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大木亜希子×今井真実――再出発を目指すシェフを救った、春野菜の白いポタージュ〈レシピ付き〉

WEB別冊文藝春秋

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読んで作って癒される
「マイ・ディア・キッチン」

作家・大木亜希子さん×料理家・今井真実さんの夢のコラボレーション!
料理小説「マイ・ディア・キッチン」第二話に登場するお料理は…

・春野菜の白いポタージュ
・スピナッチトースト  
・チキンスピナッチサンド


ラストに今井さんによるレシピを掲載しています。
春の訪れを感じる3品で、心もお腹もぽかぽかに…

★お二人による配信イベントも★

  詳細はこちらをご覧ください!



〈第一話のあらすじ〉
モラハラ夫との生活に限界を迎え、着の身着のままで家を飛び出した34歳の主婦、白石葉。彼女が逃げ込んだ先は、一軒家レストラン「Maison de Paradise」だった。オーナーの「天堂拓郎」に元料理人としての腕を見込まれ、葉はレストランで住み込みシェフとして働くことに…

マイ・ディア・キッチン

第二話


 目を開けると、見慣れない天井が目に飛び込んできた。
 枕元では、スマートフォンのアラームがけたたましく鳴っている。
 時刻は朝八時半。えいが家を出る時間を、とうに過ぎている。今にも「ようちゃん、俺のメシまだ?」という不機嫌な声が聞こえてくる気がするが、どうにか冷静さを保ち状況を把握する。
 ここは、夫と住んでいた家ではない。「Maisonメゾン de Paradiseパラダイス」の二階・居住スペースだ。
 私はスマートフォンをズボンのポケットに入れると、寝癖も直さず布団から飛び出る。そのまま寝室の扉を開けると、十畳ほどのリビングが目の前に広がった。部屋の中央には大きな木製のダイニングテーブルがあり、向かって右側にはダークブラウンの二人掛けソファーとサイドテーブルが置かれ、左側には半独立型キッチンが併設されている。
 たしか隣の部屋で、てんどうさんとさんは寝ているはずだ。私は彼らの部屋の扉に向かって、遠慮がちに尋ねた。
「あの……、キッチンでお水をいただいても良いでしょうか?」
 反応はない。まだ熟睡しているのだろう。躊躇ためらいながらひとりキッチンに向かうと、水切りカゴの中のマグカップを一つ拝借し、蛇口をひねる。
「あの家」にいた時は、朝食は一杯のだけと英治から決められていた。しかし今、朝一番に飲むこの冷水の、なんと背徳感があって、おいしいことか。
 改めて部屋を見回す。すると、テーブルの上にライ麦パン数枚と一房のバナナが置かれていた。放心状態のままバナナを見つめると、ぼんやりとあの家にいた時のことを思い出す。
「バナナは炭水化物の塊だよ。フルーツだと思って油断して食べると太るよ」
 まだ私が朝食をとることが許されていた新婚当初、英治はそんなことを言っていた。それでも構わず朝食にバナナを食べ続けていたところ、ある日、朝から不機嫌だった彼は私から房ごと奪い取ってゴミ箱に捨ててしまった。
 その日から私は「バナナ恐怖症」になった。
 忌々しい記憶をかき消す。すると、ふと、あることを思い立った。おもむろにキッチンの角に置かれた冷蔵庫を開ける。今度は躊躇わなかった。
 よし、これだけ材料があればいける。私は、彼らが寝ているあいだに、素晴らしい朝食を作る。そして彼らの役に立つのだ——そうすれば私は、少しは英治の呪縛から解き放たれる気がした。
 まずは、米を炊く。
 冷蔵庫の脇に設置された棚に米びつを見つけ、カップ二杯ほどすくい取る。
 そのまま速やかに水で洗うと、一旦、浸水させておく。
 次に棚の上段に並んだ調味料を確認すると、卵に下味を付け、明太子をほぐしていく。それが終わったら、今度は土鍋に米と水を入れて火にかける番だ。
 キッチンに立って三十分が過ぎた頃、奥の寝室の扉がそっと開いた。
「おはようございます」
 天堂さんの声だった。彼は厚手のガウンを羽織り、昨日は着けていなかった黒縁眼鏡をかけている。寝癖で髪は乱れているが、ヘアセットせずとも品位と知性は一ミリも損なわれていない。それが、実に見事だと思った。私は努めて冷静に言う。
「朝ごはんが出来ています。焼きネギのお味噌汁、明太子入りだし巻き卵、鶏肉とごぼうの甘辛煮、炊きたてホヤホヤのごはんはいかがですか?」
「……ん?」
 その瞬間、彼の表情が硬くなった。わずかに沈黙が続いた後、天堂さんはポリポリと頭を搔きながら私に言った。
「先に言っておけば良かった。しらいしさん、新しい生活が始まるからって、頑張ろうとしないで大丈夫ですよ」
 今度は、私が硬直する番だった。
「えっと、それは、どういう意味でしょうか?」
「非常に言いにくいんだけど、僕は毎朝パンとコーヒーだけって決めているし、那津に至っては大抵、寝坊するし、もともと朝は食べない人なんです。だから、その……、せっかく作っていただいた朝食なんだけど……」
 優しい声音ではある。しかし、あくまで自分達のスタンスは変えないという強い意志が感じられた。
「勝手なことをしてしまい、すみません」
 彼らの世話になることが決まり、たった一日で行き過ぎたふるまいをしてしまった自分を殴りたい。しかし、恐縮する私をあまりにも哀れに思ったのか、彼はニッとほほんで言葉を続ける。
「でも、今日は、特別にいただこうかしら。良い香りが漂ってきたので僕はお腹が空きました」

 私と天堂さんは、向かい合って朝食をとることにした。
 テーブルの上にこんもり盛られた煮物や卵焼きを見ていると、今さらながら自分が「新生活ハイ」になっていたと気づく。しかし彼は、そんな私の自己嫌悪を知ってか知らずか、「この煮物、美味しい! どうやって作ったんですか?」と、目をキラキラさせながら質問をしてくれる。それがありがたかった。
 その後、天堂さんは立ち上がって、二人分のコーヒーを淹れてくれた。白いマグカップに優雅に口をつけながら、彼は言う。
「昨日、寝る前に考えたことを言っても良いかな?」
「はい、なんでしょうか」
「旦那さんと今後どうするか、早めに決めたほうが良いと僕は思う」
「……はい」
「俺がいなきゃ、何も出来ないくせに」という英治の忌々しい言葉がリフレインしたが、すぐにかき消す。天堂さんは両手を前で組みながら、淡々と続けた。
「部屋は自由に使ってもらって良いし、白石さんが安心して働ける環境を整えたいと思っています。早めに契約書も作ったほうが良さそうだね。ただ、僕達ができるのはここまでです」
 彼は学校の先生のように微笑み、穏やかに私を見つめる。
「踏み込んだ話で申し訳ないんですけど、旦那さんは会社員?」
「はい。生命保険会社で、営業職に就いています」
「ということは、白石さんは今、おそらく彼の扶養に入っているよね? でも今後、シェフとして働く上で扶養から外れて自分で確定申告をしたり、社会保険料なんかを払ったりする必要が出てくる」
 私はうつむくしかなかった。山積みの問題が何ひとつ解決していないことは、自分が一番よく分かっていたからだ。
「というか、僕や那津とひとつ屋根の下に暮らしていることが知られたら、不貞行為だと訴えられてもおかしくないね」
 ははは、と天堂さんは笑うが、その瞬間、私は世界が無音になった気がした。


