【直木賞ノミネート!】麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』第1話無料公開 ~意識の高い慶應ビジコンサークル篇~
〈タワマン文学〉の旗手・麻布競馬場待望の第2作『令和元年の人生ゲーム』。発売直後から「他人ごととは思えない!」と悲鳴のような反響が続々と……
4月、やる気に満ちた新入生の皆さまの応援企画として、第1話〈意識の高い慶應ビジコンサークル篇〉を期間限定で全文無料公開いたします!
これを読めば5月病も怖くない……はずです。
『令和元年の人生ゲーム』
第1話 平成28年
2016年の春。徳島の公立高校を卒業し、上京して慶応義塾大学商学部に通い始めた僕は、ビジコン運営サークル「イグナイト」に入った。企業から協賛金を集め、大学生が持ち寄ったビジネスプランを競わせるビジネスコンテスト、略して「ビジコン」を運営するサークルは「ビジネス感覚が身につくし、社会人とのコネもできる」「数百万の予算を動かし、大きなチームの一員として何かに取り組む経験ができる」という触れ込みで、意識の高い新入生たちの間でさっそく注目を集めていた。
「キミのココロに、点火する。」入学式から数日間続いたオリエンテーションの最終日。15時から大教室で始まったイグナイトのサークル説明会でそのキャッチコピーがスクリーンに大映しになった瞬間、会場のあちこちから熱っぽいざわめきが起こった。イグナイトが毎年9月に開催している「IGNITE YOU」は数あるビジコンの中でも特に名門とされ、東大や早慶といった有名大学から100を超えるチームが応募してくる。そんな名門ビジコンの運営サークルには、参加者に負けないくらい優秀な人が集まるようで、説明会で自慢げに紹介されたOBOGの就職先には錚々たる日系大手企業が並んでいた。メインの活動は日吉キャンパスに通う1、2年生が主体となっていて、所属メンバーは70人程度だという。
「イグナイトは自由なサークルです。他のサークルや体育会との掛け持ちもウェルカムです。でも、これだけは覚えておいてください。僕たちは、本気です。日本のビジネスシーンを、大学生の力で、本気で変えたいって、本気で思ってる。だから、生半可な気持ちの人には向いてないんじゃないかな。それでも本気で入りたいって人は、ぜひうちでチャレンジしてみて欲しい。以上です」
法学部政治学科の2年生で、イグナイト代表の吉原さんという人がスーツ姿で挨拶すると「吉原やばいって!」「さすがに尖りすぎだろ!」と、ステージ脇に控えるサークルのメンバーらしき男たちが大きな声を上げていた。
そんなふうに盛り上がる彼らを、数歩離れたところでひとり腕を組み、ニヤニヤ笑いながら見ている男がいた。彼がふちなしメガネの奥で、人を馬鹿にしたような、見下したような目をしているのは、教室の後ろのほうにいた僕からでも分かった。数秒見遣って気が済んだのか、彼の目線はステージ上の吉原さんに移った。そしてそのまま、さっきまでとは少し様子の違う表情で、彼は吉原さんのことをじっと見つめていた。
その日の夜に渋谷の宇田川町の大箱イタリアンを貸し切って開かれた、イグナイトの新歓飲み会でのことだ。会も終わりかけのころ、僕はトイレ待ちの行列に並んでいた。店内で唯一のトイレには先客がもう5分間は立て籠もっていて、ノックしても反応がない。僕は、尿意がまだ遠くにあることに安心しながら、慣れないビールに酔った頭がじんじんと痺れる心地よさに任せて、安っぽい立食パーティーが発する喧騒をぼんやりと聞いていた。
「うちに入るの?」
突然後ろから声をかけられて、びっくりして振り返る。あの腕組みニヤニヤ男だった。左胸には「沼田 経済学部2年」と汚い字で書かれたガムテープが貼られ、薄い眉毛の下の、フチなしの分厚いメガネのレンズは皮脂で白く濁って変な光り方をしている。この人とはあまり深く関わらないほうがいい、と直感で判断した。
「そのつもりです」
「あの吉原の大演説に、まさか感動したんですかぁ?」
吉原、という名前を歪んだ唇の隙間から吐き出した途端に、説明会で見た意地悪な表情が彼の顔に戻ってきた。僕は一瞬悩んだのち、努めて無表情を保ったまま言った。
「……しましたよ。真面目でアツい人、僕は好きなんで」
たしかに、吉原さんのスピーチは正直だいぶイタかった。でもそれ以上に、ああいうみっともなさを伴うアツさを「意識高いね」とか言って、後ろ指差して笑う冷たい空気が僕は大嫌いだった。沼田さんのことはまだよく知らないが、彼こそがその悪しき象徴に違いない。こうなりたくないし、こうなるべきではない――イグナイトに入り、この人とは対極の存在になることが僕の進むべき正しい方向なのだと、そのとき僕は確信したのだった。
「真面目ねぇ」
沼田さんは、僕の発言を拾い上げて投げ返してきた。
「あんな不真面目なやつ、いないと思うけど」
そう沼田さんは続けたので、僕は耳を疑った。ちょうどトイレから先客がゾンビみたいに這い出てきたし、もうこれ以上彼と話したくなかったから、僕は沼田さんに軽く会釈してそのままトイレに入ってしまった。
*
飲み会の翌週、僕は日吉キャンパスで毎週木曜日の夕方に開催されているという定例ミーティングに顔を出すことにした。会場はサークル説明会と同じような階段状の大教室で、その日は1、2年生が40人くらい参加していた。
2時間ほどの定例ミーティングを仕切るのは、例によって代表の吉原さんだ。前回はスーツ姿だったが、今日は黒いパーカーに黒いエアマックスという出で立ちで、ずいぶんカジュアルでオシャレな私服が意外だった。手首には高そうなシルバーのアクセサリーを巻いている。スマホでこっそり調べたらエルメスのもので、15万もするようだ。「なるべく多くの時間をイグナイトのために使いたいからバイトはしていない」と新歓飲み会で言っていたし、親が借りてくれた武蔵小杉のタワーマンションに住んでいるという噂だったから、吉原さんはいいとこのお坊ちゃんなのだろう。
吉原さんは、落ち着いた低い声で議事を進行した。誰かが話しているときはもちろんのこと、自分のプレゼン中もPCの画面を凝視したりはせず、二重のぱっちりした目で出席者一人ひとりの目をじっと見つめるのが印象的だった。新入生の女の子たちから「吉原さんイケメン!」とさっそく人気を集めていた。スラリとした高身長、大学生には珍しく前髪をきちんと上げておでこを出した清潔感のある髪型、細くて長い首に太い喉仏。そして誰にでも分け隔てなく接する誠実で優しい性格。吉原さんは、これまで僕が見てきた中で最も「完璧」に近い人間だった。
スポンサー営業なんかの進捗共有がひと通り終わると、最後の30分でビジネスに関する勉強会が行われる。発表者は持ち回り制で、その日は平井さんという文学部の2年生が担当だった。
「えー、今日はですね、ソーシャルグッド系ベンチャーについて発表します」
平井さんは、ベンチャー企業のロゴステッカーがベタベタと貼られてリンゴマークが見えなくなったMacBookをプロジェクターに繋いでプレゼンを始めた。このあいだの新歓飲み会では泥酔して、上半身裸で発泡酒のピッチャーを一気飲みしていた平井さんだったが、今日は情報がぎっちりと詰まったプレゼンを淡々と行い、その後のフリーディスカッションでもみんなからのフィードバックを真剣に聞いてメモを取っていた。
僕はやっぱりこのサークルの雰囲気と、ここにいる人たちが好きだ。みんな自分の人生に対して真面目で、それでいて「うちは宗教サークルって呼ばれてるから」だなんて、その真面目さを自虐して笑う余裕もあった。ここには誰にでも居場所があって、お互いにリスペクトの気持ちを持っていることが感じられた。そして何より――周囲から「意識高い」と笑われても気にすることなく、学びや経験を通じて圧倒的に成長してやろうという清々しい意欲が、そこには満ちていた。
僕が上京することが決まると、父親は晩酌中に「大学は人生の夏休みだ」と言って聞かせてきた。地元の徳島大を出て、そのまま地元の地銀に就職した彼によると、「どうせ社会人になったらその先40年は働かなければならないのだから、大学生の間は人生最後の夏休みだと思って、授業なんて適当にサボって、徹夜でマージャンをやったほうがいい」のだという。実際、彼自身もそういう怠惰な大学生活を送っていたそうだ。
