ。
「俺でよければ、あんたらのことも、いつでもおんぶしてやるよ。すぐそこの『Maison de Paradise』って店に来てもらえれば」
女性達は呆気にとられたような表情をすると、その場から立ち去っていく。臆することなく彼が店の名前を出したことに驚いたが、私を守ろうとしてくれた気持ちは伝わってきた。
駅を通り過ぎ、コーヒーショップのテナントが入るビルの地下に降りようとすると、今度は男性の声がした。
「あらやだ! 那津。アンタ、今日は随分と大きな荷物を背負ってるのね」
那津さんの肩越しに、白いタンクトップを着た男性がこちらを覗いているのが見えた。頭髪は鮮やかなピンク色で、つぶらな瞳と長いまつ毛、赤縁の眼鏡が印象的だった。
再び恥ずかしさで顔が熱くなるが、ここでも那津さんはピシャッと言った。
「悪いけど事情がある。この人だって、好きで俺におぶわれているわけじゃない」
「よく分からないけど大変なのね。まぁ、そういう時もあるわよね。人間だもの」
「そうだよ。ジェイだって男と別れた時、泥酔してウチの店でハイヒール俺にぶつけ……」
「ちょっと、あんた。これ以上、言ったらぶっ飛ばすわよ」
食い気味に言うと、男性は那津さんの肩を小突いて立ち去る。
「あいつは、ジェイ。普段はスタイリストやってる。よくウチの店にも来るよ」
那津さんは男性との応酬をなんでもないとでも言うように説明すると、再び歩き始めた。
地下一階に到着すると「STUDIO SINFONIA」と書かれた受付があり、向かって右側に「STUDIO A」と書かれた扉があった。その扉を開けると壁一面に鏡が設置され、天井の立派な照明によりフローリングは光り輝き、まるでステージのような空間が広がっている。
「はい、到着。アンタ、重いけど良い筋トレになったわ」
那津さんはスタジオの隅に私を降ろすと、私の手から巾着袋をもぎ取って床に置く。その額には汗が滲んでおり、私は心底申し訳ない気持ちになった。
数分間のうちに、続々と男性がやってきた。チャイナ帽を被りサングラスをかけた男性や、腕に大きな龍のタトゥーが彫られた男性もいて、実に個性豊かな面々である。一見すると、男性ファッション誌のモデル達が一堂に会しているように見えた。
新しいメンバーが入ってくるたび、那津さんは嬉しそうにハイタッチをする。途中、ビルの入り口ですれ違ったジェイという男性もやってきたので会釈をすると、彼はウインクを返してくれたので、妙に照れた。
時計の針が二時を指した頃、八人の大柄な男性が部屋の中央に集合した。それまで開脚ストレッチをしていた那津さんは、パンパンと手を鳴らして大きな声で告げる。
「今日は見学者がいます。俺らの店で今度から働いてくれることになった、白石葉さん。よろしく」
まさか自分に注目が集まるとは思わず驚いたが、小さく頭を下げる。皆一様に「オーディエンスがいると盛り上がるなぁ」などと言って、拍手や口笛をくれる。
その後、百九十センチはありそうな一番大柄な男性が立ち上がって「早速やりましょうか」と呟いたのを機に、皆一斉に壁際に向かった。
各々、色違いの巾着袋から中身を取り出すと、そこには揃いのショートブーツが入っている。——これだけ高いヒールを履きながら、息を合わせて踊るなんて、無理に決まってる。
そう思った。しかし、彼らは器用に鏡でポーズを決め、スクワットをしたり屈伸をしたりしている。まるで、こんなことは朝飯前とでも言うように。
彼らはゆっくりと中央に集まると円陣を組み、那津さんが「We are」と叫ぶ。残り七人も、「Alan Smithee!」と言葉を続けた。
「悪いけど再生ボタン頼む」
那津さんはカーゴパンツのポケットからMP3プレーヤーを取り出すと、床の上に滑らせてこちらに渡す。液晶画面には『Emotions/Mariah Carey』と表示されていた。
言われるがまま再生ボタンを押して音楽が流れると、一気にダンサー達の瞳が輝き出す。冒頭はフリースタイルのようで、片足を高く上げ空中で弧を描く人もいれば、地面を這うようにして髪を振り乱す人もいた。
中心は那津さんで、彼は両サイドの髪をかき上げて微笑むと、大胆に三回転する。センターらしい見事な貫禄だった。
彼らはサビに向けて体をピタリと寄せ合い、M字開脚をして腰を反らせる。その表情からは華やかさだけではなく切なさも感じられて、曲が進むにつれて一層、目が離せない。
八人は天真爛漫な少女のようでもあり、時には恋に苦しむ大人の女性にも見えたが、どのタイミングも決して体幹はブレず素人目にも分かるほど高いパフォーマンス技術があった。
あっという間に踊り終えると、彼らは気持ちよさそうに床に倒れ込む。圧倒されるあまり私は拍手をすることすら出来ずにいたが、ジェイさんはその姿を見逃さなかった。
「見て! 私達のダンスに固まっちゃってるわよ」
そう言って私を指差すと、皆一斉にこちらに視線を向け、子供のように無邪気に笑った。
◆
帰り道、再び那津さんがおんぶの姿勢をとった。
しかし、どうしても自分で歩きたかった私は、ゆっくりと足を引きずり、那津さんの肩を借りながら家に帰った。
興奮冷めやらず、今日のダンスについて根掘り葉掘り聞くと、彼は得意げに色々なことを教えてくれた。
例えばあのメンバーは、それぞれ別の仕事に就いているが、ダンス業界ではそれなりに有名な「アラン・スミシー」というアメリカン・ストリート・ジャズのユニットを組んでいて、時々大規模なステージに立ったりストリートパフォーマンスをしたりしているということ。
彼らがヒールを履き踊るようになったのは、フランスの振付師、ヤニス・マーシャル氏のダンスを那津さんが数年前にニューヨークで見て圧倒されたことがきっかけだということ。この人こそ、ハイヒールダンスの生みの親らしい。いずれも私の知らない世界の話ばかりで、思わず聞き入ってしまう。
居候の身で何もしないことが心苦しく、私は不要になったタオルを彼から貰って二階部分の床掃除をしたり、インテリア用品を磨いたりして話を聞いていた。
今朝と別人のようにハイテンションな私を諌めるでもなく、那津さんはソファーでゆったりと寛いでいる。そのリラックスした表情を見ながら、もし弟がいたらこんな感じなのかな、と思った。
その瞬間、彼は私の表情を覗き込み、「今、俺を弟みたいだって思っただろ」と言った。
「那津さんって、人の心が読める特殊な能力をお持ちなんですね」
驚いて頷くと、彼は苦笑しながら言葉を続けた。
「アンタって、自分が思っている以上に感情が顔に出てるよ」
「え?」