 そうだ。私はまだ、婚姻関係を継続している身なのである。ただここにいるだけで、どれだけのリスクを彼らに背負わせてしまっているのだろう。
「今日はまだ、難しい問題には触れないでおきますね。まずは新しい生活に慣れることを第一に考えましょう」
 その後、天堂さんは現在の状況を教えてくれた。まず前任のシェフは、諸事情で二日前に急にやめることになったらしい。理由は教えてくれなかった。
 昨夜はやむなく彼がキッチンに入ったものの、新しいシェフを見つけるまで臨時休業するべく、今日以降の予約はキャンセルにしていたそうだ。ちなみに那津さんは、数年前から一人でホールを切り盛りしているという。
「店の再オープンは、三月一日にしましょうか。あと二週間ありますから、うちの店の看板メニューを覚えてもらいながら、シェフの勘を取り戻す準備期間にして下さいね」
 四年間のブランクがあるため、この提案はありがたい。
 天堂さんと話をしていると、私は昨日まで自分が存在していた場所とまるで異なる世界が目の前に広がっていくのを感じる。かすみがかっている視界が晴れ、新しい一歩を踏み出すことに恐れが消えていくようだった。
 彼はコーヒーを飲み干すと、立ち上がって言った。
「そうだ。ひとまず、当面の生活費を渡しておきましょう」
 発芽米のような寝癖を後頭部にこしらえたまま、彼はいそいそと寝室に向かい何か捜し始めた。その後、一枚の封筒とグレーのダッフルコート、鍵を手に戻ってくると、それらを私に渡した。
「まずは、ここの合鍵。それと、寒いだろうから、外に出る時はこのコートを使って下さい」
 ややホコリっぽい匂いがするそのコートは学生が制服の上に着るようなデザインで、彼のアイテムにしては少し若々しく感じた。
 私の疑問を察したのか、天堂さんは「僕のお古で申し訳ない。このコート、ウン十年前に初めてのお給料で買ったものなの。なんだか捨てられなくて」と照れながら笑う。
 おそるおそる封筒を開けると、一万円札が三枚、向きが揃えられて入っていた。
「昨日は那津のパジャマを貸したけど、靴も下着もない今の状況は、さすがにキツいでしょう。この近所にドンキやコンビニがあるから、必要なものは今日これで買って下さい」
「こんな高額、申し訳ないです」
 焦って言葉を返すが、彼は淡々と続ける。
「何言ってるの? このお金は、あげるんじゃないよ」
「え?」
「白石さんが正式に働き出したら、きっちり返して貰う。では、僕は仕事に行ってきます」
 念を押された私は、面食らう。何から何までスマートでこちらが入り込む隙が一切ない。もしかしたらそれは、彼なりの防御の仕方なのだろうか。
 天堂さんが支度を終えるのを待って、私は彼の出勤を見送るべく、階段で一階に降りる。途中、ポケットのなかでスマートフォンが震動するのを感じたが、気づかないふりをした。どうせ電話の主は分かっている。店の勝手口に向かうと、天堂さんは黒いチェスターコートをふわりと翻して私に言った。
「こうして玄関まで送ることも、明日からはしないで下さいね」
 私が余計な気を遣わないように、彼は細心の注意を払っている。それが痛いほど分かった。
「……はい。申し訳ありません」
「謝罪の言葉も不要。ここでの生活は今後、長くなるんですから」
 彼は微笑みながらドアノブに手をかける。朝の冷気が店内に流れ込み、私は留守を任された子供のように心細い気持ちになった。

 扉を開けてすぐ、「あら、ゆきさん。早いね」と天堂さんの驚いた声が聞こえた。つられて、私も店に面した道路を見る。そこには一人の女性が立っていた。女性はカーキ色のブルゾンにデニムのパンツ、黒い毛糸の手袋を着用し、脇に小さな箱を抱えている。
「思いのほか、今朝は作業が早く終わったんです」
 ミルクキャンディーのような声だった。彼女が手にしている箱の表面には、兎のイラストと共に、「きり農園」という文字が書かれている。
「天堂さん、目の下のクマが凄い。仕事ばっかりして、ろくに寝てないんでしょう?」
 女性は親しげに軽口を叩くと、クスッと笑う。
 ひと目見ただけでは年齢が分からないが、意外と私よりも歳上かもしれない。天堂さんが私のほうを振り返って言った。
「この方は、深雪さん。うちの契約農家さん。店で使う野菜は、全て彼女のところから仕入れているんだ。とても美味しいよ。彼女が作っている農園の野菜は……」
 彼が紹介を終えるよりも先に、女性は私に向かってニッと微笑む。
「はじめまして。桐野深雪と申します。とても美味しい野菜を作っています」
 私は彼女から思わず目をそらした。自分の足で立ち、自分の手で人生を切り拓いている人特有のエネルギーに満ち溢れていたからだ。
 その後、天堂さんは「さて、僕はもう本当に行かなきゃ。二人は今後お仕事で関わることが増えるので、自己紹介をお願いしますよ!」と言うと、足早にその場を去る。その姿が見えなくなると、おそるおそる私は、彼女と一対一で向き合った。
「この店で雇っていただくことになりました、白石葉と申します」
 緊張のあまり直角九十度まで頭を下げると、深雪さんは笑った。
「礼儀正しいんですね」
 色白の目尻に、クシャッとシワが寄る。
「え?」
「そんなに気負わず」
 彼女は片手で私のお辞儀を制すると、「これ、うちの野菜セットです。昨日の夜遅く、天堂さんから、あなたに渡すように連絡が来て。シンプルに塩をつけて食べるのがオススメです」と言って、持っていた箱を私に渡す。
「それでは」
 彼女もまた、天堂さんと同じようにさつそうと去っていく。渡された箱の中身を見ると、土の香りをまとったほうれん草や新玉ねぎ、ブロッコリー、かぶが入っていた。
 それを見ながら私は、こんなに新鮮な野菜を活かした料理が作れるようになるだろうかと一抹の不安を覚えた。

 日中、一切の家事をせずに自分が見知らぬ街を歩いていることが未だに信じられない。しかし、自分の服に着替え、那津さんに借りているスニーカーを履き、天堂さんから渡されたコートの重みを感じながら歩いていると、徐々に「これは現実なのだ」と実感が湧いてくる。
 コートのポケットでは先ほどからバイブ音が鳴り続けていて、これが現実であると突きつけてくるようだった。
 意を決して液晶画面を開くと、英治の両親から十数件に及ぶ着信履歴が残っている。起床時は十五%だったスマートフォンの充電残量も、今や数%に落ち込んでいた。この分では、電源が切れるのも時間の問題だろう。
 天堂さんに描いてもらった地図を頼りに近所のドン・キホーテに向かう途中、携帯ショップが目に飛び込む。それはまさに、私が英治の名義で契約中のキャリアのものだった。
 思い立って店に入ると早い時間帯のせいか空いており、すぐカウンターに通してもらえた。香水の匂いのきつい女性店員が目の前に座り、「本日はどのようなご用件でしょうか?」と、貼り付けたような笑顔を浮かべて声をかけてくれた。
「解約したいんです」
 前置きもせずにそう告げると、女性は引き止めることもなく「かしこまりました」と言い、手元のキーボードに視線を落とす。しかし、幾つか質問に答えるうちに、すぐ詰んだ。
「お客様はご契約者様ご本人でしょうか?」
 そう聞かれて、何も言えなくなったのである。
「いえ、契約者は私の夫なんですけど、解約がしたくて……」
 素直にそう告げると、女性はわざとらしいほど残念そうな表情で言った。
「解約となりますと、ご契約者様ご本人の同席か同意書が必ず必要です」
 彼女の左手薬指には指輪が着けられている。この人もまた、誰かの妻なのだろう。
「……とても言いにくいのですが、夫のモラハラが原因で別居をしています。この携帯の料金は夫に払ってもらっているので、解約しておきたいなと」
 躊躇いながら事実を伝え、スマートフォンの画面を見せる。そこは「お義母さん」、「お義父さん」という名の着信履歴で埋め尽くされていた。
 ようやく何か察したのか、女性は気の毒そうに「なるほど……」と呟く。しかし、同情する素振りを見せてくれたのは、ほんの一瞬だった。
「申し訳ございません。ご契約者様が同席しないことには、解約は出来ません。たとえば、新規で携帯電話をご契約いただき、別の回線を利用して『二台持ち』をするのはいかがでしょう? 良いプランがありますよ」と、新しいプランを薦めてきた。
 違う。そういうことじゃない。
「いえ。私は収入がないので、新規の契約は出来ません」
 素直にそう告げると、彼女は困ったような表情を浮かべる。まるで「金を落とせない客には用はない」とでも言うように。
「帰ります」
 私は椅子から立ち上がると、速やかに店を後にする。
 ドン・キホーテに到着すると一枚千円のシャツとチノパン、値下げされて五百円になっていた靴や下着を数枚選ぶ。ファッション性はとくに考えず、当面のあいだ問題なく暮らしていけることだけを優先した。
 スマートフォンの充電器や化粧水、シャンプーやリンスも買い物カゴに追加して会計を済ませる。財布を持っていないため、コートのポケットのなかにそのまま釣り銭を入れて当て所もなく商店街を彷徨さまよった。一歩進むたびにシャラシャラと小さな音を立てて小銭が鳴り、まるで子供のおつかいみたいだと思った。