しかし、僕はそうは思わなかった。大学時代は将来にとって意味のある、価値のあることをしなければならない。だって、僕はこれまでの人生で十分に努力して、名門大学に現役で合格するという成果をようやく得たのだ。それなのに、大学4年間遊び惚け、就活に失敗し、微妙な会社の内定しか取れないだなんてことがもし起きたりすれば、せっかくこれまでの18年間で積み上げてきたものが全て無駄になってしまうじゃないか。そもそも、夏休みといえば遊ぶもの、という前提からしっくり来ていない。塾の夏期講習なんかがあったから、夏休みに存分に遊べたのは、小学校低学年くらいまでだった気がする。
だから僕は、迷わずイグナイトを選んだ。きっと、僕の人生には無限の可能性がある。「活躍する先輩社員」みたいな感じで大きな会社の新卒採用ページに載るかもしれないし、役員や社長にだってなれるかもしれない。そんな未来に辿り着くためにも、父親のように徹夜でマージャンをするのではなく、ビジコン運営サークルで圧倒的に成長する大学生活を選んだのだった。
「みんなとっくに理解した上で黙ってると思うんですけどぉ、ソーシャルグッドとかって、偽善じゃないですかぁ?」
だから、腕を組んでニヤニヤしながら、誰かの頑張りを馬鹿にしてばかりの沼田さんのことが、どうしても好きになれないのだろう。今日の沼田さんは、目の覚めるような鮮やかなグリーン地に「Chill Out...」と白字でプリントされたピチピチのTシャツを着ていた。
「やべっ、沼田劇場始まっちゃったか~」
平井さんが困惑したように両手を頭の後ろに組んでそう言うと、みんな笑った。沼田劇場という言葉はその時初めて聞いたけど、それがどういう「劇場」なのかはすぐに分かった。
「色々と綺麗ごとを言ったところで、資本主義社会において最優先されるのって、結局は利益追求じゃないですかぁ」
つまり沼田さんは、ソーシャルグッド系ベンチャーなんてものは所詮、困っている人たちをダシにしてお金を稼ぎ、そのくせブランドイメージだけは良さそうに見せる罪深き偽善なのだと指摘した。彼の理路整然とした主張の中に反論の余地を見つけることは難しかったし、自らの主張を補強するための事例をいくらでもポンポンと出してくる知識量にも圧倒されてしまった。でも何だか、この人の言うことをそのまま受け入れたくないという生理的な抵抗感を覚えた。
「では沼田先生、山積する社会問題に対して、企業はどのようなスタンスを取るべきなのでしょうか?」
沼田さんは、そんな平井さんの牽制に怯まないどころか、より一層ニヤニヤしながら両手の掌を顔の横に掲げた。
「そんなこと、僕に聞かないでくださいよぉ! ここはビジコン運営サークルであって、起業研究サークルじゃないでしょう? 今日は初めて定例ミーティングに参加する新入生も多いと思うので改めて問題提起しますけど、たかがビジコン運営サークルにこんな勉強会、必要ですかねぇ? こんな無駄なビジネスごっこに時間を使うくらいなら、吉原大先生みたいにご自分で起業されたほうがよっぽど有意義だと思いますけど」
そう言うと沼田さんは、次はお前が反論する番だとでも言わんばかりに、教室の一番前で、こちらを向いて座っている吉原さんのほうを見た。
「そうですね、確かに僕も、自分のビジネスを立ち上げ、グロースさせてゆくための試行錯誤の中で、多くのことを学びました。ただ、今思うのは、起業するにしろ、もっと視野を広げて、知識を深めて、マーケットの選定段階からもっともっと考えていれば、また違った結果になったのかなと。そういう点でも、僕はこの勉強会に意味があると思う。意味がないものになってるとしたら、工夫してちゃんと意味があるものに……いや、この言い方だと、平井の発表が意味ないみたいに聞こえちゃうかな」
一同爆笑。平井さんは不服そうな顔で、時間稼ぎをするサッカーの選手みたいに両手を大きく広げて抗議の意を表明し、もうひと笑い取っていた。
「でも、沼田の言ってるとおりでもあって。イグナイトの活動のほとんどは自由参加です。最初のうちはとにかく何でもやってみるというのでもいいけど、全体感が見えてきたら、自分にとって必要だと思う活動を見極めて、それに集中して打ち込むというのもアリだと思ってます。イグナイトは手段です。イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら、代表としては嬉しい限りです」
おぉ~、と出席者が沸いた。完全勝利。一切のスキのない、まったくの正論だった。吉原さんは照れ隠しでもするように不器用にはにかみながら、右手を上げてそれに応えた。その美しい決着に満足したくて、僕はもう沼田さんのほうを振り返ることすらしなかった。
*
勉強会が終わると、アフターと称して予定のない人たちで飲みに行くことになっているらしい。日吉駅のあたりには、30人程度ならすぐに入れる安居酒屋が無数にあるから、その日も皆でイグナイトの行きつけだという焼き鳥屋さんに向かった。見回してみたものの、ゾロゾロと店内に入ってゆく集団の中に沼田さんの姿はなかった。
「沼田さんって、あんまり飲み会とか来ないんですか?」
同じテーブルにいた平井さんに、僕はそう尋ねてみた。飲み始めてまだ30分も経っていないというのに、周囲から煽られるままに序盤から景気よく一気飲みを繰り返していた平井さんの顔は早くも真っ赤になり、呂律もやや怪しくなっていた。
「沼田? いや、普段は全参加の勢いだよ。今日はバイトじゃなかったっけ。ほら、中目黒のさ、何だっけ、グルテンフリーのハワイアンカフェ?」
僕に聞かれても困る。しかし、その珍妙なバイト先よりも、あの沼田さんが飲み会にはちゃっかり参加していることに僕は驚いてしまった。それを察してか、平井さんはビールを一口飲んで喉を潤すと、酒臭い息を僕の顔に吹き付けながら話し始めた。
「勘違いしてるようだけど、沼田はただのツンデレだよ。今日の件も含めて、あれは全部、愛ゆえなんだよ、愛! 聞いてない? 最初はあいつがイグナイトの代表になりかけてたんだから」
平井さんが言うにはこうだ。
沼田さんはイグナイトに入ったばかりのころは、皮肉っぽい面は多少ありつつも、素直にアツくなれるタイプの人だったそうだ。勉強会のテーマを事前に確認して文献を読み込んだり、みんなが面倒臭がる会計やホームページ管理を進んで引き受けたり。15人の同期の中でも沼田さんは頭ひとつ抜けた存在で、きっと彼が来年のイグナイトの代表になるだろうと、誰もがそう思っていたのだという。
そんな状況がすっかり変わってしまったのは、その年の9月の「IGNITE YOU 2015」が終わった頃だった。吉原さんがイグナイトに入ってきたのだ。
「聞いたことない? 吉原が『現役』高校生起業家だったって。界隈では結構有名だったんだよ」
吉原さんは僕の予想した通り、由緒正しいお家の出なのだそうだ。おじいちゃんが戦後すぐに肥料の会社を興して成功して、お父さんは通産省官僚を経て会社を継いで、三代目と目される吉原さんは、家族の後押しもあって高校1年生のときに起業した。小学校から立教の付属校に通い、中高生のうちから高級ブランドのファッションを愛用していた彼が、そのセンスを生かして国内で買い集めた古着を東アジア向けに販売するという、いわゆる越境ECビジネスだったらしい。
「育ちもツラもいいオシャレなお坊っちゃまがさ、腕組んでビジネス雑誌に載って『サラリーマンは正直オワコン』とか、ドヤ顔で語るわけよ。どうなると思う?」
ネットでボコボコに叩かれたらしい。匿名掲示板には連日アンチスレが立ち並び、そこに同級生を名乗る人が真偽も定かではない暴露なんかを書き連ねた。炎上のせいか、あるいは元々筋のよくない事業だったのか、とにかくその事業は1年半ほどでクローズという結末を迎えることとなり、現役高校生起業家による挑戦は、彼がまだ「現役」高校生のうちに終わってしまった。
そうして吉原さんは失意の中、居辛さから逃れるためか、エスカレーター式に立教大学には進学せず、AO入試で慶應に入った。
転落した「元」高校生起業家は、それでもなおビジネスの道を諦めてはいなかったらしく、あちこちのベンチャー企業でインターンをやったりしていたようだが、彼の再起を賭けた無数の取り組みの一つに「IGNITE YOU」への参加もあった。3、4人でチームを組むコンテストに、吉原さんは一人でエントリーした。
「そこでさ、伝説の起業家みたいなおじさんがゲスト審査員で来てたんだけど、一周回って痛快なぐらいに吉原のプランがディスられてさ」
