小田雅久仁 「夢魔と少女」〈後篇〉
十八
堀内は横たわった少女の傍らに胡座をかき、その寝顔を、どんな感情も読みとれない巌のような面持ちでじっと見おろしていた。少女はジュースを半分ほど飲んだだけでたちまち強烈な睡魔に襲われたらしく、崩れ落ちるように横になり、早くも穏やかな寝息を立てはじめていた。しかしその心中までが穏やかだったかはわからない。突きあげてくる急激な眠気を、少女は訝しく思ったに違いなく、一服盛られたのではと恐怖に駆られながら眠りの淵に引きずりこまれていったのではあるまいか。
正直、私は暴れてやろうかと考えた。喉よ嗄れよと大声を張りあげ、少女のまわりを地団駄を踏みながら走りまわる。夢魔が暴れたところでたかが知れているが、その気配は〝気取り〟である少女にはいくらか伝わり、ジュースの危険性に気づいてもらえるのではと思ったのだ。しかし気づいたところで少女に何ができるだろう。飲みたくないとつっぱねたとしても、堀内はどうあっても飲めと詰めよってくるはずだ。さらに抵抗を試みれば、きっと暴力の出番となるに違いない。黙って大人しく飲むか、飲むまで折檻を受けるか、どちらかを選ぶことになる。実際のところ、私は堀内が少女を殴りつけるところを目撃したことはないが、それは単に、暴力的な調教の時期がとうの昔に過ぎ去ったことを意味しているに過ぎないだろう。少女はきっともう何年も前に、幾度となく痛い目に遭っており、抵抗が無意味であることを骨身に染みて学んでいるのだ。その段階に達すると、堀内はもはや拳を振りあげるまでもなく、ただ不機嫌な唸り声や眉の動き一つで少女を意のままに操ることができる。どれほど不審に思ったとしても、ママのためにジュースを買ってきたと言われれば、飲まないわけにはいかないのだ。
もしかしたら、少女は過去に、睡眠薬入りの飲み物を飲まされたことがあるかもしれない。五年前、八歳のときに、少女は堀内の運転する車に引きずりこまれた。あるいは言葉巧みに誘いこまれた。乗せるときはそれでいいにしても、降ろすときが厄介だ。車庫から離れに押しこむあいだに騒ぎたてられたら、近隣住民に見咎められ、通報されてしまうかもしれない。となると、車のなかで少女を大人しくさせねばならない。そこで睡眠薬入りジュースの出番となる。八歳ともなれば大いに怪しんだはずだが、仏頂面の大男がさっさと飲めと恫喝してきたら、やはり気圧されて飲んでしまうのではなかろうか。少女が五年前のことを憶えていたとすれば、探るような目つきで堀内の顔色を窺いながら恐るおそるジュースを飲んだのもうなずける。また眠らされるのではと疑ってはいても、か弱い少女にしてみれば、毒杯を仰ぐ以外に選択肢がないのは五年後のいまも同じなのだ。
堀内はおそらく今夜じゅうに少女の身柄をどこかへ移すつもりだろう。五カ月間の観察から考えるに、堀内にそんな場所のあてがあるとは思えないのだが、粘着テープで口をふさいで縛りあげ、屋根裏や天袋に押しこむとか、車の荷室に隠すとかして、あとは警官たちの不注意や無気力を天に祈るつもりなのかもしれない。それともこんな日の来ることを見越して、どこかにトランクルームを借りていたりするのだろうか。
しかしもし仮に首尾よく少女の身柄を隠せたところで、母親の死体はどうするつもりだろう。やはり車に積んで山奥にでも遺棄する計画だろうか。それともいまから夜を徹して肉体労働に励み、床下にでも埋める気か。だとしたところで、二階のあの部屋の強烈な悪臭はどう言い逃れするつもりだろう。相手が警官でなくとも、長期にわたって死体が放置されていたことは一目瞭然ならぬ一嗅瞭然のはずだ。それとも特殊清掃業者御用達の、臭いの臭いの飛んでいけえ、を実現する魔法の薬でも持っているのだろうか。
わからない。堀内がどうやってこの危機を乗りこえるつもりでいるのかが見えてこず、焦りばかりが募ってくる。しかし少女を眠らせたということは、少なくとも最悪のなりゆきではない。少女が生きてさえいれば、私にはまだ打つ手があるからだ。打つ手はあるが、返すがえすもあの警官たちの腑抜けぶりには腹が立って仕方がない。あしたまた来るぞなどと威勢よく言い放ったはいいが、そのあしたが来るまでの時間を堀内に与えてしまったのは下策のなかの下策だとなぜ気づかないのだろう。それともそもそも私のやり方が間違っていたのだろうか。近隣住民ではなく、最初から警官を相手に〝吹きこみ〟をおこない、堀内家に中嶋千鶴が監禁されているとの確信を与えてやるべきだったのだろうか。ああ、きっとそうなのだろう。おのれの計画の杜撰さに怒りが込みあげてくる。ちくしょう……。
堀内が横たわる少女の肩を揺すり、眠りの深さをたしかめている。少女は目を覚まさない。頰を軽く叩いてもやはり目を覚まさない。ジュースを半分ほど飲んだということは、十三歳の子供が大人用の睡眠薬を二錠半も服用したことになる。まさに眠りの奈落に真っ逆さまというところか。堀内は何を思うのか、いまだあどけなさを残す少女の寝顔を無言で見つめている。ふたたび少女の頰に手を伸ばし、美しいものの儚さを恐れるかのように、太い指先でそっと触れる。不思議なことに、そのぎこちない仕草からは優しさらしきものさえ見てとれる。
「ママ、お休み……」と堀内がつぶやいた。その口調からもまた優しさの片鱗が聞きとれた。
ふと思った。もしかしたら、堀内が最初からジュースを持ってこなかったのは、本当に少女に旨いものを腹いっぱい食べさせてやりたかったからなのでは? しかしそんなはずがあるだろうか。私が知るかぎり、この五カ月のあいだに堀内が少女にこんな大盤振る舞いをしたことは一度もなかった。いや、そう言えばクリスマスに苺のショートケーキを買ってきたことがあった。おそらくはただの吝嗇によるものだが、虫歯になるぞと言って、堀内は普段、少女に甘いものを与えたがらない。しかし珍しくあの夜はケーキやジュースを御馳走したのだ。もしかしたら、私が知らないだけで、少女の誕生日にも毎年同じようにちょっとした贅沢品が振る舞われてきたのかもしれない。だとすると、堀内は私が理解している以上に少女に深い愛着をいだいていることになる。不似合いな愛猫家ぶりと言い、ボヅラを生かしつづけていることと言い、怪物には怪物なりの不器用な情があるということか。