 そのまままっすぐ進むと「おかのや」がある。全国チェーンのため、この地にあっても驚くことではない。しかし私は、郷愁に近い感情を覚え、吸い寄せられるように店に入った。
 入店してすぐ、白い衛生服と帽子を着用した女性従業員の姿が目に入る。ふと、お隣に住んでいたまつさんのことを思い出した。そういえば私は、彼女に何も言わずに逃げてしまった。そのことを後悔するが、もう過去には戻れない。
 生鮮食料品コーナーを一周するうちに、もう一度、「天堂さん達の役に立ちたい」という思いが沸々と湧き上がる。今朝は朝食作りという余計な真似をしてしまったが、それは彼らの習慣を理解していなかったからこそ生じた悲劇である。今度こそ店に貢献し、彼らを驚かせたい。そして、何でもいいから役に立ちたい。出来るだけ早急に。そう思うと、いても立ってもいられなかった。
 そのまま卵売り場で立ち尽くしていると、あるアイディアを思いつき、嬉しさのあまりにガッツポーズをしてしまった。
 私は勢い良く六個入りの卵のパックをカゴに入れると、今度は乳製品売り場でシュレッドチーズ、生クリーム、牛乳を見繕う。同じ売場で無塩バターを探したところ、この庶民的なスーパーには全く不似合いな「エシレバター」が二つだけ売られていた。
 百グラム三千円もする超高級バターが、なぜこんなところにあるのだろう。しかし、迷わず二つともカゴに入れ、最後に薄力粉と強力粉、鶏肉を追加して会計を済ませた。
 再びドン・キホーテに向かい、文具売り場でスケッチブックとカラーペンを買い込む。その時点で残金は一万円を切っていたが、「これは投資だ」と必死に自分に言い聞かせる。
 久しぶりに浮き立つ気持ちで帰る途中、街の歩道に咲くじんちようが「これから何をするつもり?」と、不安げに聞いてきた気がした。しかし私は、その警告を無視した。

 店に戻ると、すぐ二階に向かった。
 そのまま昨晩から借りているエプロンを身に着け、購入した食材を調理台に並べる。キッチンの壁掛け時計は午前十一時を指しているが、那津さんは起きてこない。彼は一体、何時に起きるつもりなのだろう。
 気を取り直して、私は目の前の食材に集中する。計量器やザル、バット、泡立て器やめん棒を中性洗剤でよく洗い、布巾で水気を拭き取って消毒液を吹きかける。
 ボールに薄力粉、強力粉、塩や冷水を合わせると、包丁で一センチ角に切ったエシレバターを練り込み、手早くこねる。ある程度まとまったところで、ジップロックに入れた。
 生地を冷蔵庫に入れて寝かせているあいだも、休む暇はない。
 今度は別のボールにバターと砂糖、塩、ベーキングパウダー、溶き卵、牛乳、チーズと薄力粉を入れてよく混ぜ、一階の厨房に設置された業務用オーブンの予熱をセットした。調理台の上に置いた桐野農園の野菜セットからブロッコリーを一株取り出すと、水の中で振りながら洗って塩茹でにする。
 その後、一センチ角にカットすると生地に混ぜ込み、カップに注いだ。
 結婚前に勤めていた洋食レストランで時折デザートを任されていたおかげで、驚くほどスムーズに作業は進む。
 予熱が完了したオーブンに生地を入れると、今度は二階に向かった。スケッチブックを手にダイニングテーブルの一角に座り、カラーペンを使って「私達、Maison de Paradiseです!」と大きく紙に描く。
「あの家」にいた頃、町内会で広報委員をやっていたおかげか、我ながらタッチもデザインも悪くない。私は英治からパソコンの使用を禁止されていたため、他の主婦のようにAdobe Illustratorなどを使った本格的なデザインは出来なかった。しかし、その分、手描きのイラストで賄う根性が身についた気がする。
 途中、テーブルの上に置いたスマートフォンが幾度も英治の両親からの着信を知らせてきたが、目の前のことに没頭していると不思議と気分が和らぐ。
 数十分後。一階から香ばしい香りが漂ってきた。豊かな香りに包まれて鼻歌を歌っていると、那津さんが起きてきた。
「おはよう」
 彼は黒いパーカーにスウェット素材のズボンという服装で、私に声をかける。昨晩は長い前髪で顔半分がほとんど見えなかったが、寝癖でオデコが露わになったその顔は、まるで少年のように可愛らしい。
「……何してんの?」
 眠そうにこちらを見る彼に、この状況をどのように説明するべきか一瞬、躊躇う。しかし、あえて堂々と言った。
「マフィンとキッシュを作っています」
 彼はその返事を聞いているのかいないのか、無言でキッチンに向かう。
 そのまま冷蔵庫を開けて牛乳パックを手にすると、直飲みをしながら言った。
「同居一日目にして自分の趣味を始めちゃう、その自我を貫く感じ、俺は嫌いじゃない」
 そう言うと、彼は再び牛乳パックに口につける。
「あ、いえ。趣味とかではなくて」
「……ん?」
「Maison de Paradiseのオリジナルテイクアウト商品を開発しようと思って、試作品を作っているんです」
 その瞬間、彼は口に含んでいた牛乳をブワッと吹き出した。まるで漫画のように。流し台の前で飲んでくれていて良かった。
 彼はゲホゲホとむせると、呼吸を整え「え、マジ?」とこちらを見つめる。口元を手で拭う表情には、大いに困惑の色が浮かんでいた。
「はい。ちなみに今、描いているのは集客用のチラシです」
 できたての手作りチラシを、彼の前で見せる。わりと自信作だった。しかし、那津さんは「うわぁ……」と嫌悪感をあらわにしている。
「ハッキリ言って、余計なお世話だわ」
「……え?」
「うちの店に来るお客さんは、マフィンもキッシュも喜ばないよ。しかも、ビラを撒かなくてもお客さんはいっぱい来てくれるし。マジやめて」
 彼は言葉をオブラートに包むことなく、厳しく私を一刀両断する。心から不快だ、という感情を顔いっぱいに浮かべながら。