――君のかつての起業のことも聞いている。今回の事業計画も見せてもらった。残念だけど現状では君の事業が成功する見込みはない。こうして一人で来るというのは、1人でやり遂げられるという驕りがあるんだ。本気で成功したいなら、いい仲間を見つけること。まずは、チームで何かするということを学ぶといい。たとえば、このビジコンの運営サークルに入るでも、なんでもいい。
伝説の起業家とやらが言った、その「たとえば」の話を、吉原さんは素直に信じたらしい。翌日、吉原さんはイグナイトに入会を申し込んできた。こんな時期の新規入会は異例だったけれど、どうやら相当本気らしく、インターンも全て辞めて、イグナイトにフルコミットするつもりだという。こうして、吉原さんは「遅れてきた超大型新人」としてイグナイトの一員になった。
「それまではさ、日頃の頑張りもあったから、新代表は沼田で間違いないだろうってみんなも思ってた。きっと沼田本人も、そう思ってたんだろうな」
沼田さんが「慶應の意識高い系サークルの代表」という栄冠を手にすることはなかった。そりゃそうだ。あんな「完璧」が人の形をして歩いているような吉原さんが入ってきたら、全部持っていかれるのがオチだ。
とはいえ、実のところ吉原さんはお世辞にも頭が切れるというタイプではなかった。さっきのフリーディスカッションでも、真剣な表情で議論に参加する吉原さんの発言には明らかに頓珍漢なものが多く、平井さんが「つまりこういうことですよね」と発言の趣旨を確認し、周囲がその様子を気まずそうに見守っていることが何度もあった。ただ、吉原さんは真面目だった。それまで沼田さんが全部やっていた雑務を片っ端から手伝ったり、勉強会でもビジネスに関する知見を謙虚に吸収したりと、何事にも情熱を持って、とにかく真面目に取り組んでいた。そんな吉原さんを見て、メンバーたちはみんな、すっかり彼のファンになってしまった。
翌年3月の代表選挙では、みんなの予想通り沼田さんと、それから吉原さんが立候補した。「吉原が優勢だろうけど、それなりに拮抗するんじゃない?」と、立候補者ふたりを大教室の壇上に立たせて行われた開票の結果、見てられないくらいの大差で吉原さんが圧勝した。沼田さんには3票しか入らなかった。教室には気まずい空気が満ち、沼田さんは壇上で、自分を選ばなかったメンバーたちのことを、黙ってただじっと眺めていたという。
「そこからかな、沼田があんな感じになっちゃったの。それまでやってくれてた雑務も全部放り出して、持ち回り制の勉強会の発表も断固拒否して、今はもう、サークルのためには何もしない人間になっちゃったけどさ。それでもイグナイトを辞めずにいるのは、あいつなりにイグナイトへの愛を持ってるからだと思うんだ」
なんだか恥ずかしいことを告白したかのように、平井さんはただでさえ細い目を照れ笑いでギュッと線にして、グラスに半分残った発泡酒を全部飲み干した。
「カラオケ行くぞ!」と叫ぶ先輩たちに捕まって二次会へ連行され、そこでも鏡月なんかを散々飲まされた。みんな朝まで盛り上がる勢いだったが、僕は0時半の終電で帰ることにして、タバコ臭いカラオケ屋をこっそりと抜け出した。目黒線の各停に乗って、3駅先の新丸子駅で降りる。一つしかない改札を出て、数分歩いて角をひとつ曲がれば、僕が住んでいる古いマンションに辿り着く。その4階が僕の部屋だ。狭い1Kの南向きの窓からは、背の低い雑居ビル越しに、ここ数年で急速に増えたらしい武蔵小杉のタワマンがいくつも見える。あの中のどれかに吉原さんが住んでいるのだろう。
なんとなく、そのまま電気をつけずにベランダに出る。4月の夜は少し肌寒いが、風が気持ちいい。
「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」
吉原さんの整った顔が浮かぶ。「元」高校生起業家は、イグナイトで一体どんな自分を実現するつもりなんだろうか? ビジコン運営を通じて仲間を作り、いつの日か、伝説の起業家とやらにリベンジマッチをやるつもりなんだろうか?
「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」
沼田さんの顔も浮かぶ。彼は代表選挙の開票の日、一体どんな気持ちでメンバーたちを見つめていたんだろう? そもそも彼はなぜ、未だにイグナイトにいるんだろう? イグナイトでどうなりたいんだろう? あんなことがあっても、しかし今でも実は吉原さんやメンバーのことを愛している? でもそんな人が、あんなふうに吉原さんを見下したような態度を取るだろうか――。
「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」
では、僕は? 僕はどうなりたいんだろう? 親に言われるがままに小学4年生から塾に通って、中学では何となく軟式テニス部に入ったけどすぐ辞めてしまって、暇だったから勉強してたら地元で一番の県立高校に受かって、そこでも帰宅部で暇だったから勉強して……そこに僕の意志はあったのか?
「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」
圧倒的に成長して、いつか起業して、成功してお金持ちになって、あのタワマンに住みたい? 本当にそうなれる自信はある? 吉原さんすらうまくやれなかったのに? それとも、多くのOBOGみたいに、有名な会社に入ってエリートサラリーマンになりたい? ドラマで見たような熾烈な出世競争を勝ち上がったら、あのタワマンくらいには住めるだろうか? 本当にそうなれる自信はある? 高校の同級生の中にすら、僕の大学を滑り止めにして、東大に進学したような連中がいるのに?
もう寝よう。真っ暗な部屋に戻り、ベッドに転がると、すぐに意識は溶けて消えた。
*
5月に入るとイグナイトの活動が本格化してきて、僕は抽象的な問いから逃げることができた。忙しく手を動かしている限りは、頭を動かしていなくても許される気がした。
「ごめん、お待たせ」
混雑した昼休みの学食。4人掛けのテーブルでぼんやりとスマホをいじっていたら、村松が近付いてきた。彼はイグナイトの同期で、学部も一緒だからこうやってよく一緒にお昼ごはんを食べている。僕は日替わりの鶏竜田揚げ定食、村松はタコライスにした。
「候補者のリストアップ、済んだ?」
「一応やった。10人とか全然埋まらなくて、普通に孫さんとか三木谷さんとか入れちゃったけど。ホリエモンってもう出所してるんだっけ?」
そう言うと、村松はスマホでホリエモンの近況について検索し始めた。9月の終わりのコンテストに向けてゲスト審査員を決めるべく、話題性や実現可能性を考慮しつつアタックリストにまとめて、順に打診してゆくのだそうだ。僕たち1年生も、候補者をそれぞれ10人考えて、明日までに吉原さんに送るようにと言われていた。
村松は、いわば吉原さんのワナビーで「いつか起業したい」「できれば学生のうちに起業したい」が口癖だった。かといって起業の準備をすることも、どこかのベンチャーでインターンをすることもなく、今日もこうやって大学の講義に真面目に出て、イグナイトのメンバーとお昼を食べて、そのまま一緒にタスク作業なんかをして、定例ミーティングに出て、平井さんあたりに捕まって終電ギリギリまで居酒屋で飲んで、日吉か元住吉あたりに住んでいる誰かの家に押しかけて朝まで飲んで……と、意識の高いサークルにこそ入っているが、実際には意識の低い他の大学生と同じような暮らしを送っていた。
1ヶ月経って分かってきたが、イグナイトには村松みたいな人がたくさんいた。「いつか」「できれば」と、壮大な、しかし意識の高い学生にはありきたりな夢を語るが、「いつか」をたぐり寄せ、「できれば」の実現性を高めるための努力はまったくしていない。そして彼らは、そのことについて特に罪悪感を持っていないようだった。
「しかし楽しみだなー、二次審査と最終選考はゲストがやるけど、一次審査はイグナイトのメンバーがやるんでしょ? 1年にもやらせてくれんのかな」
村松が期待に満ちた表情でタコライスをスプーンでつつく。この高揚感の源は、ビジコン運営者が「審査をする」という点にあるのかもしれない。自分が頑張って何かをするのではなく、頑張って何かをしている誰かを評価してやることの愉悦や優越感が、麻薬になってしまっているんじゃないだろうか。
もしかするとあの吉原さんすらも、そこに囚われてしまっているんじゃないか? ミニ吉原さんであるところの村松を見ていると、そんな嫌な想像をついしてしまう。そして、沼田さんが吉原さんに向ける馬鹿にしたような笑いも、沼田さんだけがそれを看破しているからなんじゃないか?