少女の頰を撫でていた堀内が出し抜けに立ちあがり、壁ぎわの棚に並んだ飼育ケースのほうに向かった。そこに至ってようやく私は、ボヅラの存在もまた堀内にとって厄介事のタネになるのではと気づいた。警察に見つかったところで、異常生物飼育罪なるものでも存在しないかぎり、なんの罪にもなるまいが、堀内としては、おそらく少女以外の人間の目にボヅラを曝したくないと考えているだろう。ボヅラは堀内の宿痾の醜い副産物であり、彼の言葉を借りるなら、余分な魂のなれの果てだ。みずからの一部として執着する気持ちを抱えながらも、世間から隠さねばならない恥部として厭わしく思う気持ちがあるに違いない。壁の絵は全部剝がしてしまった。ボヅラもどうにかするつもりだろう。少女の身柄を隠す場所が本当にあるのなら、ボヅラも一緒にそこに運ぶつもりなのかもしれない。だとしてもこれだけの数の飼育ケースがあるのだから、車でも一度では運べまい。母親の死体の処分に少女とボヅラの運び出し、それだけの大仕事を本当にこれからひと晩でやってのけるつもりなのだろうか。
しかし堀内には慌てる様子は微塵もない。むしろ悠然とした態度で飼育ケースを一つひとつ覗きこんでゆく。ボヅラのほうも父なる堀内の接近を喜んでいるのか、それとも単に空腹を訴えているのか、こちらに近よってアクリル板に赤ん坊のような手を突き、きいきいと鳴き声をあげる。堀内もその様子を満足げに眺め、ときおり指先でケースを小突きながらうっすらと頰笑みを浮かべる。世のなかには、タランチュラだのヒヨケムシだのウデムシだのの気色悪い生き物をあえて飼育する奇人変人がいるらしいが、ボヅラを愛でる堀内も同類なのだろうか。醜悪さの奥にひそむ歪んだちっぽけな魂に、同じ怪物として感情移入しているのかもしれない。
ボヅラをひと通り眺め終えると、堀内は飼育ケースを棚からおろすこともなく、部屋の出口に向かった。そしてドアを開けたところで振りかえり、離れのなかをなんとなく名残惜しげに見わたした。一分ほどもそうしていたが、やがて意を決したように渡り廊下を歩いていった。
私は気づいた。堀内は離れのラッチ錠を掛けていかなかった。私の知るかぎり初めてのことだ。堀内は離れをあとにするとき、どれほど短時間であっても必ず錠を掛ける。台所に醬油を取りに行くとか、便所に立つとか、そんなちょっとした用事でも神経質に扉を閉ざしてゆく。ところがいまは、錠を掛けずに出ていった。理由は明白、少女が昏々と眠りつづけているからだ。それでも新鮮な感覚が私の胸に沸き起こった。もしたったいま少女がはたと目を覚ませば、この牢獄から出ていけるのだ。私は少女がこの離れから一歩でも出るのを一度も見たことがなかった。堀内家に連れてこられて以来、少女はおそらく一度も風呂に入っていない。堀内がいないあいだにいつも濡らしたタオルで全身を拭き、頭は便所の小さな洗面台で石鹼を塗りたくって窮屈そうに洗っていた。髪は堀内が切っていたし、体の不調を訴えても、もちろん病院に連れていってはもらえない。この五年間、二十平米ほどのこの空間が少女にゆるされたすべてだったのだ。しかしいまなら、少女は外へ出てゆける。抜き足差し足渡り廊下を進み、そっと玄関の戸を開け、自由な世界へと身を投げ出すことができる。
しかしもちろんすべては私のおめでたい空想に過ぎない。少女の眠りは深く、すでに薄紅色の夢を立ちのぼらせている。堀内もそんな少女を運び出すためにすぐに離れに戻ってくるだろう。どこへ連れてゆくつもりであるにせよ、母屋でその準備をしているに違いない。が、準備とはなんなのだろう。毛布にでもくるんで車に押しこむだけじゃないのか。
堀内が何をしているのか気にかかり、私は母屋に向かった。すると堀内は居間のソファに深ぶかと座りこみ、テレビを点けるでもなく、またもや黙々と瓶ビールを呷っていた。ぼんやりと虚空に視線を浮かべ、何を考えているのかまるで読めない。嫌な感じがしてきた。なぜ堀内はこうも落ち着き払っているのだろう。これから運転するのなら、なぜ酒を飲む? 少女を運び出すつもりはないのか? だとすると、少女の身柄をこの家のなかに隠すつもりなのか? そんな場所がどこにある? やはり屋根裏か? それとも床下? まさか庭に穴を掘って、母親の死体と並べて埋めるつもりではあるまいな。しかし二人分の墓穴を掘るのはかなりの重労働だから、その前にわざわざ酒を飲むのは理屈に合わないし、夜更けに長々とスコップを振るっていれば、却って通行人の目に留まる恐れがある。いよいよわからなくなってきた。一度はつかんだと思った堀内の企みが、手のなかで搔き消えてしまった。
居間の片隅で普段ならお目にかかれない高級そうな缶詰の餌を食べていた白猫が、満腹になって今度は心を満たそうというのだろうか、堀内の膝の上に飛び乗ってきた。堀内は猫をつかみあげると、両腿に挟みこむようにして仰向けにし、柔らかそうな腹をゆっくりと撫ではじめた。猫はいつもと同じようにすっかり安心しきっており、虎の敷物のようにべったりと広がって野性味のかけらもない。
堀内はそうしてしばらく猫の腹を撫でていたが、突然、ぴたりと手を止め、凍りついたように身を強張らせた。息を止め、瞬きもせず、まったくの無表情で固まっている。私は一瞬、時間が止まったかのような錯覚に陥った。しかし次の瞬間、堀内がふたたび動きだした。猫の体を左脇にしっかりと抱えこみ、頭を大きな右手で鷲づかみにしたかと思うと、固い瓶の蓋でも開けるように思いきり左に捻った。
猫は声をあげる暇もなかった。一瞬にして首の骨が折れたのだ。頸骨の捻じ切れる音が鳴ったのかもしれないが、はっきりとは聞こえなかった。というのも、猫が死んだであろう瞬間に奇妙なことがいちどきに起こったからだ。堀内の頭上の蛍光灯が、ほんの二秒ほどだったが急に消え、居間が真っ暗になったのである。と同時に、壁に掛けられていた、どこを描いたとも知れない風景画がサイドボードの上に落下し、そのあと盛大な音を立てて床に落ちてきた。
ふたたび電気が点くと、堀内は、どこかあどけないようなぎょっとした顔つきで居間を見わたした。堀内の腕のなかで猫の脚がかすかに痙攣していた。なぜ蛍光灯が消えたのか私にはわからなかったし、堀内にもわからないようだった。すぐに復旧したのだから停電ではないし、ブレーカーが落ちたのでもない。そして壁の絵だ。テレビ画面ほどの大きさの、重厚な木彫りの額縁のついた油絵だったが、選りに選って猫の首が折れた瞬間に落ちてきた。麻紐のようなもので壁のフックに掛けられていたようだが、その紐が千切れていた。何年ものあいだ、いや、もしかしたら何十年ものあいだ絵を支えてきたはずの紐が、どうしたわけか猫の絶命とともに千切れた。