「あぁ、本当にびっくりした……」
 那津さんはそう呟くと、床に飛び散った牛乳をキッチンペーパーで拭いている。眠そうだった彼の瞳は今ではすっかり見開かれ、顔の美しい陰影を浮き彫りにしていた。
 私は「どうやら、またやらかしてしまったようだ」と気づいたが、もう何もかも手遅れだ。オーブンで焼きあげているマフィンも、冷蔵庫で寝かせているパイ生地も、完成に向けてスクスクと育ってしまっている。
 こんな事態にもかかわらず、私はどこかで「那津さんも私の料理を食べれば、きっと魅力を分かってくれるだろう」と希望を捨てきれなかった。しかし、彼はキッパリと言う。
「あなた、昨日うちの店に入ったばっかりでしょう。何をそんなに急いでいるわけ? 勘弁してよ」
 那津さんの言うことは間違いないが、私にもプライドがある。
「でも私、こう見えて元シェフですよ。昨日だって、即戦力になったじゃないですか?」
 思わず反論するが、彼には通用しない。
「昨日は緊急事態だから発動された能力でしょ? 一度の成功で『この店の救世主です』みたいな顔をされても。それに、昨日はシェフが不在だったから常連さん達もそれを知ってて、色々と大目に見てくれたんだよ」
 彼は「ごめん。牛乳で服が濡れた。着替える」と呟くと、着ていたパーカーとTシャツをその場で脱ぐ。
 出来る限り彼の裸を見ないようにしたが、鍛え上げられた左腕には天使の羽根のタトゥーが、右腕には鳥のタトゥーが彫られていた。わずかに動揺する。
 数分後。寝室から戻ってきた彼は、グレーのスウェットを着ていた。そのままヘアバンドをして顔を洗うと、豪快に歯を磨く。どうやら出掛ける支度をしているようだが、何処に行くのだろう。彼が外出の準備をする最中も、私は自分の感情を正しく伝える言葉を探した。しかし、どうしても見つからない。
 その後、ヘアセットを終えた那津さんは窓辺のエアプランツに水をやりながら、「ごめん」とバツの悪い顔をして言ってきた。まるで小学生のように。
 へこんでいるのは私だけだと思っていたが、彼は「あなたもうちの店の大切なメンバーなのに、言い過ぎたわ」と言って、私に向かって真摯に頭を下げる。
「勝手なことをしたのは、私のほうです。こちらこそすみません」
 あまりの素直さに呆気にとられ、こちらも急いで詫びる。
 彼は何か考えたように私を見つめると、「でも、間違った努力はしないでね」と念を押してきた。
「……はい」
「俺、ダンスの練習に行ってくる。夜には帰るね」
 わずかに笑顔を見せると、那津さんは階段を降りていく。ひとり残された私は、猛烈な焦燥感と戦っていた。やることなすこと、全て上手くいかない。どうしてこんなにも失敗してしまうのだろう。
 その時、厨房でタイマーが鳴っていることに気づいた。急いで一階に降り、耐熱ミトンを装着してオーブンの扉を開ける。ふっくらと膨らんだ飴色のマフィンが幾つも並び、香ばしい香りを漂わせていた。しかし、感動はない。
 テイクアウト商品を作りたいと夢中になっていたことが、随分前の出来事に感じてしまう。
 焼き上がったばかりのそれらを調理台に置くと、やるせなさに溜息をつく。本来であれば生地の中央に竹串を刺し、焼き上がりのチェックをするところだが、もうその必要もないだろう。
 粗熱がとれたら、すぐに捨ててしまおう。そして、いずれ私は冷蔵庫のなかで寝かせているパイ生地も捨ててしまうに違いない。
 カンパチに続き、マフィンやキッシュまで。私は、食べ物を殺してばかりいる。いかなる理由であろうと、食材を捨てる時点で、料理人として失格かもしれない。


 そう思っていると、勝手口の扉がトントンと小さく鳴る。気のせいだと思い一度は無視するが、もう一度、今度は大きな音で鳴った。
 仕方なく扉を開けると、そこには深雪さんが立っていた。
「何度もすみません。もう一つ、お届けしたいものがあって」
 彼女は照れたような表情で微笑む。今朝、挨拶をした時と同じように真っ直ぐな眼差しに私は戸惑った。
 深雪さんの周りには神聖な光の粒が漂っている気がして、今の私には眩しくてつらい。
「さっきの野菜、良かったらこれと一緒に食べてみてほしくて」
 彼女は小瓶に入った塩を照れたように差し出す。そのラベルには「まじっく・べじたぶる・そると」と書かれていた。
 ネーミングセンスが謎だ。いかにも田舎の道の駅で売っていそうな代物である。
 勝手口の扉が開いたままでは冷気が入り寒いので、ひとまず室内に入ってもらう。
 気まずい空気が流れるなか、彼女は店内を見回して口を開いた。
「天堂さんと、那津くんはどちらへ?」
「二人共、お仕事やダンスの練習に外出されました。私は留守番です」
 そう言いながら私は、新天地に辿り着いても尚、籠の中の鳥のように過ごす自分に不自由さを感じていた。
 昨日まで、昼は自分の居場所がGPSで確認され、夜には夫の望む夕飯を作る必要があり、何処にもいけなかった。それに比べたらここは楽園のはずなのに、私は未だに自分自身に縛られ、他人の留守を守っている。本当にやりたいことは、何も分からないまま。
 沈黙が流れ、慌てて話題を探す。しかし、会話の糸口が見つからない。私はもう取り繕うことは諦めて、この奇妙な静けさを受け入れ始めていた。
 室内には明らかに甘い香りが充満しているが、彼女は、「お菓子、作っていたんですか?」とか「この時間まで何をしていたんですか?」という詮索はしてこない。それが実に心地よかった。
 私はかろうじて愛想笑いを浮かべながら言った。
「お野菜、すぐ頂きます。このお塩で食べるのがベストですか? 楽しみです」
 先ほど渡された小瓶を見つめる。すると彼女は、嬉しそうに笑った。
「これ、沖縄で塩作りをしている友人が作ってるんです。さっき箱に入れ忘れてしまったので届けに来ました。このお塩を野菜につけてもらうと、すごく味が引き立ちますよ」
「わざわざありがとうございます」
 塩ひとつで野菜の味が変わるものだろうか。
 しかし、意に反して、その瞬間に私の腹が大きく鳴った。まるで落雷のように。
 深雪さんは目を丸くして驚くが、とくに笑ったり、からかってきたりはしなかった。それどころか「もうお昼過ぎですもん。お腹、空きますよね~」とさらりと言ってのける。
 私は恥ずかしさのあまり赤面する。よく考えてみれば、昨夜は夜遅くにチーズ牛丼を食べ、今朝は手の込んだ和朝食を食べている。今まで鶏ササミやオートミール一色だった胃の動きが、急に活発になっているのかも知れない。
「私もお腹が空きました。良かったら、ここで塩茹でにしても良いですか?」
 彼女はそう言うとハンガーにブルゾンを掛け、腕をまくって手を洗う。
「天堂さんに許可を取ってからでないと、ちょっとこういうのは……」
 躊躇いながらそう告げるが、彼女は動じない。むしろ堂々とバックヤードに向かい、店のエプロンを身に着けてひようひようとしている。
 なぜ備品置き場まで知っているのか。その疑問を感じ取ったのか、彼女は微笑むと言った。
「この店、どれだけ人気か知っていますか? 繁盛しすぎて、常に人手不足なんですよ」
「……え? そんなに人気なんですか?」
 私は「Maison de Paradise」について、まだ何も知らない。しかし、よく考えてみれば昨夜のはんじようぶりを見れば一目瞭然だろう。彼女は言った。
「私、普段は農園の仕事で忙しくさせて貰っているんですが、たまに別の仕事がしてみたくなるんですよね」
「別の仕事?」
「そうです。野菜が虫に食われないように最善の策を講じて、排水性とか通気性を考えながら土を耕して。そんなことを毎日やっていると、野菜に気持ちが持っていかれすぎて、どうにかなってしまいそうになるんです」
「……え?」
 聞き間違えたのかと思った。しかし彼女は、意に介すことなく言葉を続ける。
「そういう時、本当にたまにですけど、ウェイターとしてこのお店を手伝わせて貰っているんです。だから私も一応、ここの従業員ということになります」
 だから、ちょっとだけ厨房を借りても天堂さんは怒らないはず、と彼女は付け加える。
 深雪さんは厨房の鍋に水を張り、沸騰させたところに筋を取ったスナップエンドウと、ピーラーで皮を剝いたアスパラガス数本を入れて茹でる。
 数分後。加熱されたことで、さらに鮮やかさが増した野菜をザルに上げると、ほんのりと湯気が立っていた。そこに「まじっく・べじたぶる・そると」を数回振りかけると、彼女は言った。
「味付けは本当にこれだけ。良かったら、ぜひ食べてみて下さい」
 おそるおそる、言われた通りに茹で上がったばかりのスナップエンドウを口に入れる。
 さやの部分はシャキッとして、嚙んだ瞬間、内部の豆がトロッとした甘味を出す。ピリッとした塩気がアクセントになり、実に風味豊かだった。
「……おいしいです。それに、じんわり温かい」
 思ったことをそのまま告げる。
 すると彼女は「今日は冷えますね。もうちょっと温まるものも作りましょうか?」と私に提案する。
「え?」
「私もちょうどお腹が空きました。お昼ご飯に春野菜のポタージュを作るので、良かったら付き合ってくれません?」
 この人は一体、何を言い出すのか。しかし、意に反して、私は大きく頷いてしまう。
 春野菜のポタージュという破壊力抜群の言葉により、好奇心が大きく刺激されたのだ。