「では、今週の定例ミーティングを始めます」
その日もいつもと同じ大教室で、吉原さんがいつも通り仕切っていた。
「ゲスト審査員のアタックリストは、みんなの意見を踏まえて、こんな感じに順位をつけてみました」
吉原さんは、候補者の名前がズラリと並んだエクセルをスクリーンに投影した。公平性と透明性を重んじる吉原さんらしく、名前の隣には得票数も記載されている。順位は概ねその得票数の通りだが、村松がやったように孫さんとか三木谷さんとか、みんなが苦し紛れに書いた大物は外されるなど、多少の調整が入っているようだった。
みんながリストを上から下まで眺めて、なるほど、みたいな顔で頷いたあと、1分近い沈黙が流れた。誰も異議なんて持ち合わせていなかった。細かいことはどうでもいいから、早く終わらせて飲みに行きたいという本音を、みんな密かに共有しているのだろう。
「ちょっと、いいですかぁ?」
劇場の主のことを忘れていた。定位置である教室の後ろに座って、いつものように腕を組んでいる沼田さんが、予定調和を崩すように湿度と粘度の高い声を投げ込んでくる。
「すみません、候補者リストを提出していない人間が口を突っ込むのは気が引けますが……宇治田さんって、今年は審査員に入らないんですかぁ?」
村松と一緒に一番前の列に座っていた僕は、その名前を聞いた瞬間、吉原さんの顔が少しだけ、ほんの少しだけ強張るのを、確かに見ることができた。
「……宇治田さんは去年来てもらったし、最近、個人で新しくファンドも立ち上げて、当面は忙しいって聞いてるから」
それきり吉原さんも沼田さんも黙ってしまって、教室には不穏な空気が流れていた。宇治田さんが何者なのか、この教室にいる全員が理解していた。「伝説の起業家みたいなおじさん」こと、吉原さんがイグナイトに入るきっかけとなった、去年の審査員のことだ。
「いや、ご自身の成長をいつ宇治田さんにお見せになるつもりなのかな~、と気になっただけで。すみません、それだけです。他意はないですぅ」
いつもは沼田さんを半笑いで生温かく見守っていたイグナイトの面々も、今回ばかりはどうやり過ごせばいいのか分からないようだった。少なくとも、笑っていられるノリのものではないことだけは分かっているようで、バツの悪そうな顔が並んでいる。
僕もみんなと同じような表情を一応顔に貼り付けてはいたけれど、内心は興味津々だった。沼田さんグッジョブ、とすら思った。結局、彼は半年以上ズルズルとここに居座って、代表にまでなっちゃって……実のところ、吉原さんは、起業という夢を諦めてしまっているんじゃないか?
「……沼田の言うこと、もっともだと思います。俺がイグナイトに入った経緯はみんなも知ってる通りで、『偉そうなこと言って入ってきたくせに、もう実は起業を諦めてて、代わりにサークルを必死にやってるフリしてるだけなんじゃないか?』とか、そう疑われても仕方ないと思う」
吉原さんがポツポツと、しかし覚悟を決めたように力強く前を向いて語り始めた言葉の続きを、みんな黙って待っていた。
「正直に言います。俺は起業という夢を、やっぱり諦められていません。でも、だからイグナイトの活動を適当にやるとか、そういうことでは一切ありません。恥ずかしい話だけど、自分は天才だ、自分ひとりでも余裕で成功できるに違いない、と思っていた俺が、初めて誰かと一緒に、何かに本気で挑もうとしてるんです。俺は本気でこのイベントをやって、本気で圧倒的に成長したい。宇治田さんを見返したい。この勢いで言っちゃいますけど、今年のイベントが終わったら、絶対に、2度目の起業をします」
おぉ~、と、まだまだ続きそうな演説を邪魔しない程度の歓声が小さく湧いた。
「だから、だからこそ、それまではイグナイトに本気になりたい。だから、みんなにも、安心してついて来てもらいたい。こう言うことしかできないけど、どうか俺を信じてください。よろしくお願いします」
最後に吉原さんが立ち上がって小さく頭を下げると、みんな拍手をした。大きくて長い拍手だった。吉原さんは、ずっと言いたかったことを遂に言うことができた解放感と、そしてそれがみんなに受け入れられた安心感で、うっすらと目を潤ませていた。
僕は沼田さんのほうを振り返った。てっきり不服そうな顔でもしているのかと思っていたら、そうではなかった。唇をひどく嚙み締めて無理やり作った無表情……そんな、不思議な緊張を感じさせる表情で、人並みに拍手をしていた。
*
8月になって大学は夏休みに入ったけど、僕は実家には帰らず東京に残っていた。イグナイトのメンバーはこの夏の間、100を超える参加チームの玉石混淆の事業プランから、ゲスト審査員に見せる「玉」を選ぶ一次審査を行う。これがなかなか骨が折れる作業だった。各チーム10枚のピッチ資料を全チーム分読んで、ABCDの評価をつけて、それを集計して二次審査に進む20チームを決める。起業どころか一切の社会経験のない普通の大学生が分かったような顔で点数を付けるんだから、ずいぶん滑稽な茶番だけど。
集中審査日というのが10日ほど設けられていて、その日は日吉キャンパスの教室を終日貸し切り、審査を一気に進めて、日が暮れるといつものように飲みに行く。ひとりで根を詰めていると息が詰まるから、僕もこの集中審査日に3日ほど参加して、短期決戦で終わらせることにした。
11時過ぎに会場の教室に行くと、意外な人が会話の輪の中心にいた。
「さすがにこのクソサービスにA評価付ける人はもう一生ビジネス触んないほうがいいよ、センスなさすぎ。マーケットもニッチすぎるし、事業計画の数字も適当すぎる。それに、業界大手が同じようなビジネスモデルで既に進出してて……」
沼田さんだった。嫌味っぽい語り口はいつもの通りだったが、しかし彼のコメントはどれも悔しいくらいに的確だった。普段はいかにも起業に興味のなさそうな素振りをしておきながら、いざ起業を語るとなると、いつかの勉強会と同じように、吉原さんよりも圧倒的に正しい理屈を、たくさんの知識を、スラスラと披露してみせる。
「実は沼田は起業するつもりで、陰で相当勉強してるんじゃないかな?」
その日、一緒に大戸屋へお昼を食べに行った平井さんがそんなことを言うと、僕の隣でコロッケを頬張る村松はすぐさま反論した。
「でも、あの人が社長やるなんて想像できないですけど」
「何もCEOやるだけが起業じゃないよ。俺は、吉原が共同創業メンバーとして沼田を誘うんじゃないかと見てる。まぁ、まだ気まずさが残ってんのか、確かに二人が楽しそうに話してるとこは見たことないけどさ。それでも、沼田の頭の良さとか知識とかは絶対役に立つだろうし、それに、意外とピッタリな組み合わせじゃない? アツい吉原と、クールな沼田って」
「えぇ~? 絶対ないですよぉ」
平井さんの大胆すぎる予想を、村松は笑って否定した。僕も同感だった。
お盆は実家に帰って、地元で1週間のんびり過ごし、お土産をたくさん買って東京に戻った。一次審査が終わってしまえば、あとは会場のレイアウトとか、当日のオペレーションとか、細々した仕事はあったけど、僕みたいな新入りはだいぶ暇になった。
「吉原さん、どんな事業やるのかなぁ。9月のイベントが終わったら起業するってことは、そろそろどのマーケットで勝負するかくらいは決めてるんじゃない? 教えてくれたら、今のうちに色々調べて詳しくなっておくのに」
家系ラーメンの武蔵家で、村松はそう呟いて「濃いめ固め多め」という若者の特権みたいなラーメンを勢いよく啜った。8月末ということでまだ夏休み中だったが、このあと15時から「来れる人だけでOKなので」と吉原さんがコメントを付して告知したイグナイトの自主勉強会があるということで、僕は村松と少し早めに集合して、お昼ごはんを食べていた。最近、村松と話すといつもこれだ。村松だけじゃなくて、吉原さん信者を中心とするイグナイトのメンバーの間で、間違いなくいま一番ホットな話題は、彼がこれから取り組む事業についてだった。
「俺は、吉原さんが沼田さんを誘うとはどうしても思えないんだよなぁ。あの二人が一緒に何かするイメージが全然湧かなくてさ」
村松は改めて、平井さんの予想について反対意見を述べた。確かに、あの二人はまさに正反対だ。失敗を恐れず挑戦し、失敗してもまた立ち上がる吉原さんと、頑張る吉原さんを安全地帯から笑うことで自分が偉くなったつもりになっている沼田さん。
村松は? と、僕はふと思った。いい加減、吉原さんになるための準備くらいは始めているのだろうか。
「起業したいって言ってたよね。なんか、そのための準備とかってしてる?」
「え、俺? いや、今はイグナイトに集中したいって思ってるから、もし起業するとしても秋のイベントが終わってからかな。まぁ、俺はまだ、起業するって夢は諦めてないよ。ほら、一次審査してて思ったけど、大学生が思いつくビジネスプランなんて、絶対失敗するクソなやつばっかりだったじゃん。ああならないように、まずはイベントを頑張って、吉原さんの起業も手伝ったりして、圧倒的に成長して実力をつけないと」
相変わらず罪悪感を持っていない様子で、そんな言い訳みたいなことをあっけらかんと言い切った村松はどっちだろう? 吉原さんなのか、それとも沼田さんなのか――村松だけじゃなくて、イグナイトに数十人単位で存在する「いつか起業したい」系の吉原さんワナビーたちは? 自分たちは起業には踏み切れず、しかし挑戦する人たちのことをビジコン運営という安全地帯から批評して、偉くなったつもりになっている……。彼らはあたかも「自分は吉原さん寄り」みたいな顔で、内心沼田さんを下に見ているくせに、実のところ「沼田さん寄り」どころか、まるっきり沼田さんと同じなんじゃないか?