「それは今朝、話している時に気づいた。でも、昨日は気づかなかった」
「昨晩はピンチヒッターでお店の助っ人もして、忙しかったですもんね」
「そういうことじゃなくて」
那津さんはテーブルに置いた牛乳を一口飲むと、少し考えるように言った。
「今まで押し殺してただけで、感情が表に出やすいタイプなんだろうな。本当は人並みにずるいくせに、『私は虫も殺しません』って顔はしないほうがいいぞ。人によっては見抜くし、鼻につくから」
少しでも彼に気を許した自分が馬鹿だった。すかさず私は、ピエロになる。
「……ははは。たしかに! 那津さんって凄いですね。人の分析まで出来るんですね」
「今の言葉も、本音はこうだろう?『こんなガキに私の気持ちの何が分かるの』って」
図星だった。醜い感情を露わにされて、苦々しい気持ちでいっぱいになる。
「ひとつだけ覚えていて欲しいんだけど、俺、上辺だけの言葉って本当に嫌いなのね」
「……はぁ」
「今日、アンタにステークアッシェを焼いたことも、ダンスレッスンに連れて行ったことも全部、俺がやりたくてやったこと」
「すごく感謝しています」
「感謝の言葉は要らない」
毅然と言い切る彼の表情は、どこか天堂さんに似ていた。やはり恋人同士は、顔も似てくるのだろうか。
「じゃあ、私はなんて言えば良いのでしょうか」
混乱した。お願いだから、この微妙な空気感から解放してほしいと願った。
「嫌なことは『嫌だ』って言え。あと、頼りたい時は『頼りたい』って言え。この家にいる以上、俺や天堂から嫌われるかもって顔色を窺うことは一切しないで欲しい。上目遣いでこっちの機嫌をビクビク窺ってるのモロバレだし、無性に腹が立つから」
「いや、それは無理ですね」
自分でも驚くほど大きな声で反論した。
「なんで出会ったばかりの人に、何もかも否定されなきゃいけないんですか? 穏やかに生きていくために、人に気を遣って、感情を無にして生きるほうが楽な人間だっているんですよ」
言いながら私は、涙が出た。しかし、涙の要因は那津さんに対する怒りだけではないことに気づいていた。——この涙は、何もかも思うようにいかないことに対する自分への憤りの表れだ。
静寂に包まれる。窓辺から夕陽が射し込み、部屋の中を寂しく照らしていた。
その時、私のスマートフォンが震えた。涙を拭い着信相手を見ると、「松田さん」と表示されている。ちょっとすみません、一応出ます、と那津さんに断りを入れて急いで電話に出た。第一声で「白石さん、大変なことになってる」と神妙な声が聞こえてくる。
「……ご心配をおかけしています」
努めて冷静に応答すると、彼女は「あなた今、どこにいるの?」と問う。
瞬時に〝おかのやのおかずをくれた優しい松田さん〟を思い浮かべたが、英治と繫がっている可能性も否定出来ないと思い、念のため用心した。
「詳しくは言えませんが、友人の家に居候させてもらっています」
「良かった。あなたのことを誰かに密告することはないから、安心して。それよりも……」
ふと那津さんに目をやると、ソファーでスナック菓子を食べながら、本に目を落としている。絶妙に興味を持たれていない感じが、ありがたかった。
「英治くんのご両親がうちに来て、あなたの居場所を知らないかって恐ろしい形相で聞いてきたの。うちだけじゃなくてご近所中、捜してるみたい。警察に届けたりはしていないと思うんだけど」
「そうですか。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません」
お詫びの言葉を口にすると、彼女は興奮気味に言った。
「あと、もうひとつ伝えないといけないことがあるの。今ご近所のあいだで、あなたのことが好き勝手に噂されてる。旦那さんに暴力を振るったらしいとか、裸足で街を歩いて村田屋で無銭飲食をしていたらしいとか」
「へぇ」
他人事のような言葉しか返すことが出来ない。
「白石さんのことだから、何か理由あってのことだと思うんだけど……」と彼女は気遣ってくれたが、余計なお世話だった。私は一刻も早く、電話を切りたかった。
松田さん、あなたに出来ることは何もありません。彼女を傷つけることなく、その事実をやんわり伝えることが出来れば、どれだけ気が楽になるだろう。
「ご心配をおかけしますが、夫や、夫の両親には何も言わないでもらえると助かります」
それだけ伝えると、私はやや一方的に電話を切る。切ったそばから、放心状態になった。
「なぁ。ちょっとこっち来て。暇潰しに付き合って」
その時、なぜか読書をしていたはずの那津さんが立ち上がり、自らの寝室らしき部屋の扉を開け私を中へと促した。
彼らのプライベート空間に足を踏み入れるのは、躊躇われる。しかし、那津さんより一歩下がった形で扉のほうに進むと、そこには小さな森が広がっていた。
◆
木製の窓枠にはアマリリスをはじめとした花が、幾つもポットに入れて飾られている。天井から吊り下げられた真鍮のペンダントライトは温かい光を放ち、天蓋付きベッドには蔓が巻き付いていた。
「……寝室っていうか、ジャングル?」
思わず私が感想を述べると、彼は笑いながら「俺も髭のおじさんも、植物に目がないのよ。でも、あっちもこっちも飾るとキリがないし、枯らさないように管理するのも大変だから。せめて、寝る場所くらい好きな花で埋め尽くそうと思って」と言って、窓辺のミニバラに霧吹きで水をやる。
那津さんは壁際のスタイリングチェアに私を招くと、あっという間に身体にクロスを装着させる。それから、朝からヘアセットもせずに乱れていた髪をポニーテールにしてくれたので驚いた。
目の前のドレッサーの上を見ると数々のスキンケア用品が置かれ、その脇には色とりどりのチークやアイシャドウ、フェイスパウダーやリップが並んでいる。
「ちょっと顔、いじっても良い?」
彼は、まじまじと私の肌を見つめる。その顔は今朝「牛肉の効能は天才だから」と言った時と全く同じく、好奇心に満ち溢れていた。
思わず「はぁ」と頷いてしまい、自分の顔を鏡越しに眺める。口角が下がり、くっきりとほうれい線が刻まれていた。
目を背けたくなる。夫の好みに合うように媚びた、上辺だけのメイクは上手くなったつもりでいた。しかし今、鏡に晒された素顔は疲れ切っており、中身が空っぽである。
「これまで化粧品で肌が荒れたこと、ないよな?」
こちらの返事を待たずして、彼はヘアクリップで私の前髪を留め、化粧水を染み込ませたコットンでフェイスラインを拭く。想定外の状況に混乱しながらも、かろうじて頷いた。