猫の命、居間の電気、絵画の紐、その三つが惑星直列でも起きたように同時に切れたことにより、堀内はしばしのあいだ啞然としていたが、やがてはっと我に返った様子で抱えていた猫の死骸をソファにそっとおろした。その手つきは、直前に露わになった暴力性とは裏腹に、愛情さえ見てとれるものだった。しかし猫はもはや痙攣もしておらず、半開きの目と口でただぐったりと仰向けに横たわるばかりだ。堀内は自分が発作的にしでかしたことに愕然としているのだろうか。そうは見えなかった。むしろ、この猫が最期に何かをやったのではあるまいか、と疑いのまなざしで愛猫の亡骸を見おろしているようだった。〝猫を殺せば七代祟る〟とはよく言うが、その祟りの力が早速、発現したのだろうか。
一方、私もまた啞然としていた。それどころか得体の知れない寒気が背すじに貼りつき、なかなか去ろうとしない。堀内はなぜ猫を殺したのだろう。この五カ月間、堀内が猫を乱暴に扱うのを見たことがなかった。毎日きちんと餌をやり、嫌がられながらも爪も切ってやり、ときには風呂にも入れていた。人づきあいに破綻を来した人間ほどペットを溺愛するという一例を地で行っているのかと思っていたのだが、たったいま突然、なんの予兆もなく、愛猫の首を捩り折ってしまった。なぜ猫を殺す必要がある? 警察が踏みこんできたところで、当たり前の飼い猫のことなど咎められるはずもないのに……。ただの自棄糞か? それとも発作的な怒りの爆発を、たまたま身近にいた猫にぶつけてしまっただけか? いや、もしかしたら刑務所入りは避けられぬと踏んで、野良にするぐらいならいっそ楽に殺してやるのがせめてもの慈悲の心だと考えたのかもしれない。いや、だとすると少女を眠らせる理由がわからなくなる。いったいこの男は何を考えているのか……。
堀内は、ソファに横たえた猫の腹を最後にひと撫ですると、座卓に載っていた自作の絵の束を無造作に脇に抱えておもむろに立ちあがり、裏返って床に落ちている絵画をしばし訝しげに見おろしたが、拾うこともせずひと跨ぎにして、居間を出た。小便でもするのかと思ったが、便所ではなく階段のほうに向かい、大きな図体で階段を軋らせながら登ってゆく。二階の廊下の電気を点けると、母親がいる八畳間のほうに向かい、目張りされた引き戸の前にしばしのあいだ立ちつくした。
堀内の表情からは何も読みとれないが、やはり母親の死体を処分するつもりだろうか。この五カ月間、堀内がこの部屋の前に立ったのを一度も見たことがなかった。もしかしたら五年ぶりの感動の再会ということになるのだろうか。それとも私が知らないだけで、堀内はときおりこの部屋を訪れては、母親の木乃伊と面会し、古き良き時代の追憶に耽っていたのだろうか。
抱えていた絵の束を板張りの床に置くと、堀内は引き戸のまわりに貼りめぐらせたガムテープを剝がしはじめた。早速、仄かに死臭が漏れてくるが、堀内は顔色一つ変えない。剝がしたガムテープを丸めて床に放り投げ、またしばしのあいだ引き戸の前に立ちつくす。踏んぎりがつかないのだろう。私が堀内でもこの呪われた部屋に、やあ、待たせたね、などと気軽に踏みこんでゆく気にはなれない。
しかし堀内は意を決し、とうとう引き戸に手をかけ、そろそろと開けてゆく。途端に強烈な臭気が廊下に溢れ出し、私はまたもや眩暈に襲われた。堀内も眉間に深ぶかと皺をよせ、母親の芳香を耐え忍ぶ顔つきだが、見た目どおり鈍感なのか、それとも生来我慢強い性分なのか、吐き気をこらえる様子もなく、戸をすっかり開けきった。その瞬間、ぴしり、というような鋭い家鳴りめいた音がした。はて、首を傾げると、またもや、ぴしり、ぴしり、と二度鳴った。さっきの居間での電気が消えたことと言い、絵画が落ちたことと言い、どうも胸がざわついてならない。しかしそれは堀内のほうも同様らしく、何ごとかという様子で見まわしている。
しばらく耳を澄ましていたが、もう家鳴りは聞こえなかった。堀内も気を取りなおし、床から絵の束を拾いあげると、とうとう開かずの間に足を踏み入れてゆく。私としては、もちろん入りたくないし、入る必要もないと思うのだが、ここまで深く関わってしまったからにはすべてを見とどける義務があるような気がし、腹を括って堀内のあとについてゆく。
堀内は、やはり変わり果てた母親の姿をつぶさに観察したいとは思っていないのだろう、電気を点けず、暗闇のなかを歩き、恐るおそる奥のベッドのほうへと近づいてゆく。堀内は知るまいが、この部屋には母親が二人いる。一人は木乃伊となって横たわっており、もう一人は亡霊となって宙をさまよっている。私はどちらにも対面したくないが、より嫌悪感を催すのは亡霊のほうだ。死体は大人しく寝転がっているだけだが、亡霊のほうはそうはいかない。
あれ、と私は首を捻った。亡霊がいない。五カ月前は宙に俯せになる格好で天井ぎわに浮かび、猛烈な勢いで何ごとかを捲したてていたというのに、部屋じゅうを見わたしても亡霊の姿がない。奇妙なことだ。あの手の亡霊は、死体を動かすか処分するかしないかぎり、勝手に消えてなくなったりはしないはず。この部屋にのみ取り憑いているというのは私の早合点で、二階のほかの部屋や屋根裏をさまよったりしているのだろうか。
と、そのとき、またもや、ぴしり、と家鳴りがした。さっきよりも近いと感じた。やはり亡霊はいる、と思った。この家鳴りは母親の仕業に違いない。経験上、亡霊のいる家は家鳴りが激しいのだ。もしかしたら居間で電気が消えたり絵が落ちたりしたのも、白猫の祟りなどではなく母親の激情の迸りだったのかもしれない。
堀内も一瞬、家鳴りに気を取られた様子だったが、すぐに興味が失せたのか、ベッドの傍らに立って母親を見おろし、
「ママ、怒ってるの?」とつぶやいた。「仕方なかったんだよ。ユキを苦しませるわけにはいかないからさ」
返事をするかのように、ひときわ大きな音でまた、ぴしり、と鳴った。しかし私をぎょっとさせたのはその家鳴りではない。畳から手が生え、堀内の右足首をつかんでいたのだ。青白い老婆の手だった。畳から手がもう一つ現れ、左足首をつかむ。内側に湾曲した長い爪が肉に喰いこんでいるように見えるが、堀内はまったく気づく様子がない。私は思わず後ずさり、堀内の両足首をむんずとつかむ一対の筋ばった手を見おろした。
「それにママにとってもいいことのはずだよ」と堀内は続ける。「ユキが向こうに行ったらさ、真っ先にママのところへ向かうはずだからね。そしたらまた可愛がってやれるだろ? ユキだってもちろん喜ぶし、ママだって嬉しいでしょう? でも残念だけど、僕はそこには行けないなあ。僕が行くのはきっと地獄だからね」
亡霊の右手が指を蜘蛛のように蠢かし、足首から脹ら脛へと上ってゆく。左手もまた。亡霊は息子の背中をずるずると這いあがるようにして、腕、頭、肩と、徐々に全身を現してゆく。恐るおそる横から覗きこむと、以前と同様、老婆の口は恐ろしいような速さで動いており、声こそ聞こえないもののやはり何かを訴えているようだ。何を訴えているにせよ、母親は眼球がこぼれ落ちんばかりに目を見ひらいており、額が割れそうなほどの眉間の皺や憎々しげに剝き出された歯とあいまって、久方ぶりに面会に訪れた息子に愛情に満ちた言葉をかけているわけでないのは一目瞭然だった。