結局、その日の自主勉強会にはメンバーのほぼ全員が出席していた。開催まであと1ヶ月ほどとなった「IGNITE YOU 2016」に向けた準備の進捗なんかをダラダラと共有しているうちに夕方になり、僕たちはいつものように駅の裏手の安い焼き鳥屋さんになだれ込んだ。
「この間の平井の発表資料を読み返してて、やっぱりソーシャルグッドっていいな、と思って。ほら、僕は幸運なことに恵まれた環境で育ったから、社会に対する恩返し? っていうか。どんな事業領域を選ぶかはまだ決めてないけど、何かしらソーシャルグッドの要素は入れたいな。例えばエデュテック、つまり教育関係のサービスなんかを、ソーシャルグッドの観点も取り入れながら設計したら面白いんじゃないかな?」
煙たい空気が満ちる店内のテーブルで、村松たち信奉者に囲まれた吉原さんが、真剣な面持ちで起業論を語っていた。最初の内は僕も信奉者の群れに混じってそれをぼんやり聞いていたが、その中身は意識高い系大学生なら誰でも思いつきそうなことばかりで、早々に飽きてしまった。そのとき、ふと沼田さんの顔が目に入った。吉原さんの隣のテーブルで、マヨネーズにでっぷりと浸したエイヒレを咀嚼しつつ、誰とも言葉を交わさず俯いている。沼田さんは「実はいいやつ」と言われながらも、彼に親しく話しかける人はあまりいなかった。それでも彼は、今日もこうして飲み会に顔を出している。そして気付けば毎回、吉原さんの近くの席に、黙って座っている。まるで、吉原さんの話を聞き漏らすまいと、必死で彼にしがみついているように――。
一体どういうつもりなんだろうか。普段はあんな振る舞いをしておきながら、実は起業にも吉原さんにも興味津々なんじゃないか?
「俺は、吉原が創業メンバーとして沼田を誘うんじゃないかと見てる」
平井さんの言葉を思い出す。もしかすると沼田さんは、吉原さんから起業に誘われることを期待してるんじゃないだろうか?
自分がこれまで献身的に尽くしてきた人たちが、代表選挙でやすやすと自分を裏切って吉原さんに票を入れるのを見せつけられた沼田さん。彼の自尊心があのとき完全に破壊されたのであれば、確かにそれを治癒する方法は、吉原さんに必要とされることなのだろう。みんなの前で、まるで跪いて指輪でも渡されるようにして起業に誘われることを期待している――その仮説が正しいとすれば、沼田さんが吉原さんに向けるその感情は、気味が悪いほど複雑に捻じれている。
視線を吉原さんのほうに戻すと、相変わらず薄っぺらい起業論を語っている。そしてその周囲には、吉原さんと同じくらい真剣な顔をして聞いている人たちがいた。みんな、さして聞く価値がない内容だと気付いているはずなのに。もしかすると村松らイグナイトのメンバーたちは、何もしない言い訳として吉原さんを持ち出してきているだけなんじゃないだろうか? 一見すると「完璧」な人間である吉原さんへの憧れを表明しておけば、自分は何もせずとも沼田さんを見下すことができる。賢い彼らはそうした自己承認のための魔法の仕組みを発見し、そこに依存してしまっているんじゃないか?
そしてそれは、僕だって同じなんじゃないか? 頭のいい僕たちは、いつだって社会の顔色ばかり窺って、社会が望む通りのことを言って、周りの大人たちを喜ばせて。その隙に適当にサボったりして、でもみんなが納得する一応の成果は出して。そうやって生きてきて、結局そうして今も、就活で人事部に喜ばれそうな、意識の高い仲間たちと一緒に、チームワークを大事にしながら、ビジネスごっこをしているだけなんじゃないか?……村松たちへの冷たい観察は、そのままぐるりと周回して僕の胸元に刺さってしまったのだ。
「吉原さん、起業したら、インターンでもいいので雇ってもらえませんか?」
それで僕は、アフターが終わってみんなで駅まで歩いている途中、思い切って吉原さんにそんなお願いをしてみた。「なりたい自分」が見つかるまでの間は、せめて吉原さんの真似をしていようという結論になった。何もせず、ただニヤニヤと笑いながら誰かを批評しているだけの人間でいるよりは、そっちのほうが正しいに決まってる。
「事業領域も決まってないってのに、気が早いな」
吉原さんは苦笑していたけれど、その時は絶対声かけるよ、と言ってくれた。それで僕はその日から、いつか来る「その時」に備えて、事業計画書の作り方とか、使うか分からないプログラミングとかを勉強し始めた。いつかもそうだったように、暇な時間がなくなると、僕は要らぬことを考えずに済んだ。
その日も朝から日吉キャンパスの図書館にいた。特に予定のない土曜日だったが、早い時間に目が覚めてしまったから、電車に乗って意気揚々と日吉に向かったのだった。今日は何を勉強しようかと、あてもなくビジネス関連の書籍が並ぶ棚へと向かう。夏休みの図書館にはほとんど人がいなくて、貸し切り状態だった。そんな中、分厚い本を4、5冊抱えて、僕の目当ての棚のあたりから歩いてくる人がいた。見覚えのあるグリーン地のTシャツにフチなしめがね――沼田さんだった。話しかけられたりしたら面倒だし、僕の存在に気付いていないらしいのをいいことに、本棚の陰に隠れてやり過ごすことにした。その脇を通り過ぎた沼田さんの顔にはいつもの余裕に満ちたニヤニヤはなく、抱えている何冊かの本の背表紙には「エデュテック」だとか「社会課題解決型ビジネス」だとかいう文字が威勢よく躍っている――あの気味の悪い仮説について、僕はそのとき確証を得てしまったのだった。
*
夏休みが終わってすぐ、9月の最終週の「IGNITE YOU 2016」本番は、あっという間にやってきて、あまりに呆気なく終わってしまった。日吉キャンパスの会場でお揃いの真っ赤なスタッフTシャツを着て、インカムをつけて忙しく走り回っていたら、気付けば吉原さんが閉会の挨拶をしていた。
今年の優勝チームは、地方の空き家活用サービスを提案した東大の1年生3人組だった。彼らは審査員長から「賞金100万円」とデカデカと書かれたパネルを受け取り、不格好に飛び跳ねながらガッツポーズをしている。そのうえ、審査員のうち何名かが、彼らの事業にトータルで500万近い個人投資を申し出たらしい。それを聞いた村松は、「やっぱり東大ってすげ~」と、あっけらかんと感心していた。彼は、自分と同じ歳の大学生がアイデアを形にして、その場で資金調達まで決めて、ビジネスの実現に向けて動き出そうとするのを、やっぱり他人事みたいに見ていた。
そうして僕たちは、いつもの安居酒屋に行って、お揃いのTシャツがビールでビチャビチャになるくらい激しい打ち上げをした。いつもはそんなに飲まない吉原さんも、「代表一気」という無茶なコールを受けて、気付けば座敷の隅で半分寝ていた。僕たちはまた「いつか」を先延ばしにするために、楽しげな喧騒で目の前を埋め尽くそうとしていた。
しかし、吉原さんが本気で成長するはずの1年がまもなく終わろうとしていた。みんな吉原さんに注目していた。吉原さんは次に何をやるんだろう? 誰を起業に誘うんだろう? どれくらい成功して、どれくらい稼ぐんだろう? みんなミーティングや飲み会のたびにヒソヒソと話し合い、推測を交換していた。ビジコンも終わったし、次は吉原さんを審査する番だとでも言いたいようだった。
イグナイトでやることは当面なくなったけど、定例ミーティングだけは開かれていたから、暇な大学生たちは日吉キャンパスの大教室に集まって、気の抜けたような顔で頰杖をついていた。11月半ばのその日も、適当な発表のあと適当なディスカッションをして、さて飲みに行くかとみんなが荷物をまとめ始めたところに、「ちょっといいですか」と声が上がった。声の主は、どういうわけかここ最近のイグナイトの活動にほとんど姿を見せていなかった吉原さんだった。吉原さんは、ツカツカと教室の前方に歩いていくと、小脇に抱えていたMacBookをプロジェクターに接続した。
宇宙のような漆黒がスクリーンに投影されている。神妙な表情をした吉原さんが、ッターン……とエンターキーを叩くと、「吉原、起業するってよ。(4年ぶり2回目)」という白い明朝体の文字が、時間をかけて、フワァ~ッと浮き上がってきた。
「ウェ~~~~~イ」
真面目な子が想像する不良の真似事みたいな、脳みその表面がゾワゾワするような低い歓声が教室を揺らした。
「えー、皆さんお待たせしました。元・天才高校生起業家、吉原が手掛ける第二の起業、事業領域は……高校生向けオンライン起業塾です!」