私の戸惑いを察したのか、彼は「これ見て」とハガキほどのサイズの写真立てを渡してくる。額にはアラン・スミシーのメンバーが黒いライダースジャケットを着てステージで踊る写真が入っていた。
「この時は全員、俺メイク」
「……凄い。魔法みたいです。っていうか、那津さんはどこでメイクを覚えたんですか?」
興奮する私を前に、彼は淡々と告げる。
「俺は元美容師。これでも一応、元カリスマ。メイクもヘアも両方出来る」
「え?」
「昔のことだけどな。まぁ、人のことはいいのよ。それよりも葉、おまえスキンケア普段からサボってんじゃねぇ。バレてるぞ。小鼻の黒ずみも、唇の乾燥もやばいことになってる」
彼は鏡越しに、軽蔑した表情で私を見つめる。再び呼び捨てにされて、どきりとした。
「すみません。化粧品を買う時は夫の許可が必要だったので、最近は買うのが面倒でケアを怠っていたように思います」
事実を伝えたつもりだが、那津さんは「ひどいな」と言って、ぷっと吹き出す。「不謹慎です」と私は反撃したが、彼の笑いは止まらない。
これまでの人生を笑われている気がして憤りを感じたが、屈託なく笑われると全ての悩みが束の間ちっぽけに思えて、自分でも可笑しくなってしまう。
そのままブラシで、透明なリップグロスを塗られる。瞬時にピリッとした刺激が皮膚表面を走り、「痛っ」と言ってしまった。
「縦ジワが凄いから、カプサイシン入りのプランパーを塗った。ちょっと染みるぞ」
彼は少しも動じない。
「プランパー?」
「そう。グロスとよく似てるけど、こっちは美容液。唐辛子の力で温まって唇の血色が良くなるし、要らん皮が剝けて明るい印象になる」
「はぁ」
しばらく時間が経つと、たしかに口元が温まり、ほんのりと蒸気に蒸されたような色合いになった。私は初めての体験に緊張して、「本当に大丈夫ですよね? この痛み」と念を押したが、彼は「唇がピリついたくらいで死なない」と言うに留まる。答えになっていない。
徐々に唇の表面に浮き上がる皮をティッシュで拭き取りながら、彼は言う。
「昨日、店に入ってきたアンタの顔見た時、似合わないメイクしてんなぁと思った」
「着のみ着のまま逃げ出して来たので、ほぼメイクは落ちていたはずですけど……」
「どれだけ崩れていても、なんとなく普段の様子は分かるだろ」
「……はぁ」
「昨日のアンタは、ヤバかった。瞳は曇りまくってて、異様な雰囲気で、ヤベェ奴が来たなと思った。ったく、よくも天堂はこんな謎の女を助けたなって」
彼は大きな手のひらで、先ほど顔に染み込ませた化粧水をハンドプレスする。そのままクリームを手に取ると肌全体に馴染ませ、勢い良くフェイスマッサージを始めた。
瞬く間に頰の位置が上がり、目の下のクマが薄くなる。さらに彼が両手の拳を使って私のこめかみをグリグリと揉み始めると、数秒も経たないうちに目元がすっきりした印象になった。
「拳で押されると痛いだろ。長年溜まった、老廃物のせいだよ」
彼は少しも力を抜かずに、強いマッサージを続ける。「謎の女」と揶揄されて心外だったが、じりじりと鈍い痛みを感じて反論することが出来なかった。
そのまま唇に目をやると、プランパーの効果が現れているのかツヤが出始め、何も塗っていないのに桜色に色づき始めている。それだけで、かなり若々しく見えた。
「たかが唇で、これだけ変わるんですね」
ぽろりと本音を口にすると、呆れた様子で那津さんは言った。
「たかがって……。あのな、日本人は恥ずかしがり屋で、目元を見ない人が多いの。とくに多くの男は無意識に女性の唇を見るから、縦ジワは婚活で死活問題だぞ」
「……あの、離婚を希望しているとはいえ、一応まだ夫がいる身なので」
「今の相手と別れたら、また恋をするかもしれないだろ? 人生、何があるか分からないんだから」
「はぁ。恋、ですか」
その単語を、久しぶりに聞いた気がした。今の私は恋愛どころか、生きていくことだけで精一杯である。彼は本気で言っているのだろうか。
下地とファンデーションが塗られ、目のキワと小鼻周りにコンシーラーが乗せられていく。華奢なブラシでフェイスパウダーがサッと重ねられた瞬間、陶器のように滑らかな肌が完成して思わず息を呑んだが、彼は黙々とメイクを続けた。
「今度は目の錯覚を利用して、顔の中心に光を集めるからな。良いか? 見てろ」
彼はコンパクトに入ったハイライトパウダーを指の腹に乗せ、両眼の目頭、鼻の付け根と頭、それから唇の中央に乗せていく。それだけで顔の中央に光が宿り、瞳の奥が輝き出したので驚いてしまった。
プラムカラーのチークやバイオレットのアイシャドウなど、普段ならば縁のない華やかな化粧品が続々と乗せられ、まるで美しい絵画を顔に描かれているような気持ちになる。
アイシャドウパレットの蓋がカチッと閉まる音や、ブラシの擦れる音を聞いているうちに、リラックスのあまり、うたた寝をしそうになった。
ホワイトローズの香りがするミストを髪に吹きかけられ、ブローが始まった瞬間、いよいよ私は眠りに落ちた。目を瞑ると束の間、自分が少女の頃に戻ったような気持ちになる。
「おい、起きろ。完成した」
その声で眠気が吹き飛び、急いで鏡を見る。そこには、幸福そうな顔の自分がいた。昨夜、一文無しで逃げ出した人間とはとても思えない、たっぷりと潤いを含んだ仕上がりだった。
感想を述べる暇もなく、部屋の扉がノックされる。
「ただいま。二人共、ここにいるの? 開けても良いかな?」
天堂さんの声だった。返事の代わりに、「おう。開けていいぞ」と那津さんが言うと、ゆっくりと扉が開く。
「アメージング!」
変身を遂げた私の姿を見て、天堂さんは驚いたように拍手喝采した。
「ちょっと、素晴らしいじゃない。まるで『ロシュフォールの恋人たち』に出てくる当時のカトリーヌ・ドヌーブみたいだよ」
思いがけず褒められ居心地の悪さを感じた私は、「でも、一時的な魔法にすぎませんから」と卑下してしまう。言ったそばから那津さんに悪いことを言ってしまったと思ったが、彼はメイク用品を片付けながら、さも当然のように言った。
「よく分かってんじゃん。でも、魔法だってかけ続けるうちに本物になるから、バカに出来ないぞ」
返す言葉を探していると、天堂さんがジャケットを脱ぎながら言った。
「そうそう。人は意外なほど簡単に、魔法に騙されてしまう生き物だからね」
言われてみれば、その通りだと思った。
英治の会社の後輩達は、〝あの家〟にやって来るたび、夫好みに化粧して料理でもてなす私を見て「女性らしい」とか「献身的」とか、「従順」という言葉で褒め称えた。それも私本人ではなく、英治を。