母親はいよいよ背中を這いあがると、息子の頭を背後から搔きいだき、左耳に嚙みつかんばかりに口をよせ、猛烈な勢いで喋りつづけている。さしもの堀内も首すじに何やら気配を感じたらしく、肩が凝ったように頭をぐるりと巡らせたが、それ以上の反応は見せず、
「きょうはねえ、ママに絵を見てもらおうと思って持ってきたんだ」と言いながら、なんとベッドの縁に腰をおろした。ベッドが軋み、死体がやや傾いだが、堀内はまるで気にせず続ける。「ママは昔から僕の絵を褒めてくれたねえ。だからこんなにたくさん描いたよ。実はもっともっとたくさん描いたんだけど、気に入らないやつは全部破って捨てた。芸術家ってそういうもんでしょう? 自分の上澄みだけを残しておきたいって思うもんじゃないかな」
なんと異様な光景だろう。幽鬼と化した母親を、そうと知らずに息子が背負い、母親の腐り果てた亡骸に語りかける。亡霊はげっそりと頰の削げ落ちた凄まじい形相で、息子の耳に向かって無音の迸りをぶつけつづけているのだが、当の息子はそよ風ほどにも感じていない様子で、虚空を見つめて微動だにしない木乃伊に一枚一枚、不気味な絵を見せてゆく。そのあいだもときおり、ぴしり、ぴしり、と家鳴りが弾けるのだが、堀内はもう驚きもせず、死体との、亡霊とのひとときを過ごしている。
「ママが言ってたことをときどき思い出すよ。上手な絵が描けたら、ほかの誰も見てくれなくても、きっと神様は見てるって言ってたねえ。そう言えば、絵だけじゃないよね。誰も見ていないようでも、正しいことをすれば神様が見てる。悪いことをしても見てる。なぜならこの世のすべての人間の心には神様が住んでいて、すべての人間の目を使ってすべてのことを見ていて、何も見のがさない。でも最近思うんだよ。たしかに神様はいて、何もかも見てるのかもしれない。でもただ見てるだけなんだ。正しいことも間違ったことも、ただ見てるだけ。神様はそもそも心を持たないから、心を与えられた人間がどう振る舞うか、ただ見てるだけなんだ。迷路に放りこんだ鼠がどう歩くか見てるみたいにね。さっき僕は地獄へ行くなんて言ったけど、たぶん本当は地獄なんかないんだよ。天国もない。神様は僕らを生前のおこないによって振り分けたりはしない。だから僕らは神様なんかに頼らずに、自分のことは自分で決めなくちゃならない。何者として生き、何者として死ぬのか、全部自分で決めなくちゃならない。自分の外側に物差しなんかない。自分の内側にしかない。自分の目玉で世界を見わたすしかない。自分の耳で世界を聞くしかない。自分の心だけを引きずって世界を生きていくしかない」
堀内は母親に絵を見せながら要領を得ない人生論をつぶやいていたが、最後の一枚を見せ終えたところでしがみつく亡霊を背負ったまま立ちあがり、絵の束を死体をおおう蒲団の上にどさりと置いた。
「この絵も今夜、処分しなくちゃいけない。最後にママに見てもらえてよかったよ。結局、僕の絵を褒めてくれたのはママだけだったからね。それにしてもママには迷惑かけたなあ。さんざんひどいこと言って、ママを泣かせたこともあったねえ。かっとなって手をあげたこともあった。生まれてきたのが僕じゃなかったら、ママはきっと幸せになれたろうに……。すまなかったねえ。でも、それもこれも全部きょうで終わりだ。本当はもっと早く終わらせるべきだったんだろうけど、それを言いだしたら、そもそも生まれてくるべきじゃなかったって話になっちゃう。だから今夜、終わらせるよ。自分の手で終わらせる。ママもやっと安心して眠れるだろ?」
そこまで言うと、堀内は振りかえって部屋の隅の整理簞笥のほうに向かった。簞笥の前には、青黒い大きな布がかけられた何かが置かれてあった。衣装ケースか何かだろうかと思ったが、堀内がその布を引っぺがすと、まったく別のものが現れた。おそらくは金属製の、深緑色をした四角い容器のようなものが二つ。中身はきっと液体だ。一〇リットル入りが二つとすると、二〇リットル……。水とは思えない。嫌な感じがした。堀内は一つの容器の蓋を回しはじめた。蓋が外れると、途端に部屋に充満する死臭の隙間をこじ開けるようにしてガソリンのにおいが漂いはじめる。
燃やす気だ! 私はその気づきに、脳天から尻までを串刺しにされた。堀内はすべてを燃やす気だ! 母親の死体も、この屋敷も、おそらくは自分自身のことも! あの子はどうなる? ガソリンの容器は二つある。一〇リットルは母屋に撒き、残りの一〇リットルは離れに撒くつもりでは? あの子をボヅラと一緒に生きたまま焼き殺す気では? 今夜の豪勢な食事は、つまり死出の旅路の前の最後の晩餐だったのでは? それにしても抜け目のない男だ。いつかすべてを終わらせねばならない日が来ることを見越し、ガソリンまで用意しているとは……。
堀内が容器を抱えあげ、母親の死体の上にガソリンを振り撒いてゆく。その背中に取り憑く亡霊の形相はいよいよ凄まじく、目を剝いて唾を飛ばさんばかりにがなりたてているのだが、その声は微塵も息子の耳には届かない。母親はおそらく息子の所業を咎めているのだと思われるが、猫を捻り殺したことを責めているのか、それとも屋敷を燃やすことを責めているのか、はたまた中嶋千鶴を道連れにすることを責めているのかはさだかではない。
しかし荒ぶる死霊はまったくの無力というわけではないようだ。いよいよ家鳴りが激しさを増し、そのたびに家がかすかに身震いする。簞笥までがガタガタ言いだし、抽斗が少しずつ迫り出してくる。堀内もさすがに驚いて手を止め、簞笥に目をやった。その瞬間、抽斗の一つが見えない手で引っこ抜かれたように飛び出してきた。続いて二つ、三つ……。堀内の頭上で円い大小の蛍光灯が立てつづけに砕け散り、ガラスの破片が降りそそいだ。堀内は少しのあいだ呆気に取られて立ちつくしていたが、我に返ると、くぐもった唸り声をあげながら断固とした手つきでふたたびガソリンを撒きはじめた。
こうしてはいられない、と私も我に返った。一刻も早く少女を助け出さねばならない。このままでは少女が焼き殺されてしまう。いや、その前に眠ったまま煙を吸って死ぬかもしれない。堀内もきっとそれを狙っている。だからわざわざ眠らせたのだろう。堀内が離れで眠れる少女によりそって、ありもしない宿命の絆を夢想しながら最後のときを迎えようとするおぞましい光景が脳裏に浮かんだ。なんと図々しいやつだろう! 死ぬなら一人で死ねばいいものを!