 深雪さんは、先ほどの野菜セットから玉ねぎと蕪を取り出して洗い始めた。蕪の水気をキッチンペーパーで拭き取ると、今度は玉ねぎの皮を剝く。
 気がつけば私は、彼女のペースにすっかり巻き込まれて作業を見つめていた。その後、包丁とまな板を用意し、そこに蕪と玉ねぎを置いてくし切りにする。私は思わず尋ねた。
「深雪さん、気分転換とはいえ、なんでこんなに忙しい店で働くんですか? 農園のお仕事だけでもお忙しいはずでしょう?」
 すると彼女は、茶目っ気たっぷりに言った。
「野菜と向き合うことを言い訳に、人間と向き合うことを忘れる時があるから、ですかねぇ」
 思わず笑ってしまう。彼女も笑った。
「この店にいると人として鍛えられるし、頭が空っぽになるんです。あぁ、私、ありのままの自分でいようって」
 彼女は切り終えた蕪と玉ねぎを鍋に入れると、少量の水を加えて弱火にかける。さらにバターと少量の塩を入れ蓋をすると、「よし。あとは待つだけです」と言った。
「私は鍋の様子を見ているので、白石さんはお菓子作りの後片付けをしてきて下さい」
「……バレましたか?」
「これだけ良い香りが充満して、気が付かないわけがないですよ」
 深雪さんは可笑しそうにそう言うと、火加減を調整する。私はその言葉に甘える形で、ひとりで二階に上がる。冷蔵庫を開け、おそるおそるパイ生地の状態をチェックすると、ほとんど膨らんでいなかった。グルテンが上手く生成されず、ボロボロの状態だ。マフィン同様、すぐに捨てたい衝動にかられる。しかし、なぜか先ほどの彼女の言葉が胸に刺さり、躊躇った。
 気持ちを切り替えて流しの食器を洗うと、急いで調理台やテーブルを拭き上げる。二十分ほどが過ぎた頃、「もう出来ますよ!」と呼ぶ声が聞こえた。

 下の階に降りると、ほのかに香ばしい香りが厨房に広がっている。
「綺麗な色でしょう?」
 鍋の中にはくたくたになった玉ねぎと、とろりとした蕪。深雪さんがブレンダーで丁寧に潰していくと、二つの野菜が溶け合い、黄金色に輝き始めた。香辛料は使っていないはずなのに、ほんのりツンと、野性味のある香りがした。
 一旦、火を止めると、カップ一杯分の牛乳を少しずつ鍋のなかに注いでいく。その後、ひと煮立ちさせると、春をとじこめたような麴色の液体が姿を現した。
「完成です」
 最後のひと煮立ちを終えたポタージュを皿に注ぎながら、彼女は満足げに微笑む。そのまま私は、熱々の状態でカウンター席に運んだ。

 並んで椅子に座る。
「いただきます」
 二人同時に呟き、まずはゆっくりと一口啜る。玉ねぎの甘味が舌全体に広がった。
 二口目を啜ると、今度は蕪の旨味が鼻に抜ける。新玉ねぎと蕪。二つの味わいは融合して、最後に牛乳のクリーミーさに包まれ、口の中で優しく消えていく。急いで三口目を口に運ぶが、じんわりと旨味が湧き出ては、潔くその波が引いて驚いた。
「玉ねぎの甘味も最高ですが、蕪って、こんなに旨味がある野菜でしたっけ? もっと苦味のある単調な野菜だと思っていたんですけど」
 思わず素直な言葉を口にしてしまう。本来、生産者を前に野菜の味をディスリスペクトする発言は慎んだほうが良いだろう。しかし、深雪さんは、「良いところに気づいてくれました」と言わんばかりに頷いた。
「硬くて甘くない品種もあります。でも、うちのは肉質が柔らかく甘い品種なので、旨味が凄いんです。春の蕪は皮が薄いので、そのまま使うのがコツですね。コクが増すし、甘味も出ます。ちなみに皮のまま焼くと『蕪ステーキ』になって美味しいですよ」
 嬉々として野菜の説明をする彼女の表情は、まるで可憐な少女のようだ。

「あの、ひとつ、謝らなければいけません」
 罪悪感に苛まれて、私は謝罪の言葉を口にする。
「私、深雪さんが来る前にマフィンを焼いて。その中に桐野農園さんのブロッコリーをカットして入れました」
「あら、それはどうもありがとう」
「で、そもそもなぜ作ったかと言うと、このお店のオリジナルテイクアウト商品が作りたくて。そうしたら今朝、見事に那津さんに怒られました。『マジふざけんな。うちの客はマフィンなんて食べない。余計なことするな』って」
 あはは、那津くんなら言いそう、と深雪さんはポタージュを啜りながら笑う。笑うとエクボが可愛らしく、この人は一体幾つなのだろうと再び疑問に思った。
「それで私、そのマフィンを捨てようとしました」
「なぜ?」
 少し動揺する様子の彼女に、私は白状した。
「自分の提案を否定されて、ムシャクシャしたからです。マフィンだけじゃありません。キッシュもパイ生地から作ろうと気合いを入れて準備しましたが、大失敗しました」
 恥ずかしさと申し訳なさで、耳まで熱くなる。しかし、彼女は怪訝な表情をするでもなく、静かに微笑んだ。
「そのブロッコリー、芯まで使いましたか?」
「……え?」
 返事のベクトルが全然違う気がしたが、私は「捨ててしまいました」と素直に打ち明ける。すると彼女は、「捨てられがちな芯のほうが、案外、栄養があるんです。今度は芯の食感を活かしてみると楽しいですよ」と言って笑った。
 なんとなく、ゆるしてくれたのだろうと理解する。しかし、やはり申し訳なかった。

 深雪さんはすっかりポタージュを飲み干すと、気持ちよさそうに伸びをする。私も身体の芯から温まり、気付くと少し涙ぐんでいた。
 十五時を過ぎた頃、深雪さんは「そろそろ帰りますね」と立ち上がった。帰り支度をする彼女に、このポタージュのように素材の味を引き出せる野菜料理を教えてほしい、と私は頼み込んだ。
 しかし、彼女は「今度は私が白石さんに教えてもらいたいくらいです」と言って、笑いながらはぐらかした。
 お願いですから教えて下さい、レパートリーが増えますから、と必死に乞うと、ようやく真面目な顔で「白石さんだけの味を見つけて下さい」と私をさとした。
 勝手口から去る彼女を見送ると、二階のダイニングに戻る。すると、テーブルに置いていたスマートフォンの充電が切れていた。
 英治からLINEが届いているかもしれない。ふと、そんな淡い期待が芽生える。
 ——葉ちゃん。やり直そう。全て俺が悪かった。
 もしも、そんなLINEが届いていたら、私は彼を赦せるだろうか。
 おそるおそるドン・キホーテで購入した充電器を差し込み、スマートフォンを再起動させる。義母や義父からの電話攻撃は収まっていたが、英治本人からの連絡はない。その代わりに、一通のメッセージが届いている。松田さんからだった。
〈昨日、裸足で走る白石さんを見かけました。私だけじゃなくて、近所の奥さん達も目撃していたみたい。白石さんは不倫していたらしいとか、正直、昨日から妙な噂で持ち切り。でも、私は貴方を信じてる。今、多分、お家にいないよね? 良き場所に避難できていますように。 松田〉
 その文面には、明らかに好奇心が滲んでいる。私はどのように返すべきか迷った。
〈昨日から、男性二人と同居を始めました〉
 そんなことを彼女に伝えても信じてもらえるわけがないし、かえって不安にさせてしまう。
 私は手短に、〈ご心配をおかけしています。こちらは大丈夫です〉と送ると溜息をつく。
 それからふっくらとした革製ソファーに座ると、いつのまにかうたた寝をしていた。