心の中で私は、「彼らは英治に気に入られるために妻を褒めて、煽てている」と知っていた。
その証拠に彼らは、私のいないところで英治に社内不倫を唆していた。相手は彼の直属の部下で、女性のほうも満更ではなかったらしい。一度だけ私のもとを訪ねてきたことがあった。
「旦那さんと別れて下さい。私、本気なんです。会社の皆も私の味方です」とドラマのようなことを言われた時、私は自分の心の内側に怒りも哀しみもないことに気づき、仕方なく英治の母親にだけ真実を話し、幾らかの手切金を工面してもらった。
英治は少しもそれに気づかず、その後も妻が褒められるたび、自分の持ち物が褒められたように喜んでいた。
以来、私は何かを失ったような気持ちになりながら、それらの言葉を甘受したふりをしていた。本当は、どれだけ褒められても何ひとつ嬉しくなかったけれど。
天堂さんは微笑みながら伸びをすると、「さぁ、今日も一日、よく頑張りました。三人で夕飯を食べましょう。今夜は出来合いのお惣菜を買ってきました」と言って、部屋から去っていく。
その後ろ姿を見ながら、「でも、今の天堂さんの言葉はそういうのとは違ったな」と思った。
アメージングという褒め方は斬新だが、彼は心から私を賞賛し、惜しみない拍手をくれた。
自分でも今の私を少しだけ褒めてみたくて、鏡を見る。すると、次の瞬間、室内にグーという音が響いた。私の、腹の音だった。
この家に来てからというもの、歩けなくなったり、すぐに腹を鳴らしたりしてしまう身体のことが憎くて堪らない。あの家にいた時は、コントロールすることが出来ていたのに。
慌てて那津さんを見ると、彼は「身体って賢いよな」と言って、可笑しそうに微笑んだ。
◆
食卓で夕食をとりながら、天堂さんは私に言った。
「しばらくお店や僕らのことは気にせず、ゆっくり休んで」
今朝、夢でうなされる私の声を聞いた時から決めていたのか。それとも今日の私の有様を、那津さんから報告されていたのだろうか。いずれにせよ、突然の提案に戸惑う。
思考が停止する私を横目に、那津さんは焼売を口に放り込んで言った。
「提案したのは俺じゃねぇよ。髭のおっさんの独断」
隣に座る天堂さんは、茄子の煮浸しを食べながら「そう」と言ってニッコリ頷く。
——私以外に、都合の良い働き手が見つかってしまったのではないか。
最悪なパターンが脳裏をよぎり、弱い自分を呪った。しかし、意外な言葉が返ってきた。
「安心して。大丈夫ですよ。っていうか本来、僕らが大丈夫にしないといけなかったんだ。今回、白石さんがウチの店に入ってくれたのが良い機会です」
そう言うと彼は、美味しそうに白米を頰張る。
近所の惣菜屋で買ったという焼売と茄子の煮浸し、そして那津さんが急いで作ってくれた豚汁、炊きたての白米。夕食のラインナップは最高だったが、私は先ほどまでの食欲が噓のように失せてしまい、天堂さんの次の言葉を待った。
「Maison de Paradiseって、どういう意味か知っていますか?」
「いえ」
「知らなくて当然ですよ。直訳すると『天国の建物』という意味合いですが、フランス語と英語が混ざっているし、僕が作った造語ですから」
「……良い言葉だと思います」
「人間は生きていると大変なことばかりですが、この店にいるあいだだけは、せめて楽園で過ごしているような気持ちでいてほしい。そんな気持ちで付けました。だから、このお店はお酒が飲めなくても気軽に来ていただいて構わないし、飲み会の席が不得意な人が一人でも立ち寄れるように心がけているんだ。それがウチの店のコンセプトです」
その瞬間、躊躇なく会話に那津さんが割り込んできた。
「あのさ、ダラダラ長い話はいいから。葉、あんまりこのおっさんの話、真面目に聞かないで良いからね」
たしかに私も店名の由来など聞いている心の余裕がなく、心の中でこっそりと那津さんに同意した。
天堂さんは「ここからが本題じゃないか」と拗ねたように言うと、茶碗と箸、使った皿をキッチンのシンクに運び食事を終える。そのままテーブルの奥のランプが置かれたソファースペースに進み、コーナーラックで足を止めた。
たくさんの洋書が置かれたその中に、トランプほどの大きさのカードの束と、ベルベット地の青い布、手のひらほどの水晶と音叉がセットで飾られている。
彼はそれらを手に取ってローテーブルに向かい、布を広げた机の上でカードをシャッフルし始めた。想定外の出来事に驚くが、なぜかその姿に見入ってしまう。
その後、カードをひとつの山にまとめると水晶を手にして、音叉をあててキーンと鳴らす。その神聖な音は、まるで辺り一帯を清めているかのようだった。
「さて、白石さんにとって今の一番の悩みって何だろう」
思わず私は食卓から立ち上がり、天堂さんのもとに向かう。
「これって占いですよね? 一番の悩みは仕事です。いや、離婚出来るかどうかでしょうか。いや、家を飛び出して無一文になったこと。今後の経済的な不安。総じて、人生全般でしょうか」
「OK。タロットの場合、悩みが具体的なほうが方向を示しやすいんだけど、まずはカードに聞いてみよう」
彼は微笑みながら、カードの山を整える。それから右手で一気にその山を崩しつつ扇状に広げて、私の瞳を見つめた。
「この中から、直感でピンとくるカードを一枚だけ選んで」
おそるおそる手前のカードを抜き取ると、剣で戦う戦士のイラストと共に英字で「ナイト・オブ・ソード」と書かれている。逆さまで不穏だった。天堂さんはそれを私から受け取ると、じっくりと眺めて「うん、うん。なるほど」と何やら一人で頷いている。
「ちょっと焦ってる状態かな。周囲に余計なお世話をしてくる人もいるみたい。でも、動揺するあまり先を急いではいけないよ。自分の思い通りに物事が進まなくて混乱しても、今は人生の速度を落としたほうが良いみたい。今後の目的をゆっくりと見つけるためにも」
彼は左手の親指をパチンパチンとスナップさせながら、斜め上空をぼんやりと見つめる。
まるでカメラのアングルを切り替えているように見えて、上空のスクリーンに広がる自分の運命を彼に覗かれている気分だった。
「アドバイスも引いておこうか。追加で一枚引いてくれるかい?」
言われた通りピンときたものを抜き出して渡すと、天堂さんはそのカードを見つめて盛大に笑う。まるでカードではなく、得体の知れない生き物と対話をしているみたいだった。
「自分のことを純粋に好きだった時のことを思い出しなさい。あなたは魅力的な人なのに、ってカードが怒ってるね。『シックス・オブ・カップス』。もっと自己肯定感が必要です、って。まあ、ピンとこなければ占いなんて信じなくて良いのよ。生年月日と生まれた時間、出生地を教えてくれれば、もっと細かく見ることも出来るんだけれど」