しかしひとすじの光明がある。離れの扉が開放されていることだ。少女が目を覚ましさえすれば、いまならこの家から逃げ出せる。『眠れる森の美女』のように口づけ一つで目を覚まさせることができるのなら楽なのだが、私は王子様ではないし、少女を眠らせたのも魔法使いの呪いではない。ここに至って私にできることと言えば、少女の夢にもぐること、それのみ。睡眠薬で眠りに就いた人間の目を覚まさせるのが容易ではないことは、経験上わかっている。しかしやるしかない……。
私は堀内を置いて八畳間から駆け出た。しかし連日の〝吹きこみ〟が祟り、身の運びはいかにも年寄りくさくもたもたしており、自分で自分がもどかしい。階段をふらつきながら降りていると、がたん、と大きな音がし、家が震えた。どうやら八畳間で簞笥が倒れはじめたようだ。これほどまでに強い力を持った亡霊に出会うのは初めてのことだが、それでもきっと息子の凶行を止めることはできないだろう。
一階に降りると、建具という建具が地震さながらに激しくガタついており、居間のガラス障子が、ぴしゃん、と音を立ててひらいたかと思うと、ガラスが砕けて廊下に散らばった。玄関の下駄箱の上に載っていた花瓶も、ふわりと浮かびあがり、床に叩きつけられる。仏間に入ると、仏壇や衣装ラックや照明器具が踊らんばかりに動きだし、お鈴や遺影や蛍光灯の破片が立てつづけに飛んできたが、幸い私は実体を持たない夢魔だから痛くも痒くもない。渡り廊下を進むと、離れの開き戸がばたんばたんと開閉をくりかえしており、思わず立ち止まりそうになるが、えいやとばかりに突っこんでいく。
離れに飛びこむと、壁ぎわの棚も激しく揺れており、飼育ケースが次々に飛び出して中身を床にぶちまける。突然、自由な世界に放り出されたボヅラたちは、きいきいと鳴き声をあげながら畳の上で右往左往するばかりだ。こんな騒然たる状況にもかかわらず、少女は蒲団に静かに横たわり、夢を立ちのぼらせている。しかし見た目の濁り具合と言い、苦みのあるにおいと言い、悪夢を見ているのは間違いない。
私は少女の傍らにひざまずくと、その寝顔を覗きこむ。少女は目を固くつぶり、眉間に翳りを集め、やはり悪夢を耐え忍んでいるようだ。「すぐに行くからな。もう少し頑張れよ」と囁きかけると、私は頭から飛びこんでゆくように少女の夢にもぐりこんでゆく。ふと、きっとこれが最後だ、という思いが脳裏をよぎった。上手くいってもいかなくても、この子の夢にもぐるのは今夜が最後だ……。
十九
案に違わず〝出られずの森〟だ。私はいつものように鴉の姿で樹の洞から顔を出し、荒涼たる森を見わたしている。
しかし私は愕然としていた。色がないのだ。まるで堀内の夢のようにすべてが白黒なのである。睡眠薬のせいだろうか、と一瞬考えたが、そんなはずはない。いままで数えきれないほど睡眠薬服用者の夢を喰らってきたが、白黒の夢に出くわしたことはないのだ。ふと、少女の夢が堀内の夢に冒されているのでは、という奇妙な考えが兆したが、同じ家に暮らしているからと言って他人の夢の影響を受けるという話は聞いたためしがない。きょうのきょう白黒の悪夢を見るということは、少女は眠りのうちにもみずからの危機的状況を察知しており、その恐怖や不安が夢から色を奪い去ったのかもしれない。
しかし不穏な兆候は色だけではない。嵐が近づいているのか、猛烈な風が吹き荒れており、黒い拗くれた樹々が忘我の舞踏に明け暮れるかのように身をくねらせ、巻きあげられた無数の落ち葉が縦横無尽に舞い狂っている。空を仰げば、黄金色に染まった雲ぐもの隙間から青空が覗いていたはずだが、今夜の夢では、彼方まで分厚く途切れなく垂れこめた鈍色の曇り空の下をどす黒い雲が濁流のように凄まじい速さで流れてゆく。いや、あれは黒雲ではない。煙だ。夥しい黒煙が、世界を闇でおおわんばかりに森の上をざわざわと流れているのだ。
実際、風にきな臭さが混じっている。何かが燃えているに違いない。まさか少女は、眠りの底に横たわりながらも堀内が家に火を放とうとしていることを感じとっているのか? それとも堀内はすでに火をつけ、煙が渡り廊下を通って離れに届きはじめているとか? だとしたら急がねばならない。一刻も早く少女を見つけ、夢の出口に導き、目覚めさせねばならない。
そんな焦りに駆られたところで、右手から何かが押しよせてくるようなざわめきを感じた。目を凝らすと、木の間隠れに森の奥から現れたのはボヅラの群れだと知れる。何十匹、いや、何百匹だろうか、もしかしたら何千匹かもしれない、とにかく狼のような姿をしたボヅラの大群が怒濤のごとき勢いで森の底を駆けてくる。獲物を追っているのだ。その獲物とは? もちろん少女だ。ということは、ボヅラの向かう先に少女がいるはず……。
とそこで、ボヅラ狼たちの様子がいつもと違うことに気づく。どのボヅラも燻る石炭でも呑んだみたいに口元から黒い煙を吐き出しているのだ。次の瞬間、先頭を走っていた一匹が出し抜けに口から火を噴き出し、その火炎放射器さながらの炎の舌がやすやすと樹に燃えうつったではないか! しかも不思議なことに、その火だけがしっかりと色を持ちそなえており、陰鬱な白黒の世界にあって、目の底を焼かんばかりに鮮やかに燃えさかっている。見ていると、ほかのボヅラ狼も次から次へと火を噴き、手当たりしだいに樹々を焼こうとしている。どうやら空を漂う黒煙は、そしてきな臭さは、ボヅラの群れが森に火をつけながら移動しているせいらしい。幾度となく少女の夢にもぐり、様ざまな形態のボヅラを見てきたが、あんな地獄の猟犬のようなのは初めてだ。
とそこでようやく私は、ボヅラ狼の大群のなかに、一つだけ巨大な黒い塊のようなものが交じっていることに気づいた。怪物だ。これだけ多くのボヅラ狼がいるからには、それを率いる怪物がいないはずがない。しかしその怪物は、私がいままで見てきたどの怪物よりも醜悪な、巨大なゲジゲジのようなおぞましい姿をしていた。潜水艦のような形状の胴体の両側から、二十対はあろうかという細長い脚が伸びており、その脚をざわざわと波打つように動かしながら、滑るようにこちらに走ってくる。胴体の前部には、ケンタウロスのように人間の上半身らしきものが生えているのだが、その姿は闇よりも濃い漆黒であり、車のヘッドライトのような双眸ばかりが白く丸く輝いている。胴体の背には、例によって多くの腫れ物らしき突起があり、その腫れ物が泡のようにはじけるたびになかから新たなボヅラが生まれ、すぐさま戦列に加わってゆく。
「ママぁ!」と怪物の轟くような声が響いてくる。「ママはいったい何度、俺に誓ったろうね! もう二度と逃げ出さないって、何度、俺に許しを請うたろうね! でもそれもきょうで終わりだな! さすがの俺ももう愛想が尽きたよ。ママの望みどおり、すべてを終わらせようじゃないか! この森を焼きつくし、俺たちの物語の幕引きとしようじゃないか!」
こうしちゃいられない。私は慌てて洞を飛び出し、左手に嘴を向け、全力で翼を動かす。どうあっても怪物たちより先に少女を見つけ、夢の外に連れ出さねばならない!