 起きる頃には窓辺から夕陽が射し込み、部屋の中を寂しく照らしていた。キッチンの時計を見ると、時刻は十七時を回っている。
 昨日まで、平日のこの時間帯はほぼ毎日、英治が退勤する時刻をLINEで知らせてきた。日によって帰る時間はまちまちだが、帰宅時に風呂が沸いていないと、彼は必ず不機嫌になった。私はスマートフォンの通知を逐一チェックし、同時に彼が求める夕食を作り、あらゆる家事をスピーディーにこなした。時折、彼は部下を家に連れてくることもあったので、急な要望にも応えられるように、常に頭の片隅でシミュレーションをする必要があった。
 しかし、今日からもう全て「自分の時間」になる。嬉しいはずなのに、与えられた機会を私は全く活かせていない。
 そんなことを考えていると、サイドテーブルに一枚の写真が飾られているのを見つけた。
「our second anniversary」
 走り書きされたスケッチブックを一緒に持つ那津さんと天堂さんは、楽しそうに笑っている。とても幸せそうだ。
 偶然にも写真の日付は、昨年の今日である。
 自分にはそんな権利がないと分かっていながら、私はその写真を見てしっかり妬む。どう頑張っても英治と辿り着けなかったパートナーシップを、彼らは簡単に築いているように見えたからだ。
「ただいま」
 ソファーから起き上がった瞬間、天堂さんの声が聞こえた。
「おかえりなさい」
 急いで立ち上がると、私はつい愛想笑いを浮かべてしまう。やましいことは何もないが、彼らの関係性を妬んだ事実を、なぜか見破られそうだと思った。
「いやはや、今日は疲れました……」
 彼はぽつりとそう呟くと、コートを着たままダイニングの椅子に座り脱力する。実際、朝のつややかな表情から一転して、顔色が悪かった。
「お茶でも淹れますか?」
 つい尋ねると、天堂さんは「大丈夫です」と微笑んだ。それから、今日一日、私がどのように過ごしていたのか聞いてくる。私は携帯ショップで解約拒否されたこと、チラシや自家製のマフィン、キッシュを作り那津さんに怒られたこと、深雪さんにポタージュを作ってもらったことを、順を追って説明する。
 彼は静かに目を瞑ると、まるで壮大な冒険譚でも聞いているかのように、うんうん、と頷いてくれた。その表情は呆れているのか怒っているのか、感心しているのか分からない。しかし、朝の穏やかな天堂さんに比べ、わずかに殺気だっているようにも見える。
 彼は腕組みをしながら頭を前に垂れ、身体全体を使って何か難しいことを考えているようだ。私は、何か地雷を踏んでしまったのかもしれない。
 せめて那津さんが牛乳を吹くシーンだけは面白く伝えたいと思い、臨場感満載に伝える。すると彼は、その時だけは「ふふふ」と小さく肩を震わせて笑ったが、その後は沈黙を貫いた。
 どうしよう。怒らせてしまったのだろうか。
 しかし、その時、ふと一つの仮説が生まれた——天堂さんは今、ほぼ眠っている。表情を強張らせているのではなく、睡魔と戦い、結果的に恐ろしい形相になっている。
 やがて彼は、私が呼びかけても一切返事をせず、文鳥のさえずりのようにピーピーと可愛らしい寝息を立てるようになった。大柄な男性が身体をコンパクトに折りたたみ寝息をたてる姿は実にシュールだが、見守るしか為す術がない。さすがに私も懲りたので、夕食を勝手に準備するような真似はしなかった。
 それから少し経ち、十九時を過ぎた頃、那津さんが帰ってきた。部屋の中央では変わらず、成人男性の皮を被った小鳥がさえずりを続けている。私と那津さんは、しばらく真剣な表情で静かに見守った。
 その時、天堂さんの着るコートのポケットの中でスマートフォンが鳴った。彼はピクッと身体を反らせると、すぐに目を見開き、冷静に画面をチェックする。尋常ではない切り替えの速さだ。
「はい。お疲れ様。天堂です」
 彼は自分の部屋にこもると、ものの数分で電話を切る。仕事の用件を終えてすっかり目が覚めたらしい彼は、優しい眼差しで那津さんに微笑んだ。
「おかえり、那津。もう三年だね。いつもありがとう」
 那津さんも照れながら「こちらこそ、いつもありがとう」と笑う。見つめ合う二人の邪魔にならないように私は出来るだけ息を潜めるが、それにも限界がある。
「……あの、おめでとうございます。今日、記念日なんですね」
 どのようなテンションで祝ったら良いか分からなかったが、ひとまず拍手をする。すると男達は「ごめん。二人の世界に入ってた」と言わんばかりに、はにかんで笑った。
 天堂さんは「ありがとう。おっしゃる通り今日、僕らの三周年記念日なの。ちょっと二人でディナーをしてきますね。着替えなくちゃ」と嬉しそうに言って、さっと立ち上がる。二人は仲良く寝室に向かい、どうやらクローゼットの中からドレスアップ用の服を選んでいるらしい。きゃっきゃと楽しそうな声が聞こえてくる。
 私は展開の速さにすっかり面食らったが、それでも彼らの大切な日を邪魔する気持ちはさらさらない。
 しばらくすると、那津さんはジャケットとテーパードパンツのセットアップを、天堂さんはシックなブレザーにグレーのパンツを合わせてリビングに戻ってきた。二人共、ばっちり決まっている。
「凄く良い感じです」
 私が太鼓判を押すと、大柄な男二人は小学生男子のように飛び上がり喜んでいた。健康的な顔色が復活した天堂さんと、フォーマルな格好が照れくさそうな那津さんは声を揃えて「行って来ます!」と言うと、意気揚々と出掛けて行く。
 愛のパワ~、憎めねぇ。
 私は、彼らのことを心底愛おしく思った。しかし一方で、熱烈に妬んでもいた。
 新しい環境で二人の男と働く覚悟を決めたはずだが、私はなんて孤独なのだろう。今後、彼らと長く住んだとしても、私自身の課題は変わらず目の前にあり、寂しさは簡単に埋まることはない。そんな当たり前の事実に、今になって涙が出てくる。
「あー。お腹、空いた」
 わざと大声で独り言を呟く。それから桐野農園の野菜で何か夜食を作ろうと、一階の厨房に降りた。