突然始まった〝ショー〟に私は呆然としたが、読みはあながち的外れにも思えない。占ってもらう前より少しだけ肩が軽くなったような、なんとなく迷いの森から抜け出すヒントをもらえた気分になった。
「さぁ、おしまい。今のは、いわば普段、僕が行っている鑑定のパイロット版です」
そう言うと彼は、テキパキと布やカードを元の場所に戻してしまう。その後、食卓に戻ると「そんなわけで僕はタロットと占星術、那津はメイクレッスンを武器に、この店を回せるの。那津は元々プロだけど、僕なんかは趣味だったんだけどねぇ」と言って、いたずらっぽく微笑んだ。
あまりにも意外な「Maison de Paradise」の裏の顔に、私は彼の言っていることがすぐには理解出来なかった。
「飲食店として繁盛しているし、それだけで充分じゃないですか」
食卓の椅子に戻りながら私は、つい率直な疑問を口にしてしまう。しかし、天堂さんは穏やかに微笑みながら言った。
「この資本主義経済の中で、わざわざ人に手料理を作ったり、星読みをしたり、カードを捲ったり、メイクをしたり、そういう手間のかかる場所があっても良いと思うんだ。お客様の抱える孤独が一ミリでも解消されるような、そんな居場所を僕らは作りたいんだよ。派手に儲からなくても良いんだ。お金なら幸い、本業で充分に稼げているからね」
「ドヤ顔すんな」とキッチンのシンクで食器を洗う那津さんから野次が飛ぶが、天堂さんは動じない。
「とにかく、これを機に那津のメイクレッスン枠を増やしたり、週末は僕の占いのボリュームを増やしたりして店を回します。元々やっていたことだけれど、近頃は飲食店経営のほうばかりに集中してしまっていました。お世話になっていた料理人が抜けてしまったので」
この店での輝かしいキャリアを思い描いていた私は、途方に暮れる。
天堂さんから見て私は、まだ店を任せられないということなのだろう。正直、自分でも今の状況では彼らの役に立てることが何もないと思う。
彼は、そんな私の気持ちを察したように言う。
「バイト代を払うから、僕らの仕事を手伝ってくれないかな? もちろん無理は禁物だよ」
穏やかな口調で私を諭す天堂さんを前に、返答に迷う。振り絞るように「でも、私には料理しか取り柄がありません」と訴えたが、彼は毅然とした口調で言った。
「日常生活をもっと豊かに過ごせたら、料理に必ず良い影響があると思うよ。これは最短ルートで白石さんが自分を取り戻すための提案です。もちろん、選択権は君にあるけどね」
その後、いつの間にか全ての食器を洗ってくれていた那津さんが、パタパタと走って私達のもとにやってきた。
天堂さんは「洗ってくれてありがとう」と言うと、愛おしそうに恋人の額にキスをする。
すでに、私の脳内はパンク寸前だった。しかし、かろうじて深呼吸をして今までの人生を振り返る。すると、もう長いあいだ日常生活を豊かに感じたことなど無かったことに気がついた。
豊かさよりも日々、英治に傷つけられないように出来るだけぼんやりと生きることで自分の身を守ることに必死だったのだ。
目の前で食後のワインを飲む天堂さんと那津さんを見ながら、私もこの二人のように人生を謳歌してみたい、人として強くなりたい、変わりたいと強く思い始めた。
◆
翌日から、本当の意味で新生活が始まった。
那津さんのメイクレッスンは平日の日中開催が殆どだが、常連のお客さんを中心に大繁盛した。
この店ではSNSで告知をしたり、チラシをポスティングしたりと、大々的な宣伝をせずとも全く問題がなかった。ただ店頭に「那津、来週よりメイクレッスン再開致し〼希望者は電話予約にて」と天堂さんが簡素なチラシを貼っただけで、翌日から予約が殺到したのだ。
私は彼のアシスタントとして申し込みを受け付けたり、レッスンに必要なアイテムを駅前の薬局に買い出しに行ったりして、朝は早く起き、夜も早く眠る生活を送るようになった。
最初は緊張の面持ちで電話番をしていたが、次第にアルバイトの私よりもお客さんのほうがよほど切迫した状況にあることに気付いてからは、わずかに気持ちが楽になった。
「失恋した男性を見返したい」とか、「婚活パーティーに行くので助けてほしい」とか、申し込みの理由は実に様々だった。
レッスンは貸切制で、お客さんの悩みに沿ったテーマで進行していく。費用は一回五千円。
二時間みっちりと技術が伝授されるだけではなく、半永久的に使えるテクニックが惜しみなく与えられることを思えば、かなり安い金額設定だと思った。
あっという間に一ヶ月先まで予約が埋まってしまったことに驚愕したが、那津さん本人は実に落ち着いている。
「時々、ほんとに困ってる人から緊急で連絡来るから、スケジュールには余裕をもって」
それだけが唯一彼の要望で、それ以外のことでとやかく言われることは殆ど無かった。
実際にある夜、「明後日、三十年連れ添った夫と離婚するの。最後に綺麗な私を見せたいから、助けてくれる?」と常連と思しき女性から鬼気迫る電話がきて戦慄したこともある。
躊躇いながら寝室で眠る那津さんを起こし、どうするべきか確認したところ「助けてあげるか」と一言だけ発し再び寝息を立てたので、どうにか翌日の枠にねじ込んだ。
週末の、天堂さんの占いも好評だった。
こちらもメイクレッスンと同時に店頭で再開を告知すると、すぐに予約が入り始めた。
ただし、こちらの枠は天堂さんの仕事の休みに合わせて土日祝日に限られている。「じっくり一人と向き合いたい」という彼の意向で多くの予約は取らず、基本的に一日二枠、多い時でも三枠というところだった。
彼の占いは、少し特殊だった。鑑定料としての決まった金額は受け取らない。「お気持ち代」をお客さんからいただくだけで、その額はいくらでも良い。
その分、鑑定後にお客さんの喉が渇いたり空腹を感じたりしたら、ドリンクや軽食などを注文することが推奨され、天堂さんが厨房でさっと作って提供する。
多くのお客さんは天堂さんとアフタートークをしたがるので、基本的にはその流れとなり、この時に正規の飲食代が支払われるために、かろうじてビジネスとして成立していた。
「まるで、迷える子羊たちの教祖みたい」
神妙な顔で来店したお客さんを二階に案内してお茶を出したり、クッキーを出したりするたびに、私はそう思った。