荒れ狂う強風に揉みしだかれながら、樹々を縫うようにしてボヅラ狼たちの先を飛んでゆく。翼がある分、この競争は私のほうが有利だと思っていたのだが、そうはうまく運ばないことがすぐにわかってきた。怪しげな鴉の姿に気づいたのだろう、怪物が次々に蝙蝠のような翼を持ったボヅラを生み出し、私を追わせはじめたのだ。ボヅラ蝙蝠は、小回りこそ利かないが、どうやら私よりも速く飛べるらしく、みるみる迫ってくる。
「鴉ぅ! またお前か!」と怪物の声が追ってくる。「ここは俺様の森だ! きょうこそは焼き鳥にして喰ってやる! 羽根という羽根を毟り、翼を引きちぎり、脚を引っこ抜き、首を捻り、目玉を抉り、脳味噌を啜り、骨まで嚙み砕いて喰ってやる!」
このままでは追いつかれる。私は全速力で飛びながらも叫びに叫び、仲間を呼んだ。すぐさま樹々の洞という洞から無数の鴉たちがひょこひょこと首を出しては飛び立ち、群れとなってボヅラ蝙蝠に襲いかかってゆく。ボヅラ蝙蝠のほうが遥かに図体が大きいが、こちらは数で勝っている。一匹のボヅラ蝙蝠に対し、百羽の鴉が群がって真っ黒な鴉玉となり、全身をつつきまわしながらとくに眼球を狙ってゆく。目を突かれたボヅラ蝙蝠はぎゃあぎゃあと鳴き叫んで次から次へと落ちてゆくが、数はいっこうに減らない。怪物が猛烈な勢いでボヅラ蝙蝠を生み出しつづけているからだ。私も負けじとさらに仲間を呼び、森じゅうに鴉の鳴き声が満ちる。正直なところ、私は老いさらばえ、力を使い果たしつつあるのだが、この夢を凌ぎきり、少女を救い出すことさえできれば、あとはもう〝吹きこみ〟など二度とやる必要のない安穏な暮らしが待っているはずなのだ。
とうとう逃げる少女の後ろ姿が見えてきた。倒けつ転びつ木の間を駆け抜けながら、ときおり後ろを振りかえっては怯えた顔を見せる。その姿を見た私は、ほう、と思った。不思議なことに、火と同様、少女もまた彩りを失っていないのだ。世界じゅうの空を煮つめたような瑠璃色のワンピースをまとい、走りつづけているせいだろう、顔は赤く上気している。怪物やボヅラと違い、少女にだけ色が残されているのは、もしかしたら彼女がまだ希望を失っていないことの証なのかもしれない。
血眼になって追いかけてくる怪物たちを鴉の群れで必死に押しとどめながら、私は鮮烈な青に身を包んだ少女の背中に迫った。少女も振りかえって私の姿に気づき、あっと言うような顔をしたが、その瞬間に樹の根に足を取られ、勢いよくつんのめった。私はすかさず少女の浮いた体の下に滑りこみ、ひと息のうちに馬の姿に変化する。ただの馬ではない。煌めく銀の毛並みをまとい、黄金色に輝く角を一本ひたいに生やしたユニコーンだ。
少女は危うく私の背中にしがみつき、落馬を免れた。私の首に腕を回しながら、
「鴉さん! 遅いじゃない!」と声を張りあげる。「ほんとにもう捕まるかと思ったよ!」
「悪かった」と私は駆けながら謝る。「でもこれでもぎりぎりだったんだ。まさか怪物とボヅラが森に火を放つとは思ってもみなかったから。どうやらあいつらはもう君のことを連れもどそうとは考えていないようだよ。とにかく怒り狂ってて、手がつけられない。何もかもを燃やしつくして、すべてを終わりにするつもりなんだ」
「どうしたらいい?」と少女の声はいまにも泣き出すのをこらえているようだ。
「一緒に森を脱け出そう。きょうこそ外の世界へ脱け出すんだ」
「どうやって?」
「君も知るとおり、この道は〝三千世界の塔〟につながってる。きっとあの塔のなかに、本当の出口があるはずなんだ。いままではずっとその扉が閉ざされていたけど、きょうだけはひらかれてる。きっと最初で最後のチャンスだよ」
「でもあいつらが追ってきてる。塔が見つかったら壊されてしまうかも……」
「大丈夫さ。あいつらをまいて塔に向かうんだ。そもそもあいつらは塔の存在を知らない。それに秘密の道を通らないとあの空き地にはたどり着けないし、空き地に着いたって塔は地中に隠されているからね」
「でも見て! 向こうに見えるのは塔のてっぺんじゃない?」
「なんだって? そんなはずはない。塔を地上に引っぱり出すには、樹の洞のなかの秘密のレバーを引かないと……」
本当だ! すでに塔が出現している! 誰かがレバーを引いたのだ! 誰か、と問うまでもない。塔の外壁をたくさんの何かがうぞうぞと這いまわっているのが見える。ボヅラだ。以前、自在に樹に登る守宮のような姿のボヅラを見たことがあるが、きっとそれだろう。どうやらボヅラの別の群れがすでに先回りをしていたらしい。ボヅラにもレバーを見つけて引くぐらいの知恵はあるということか。しかもしきりに炎を吐き、燃えないはずの石造りの塔を燃やそうとしているようだ。数十匹は数えるだろうボヅラ蝙蝠の姿もあり、まるで戦場のハゲタカのように禍々しく塔のまわりを飛びまわっている。私たちという獲物の到着を生唾を飲みながら待ち受けているのだろう。
「行くしかない」と私は言う。「ボヅラは塔のなかにまでは入っていないはずだ。君がいないと、誰もあそこには入れないからね。とにかく塔に入って、最後の扉を探すんだ」
「わかった」と少女も腹を括ったようだ。「一緒にこの森を出よう。森を出ても、ずっとずっと一緒に旅をしよう」
「そうだね」と私もうなずく。「きっとそうしよう」
そのためには、老体に鞭打って最後の力を振り絞らねばならないだろう。私は全力でいななき、さらに援軍を呼びよせた。見わたすかぎりの樹々から無数の鴉が飛び立ち、塔に向かって羽ばたきはじめる。羽ばたきながら徐々に身をよせあい、百羽ほどが一つの塊になってゆく。その塊はやがて冴えざえとした空色のペガサスの姿になり、舞うように駆けるように樹々の合間を抜けてゆく。色を持った少女の力が流れこんできているのだろう、私だけでなく私の創造物にもどうやら色が与えられるようだ。数十頭の青いペガサスが私たちに先んじて塔に向かい、ボヅラの群れとの戦線をひらく。