そう来たか、という僕の気持ちは、実のところ落胆に近いものだった。「発想エグいてぇ!」「余裕で上場狙えるでしょ!」とか盛り上がっていた一団もいたが、その場にいたメンバーの大半が、僕と同じような表情をして、しかしお行儀よく拍手をしていた。
「僕は、日本の起業家精神を、自分の経験、失敗すらも生かして、高校生から底上げしたいと本気で思っていて……」
口当たりのいい言葉をポンポンと吐き出しているが、つまり吉原さんがやろうとしているのは、過去の栄光と知名度にすがって、「テレビでも話題! 伝説の元天才高校生起業家がすべてを伝えます」みたいなサイトを立ち上げて、愛しい我が子の成功を願ってやまない教育熱心なママたちから月額会費を取って、テレビに出た以外に特段の成果を収められなかった元高校生起業家が出演する動画を配信したり、塾員同士の交流会を開いたりするだけのことだった。
根が善人の吉原さんのことだから、自分には価値ある経験を若い人々に還元する義務があって、それを究極のサブスクビジネスたるオンラインサロン形式に落とし込めば「三方よし」が実現できると、本気でそう思い込んでいる可能性もある。確かにこの手のオンラインサロンは流行っているし、それなりに儲かるのかもしれないが、何となく起業家精神「風」のものを培うと謳って、高校生たちの貴重な若い時間と引き換えに固定収入を毎月チャリンチャリン稼ぐなんていうことは、「ソーシャルグッド」とは正反対の、ほとんど詐欺行為と呼ぶべきものなんじゃないか……皮肉にも、そういう体系的で冷静な見方ができるくらいには、イグナイトのメンバーはこの半年の勉強会やビジコン運営の経験を通じて成長してしまっていた。
その日のアフターは、いつもとは明らかに違う、奇妙に張り詰めた雰囲気が漂っていた。吉原さんは彼の信奉者たちが「第二のチャレンジ、僕にも手伝わせてください!」と殺到するに違いないと信じ込んでいるようで、いつにも増してフレンドリーな笑顔を浮かべ、チラチラとメンバーの顔を覗き込みながらチビチビとビールを飲んでいた。しかし、彼に話しかける人はほとんどいない。みんな、なるべく隅のテーブルに小さくて弱い生き物のように集まり、コソコソと小声で何かを話し合っていた。
「なんだよ、オンライン起業塾って! 裏切られた気分だよ、あんなの誰も手伝うわけないに決まってるじゃん。そうだ、ICUに通ってる中高の同級生が、今度インカレのビジコン運営サークルを新しく立ち上げるんだって。経験者が欲しいって言ってたし、各大学から優秀な人が集まってくるだろうから、今よりも圧倒的に成長できるかも。来週そいつと飲むことになってるから、話だけでも聞きに来ない?」
僕を小動物の巣に引きずり込んだ村松が、いやに誇らしげに言う。彼の周りには、イグナイトのエースと目される優秀な1年生が4人集まって、訳知り顔でニヤついていたから、村松の引き抜き工作は早くもかなり進んでいるらしい。彼らがごっそりと抜けてしまったら、来年のイベントは相当しんどくなるだろう。
沼田さんの意見を聞きたいと思った。こんなことは初めてだった。吉原さんの乱心を止められる人は、悔しいことに沼田さんしか思い浮かばなかった。沼田さんに説得してもらって起業塾をやめさせるか、沼田さんが起業塾の立ち上げにジョインして「これなら安心だ」とみんなに思わせるか、どちらでもいいから、とにかくメンバーたちが吉原さんから離れてゆくのを、僕は止めたかった。
「別にいいんじゃない? 詳しい事業の中身は聞いてないけど、どうせクソなんだろうし、本人がやりたいって言うんだったら、好きにやらせればいいだけの話だろ」
その日の飲み会にもちゃっかり参加していた沼田さんは、トイレの前で待ち伏せしていた僕に、やけに嬉しそうに言った。
「仕方ないだろ、あいつには異常なほどに起業のセンスがない。事前に相談してくれてたら、まぁ、最低限のアドバイスくらいはくれてやったのに」
沼田さんは濡れた手を、妙にけば立った紺色のコットンシャツのお腹のところで拭きながら、またいつものようにニヤニヤと笑っていた。
「でも、あんなの、何て言うか……」
「吉原さんらしくない? かっこいい吉原さんに、ダサいことはしてもらいたくない?」
その通りだった。言い当ててくれて嬉しかった。沼田さんに関わって嬉しくなるのは初めてだった。
「ああいう真面目でアツい人、好きなんだろ? 今こそ吉原大先生を支えてやれよ」
救いを求めて、沼田さんに迂闊に近付いた僕が馬鹿だった。沼田さんのいつものじっとりと湿ったニヤニヤ顔を見ているうちに、あの日の言葉が蘇ってくる。
「真面目ねぇ」「あんなに不真面目なやつ、いないと思うけど」
あの日、トイレの前で沼田さんが投げかけたその問いを、あまりにも理解できなくて、そのまま記憶のどこか目立たないところに置きっぱなしにしていたことに、そのとき僕は気付いた。
「……しかし、お前とはよくトイレの前で会うな。頻尿か?」
そう言い残して、 沼田さんは宴席のほうへと去っていった。
*
目が覚めると知らない部屋にいた。
黒い革張りのソファに仰向けで、蹴り飛ばされた毛布が足元でくしゃくしゃの団子になっている。暑いくらいに効いた暖房のおかげで、誰かが僕に施してくれた配慮は無駄になってしまったらしい。
頭が痛いし気持ちが悪い。冷たい水が飲みたい。見渡すとここはリビングのようで、壁一面の大きな窓からは、見覚えのある街が、ずいぶん低いところに小さく見えた。
「起きたか」
物音に気付いた吉原さんが、ガラスのコップにウォーターサーバーの水を入れて持ってきてくれた。ここは彼が住む、例の武蔵小杉のタワーマンションなのだと、僕はようやく気付いた。よく冷えた水をゴクリと一息に飲み込むと、干からびた臓器がゆっくりと動き出すのを感じた。
「珍しく潰れてたから、代表の責任でタクシーで連れて帰った。いい先輩だろ。でも俺もめっちゃ二日酔い」
そう笑って、吉原さんも水をゴクゴク飲んだ。昨日の記憶がぼんやり蘇ってくる。沼田さんとあの会話を交わしたあと、みんなが飲んでいるテーブルに戻って、モヤモヤを紛らわせるために、急ピッチで日本酒や焼酎を飲んで、みんなに片っ端からダル絡みして、それで……記憶はそこまでだった。思い出しても死にたくなるだけだろうから、記憶を呼び起こすのも、尋ねるのもやめた。とにかく吉原さんに、「すみません、本当にすみません……」と消え入りそうな声で何度も謝罪したら、彼は爆笑していた。
「風呂入って行けよ、元気になったら昼飯食いに行こうぜ」という吉原さんの厚意に甘えることにした。僕の家賃6万の部屋の三点ユニットとは比べ物にならないような大きな湯舟の中で、久しぶりに思いっきり足を伸ばした。吉原さんによると、潰れて寝ている僕の頭に、いつものように泥酔した平井さんが「もっと飲もうぜ!」と叫んでビールをぶっかけたらしい。その時着ていたロンTはベタベタになっていたから、吉原さんが着替えの服を貸してくれた。知らないブランドの黒いスウェットからは、柔軟剤のいい匂いがした。
近くにうまいハンバーガー屋さんがあるとのことで、連れて行ってもらった。一番安いクラシックバーガーが1400円もしたし、ドリンクも別料金だったので悩んでいると、「今日は奢ってやるから好きなものを頼め」と言われた。気後れしてクラシックバーガーと水という最安セットにしようとしたら、今度は「だから遠慮すんなって」と笑われて、吉原さんと同じ、1800円のチェダーチーズバーガーとコーラを勝手に注文されてしまった。
「俺がやろうとしてる、オンライン起業塾の話なんだけどさ」
ドリンクが来ると、吉原さんはストローをコーラに突っ込みながら、そう切り出した。
「正直どう思った?」
ストローを吸いながら僕の目をじっと覗き込む。
「ああいう真面目でアツい人、好きなんだろ? 今こそ吉原大先生を支えてやれよ」
沼田さんの声が頭の中に響いた。「感動しました! 絶対成功すると思います!」とか言って、この場を取り繕うのは簡単だろう。でも、そうはしたくなかった。吉原さんがこれ以上、評論家ぶってる連中から後ろ指さされて笑われるのを、僕は見たくはなかった。
「……正直、びっくりしました。少なくともビジコン界隈だと、起業塾とか、オンラインサロン系って御法度じゃないですか。なんで吉原さんが敢えてそこを選んだのか、分からなかったです」
「やっぱりそう思うよね……」
吉原さんは僕の本音を受け取ると、わざとらしく深刻そうな表情で頷いてみせた。
「宇治田さんってさ、いるじゃん。覚えてる?」
表情を変えないまま、吉原さんは思わぬ名前を出してきた。