客層は八割が三十代女性で、私から見れば皆、いかにも仕事や恋愛で充実していそうな人ばかりだった。靴や鞄、洋服もセンスが良く、髪にもツヤがあり、羨ましいとさえ思った。しかし、そんな人でも何かしら人に言えない悩みがあるのだ。
ある日、会計を行うため私が二階に上がると、微笑みの中にどこか凄みを感じさせる天堂さんと、泣き腫らした三十代前半と思しき女性が無言で向かい合っていたこともある。
「……でも私、どうしても彼と別れたくないんです」
か細い声で天堂さんに許しを乞うような、切実に訴えかけるような、そんな様子だった。
しかし、天堂さんは引きずられなかった。それどころか、慰めたり優しい言葉をかけたりすることさえ、なかった。
そんな時、私は不思議に思った。彼は一体どのようなアドバイスをしているのかと、心底気になった。
お客さんの具体的な相談内容を私から尋ねることはないが、電話予約の際、自ら「夫の親友と不倫してて」とか「八人の男性と付き合ってるけど、全員、身体の相性が合わなくて」とか、ヘビーなことを打ち明けてくる人もいた。
そのたびに私は平静を装い「ご相談内容は、天堂に直接お伝えいただければ結構ですよ」と繰り返したが、内心では震えていた。
ある時、どうしても気になって尋ねた。
「天堂さん。倫理観やモラル的に色々と厳しい問題って、どうやってアドバイスをしているんですか?」
やや遠回しな聞き方をすると、彼はきょとんとした表情で言った。
「たとえば?」
「……たとえば先日、電話で予約をいただいた際『八人の男性と付き合っているけど身体の相性が合わない』という女性がいらっしゃいました」
「あはは。お盛んで結構なことじゃない」
「え? 驚きませんか? 同時に八人ですよ?」
意外な返答に、私は驚いてしまった。もっと真面目なトーンで返ってくると思ったのだ。
「その方は、常連の麻子さんだね。本人が隠していないようだから言うけれど、裕福な男性と結婚して経済的には幸せだけれど、旦那さんの身体に障害があって肉体的な触れ合いはもう何年もない方です。新しい彼が出来るたびに、僕の占いに来てくれる。クレバーで、とてもチャーミングな方だよ」
なんでもないとでもいうように彼が言うので、自分の中の倫理観が音を立てて崩れていくような気がした。黙り込んでいると、彼は言った。
「僕は占いが出来るおじさんであって、お悩み解決屋さんじゃないからね。パートナーシップや不倫の問題については、自分の感情でアドバイスしたことはないよ」
「と、言いますと?」
「占いで、ちゃんと吉凶を出すことに徹する。良い結果が出ればそれを言うし、良くない結果が出たら、ハッキリそれを言う。ただそれだけだね」
「……でも、それでは納得しない人もいるんじゃないでしょうか? 恋愛の熱に浮かされていると、心ではダメだって分かっていても自分を正当化してしまう女性もいるでしょう」
私はいつか「旦那さんと別れて下さい。私、本気なんです」と言ってきた英治の不倫相手の女性の顔を思い出していた。
天堂さんは「なんだか熱が入ってるね」と微笑むが、次の瞬間、毅然とした表情に切り替えて言った。
「麻子さんのように割り切って遊ぶ女性にはカードも寛容だけれど、自分のことを正当化して、人に迷惑をかけてまで茨の道に進む人の場合、厳しいカードが出てくることが多いね」
「仰っていることが、よく分かりません。麻子さんという女性も他の女性も、道ならぬ恋をしている時点で、状況は全く一緒じゃありませんか」
「うーん。そうかな。麻子さんの場合、付き合う男性を束縛することは一切ないし、後腐れないように若い男の子のパトロンになってあげたりして、徹底しているよ。しかも、付き合いが長くなって情が移らないように、二年スパンで別れてあげて相手を放流している」
「……はぁ。放流ですか」
「禍根を残さないように金銭面でボーイフレンドを支えているから、別れた後も彼らは麻子さんを悪く言わない。やり方が上手いよね。その辺りのことをきちんとしないで、自分の欲望の赴くまま泥沼にハマっていく人もいるけれど、そういう人がその時に欲するような甘い言葉は、僕にはかけてあげることが出来ないかな」
「意外です。天堂さんのことだから、どんな女性にも必ず優しい言葉をかけているのかと思っていました」
ははは、そんなに偽善者に見える? と笑うと、彼はキッパリと言った。
「どうしたら、その人が茨の道から脱却出来るのか、カードを読み解いたり、ホロスコープを見たりしてアドバイスをして差し上げるのが僕の役目。一手先じゃなくて、二十手先に『こんな未来もあり得ます』って助言をして、その時は分かってもらえなくても数年後に真意が伝われば、それで良いと思っている。もう二度と来ない人もいるけど、それもまた運命だから」
いたずらっぽく微笑む姿を見ながら、その時、彼の鑑定に救いを求める女性達の気持ちが少しだけ分かった気がした。
天堂さんは一見すると穏やかだが、実は厳しい。そして偽りを嫌う。もしも自分が何かに悩んでいたら、自ら闇にはまってしまう前に救い出して欲しいと願うのかもしれない。
◆
一ヶ月が過ぎたある朝、私は天堂さんと食卓で朝食を食べながら、おそるおそるひとつの提案をした。
「そろそろ、この店の料理を勉強し始めたいんです」
厚手のガウンに眼鏡という出で立ちの彼は、きょとんとした表情でコーヒーを啜っている。
「まだ早いんじゃない? 体調と相談したほうが……」
負けじと私が「でも早く料理したいので」と訴えると、気迫に押されたような表情になる。そして「練習くらいなら良いかもね」と呟くと、寝室から一冊のノートを手に戻ってきた。
【Maison de Paradiseレシピ集(秘)】
そう書かれた分厚いノートには、ところどころ表面に小さなシミが付着している。
「このレシピ集ね、年季が入っていてご覧の有様なの。でも、お店にとって何よりも大切なものなので、失くさないでね。白石さんも遠慮なくこのノートにメモを追記して下さい」
彼は、そっと私にノートを渡す。緊張しながら一枚捲ると、「ローズマリーポークソテー」と書かれ、ページの上段には焼き色のついた肉のイラストが描かれていた。
調理の工程だけではなく「オーダーが入ったら速やかに肉を冷蔵庫から出して常温に戻すことを忘れない」など細かな注意点まで書かれており、私は過去の料理人に感謝のあまりひれ伏したくなる。
食い入るようにページを捲っていると、天堂さんが口を開いた。
「本当に大丈夫かい? 無理しないで良いんだよ」
「いえ。多少は無理するべきなんです。私に出来ることは、ひたすら腕を磨くことだけですから」