嵐だ。とうとう雨が降りだした。世界の涯まで煙るような猛烈な雨だ。その雨が縦横無尽に吹き荒れる風に煽られ、敵味方もなくすべてをずぶ濡れにしてゆく。にもかかわらず森の火は消えるどころかますます燃えひろがり、塔を囲む樹々は篝火のように轟々と炎をあげ、雨にも負けぬほどにたくさんの火の粉を散らし、どちらを向いても地獄さながらの光景がひろがっている。と言うのも、嵐の到来とともに落雷が始まったのだ。十秒と間を置かずに脳味噌が真っ白になるような強烈な稲光が閃き、ごろごろどかんとはらわたが揺れるような轟音を立てたかと思うと、あちらこちらからさらなる火の手があがる。のみならず、空をおおう雷雲はどうやら〝三千世界の塔〟を千年来の宿敵と思いさだめたらしく、四方八方から滅多打ちにしてやると言わんばかりに稲妻の鉾を突き立てるのだ。そのたびに塔の外壁が砕け、ばらばらと石の破片が降ってくる。こんな嵐が続けば、遅かれ早かれバベルの塔のように崩れ落ちるだろう。
空ではボヅラ蝙蝠とペガサスが取っ組みあいを演じ、しきりに相手に炎を浴びせかけたり、吹雪を吐きかけたりしている。地上でもボヅラ狼と鴉が組んず解れつの大乱闘をくりひろげ、そこに鴉から捏ねあげた巨大なゴーレムが参戦し、もはや私ですらどこで何が起きているか把握できない状況だ。もちろんすでにゲジゲジのような怪物も追いついてきており、いまのところは三体のゴーレムと鴉の群れでどうにか塔への接近を阻んでいるが、いつまでもちこたえられるかわからない。
「ママぁ!」と怪物の声が嵐を裂いて轟く。「そんなちんけな塔に逃げこんだところで無駄だぞ! 出口にたどり着く前にこの俺が押し倒してやる! 鴉と一緒に瓦礫に押しつぶされて死ぬのがオチだ! ここがお前らの墓場であり、瓦礫の山がお前らの墓標だ!」
私は後ろ脚と黄金色の角で、襲いくるボヅラを懸命に蹴散らしながら、やっとこさ塔の扉の前にたどり着いたところだ。少女は私の背から飛びおりると、窪みに手を当て、もどかしげに「お願い! 早く早く早く!」と言いながら、扉を塔のなかへと押しこんでゆく。しかし扉は少女の懇願など一顧だにせず、いついかなるときも自分を曲げないとでも言うように、ずずずず、とゆっくりしか進んでいかない。私は扉の前に陣取り、群がってくるボヅラを蹴り飛ばしたり角で突き刺したりして撃退する。少女が塔のなかに入れれば、私もあとを追わねばならないが、このユニコーンの姿では大きすぎて扉をくぐれない。となるといったん鴉に戻る必要があるが、そのあとは扉が無防備に開きっぱなしになり、ボヅラや怪物までが塔に入りこんできてしまう。私はゴーレムを一体、新たに捏ねあげ、扉の前に立ちふさがらせることにした。ちょっとした時間稼ぎにしかならないが、それでも何もしないよりはましだろう。
ゴーレムにあとをまかせると、私は鴉になって少女のあとを追った。少女は入ってすぐのところで「早く早く!」と手招きしている。私は少女の肩には留まらずにまた脚のあいだに飛びこんでユニコーンに戻る。撥ねあげるようにして少女を背に乗せると、正直ひと息つきたいところだったが、おのれを叱咤して右側の階段を駆けあがってゆく。
「きっと塔のいちばん上の扉だ!」と私が言うと、
「三千個目の扉だね! あたしもそうじゃないかと思ったよ!」と少女が答える。
その声から怯えではなくむしろ勇ましさを感じられるのは、きっと私を信頼しているからだろう。それもこれも数々の夢で少女を希望に満ちた結末まで導いてきた実績によるものだが、今回にかぎっては、私は少女に何も約束できない。
私たちが塔に入りこんでしまったことに天が激怒しているらしく、さっきよりなおいっそう落雷の頻度を増し、滅多矢鱈に稲妻で塔を打ちすえる。そのたびに塔全体が震え、あちこちに亀裂が入り、内壁が砕けて破片が降ってくる。恐ろしいことに階段にまで亀裂が走り、ときおり蹄で踏みこんだ瞬間にがくりと崩落してゆくので、すんでのところで体勢を立てなおすことをくりかえしている。
二百個目ぐらいの扉まで登ったところで、どうやら塔の入口を守らせていたゴーレムが力尽きたらしく、なかにボヅラが侵入してきた気配があった。きいきいという鳴き声と炎の息が溢れんばかりに一階に満ちたかと思うと、私たちの姿を認め、怒濤となって階段を駆けあがってくる。階段はあちらこちらですでに崩れているのだが、意外なことに、ボヅラにも仲間意識や自己犠牲の精神があるらしく、先行する個体が肉体の橋となってその欠落を埋め、後続を前に進ませる。もちろんボヅラ蝙蝠も塔のなかに侵入してきており、やつらは階段になど目もくれず、まっすぐ私たちを目指して飛んでくる。
しかしやはり真打ちは怪物だ。巨大なゲジゲジの姿だった怪物は、漆黒の大蛇となって入口をくぐりぬけ、階段など必要なしと言うように、重力を無視して塔の内壁にへばりつくと、ぬるぬるとした不気味な動きで螺旋を描きながらこちらへのぼってくる。よく見ると、体側に無数の小さな脚がずらりと並んでおり、それが波打つように動いて進んでいるらしい。となると蛇というよりは百足に近いが、その脚の数は百どころか千も二千もありそうだ。全長が二、三〇メートルはあるだろう蛇腹状の胴体の先端には、巨大な人間の顔のようなものが突き出ており、鋸歯状の牙がずらりと並んだ口からは絶え間なく黒い煙が噴き出している。その上には、爛々と光る巨大な丸い目が銀河のように渦巻き、どうやら先を行く私たちを睨み殺さんばかりに見すえているようだ。頭部からはメドゥーサの蛇のように蠢く漆黒の髪が生え、側頭部からは湾曲した二本の巨大な角が伸び、階段にこすれてしきりに火花を散らしている。そしてやはり背中はたくさんの腫れ物でおおわれており、それがあちこちではじけてはつねに新たなボヅラが生み出されている。いままで何度も怪物を拝んできたが、怒りと憎しみが極限に達したせいだろうか、あんな気色の悪い姿は初めてだ。
「ママぁ!」と怪物が怒号で塔を震わせる。「追いかけっこはそろそろ終わりにしようじゃないか! お前らの狙いはわかってるぞ! 最後の扉までたどり着けば、この世界から出られるとか夢みたいなことを考えてやがるな!」
「やっぱり入ってきたな、ちくしょう……」と私が舌打ちすると、
「今度はあたしが鴉を呼んでみる!」と少女が声を張りあげる。
そして器用に鴉の鳴き真似をすると、瑠璃色のワンピースの裾が朝顔のようにひろがり、そこから無数の鴉が飛び出してきたではないか! 鴉の姫君ヴィータの魔法というわけか! そうこなくては!