「実はさ、この間のイベントに来てくれたんだ、宇治田さん」
初耳だった。たしかに吉原さんはイグナイトの代表として、ゲスト審査員やイベントを見に来てくれたベンチャー界隈の人たちの対応をしていたから、宇治田さんと会っていても不自然な話ではない。それに、去年あんなに酷評した学生が、自分の言ったとおりにイベント運営の立場に回って頑張っていると聞いたら、責任を感じて見に来るほうが自然かもしれない。
「俺も当日忙しかったし、宇治田さんもちょっと顔出してくれただけだったんだけど、俺がこの1年で学んだこととか、いま興味を持ってる領域、例えばソーシャルグッド×教育とかの話をしたんだ。そしたら宇治田さん、『高校生向けの起業塾やればいいじゃん、実は僕も最近、若者の起業家精神の育成に興味がある』って提案してくれてさ」
体に入っていた力が抜けて、さっきまでの意気込みがしゅるしゅると消えていくのを感じた。
「宇治田さん、個人でエンジェル投資ファンドやってるから、シードでお金入れるとこ探してるんだって。あの人が応援してくれるなら、絶対勝てると思うんだよね」
僕の心境の変化に気付かないのか、吉原さんはいつものキラキラした笑顔でそう続けた。つまり彼は、宇治田さんがやれと言ったから、宇治田さんが勝てると言ったから、ただそれだけの理由で、吉原さんにここまでついてきた僕らイグナイトのメンバーが反対することも理解した上で、あの事業を選んだのだ。
「みんなの言いたいことも分かる。でも、俺は勝ちたい。イグナイトのみんなのおかげで成長できたって、宇治田さんに、世の中に、本気で見せつけたい」
そこからの吉原さんの言葉は、全然頭に入ってこなかった。ハンバーガーが来た。吉原さんの大演説はまだまだ止まらなかったから、食べずに聞いているフリを続けた。パティの上で柔らかく溶けていたチーズが少しずつ冷めて取り返しがつかなくなってゆく様子を、僕は視界の隅でチラチラと見ていた。
あの日沼田さんが言っていたことを、僕はようやく理解した。
吉原さんは不真面目な人なのだ。何がかと言うと、彼は人生に対して不真面目なのだ。
吉原さんはいつも借りてきた言葉で話していた。その場に相応しそうな、何だかそれっぽい言葉をどこかから借りてきて、その整った顔から吐き出しているだけだった。事業プランもそうだ。彼が語る夢すらもそうだ。彼は自分の言葉で、自分の責任で自分の人生を生きていない。もしかするとそれは、最初の起業の失敗が、まるで誰かがいつか大教室の壇上で経験したように、膨れ上がってしまった彼の自尊心を完全に破壊したせいなのかもしれない。自分の責任のもと失敗することを極端に恐れてしまうようになった結果、他人の言葉に責任を押し付けるようになったのだろうか。
彼がイグナイトに入ることを決めたのも、イグナイトで一生懸命頑張ったのも、そしてイグナイトのメンバーを裏切ってでもあんな事業をやると決めたのも、一見論理破綻しているようで、しかし彼の中ではすべて一本の論理によって貫かれた行為だった。
それを理解した途端に、吉原さんの言葉は僕の頭に全然入ってこなくなった。
「それでさ。前に、インターンでもいいから手伝いたいって言ってくれたじゃん。あの気持ちって、まだ変わってない?」
わざとらしい不安な表情を浮かべて、吉原さんは僕の目を覗き込んでくる。彼は人のことを軽く取り扱っておきながら、そのうえで借り物の自分の人生に、平気で人を巻き込もうとする。その魅力によって、あらゆる人は自分を好きになってくれるものだと、自分には当然その価値があると固く信じている。だから、自分から人が離れてゆくのを感じ取ることができない。そんなことは永遠に起きないと、これまた固く信じている。だから、いま目の前にいる僕の気持ちが、彼には少しも想像できないのだろう。
「……沼田さんは、誘わないんですか?」
質問に答える代わりに、僕はその男の名前を出した。もしかすると、吉原さんから誘われることを世界の誰よりも強く望みつつも、しかしそれを決して明かそうとしない男。
「沼田? あいつは確かにビジネスに相当詳しいけど、その部分は宇治田さんがもっと上手にカバーしてくれると思うし、それに……」
吉原さんはそこで、冷めたチーズバーガーを一口齧った。
「……あいつのこと、苦手というか、普通に嫌いなんだよね。これまでは代表として追い出したりはしなかったけど、自分の事業ってなると別。共同創業者って、一番大事なパートナーでしょ? 沼田は絶対、誘いたくない。てか、あいつも俺のこと嫌ってるだろうから、誘っても絶対来ないでしょ」
「どうですかね」
僕はそれだけ返して、吉原さんと同じようにチーズバーガーを一口齧った。冷えて固まってしまったチーズは、まるで蝋燭みたいに味気なかった。
*
翌週の土曜日の朝7時。よく晴れた寒い日だった。
東白楽駅なんて初めて降りたが、改札を出ると知っている顔があった。沼田さんが、いつも通りのニヤニヤを浮かべながら立っている。
「急にどうしたんだ、座禅やりたいだなんて。ブームもひと段落したマインドフルネスに今更目覚めでもしたか?」
「いえ、以前からやってみたかったのと、沼田さんがたまにやってるって、平井さんから以前に聞いたので」
僕の動機になんて別に深い興味はないですよと言わんばかりに、沼田さんは発言が終わるのを待たずにクルリを背を向けて、お寺のほうへと歩き始めてしまった。
お寺に常連という概念があるのかは知らないが、とにかく沼田さんはこのお寺によく座禅をしに来るらしい。アップルやグーグルの社員も座禅をやっていると聞いたイグナイトの面々によって、何度か座禅ツアーが開催されたらしいが、こうやって座禅を続けているのが沼田さん一人ということは、みんな脱落してしまったということなのだろう。
目を瞑ったら暗闇があった。眠る時とは違って、閉じたまぶたの裏で黒目が今も確かに機能しているという不思議な実感があった。よく聞く「無我の境地」みたいなものに簡単に辿り着けるはずもなく、冬のお寺は寒いなとか、もう何分経ったろうとか、そんなありきたりな考えがまず去来して、それでも余った時間で、僕は吉原さんのことを考えていた。
すみません、あの話はなかったことにしてください、と冷めたハンバーガーを前にして言ったら、吉原さんは一瞬驚いたような表情になり、でもすぐにいつもの寛大で余裕に満ちた表情に戻って、「そっか」とだけ呟いた。僕はもう一度だけ、すみません、と言って、こんなもんだろうかと千円札を2枚置くと、「いや、それは貰えない」と突き返された。僕は千円札をポケットに捻じ込んだまま、隣駅の家に帰った。13時過ぎだった。閉め切っていた窓を開けると、ひんやりと青白く澄んだ11月の柔らかい風が入ってきて顔を撫でた。いつものように、吉原さんの住むタワーマンションが見える。今後もう、あれを見ながら黒く澱んだ感情にまみれることはないだろう。
吉原さんは、これからどうするんだろう?
誤解のないように言うと、僕は吉原さんの事業はそこそこ成功すると思っている。彼は確かに人生に対して不真面目だが、人生に対して真面目な人のほうが道徳的に優れているとか、経済的な成功に近いとか、そんなことは関係ないのだろう。むしろ自分の意思とは関係なく誰か賢い人の意見に全ベットするとか、思ってもないことを言うとか、そういうことができる器用な人のほうが、人生をうまく進められるんじゃないか。人生に対して不真面目で、人には「なりたい自分」とか言いながら自分はそれを戦略的に持たず、すべて誰かに言われるがままに、誰かのせいにしながら生きてゆく吉原さんの事業は、そして彼の人生は、きっと成功する。たとえ失敗したとしても、彼は本質的な意味では失敗しない。だから、彼は永遠に、成功者として生きてゆくだろう。それは吉原さんにとって、おそらく幸せなことだ。
僕は吉原さんになりたかったんだろうか?
彼のことをまるで理解しないまま、勝手に憧れていた。実のところそれは憧れですらなくて、吉原さんという、どこに出しても恥ずかしくない存在をとにかく自分の人生の神棚に置くことで、僕自身の人生について考えることから逃げていたんじゃないか? 村松みたいな評論家気取りを批判しながら、僕も吉原さんに乗っかることで、楽して生きようとしてたんじゃないか?
「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」
僕は、もしかすると永遠に、その問いへの答えを見つけられないまま、ただ座り込み、いつしか若さをすっかり失うんじゃないか?