 夜の飲食店には、お客さんが残していった思いのようなものが残っている。
「特別な相手と美味しい食事が出来て嬉しかった」とか、「良いワインに出会えた」とか、そういう幸せな感情が壁や天井に染み付いている気がするのだ。
 私は昨晩、裸足でこの店に辿り着いた時のことを思い出す。温かみのある照明、こだわりのカウンターテーブル、コンクリート打ちっぱなしの壁、掃除の行き届いている食器棚。
 そういう、目には見えないけれど、たしかに大切にされている「この店特有のテンション」を、今日、私は勝手に変えようとしていた。不要なテイクアウト商品を開発したり、店のブランディングにマッチしないチラシ配りをしようとしたりして。那津さんが怒るのも、無理はない。今日一日の自らの暴走ぶりを振り返り、今頃になって赤面する。
 その時、マフィンが目に飛び込んできた。
 ひとまず、これでも食べるか。
 取り出してかじってみる。すると、悪くはないがどこか物足りなかった。芳醇さが売りのエシレバターを使っても、全く思い通りにいかないなんて。
 私はシェフとしてやっていけるのか。
 またも自信を失いかける。しかし、今だけは考えるのをやめよう。ひとまず今日のところは、美味しい物が食べたい。今夜、この孤独な空腹を満たしてくれる何かを。
 その時、野菜セットのなかに、まだ野菜が残っていたことを思い出した。ほうれん草だ。調理台の上に桐野農園の箱を載せ、土の付着したほうれん草を取り出す。ザルにあげて水洗いすると、まな板の上で微塵切りにした。
 その後、一旦、手を止める。勢いではなく、今の自分の気分をよく考えて作りたかった。取り繕った味ではなく、華やかでなくとも良い。ただただ、しみじみ美味しいものに出会いたかった。
 私はフライパンにたっぷりと水を張ると、刻んだほうれん草と少量の塩を入れる。沸騰させるあいだに、今度は冷蔵庫で眠っていたニンニクを一欠片、薄切りにしておく。ニンニクを切り終えた頃には丁度ほうれん草が茹で上がるので、ザルにあげて冷たい水に晒す。キッチンペーパーで水気をしっかり拭き取り、そのまま口にしてみる。驚くほどえぐみが少なく、甘味豊かだった。
 さらにフライパンにオリーブオイルとニンニクの薄切りを入れて弱火で加熱すると、香ばしい香りが辺り一面に立ち込める。

 焦らされても焦らされても、決して強火にしない。辛抱強く、弱火のまま旨味を引き出す。きつね色になったことを合図に火を止めると、外はカリッと、中はしっとりのガーリックチップが出来た。マヨネーズといりゴマで味付けしたほうれん草と、ガーリックチップをよく混ぜると完成だ。

 箸でつまんで口に入れる。歯ごたえのある甘いほうれん草にニンニクの香ばしさが重なり、実に美味しかった。
 その時、私はマフィンの存在を思い出した。トースターで温めたマフィンを輪切りにして、そこにほうれん草を載せて齧ってみる。即席で「おかずマフィン」が爆誕した。
 マフィンに含まれたバターのコクと濃厚さが追加され、恐ろしく贅沢な気分になれる。ブロッコリーも、コリコリとした食感で良い仕事をしていた。
 しかし、ここで私の冒険は止まらない。たしかに「おかずマフィン」は美味しかったが、少しくどいかもしれない。これを軽めのパンに代えると、ほうれん草の魅力がさらに引き出されるのではないか。
 私は駆け足で二階に向かう。
「天堂さん、ごめんなさい。少しだけ頂きます」
 そう呟くと、ダイニングテーブルに置かれていたライ麦パンを数枚、拝借する。
 キッシュ作りのために購入した鶏肉も冷蔵庫から取り出して、一階に降りる。
 そのままライ麦パンをトースターで焼き、表面にガーリックオイルを染み込ませ、ほうれん草を載せて食べてみる。
 狙った通り、あっさりとした旨味が引き出され、思わずガッツポーズをしてしまった。
 まだ、お腹に余裕はある。今度は鶏肉の出番だ。
 まずは肉の両面に塩を振り、余計な水分を出すためにしばらく放置する。それから皮を下にして中火で十分ほど焼き、充分に火が通ったら、今度は裏返して五分焼く。その後、火を止めた後もしばらく放置して、余熱で充分に肉の内部に火を通す。このひと手間が、肉を柔らかく焼き上げるために重要だ。
 ガーリックオイルを塗ったパンの上にほうれん草、鶏肉を載せ、最後に粒マスタードを表面に塗り込んだもう一枚のパンでサンドする。食べやすいよう包丁で半分に切ったら、今度は「チキンスピナッチサンド」の完成だ。
 シズル感たっぷりの断面に、思わず見惚れる。ほうれん草の鮮やかな緑と鶏肉のスモークピンクが、実に美しいコントラストだった。
「いただきます」
 誰に言うともなくそう呟くと、人目もはばからず大きくかぶりつく。
 今この瞬間、私は猛烈にブサイクだろう。しかし、もはや気にしない。
 本当はこの四年間ずっと、自分が作った料理を思いきり豪快に食べてみたかった。しかし、それは叶わなかった。
 肉汁が盛大に溢れる鶏肉と、それを下から支えるような優しい旨味のほうれん草が口の中で調和して、心の底から幸せを感じる。これは、店で出せるレベルの味だ。
 人から見ればあまり洒落たレシピではないかも知れない。しかし、今の私にとっては、疲れ切って枯れた心に潤いを与えてくれることだけが重要で、ほかのことは一切合切、どうでも良い。そう思うと、なぜか肩の荷が下りる。
 この感覚を忘れたくないと思った。自分の機嫌をとるために生み出される料理が、世の中には存在するのだ。