鴉の群れは黒い濁流となって少女の背後に迸り、うねりながら怪物やボヅラに襲いかかる。私はその魔法にひと手間加え、鴉たちの嘴を短剣のように鋭く尖らせると、そこに猛毒を滴らせる。怪物には効かないかもしれないが、ボヅラ相手には充分に厄介な武器となるだろう。果たしてボヅラたちの断末魔の叫びが塔のなかに木霊しはじめた。毒刃にやられたボヅラは、次々に階段から転げ落ち、最期の炎を盛大に噴きあげ、塔の内部を赤々と染めながら一階の床にぐしゃりと叩きつけられる。
しかしやはり怪物には効果がないようだ。鴉の群れが嘴を突き出して猛然と百足に襲いかかってゆくが、毒が効いている様子は微塵もなく、ますますなめらかに壁を這いすすみながら、距離をつめてくる。百足の外殻が硬すぎて嘴が通らないのか、あるいはそもそも毒が効かないのだろうか。それどころか怪物は通草のようにざっくりと割れた巨大な口から猛烈な勢いで黒煙を噴き出しており、その煙にはさらに強力な毒性があるらしく、逆に鴉のほうが枯葉のようにはらはらと落とされてゆく。
しかし私たちはかなり先を行っている。このまま三千個目の扉まで逃げきれるのではないか? そんな希望が頭をもたげた瞬間、なんと螺旋状に塔を登っていた怪物が、頭のほうから宙に浮きはじめたではないか! よく見ると、壁を這っていた無数の脚が蜻蛉の翅のような形状に変化しはじめており、その羽ばたきによって百足の巨体がうねうねと空を飛んでいるらしい。雄叫びをあげながら、天に昇る蛟竜のごとくまっすぐこちらに向かってくる。
このままでは確実に追いつかれる。結局、怪物との直接対決は避けられないということか。しかしこの老体に残された力は日向の水溜まりのようにいよいよ干上がりつつある。あと一度、大きな魔法を使えるかどうか……。
「千鶴!」と声をかける。「君が呼べるかぎりの鴉を全部呼んでくれ! 何千羽でも、何万羽でも! 最後の大勝負と行こうじゃないか!」
「わかった!」と少女は決然とうなずく。「いままでありがとうね」
「なんだって?」
「なんでもない!」と少女は言うと、全世界の鴉が聞き耳を立てるような見事な鴉の鳴き声を響きわたらせた。
少女のワンピースの裾からまたもや夥しい鴉が噴出し、黒い海の底でも抜けたようにいつまでもいつまでも迸りつづける。私はその鴉の大群で大きな渦をつくると、その渦を細長く引きのばし、徐々に一頭の黄金の龍の姿に束ねてゆく。黄金龍の発する光が薄暗い塔内を照らしはじめると、ボヅラたちがしきりに喚きながら顔を背け、追跡の足が鈍りはじめた。黄金龍の体は、巨人の鋳造した金貨をびっしり敷きつめたような輝かしい鱗におおわれており、その全長は飛行百足に勝るとも劣らない。頭からしっぽの先まで続く鬣は、夕陽に映える波濤のように揺らめき、幾重にも枝分かれした二本の角は凍りついた稲光のようだ。黄金龍が身をくねらせはじめると、千年かけて集められた財宝の山のような絢爛たる煌めきが塔内を躍りめぐる。
少女が迫りくる危機を一瞬忘れたような面持ちで「綺麗……」とつぶやいた。しかし私はもはやその言葉に応える余裕もなく、最後のひとつまみの力でユニコーンを走らせつづける。あと私にできることと言えば、最後の扉まで少女を送りとどけることだけだ。それまでこの身がもてばいいのだが……。
黄金龍が天を破るような凄まじい咆吼を放ちながら、宿敵である漆黒の飛行百足に襲いかかる。二つの巨体がぶつかりあった瞬間、どおんと鈍い音が轟く。黄金龍と飛行百足は、決してほどけぬ結び目をつくろうとしているかのようにものすごい勢いでからまりあい、嚙みつきあい、締めつけあい、しっぽで打ちすえあう。黄金龍は百足の毒煙をものともせずに戦っているが、黄金龍の吐く光の息も百足に致命傷を与えるには至らない。空中での組んず解れつの格闘はいよいよ激しさを増し、からみあった二つの巨体が塔の内壁のあちらこちらにぶつかりはじめる。そのたびに階段が破壊され、ボヅラが押しつぶされ、塔に亀裂が走る。そのあいだも外部では雷の集中砲火が続いており、刻一刻と塔の崩壊のときが近づいているように思われる。
どれぐらい登ってきただろうか、と振りあおぐ。うっすらとだが、最上階が見えてきた気がする。円形の天井のようなものがぼんやりと見てとれ、そこにふたすじの階段が渦を巻きながら吸いこまれている。きっとあの上に三千個目の最後の扉があるのだろう。私たちを現実世界へといざなう扉が……。
階段が大きく崩落したことで、ボヅラ狼はもうここまであがってこられない。ボヅラ蝙蝠やボヅラ守宮が追いついてきていないのは、きっと黄金龍の放つ光に目をつぶされたか、鴉の毒にやられたのだろう。あとは首領の怪物一体のみということだが、黄金龍との戦いは互いに一歩も引かず、塔を大きな釣鐘のように震わせつづけている。しかし黄金龍は勝つ必要はないのだ。私たちがこの悪夢から脱け出すまで百足を足止めさえしてくれれば……。
そんな甘えた考えに手を伸ばした瞬間、ひときわ大きな音が轟き、塔がぐらりとよろめいた。怪物のものとも黄金龍のものとも知れない断末魔の叫びが響きわたり、その瞬間、足下の階段が崩壊した。いや、足下だけではない。塔の内壁から突き出ていた階段が一段残らず根元から崩れ落ちた。ユニコーンと少女は瓦礫とともに虚空に放り出され、しかし私にはもはやどうする力も残されていない。落ちてゆく、落ちてゆく……もう少しだったというのに……。
そのとき少女が私の首にしがみつき、
「しっかりして! 鴉さん!」と声を張りあげる。「一緒にこの世界から脱け出そうって約束したでしょう?」
触れあった肌から少女の力が流れこんでくるのを感じた。と同時に、少女の裾からまたもや鴉の群れが溢れ出す。どうやら少女はまだ力を残していたらしい。その最後の鴉たちが私の背を目がけて飛んできて、目映い光を放ちながらみるみる黄金の翼となって羽ばたきはじめる。しかし墜落はまだ止まらない。翼はさらに増えていき、結局、私は八枚もの光の翼を授けられてようやく宙に停止することができ、なんとか体勢を立てなおす。
「危なかった!」と思わず安堵の声が漏れた。「ありがとう。助かったよ!」
「よし、このまま最上階まで飛んでいこう!」と少女が嬉々とした声をあげた。「これで出られるよね! この世界からやっと出られるんだよね!」
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