本当はいけないのだろうが、座禅中に目を薄っすらと開けてみた。首を動かすと後ろのお坊さんに棒で叩かれるかもしれないから、目だけで隣に座っている沼田さんのほうを見る。背筋をきちんと伸ばして、目を瞑っている。ゆるやかな呼吸によって体がゆっくりと、微細に上下することだけが、彼がまだ生きていることを示している。
それなりに座禅経験のある彼は、僕とは違って無我の境地に至っているのかもしれないが、もし何かを考えているとしたら、それは一体何なんだろう? ある男にまつわる願いが永遠に叶わないことを知ったとき、動くことをすっかりやめてしまった沼田さんは、再び動き出すことができるだろうか? あるいは、永遠に――。
そこまで考えたところで鐘がひとつ打ち鳴らされた。座禅の終わりの合図だ。組んでいた足をほどくと、足の甲あたりがジンジンと痺れていて、うまく歩けなかった。沼田さんは、そんな僕の様子を見て楽しそうに笑っていた。
*
まだ9時過ぎだったから、「朝飯でも食うか、別に奢らないけど」と、沼田さんは僕の意向も聞かずにお寺の向かいにあるガストにズカズカと入っていった。仕方なく、僕もそれについてゆく。沼田さんはパンケーキのセットを、僕はトーストと目玉焼きのセットを頼んだ。
「どうせ、暇潰しに考え事でもしてたんだろう」
「はい。吉原さんの、不真面目さについて考えていました」
僕は素直に答えた。沼田さんの顔が醜く歪む。
「いい加減気付いたか」
「多分」
僕はまた素直に答えた。沼田さんの顔がもっと醜く歪む。
「沼田さんは何を考えてたんですか?」
「秘密だよ。そんなの、お前に教えるわけがないだろ」
沼田さんはそう言うと、ドリンクバーで取ってきたホットコーヒーをズズズと啜った。沈黙。いつもの沼田さんなら、周囲の気まずさなんてお構いなしに、マイペースにコーヒーを啜り続けただろう。しかし、今日は違った。
「それで……お前は、大好きな吉原大先生がああいうことになって、どうするんだ? ほんとに無給インターンでもやるつもりなのか? というか吉原はもう、お前たちを誘ったりしているのか? 誘われたほうも、どう断っていいものか大変だろうなぁ」
沼田さんは、いつものようにニヤニヤ顔で、しかしいつもとは少し様子の違う、遠回しに探るような口調で尋ねてくる。軽く投げて寄越してきたようで、きっと彼にとっては人生を左右するほどの重みを持つその質問をどう受け取っていいものか。僕は思考停止してしまった。コンバースのスニーカーの中の足は、まだ感覚が鈍く、ピリピリと弾けるような痛みが薄く広がっていた。親指をブニブニと曲げて動かしてみようと試みるが、どうもうまくいかない。ずっとこのままじゃないだろうな、と小さな不安が湧き上がる。二度と動けなくなることの恐怖を、二度と動けない男の人生のみじめさを、僕はそのとき想像した。気付くと、質問への答えが口を衝いて出ていた。
「……いえ、誘われたけど、断りました。沼田さんは誘われてないんですか?」
店員さんがパンケーキを先に持ってきて、沼田さんの前にそっと置いた。カチャリ。一瞬の沈黙を、陶製のお皿の発する無感情な音が埋めた。沼田さんの目を覗き込む。その目の奥の、みっともない揺らぎみたいなものを、僕は見逃すまいと冷酷に覗き込んだ。
「本当か分からないけど、宇治田さんが、出資も視野に入れてサポートしてくれるみたいですよ。事業内容も宇治田さんのアドバイスだって。勝ち筋、なくはないと思いますけど。沼田さん、もし手伝いたいのなら、僕から吉原さんにお願いしてみましょうか? 沼田さんは、どうせ誘われてないんでしょう?」
自分だけが見抜いていたはずの吉原さんの人生に対する不真面目さを、他の誰かが発見し、肯定してくれたことの喜びは、今やもう沼田さんの中からすっかり消え去ってしまっているようだった。代わりにそこにあったのは、沼田さんが誰かに寄せた信頼が再び、そしてより深刻に裏切られたことへの絶望だった。一度傷付いた彼が不器用にも縋っていた、最後の希望がぽきりと折れてしまったことへの、取り返しのつかない絶望……。
沈黙は続く。今度は僕のモーニングセットが来た。二日連続で食べ物が冷めるのをただ見ているのは嫌だったから、出来立てのうちにナイフで目玉焼きの黄身を突いた。黄身はドロリと流れ出て、焦げ目のない卵の白身と、沼田さんのと同じ形の白いお皿を汚した。
「僕は断りましたよ。あんな不真面目な人間を信じてついていったところで、最後は裏切られて、見捨てられるに決まってる。どうせ、オンライン起業塾もすぐやめて、また別の事業を、また別の人に言われるがままにやりますよ。沼田さん、誘われなくて正解でしたよ! 二度と関わらないほうがいいですよ、あんな人間」
沼田さんは何も言わない。僕は厚切りのトーストを小さくちぎって、流れ出た黄身を拭って口に放り込む。そしてまた沼田さんの目を覗き込んだ。きっと代表選挙の結果を聞かされたとき、彼は今と同じ目をしていたのだろう。献身的に尽くしてきた自分を裏切り、そのことに申し訳なさを微塵も感じていない人たちのことを、その目で、真っすぐに――。
「沼田さんは、これからどうするつもりですか?」
この質問は、彼に対する攻撃なんかではなく、切実な心配によるものだった。彼がもう、どこにも行けない、二度と動けない人間になってしまったような気がしたのだ。
沼田さん、もうやめましょうよ。
吉原さんを待つのも、吉原さんを待っても無駄だと気付いたあとの人生をどう生きるのか真面目に考えるのも。向かうべき場所を持たない僕たちは、せめて人生を多少マシなものにすべく、意識高い系サークルに入って、就活で語れる経験を作った。それでいいじゃないですか。取り返しのつかない傷を負い、壊れてしまったあの男のせいで、沼田さんまでもが壊される必要なんてないですよ。
そうだ! 僕たちは最近、新しい「吉原さん」を見つけたんですよ。
「沼田さん、新しいインカレビジコンサークルの立ち上げ、一緒にやりませんか? 村松たち僕の同期も、平井さんたちもジョインするそうですよ。みんな吉原さんのことを見限ったんです。沼田さんもどうですか?」
この誘いを断ったら、もうこれから誰も、あなたを掬い上げてくれないかもしれませんよ。ずっとそこに座り込んで、吉原さんを待ったところで無駄ですよ。だって、沼田さんは誘わないんですかって聞いたら、あの人、何て言ったと思いますか――。
無音。沼田さんは、もう、動かなくなってしまった。何も言わず、ただそこに座っていた。
*
友達と会う予定があるとか適当に言ってトーストを全部飲み込むと、昨日吉原さんに渡しそびれたクシャクシャの千円札をテーブルに置いて、ひとりでガストを出た。
「誘ってくれてありがとう」と、沼田さんは小さな声で、確かにそう言った。結局、彼は僕の誘いに対して明確な回答をしなかったけど、もう十分だった。
東白楽駅から東横線に乗る。ガラガラの車内の向かいの窓ガラスには、明るい日差しのせいで何も映っていないけど、もし映っていたとしたら、今の僕の顔は、吉原さんと沼田さん、どっちに似ているだろう? 不真面目に走り続けて、すべてを置き去りにしてゆく男と、座り込んで真面目に考え込むうちに、足が痺れて動けなくなってしまう男。彼らの抱えるそれぞれの虚無が、ひとかけらも自分の中に存在しないと、胸を張って言えるだろうか?
新丸子の駅に着いた。駅前の商店街は人がまばらで、うっすらと青い空には雲ひとつない。さっきの出来事なんて存在しなかったかのように、穏やかで美しい朝がそこには広がっている。気付けば、足の痺れはすっかり消えていた。足は思い描いた通りに動き、僕の体を、前へ前へと運んでくれる。若い僕はきっと、少なくともまだ、どこにだって行ける。LINEを開いて、村松にメッセージを送る。
《この間言ってたビジコンサークルの立ち上げ、一緒にやってみたい。まだ間に合う?》
すぐに既読がつき、村松から《余裕で間に合う》と返信が来た。そう、まだ余裕で間に合うのだ。この道が間違っていたとしても、僕の目の前にはまだまだ、無限の道があるに違いない。不真面目に選んだ道から道へと、僕は誰かを置き去りにして、永遠に走り続ける。きっと僕は、その末にどこかへ辿り着くだろう。そこで望んでいたものを得られるかは分からないけれど、少なくとも今よりはいい場所へ――そう根拠なく信じて、走り続けるしかない。
学校の試験と違って、きっとそこには、絶対に正しい唯一の解は存在しない。誰かの真似をして走り出すことに成功した僕は、しかしあるときは、誰かのように立ち止まってしまったり、立ち止まり続けることの恐怖に駆られ、また不真面目に走り出したりするだろう。そんな馬鹿げた日々の蛇行が歪な軌跡となって、僕の人生は形作られてゆく。
[第1話・了]
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