 その時、勝手口で鍵が開く音がした。
 彼らが帰宅する時間にしては早い気がする。しかし、そこにいたのは激しい剣幕で口論をする天堂さんと那津さんの姿だった。
「……お帰りなさい。あれ? お忘れ物でもしたんですか? まだ一時間しか……」
 こちらが突っ込むよりも先に、天堂さんは眉をひそめて私に言う。
「きちんと締めのご飯まで食べたよ。日本料理屋さんで。でも、あまりに那津に腹が立って、二軒目には行かずに帰ってきちゃったの」
 全く状況が理解できないが、ここは真剣に受け止める。負けじと那津さんが言った。
「だーかーら、悪かったって言ってるだろうが」
 天堂さんは一歩も引き下がらない。
「あのね、那津はそういうところあるよ。すぐ人を馬鹿にするの。常に自分が正しいと思ってる」
 一体、何が原因でけんをしているのか見当がつかなかった。
「ねぇ、那津。その若さでそんなに自分が正しい人間ならさ、僕の年齢くらいになったら、どうなるんだろうね。裸の王様にでもなっちゃうのかな」
 皮肉なその言葉に、よほど腹が立ったのか那津さんはけんしわを寄せる。
 それから、彼は私のチキンスピナッチサンドを見つけるとオーバーに歓声を上げた。
「ごめん。コイツが面倒なせいで、まだ腹減ってるんだよね。ちょっとだけ貰うわ」
 そう言うと彼は、私の許可もそこそこに皿の上のチキンスピナッチサンドを頰張る。
 私はすでに思う存分食べていたので構わなかったが、再び天堂さんの怒りに火が付いたようだ。
「異議あり。そういうところだよ。今、白石さんの許可もとらずに、彼女の食事を奪ったでしょう。しかも、喧嘩の原因を僕に責任転嫁したよね?」
 彼らの口論を聞いているうちに、私はなんだか小学生の兄弟を持つ母親の気分になった。居候の身分で心苦しいが、正直「どっちもどっちだろう」という気持ちになっていく。
 余計なことを言わぬよう黙っていたが、何かのきっかけで「お前がそんなんだから、ウチはすぐシェフが辞めるんだ!」と天堂さんが那津さんに言い捨て、口論が激化したのを機に覚悟を決めた。
 この人達を沈静化させなくては。
 迷った挙げ句、私は調理台の上に置いていたマフィンを一口大にちぎる。それから「これを食べて落ち着きましょう」と、勢い良く那津さんの口に突っ込んだ。彼はアヒルのように口をすぼめる。
 次に、向かいで捲し立てる天堂さんの口にも、素早くそれを突っ込む。彼は目を白黒させながらも、口をモグモグと動かし味わっていた。
「……」
 空間全体が、強制的に無言になる。
 これが正しい対応なのかは分からない。しかし、意外にも那津さんが「なにこれ。案外、ウマいじゃん。ブロッコリーとチーズが入ってるし」と嬉しい感想を言ってくれた。
 次に天堂さんも、「僕、甘いもの苦手で普段食べないんだけど、これは甘さ控えめで良い。大人向けでワインが飲みたくなる」と真剣な面持ちで言った。
 私は拍子抜けして笑ってしまう。
「……それは合格点をいただいた、ということで良いでしょうか?」
 二人は喧嘩をしていたことなど忘れたかのように、互いに見つめ合う。それから「降参しました」と言わんばかりに、私に盛大な拍手をくれた。
「ありがとうございます。エシレバターを使った甲斐があります」
 嬉しさのあまり、つい余計なことを口走る。すると、那津さんは間髪を容れず「ねえ、馬鹿なの?」と言った。
「あんなに高いバター、原価が高すぎて店のメニューに使えないよ。マフィンにはもったいないし」と頭を抱える。天堂さんも冷静に「あのバターを試作に使うのは、ちょっとどうなんだろう」と、首をひねる。
 これまで口論をしていた二人が冷静になり、結託している。それが妙に可笑しい。
「……私もそう思います。すみません。ところで、なぜお二人は喧嘩していたんですか?」
 状況的に不利になり、つい話題を蒸し返す。すると、那津さんが食い気味に言った。
「あ、ごめん。俺、さっき食事中に『白石さんは食に対して頑張る方向性が全然違うから、うちのシェフに向いていないかもね』って言っちゃったの。もちろん反省してるよ」
「え……」
 できれば聞きたくなかった。しかし、もう手遅れだ。マフィンのおかげで取り戻した自己肯定感が、急激に萎んでいく。
 急いで天堂さんがフォローに入った。
「白石さんは頑張ってるよ。こうやって人を見下す那津のほうがバカなの。気にしないで」
 喧嘩の原因が自分にあったとは知らず、私は悠長にも仲裁に入っていた。しかし、たしかに今日一日で、これだけの粗相をしたのだから無理もない。那津さんが言うことも一理ある。
 どこか冷静にそう思い、今後の身の振り方を考えていた。私は昼間から着けっぱなしのエプロンを外した。
「こんなポンコツシェフですみません。今日一日の失敗について、どうお詫びをすれば良いか分かりません」
「ちょっと、やめてよ。本当に那津が悪いの」
「でも、たった一日でこれだけご迷惑をかけて。那津さんの言う通り私、本当にシェフに向いていないのかもしれません」
 心からそう思った。私は早々に、今までの生活に戻ったほうが良いのかもしれない。屈辱的だが、心のどこかで諦めもついている。
「そんなこと言わないで。うちの店も白石さんがいてくれたら、ウンと助かるよ」
 身振り手振りを交え、天堂さんが引き留めようとしてくれている。
 那津さんのほうを見ると、彼は不貞腐れながら残ったマフィンを食べていた。もぐもぐと口を動かしながら、彼は言う。
「自分がどうしたいかなんじゃないの?」
「……え?」
「やりたいか、やりたくないか、それだけなんじゃないの? 自分の頭で考えなよ。悲劇のヒロインじゃあるまいし」
 随分な物言いだと思った。そこまで言われる筋合いはない。しかし、悔しいことに何かが的確に刺さる。あの家に戻るか、この店で踏ん張るか。私はどうしたら良いのだろう。
 その時、ポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。福岡に住む母親からの電話だ。私は天堂さんと那津さんに目配せすると、急いで電話に出る。
「もしもし。お母さん?」
「葉? ちょっとあんた、英治君のお母様から怒って連絡が来たわよ。おたくのお嬢さんが、ヒステリーを起こして家出をしてしまったって」
「心配かけてごめん。色々あって、しばらく別居することにした」
 電話口の向こうで、母親の大きな溜息が聞こえる。
 彼女は私が結婚した時、英治が大手生命保険会社に勤めていることを理由に「これで葉は、一生安泰ね」と一番に喜んでくれていた。
 だからこそ、落胆する気持ちは分からないでもない。しかし、今まで彼がいかに私を精神的に追い詰めてきたかということについては、彼女は知らない。以前、わずかに弱音を吐いた際「でも、生活費は入れてくれてるんでしょ? 感謝しなさい」と言われて以来、私は母を頼ることはなくなっていた。
「何があったか聞かないけど、仲直りは女のほうから歩みよらんといけんよ。男っていうのはプライドが高いけん。あんたも主婦として頑張ってると思うけど、夫婦っていうのは、協力しあわないと」
 彼女は私に対する心配以上に、英治の機嫌を窺っている。瞬時にそう思った。
 これまでの私なら、「その通りね」と言って電話を切っていたと思う。でも。
「お母さん、あのね、私、もうあの家には戻らない。またシェフとして働く」
 なぜ自分がこんなにも力強く宣言しているのか分からなかった。
 那津さんのほうを見ると、片手の親指を立てグッドポーズをしてくれた。その瞬間、なぜか泣きたくなった。
「急にどうしたの? 葉、今どこにいるの? 私はね、あんたを思って言ってるのよ。まずは、うちに帰ってきてゆっくり休みなさい。それから英治君と話し合っても遅くないでしょう」
 母から質問攻めにされるが、私は食い気味に言った。
「私、自分の人生を生きてみたいんだ。英治のオマケとして生きるんじゃなく、ひとりの人間として生きてみたい」
 一瞬、電話口に沈黙が流れる。
 母親は「まさか離婚するつもり? その歳で独り身になってどうするの? 今さらどこも雇ってくれないわよ?」と捲し立ててきたが、私は無言を貫く。その後、英治の家族から連絡がきても私のことは黙っていて欲しいと念を押して電話を切った。
 深呼吸をしてから「すみません」と彼らに詫びる。すると、天堂さんは「とんでもない。お母様に報告しておくのは大事です」と言って、慈悲深い表情で微笑んだ。
「僕が直接、電話口に出てご挨拶するべきかと思ったけれど、さすがにお母様からすれば『アンタ、誰?』状態だもんね。何はともあれ白石さん、ちゃんと自分で身の振り方を決めましたね」
「口ではなんとでも言えますから。これからは、私自身の行動で証明していかないと」
 三十四歳にして初めて親に反論したというのに、私は驚くほど冷静だった。
 那津さんが可笑しそうに言う。
「これで、逃げられなくなったな。シェフの道から」
 私は間髪を容れず、その言葉にも反論する。
「逃げる、逃げないの問題ではなくて。私はこれからも自分の道は自分で決めます」
 彼は驚いたように目を見開く。
 それから、視線をそらすように再び手元のチキンスピナッチサンドを頰張った。
「やっぱりこのサンド、旨いわ。これ、うちの店でも出せばいいんじゃない?」
 その後、天堂さんが「ねぇ、ひとまず飲み直そうよ」と、いたずらな表情で笑う。
「いいですね。飲みましょう」
 嬉々として私は賛同する。彼はワインセラーから一本のボトルを取り出すと言った。
「この赤ワインはね、『カルムネール・レセルバ ペドリスカル・シングル・ヴィンヤード』って言うんだ。まるで呪文のように聞こえるかもしれないけれど、このチリのワインは最高の日照条件で作られているんだよ。生産地のエルキ・ヴァレーは年間三百四十日は晴天に恵まれているんだって。エレガントなヴァニラの風味で、肉料理とも合うと僕は思……」
 私はさえぎるようにして「ワイングラス、用意しますね」と言う。那津さんが「やるじゃん」と、挑発的な眼差しを隠さずに笑った。
 私達は昨晩と同じようにテーブル席に移動すると、深夜の宴を始める。
「今夜は何について乾杯する?」
 那津さんがそう言うので、私は彼らの交際三年記念を祝うべきだと思った。しかし、天堂さんは言った。
「お店に、新しいメニューが誕生した記念日でもあるね」
 彼は豪快にチキンスピナッチサンドを頰張る。もぐもぐと頰袋に食事を詰め込むその姿は、誰かに似ていた。
 私は自分の数少ない人間関係から、誰に似ているのだろうかと必死に記憶を掘り起こし、思わず吹き出しそうになった。
 その顔は、あの家に住むハムスターの「天ちゃん」に似ていたのだ。
 サンドイッチを頰張る彼らを、私は微笑ましい気持ちで見つめる。
 それから一歩ずつではあるが、自分らしく前に進んでいきたいと思った。

モデル:大木亜希子
撮影:佐野円香
撮影協力:アトリエフジタ



★今井真実さんによるクッキング・レシピ★


料理写真:今井裕治

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[次回更新予定:4月20日]


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