焦る気持ちを抑えて強がりを言う。しかし、私の気持ちを見抜くように、彼は言った。
「初日に、あれだけのパフォーマンスをしてくれたんだもの。期待しています。でも、また体調を崩してしまってはいけないし、ここは思う存分ゆっくりとしたペースで進もうよ」
天堂さんはそう言ってコーヒーを飲み干すと、発芽米のようにピョコンとした寝癖を丁寧にヘアセットして、今日も颯爽と出社していく。
徐々に見慣れつつあるその姿を見送りながら、私も今日は行きたかった場所に足を運ぶことにした。常連さんに教えてもらった、野菜即売所である。
この家から徒歩十分ほどの場所に、この街の農家が生産する野菜を販売している即売所があると聞いたのは、数日前のメイクレッスンの時だった。
ここ一ヶ月で私は随分この街に土地勘が出来たが、それでも基本的に駅前の薬局やスーパーとの往復で一日が終わっていた。そして、それで良いとさえ思っていた。
英治と住んでいた家からこの地域は数駅ほど離れているとはいえ、用もないのに出歩いて、万が一にでも彼や彼の両親に遭遇したら怖いという思いもあり用心していたのだ。しかし、幸いなことに、ここ暫くは英治の母親からのLINE攻撃も減っていた。
ある意味では不穏だったが、アラン・スミシーのメンバーやこの店の常連さんという顔見知りもできて、少しずつ私はこの街やここで暮らす人々に愛着が湧き始めていた。
——この街で作られた旬の野菜を使い、料理を作ってみたい。
そんな思いで私は、手に入れたばかりのバイト代を握りしめて外に出る。
交差点を渡り、交通量の多い道を抜けると、「X市野菜即売所」と書かれた看板が立っていた。
想像をしていたより何倍も簡素な作りで、トタン屋根の下に建物を支える華奢な柱が並び、床はコンクリート打ちっぱなしだった。
ベニヤのような薄い壁に嵌められた大きな窓から外の光が入るため全体的には明るい印象で、私は独身時代に旅行で行ったベトナム・ダナンのハン市場を思い出す。
五十メートルほどの奥行きがある室内には、一メートル間隔で畳二枚ほどの屋台が複数設けられ、出店者はそれぞれニンジンやブロッコリー、キャベツやレタスなどを卓に並べて接客している。
各出店の上には、「X市・野菜生産・直売第三班(有)アオキコーポレーション」とか、隣の市である「Y市・野菜直売(有)森田屋」とか書かれたプラスティックのプラカードが垂れ下がり、なかには野菜に交ざって乾物を置く出店もあった。
何を買うか全く考えずに足を踏み入れたが、新鮮な野菜が並ぶ光景は見ているだけで胸がときめく。
土っぽい香りを感じながら、薄紫色のラディッシュや濃いオレンジ色のニンジンを眺めていると、どんな料理が作れるだろうかとワクワクした。
行ったり来たりを繰り返しながら料理のことを考えていると、しばらくして「お嬢ちゃん。今日は、ほうれん草を買いなさい」という声がどこからか聞こえてきた。
声の主を探して振り向くと、左斜め後ろで紺色のジャージにピンクのエプロンをつけた中年の女性が店番をしている。頭のてっぺんに大きなお団子が結われている姿は、どこか玉ねぎを連想させた。
突然に話しかけられて動揺したが、思い切って「おすすめですか?」と問い返すと、女性は「そうだよ。最近、寒かったでしょう? だから、糖度が上がってすっかり甘くなってるね。旨味があって肉厚だから、炒め物にしても相性が良いかもね」と言って微笑んだ。
その時、ピンときた。作りたいものが決まったのだ。
念のため現物を見せてもらうと、葉先まで瑞々しく色鮮やかでボリュームもある。根元はしっかりとピンクに染まり、たしかに糖度の高い証拠だった。
「三束、下さい」
迷わず言うと、「見慣れない顔だから、今日は初回のオマケをしとくよ」と言って、女性は一束追加して袋に入れてくれる。価格は三百二十円。かなり安いと思った。
その後、即売所を出て追加でいくつか食材をスーパーで買い込むと、私は足早にMaison de Paradiseへ帰った。
◆
店に戻ると、那津さんは不在だった。私は手洗いを終えると厨房に向かい、購入した食材を調理台に並べる。
ほうれん草にニンニク、オリーブオイルにライ麦パン、鶏モモ肉に粒マスタード。調味料のマヨネーズや塩、炒り胡麻はすでに大量のストックがあった。
久しぶりに食材と向き合うことに緊張しながら、ほうれん草を水洗いする。その後、まな板の上で微塵切りにすると、鍋にたっぷりの湯を沸騰させ少量の塩と共に中火で茹でた。
今度はニンニクを一欠片、薄切りにしておく。切り終えた頃、ほうれん草が茹で上がったので、ザルにあげて冷水に晒した。
次はフライパンにオリーブオイルとニンニクの薄切りを入れて、弱火で加熱する。焦らされても焦らされても、ここで決して強火にしない。辛抱強く弱火のまま香りと旨味を引き出す。
きつね色になったことを合図に火を止めると、表面はカリッとするが、中身がしっとりとしたガーリックチップが完成するのだ。
このチップを、マヨネーズと炒り胡麻で味付けしたほうれん草と和える。このまま食べても猛烈に美味しいが、まだここでは我慢する。
ライ麦パンをトースターで焼き、表面に先ほどのガーリックオイルを染み込ませて、そこに味付けしたほうれん草を載せると、ようやくスピナッチトーストの完成である。
「いただきます」
そう呟いてかぶりつくと、ほうれん草の優しい旨味とライ麦パンのほのかな甘味が口の中にふんわりと広がり、心から幸福を感じる。
洒落たレシピではないかも知れない。しかし、今の私にとっては心に潤いを与えてくれることだけが重要で、ほかのことはどうでも良い。この感覚を忘れたくないと思った。
自分の機嫌をとるために生み出される料理が、世の中には存在するのだ。
一息つくと、今度はボリューム重視の進化版を作ることにした。
鶏肉の両面に塩を振り、余計な水分を出すため数分ほど放置する。その後、キッチンペーパーで水気を拭き取り、皮を下にして中火で十分ほど焼き、火が通ったら今度は裏返して五分焼く。
ガーリックオイルを塗ったパンに、先ほど味付けしたほうれん草、鶏肉を載せて、粒マスタードを塗り込んだもう一枚のパンでサンドして食べやすいよう包丁で切ったら、チキンスピナッチサンドの完成だ。
肉汁が滴る、ぷりっとシズル感たっぷりの断面に、思わず惚れ惚れする。ほうれん草の緑と鶏肉のスモークピンクが、実に美しい。その時、ふと一ヶ月前に天堂さんに言われた言葉を思い出した。
——日常生活をもっと豊かに過ごせたら、料理に必ず良い影響があると思うよ。
彼の言う通りだと思った。私は少しずつではあるが、自分の心の声が聞けるようになっているのかも知れない。
その夜、私は天堂さんと那津さんにもチキンスピナッチサンドを食べてもらうことにした。
夕刻、同じ時間帯に帰ってきた彼らに「新メニューを考えてみました」と伝え、食卓の上で完成品を見せると二人は歓声を上げた。
那津さんは興奮気味に「ちょうど腹減ってたわ」と言うと、私の許可もそこそこに皿の上からすぐさま手に取り、豪快に頰張る。
天堂さんは空腹で虫の居所が悪いのか、「いただきますは言ったの?」と那津さんを咎めながら、負けじと豪快に口を開いてかぶりついた。
「焦らずに召し上がって下さい」
微笑ましい気持ちになりながら、感想を待つと「めちゃ旨い」と最初に言ったのは那津さんで、天堂さんも「これならお客さんに受け入れてもらえそうだね」と笑顔で感想を続ける。
私は天にも昇る心地がした。習得しなければならない店のレシピは山ほどあるが、自分のメニューが採用してもらえそうなことに心の底から喜びを感じる。
しかし、浮かれた気持ちになったのは、束の間だった。
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。画面を見ると相手は福岡に住む母親からで、私は彼らに目配せをすると急いで電話口に出た。
「もしもし。お母さん?」
「葉? ちょっとあんた、英治君のお母様から怒って連絡が来たわよ。おたくのお嬢さんが、ヒステリーを起こして家出してしまったって。一ヶ月も帰ってないってどういうこと?」
「心配かけてごめん。色々あって、しばらく別居することにした」
電話口の向こうで、母親の大きな溜息が聞こえる。彼女は私が結婚した時、英治が大手の生命保険会社に勤めていることを理由に「これで葉は、一生安泰ね」と一番に喜んでくれていた。だからこそ、落胆する気持ちは分からないでもない。
しかし、今まで彼がいかに私を精神的に追い詰めてきたかということについては、彼女は知らない。以前、弱音を吐いた際に「でも、生活費は入れてくれてるんでしょ? 感謝しなさい」と言われて以来、私は母を頼ることはなくなっていた。
「何があったか聞かないけど、仲直りは女のほうから歩みよらんといけんよ。男っていうのはプライドが高いけん。あんたも主婦として頑張ってると思うけど、夫婦っていうのは、協力しあわないと」
彼女は私に対する心配以上に、英治の機嫌を窺っている。そう思った。今までの私ならば「その通りね」と言っていたと思う。反論するエネルギーさえ残っていなかったからだ。
しかし、もう、自分を偽ることはやめにしたかった。
「お母さん、あのね、私、もうあの家には戻らない。料理人として働くことにしたから」
なぜ自分が、こんなにも力強く宣言しているのか分からなかった。言ったそばから不安な気持ちに駆られ、那津さんを見る。すると彼はチキンスピナッチサンドを頰張りながら、片手の親指を立ててグッドポーズをしてくれた。その時、無性に泣きたくなった。
心の中にじんわりと温かいものが広がり、もしかしたら、今夜の自分は孤独ではないかもしれないと思えたのだ。
「急にどうしたの? 葉、今どこにいるの? 私はね、あんたを思って言ってるのよ。まずは、うちに帰ってきて休みなさい。それから英治君と話し合っても、遅くないでしょう」
「私、自分の人生を生きてみたい。英治のオマケとして生きるんじゃなくて、ひとりの人間として生きてみたいんだ」
一瞬、電話口に沈黙が流れる。母親は「突然、何を言ってるのよ。まさか離婚するつもり? その歳で独りになってどうするの? 今さらどこも雇ってくれないわよ?」と捲し立ててきたが私は無言を貫く。
その後、今後は英治の家族から連絡がきても、私のことは黙っていて欲しいと念を押してから電話を切った。
頰の涙を拭い、「すみません」と彼らに詫びる。天堂さんは、「とんでもない。お母様に報告しておくのは大事です」と言うと、慈悲深い表情で私に微笑んだ。
「僕が直接、電話口に出てご挨拶するべきかと思ったけれど、さすがにお母様からすれば『アンタ、誰?』状態だもんね。何はともあれ白石さん、自分で身の振り方を決めましたね」
「そんなに立派なものではありません。これからは、私自身の行動で証明していかないと」
三十四歳にして初めて親に強い口調で反論したというのに、私は驚くほど冷静だった。
「でも、大丈夫なのかよ。心のほうは」
珍しく那津さんが優しいトーンで心配してくれたので、私は思わず吹き出してしまった。
「……笑ってすみません。ご心配ありがとうございます。でも、これからは自分の道は自分で決めます」
彼は心外だとでも言うように頰を赤く染め、「薄々気づいてたけど、最近の葉、調子乗ってるよな。こっちは心配してやってんのに!」と言って口を尖らせる。
天堂さんが「まぁまぁ」と言って私達をなだめに入る。この歪な三人のコンビネーションは近頃、意外と悪くはない——気がする。
その後、天堂さんが「飲もうか」と、微笑んだ。
「いいですね。飲みましょう」
嬉々として私は賛同する。彼は一階の厨房に向かうと、ワインセラーから一本のボトルを取り出して戻ってきた。
「この赤ワインはね、『カルムネール・レセルバ ペドリスカル・シングル・ヴィンヤード』って言うんだ。まるで呪文のように聞こえるかもしれないけれど、このチリのワインは最高の立地で作られているんだよ。生産地のエルキ・ヴァレーは、年間三百日以上、晴天に恵まれているんだって。濃厚で上品なヴァニラの風味で、肉料理とも合うと僕は思……」
遮るようにして私が「ワイングラス、用意しますね」と言うと、那津さんが「今の切り込み方は、やるじゃん」と挑発的に笑った。食卓に座り、私達は小さな宴を始める。
「今夜は店に新メニューが誕生した記念日だね。そして、白石さんがちょっぴり生まれ変わった日でもある」
天堂さんはそう言うと、豪快にチキンスピナッチサンドを頰張ってモゴモゴとする。髭面の頰袋にご飯を詰め込むその姿は、誰かに似ていた。
誰に似ているのか記憶を掘り起こし、吹き出しそうになる。その顔は、あの家に住むハムスターの天ちゃんに似ていたのだ。天ちゃんは元気だろうか。あの頃の私の、唯一の友達。
食い意地の張った彼らを見ながら、私は少しだけ気分が明るくなる。それから一歩ずつではあるが、自分らしく前に進んでいきたいと思った。
★今井真実さんによるクッキング・レシピ★
料理写真:今井裕治
★お二人による配信イベントも★
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