発売目前! 大前粟生さん最新刊『チワワ・シンドローム』冒頭先行無料公開&先読み書店員さんのご感想をご紹介!
大前粟生さんの最新刊『チワワ・シンドローム』がついに、2024年1月26日(金)に発売になります!
25歳、入社3年目・人事部の琴美は、新卒採用業務に苦心しているところ。マッチングアプリで知り合った新太とも良い感じ。ところがある〝奇妙な事件〟が起きて――。
『別冊文藝春秋』での連載からさらにパワーアップした物語、その冒頭と、先読み書店員さんのご感想をお届けします!
先読み書店員さんからも共感の声、続々!
第1章 チワワテロ
朝から複数のグループ面接をこなし、今は五分程度の小休憩の時間だった。他の面接官たちが、今年はパッとしないですよね、年々若い子たちの考えがわからなくなる、扱いづらいよね、などと言い合うのを横目に、田井中琴美はグレーのスーツのポケットの中で、隠すようにスマホを開いた。
LINEを確認すると、三枝新太からメッセージが来ていた。他の面接官たちの目を盗んで、返信を素早く打ち込む。
新太とはマッチングアプリで知り合った。初めて会ったのが4月の終わりだったから、休みの日にお茶したり、電話をしたり、こうしたたわいのないメッセージのやりとりをするようになって、三か月近くが経つ。
琴美は、私たちって良い感じなんじゃないか、とにやけた。なにせ、「暑くなってくるとついコンビニでアイス買っちゃいますよね」という話題だけで、もう三日もやりとりを続けているのだ。他の人が見たら呆れるくらい平凡な内容でこんなに盛り上がれるなんて、私と新太さんはきっと相性が良いんだろう。仕事中でさえ彼のことが気になってしまう。ここ最近の琴美の生活は、新太を中心に回っていると言ってもいいくらいだった。
それからなんの気なしにXを見ると、数分前にミアが投稿していた。
〈今日は22時から生配信の予定でーす。だからそれまではみんな、今日一日を私といっしょにがんばろうね〉
親友である穂波実杏は、「ミア」という名前でインフルエンサーとして活動をしている。
ノックの音が会議室に響き、慌ててスマホを仕舞った。「失礼致します」という硬い声と共に、不慣れなスーツを着た学生たちが入室する。ぎこちない笑みを浮かべる彼ら彼女らを前にすると、緊張がこちらにまでうつってくる。
浮かれるのはほどほどにして、今は、この人たちと向き合わないと。
今日はこれからまだ、何十名もの学生たちの選考が続くのだった。
入社三年目で二五歳の琴美は、渋谷の高層ビルの二三階から二七階に居を構える大手人材サービス会社Gofeatの会議室で、新卒採用のための面接官をしていた。
Gofeatは学生たちに人気のエントリー先のひとつで、ここに就職することはそれなりのステータスだとみなされている。琴美が就職できたのは、ただ運が良かったとしか言えない。優柔不断で、自信がなくて、なんの取り柄もない自分がこんな大手で働けているなんて、未だになにかの間違いなんじゃないかと思う。
人事部に配属されて三年になる。面接官として選考の場に立ち会うのは今年からだったが、その重責になかなか慣れることができないでいた。学生たちの将来を左右し得るのだから、精神的にきつい仕事だ。でも、次のグループの面接を終える頃には、また新太からの返信が来ているかもしれない、それに今日はミアの配信があるから、耐えられる。
一次面接は17時近くになって終了した。
優秀な学生もたくさんいたし、一発芸のようなものを披露する人までいたが、強く印象に残った学生は三人だった。
ひとり目の学生は、教授からパワハラを受けていた、と語った。
ふたり目の学生は、中学生の時うつ病を患った、と。
三人目の学生は、汚染された大気のことを考えると体調を崩してしまうそうだった。
どの学生の訴えも真剣そのものに思えた。三年前まで大学生だった琴美には、彼らのエピソードは身近に感じられた。面接の席で学生たちと対面していると、昔の自分を見るような気持ちになってしまう。琴美は大学三年生の時、セクハラまがいのメールをゼミの教授から受け取ったことがあった。あの時の、恐怖で体がすくんでしまう感覚は今でも思い出せる。
彼ら彼女らの話に、個人としては大いに共感できた。けれど、面接官としてどう扱えばいいのか、わからなかった。
この日最後の面接が終わると、琴美は人事部の先輩である関を呼び止めた。
「あの、デリケートな話題って採用メソッドにどう当てはめてますか?」
関は四十代前半の男性社員だ。流行りのものにやたらと敏感で、そのことをどこか鼻にかけている節がある。琴美は関のことがなんとなく苦手だったが、仕事はできるので、困った時はあてにしていた。
「デリケートな話題? 選考マニュアルは確認した?」
「確認したんですけど、流石にその、ああいった話をどのように捉えるべきかまではわからなくて」
「ああいった話。ああ、パワハラとかね」
「はい……そうです」
胸がちくりと痛んだ。本人たちのいないところで話題にするのが後ろめたかった。
「そういう戦略なんじゃないの?」
関は半笑いで言う。
「戦略?」
「ああいう話をして、こっちの同情を引きたいのかもしれない」
「そんなことないと思いますけど」
反射的にそう答えた。根拠などない。彼ら彼女らを身近に感じるが故の願望だった。なにより、いけないことのような気がしたのだ。無垢な学生たちに疑いの視線を向けてしまうということ、そのものが。
「それより田井中ちゃん、今年も〝例の作業〟の担当になっちゃったんでしょ? がんばって」
一発ギャグかなにかのように中腰になって両手でサムズアップをしてくるので、琴美も苦笑いしながら親指を立てた。
スマホが震えた。関が去ったあとに見てみると、新太からだった。
〈今日ここのお店で良いですか?〉
Googleマップのリンクが添えられている。恵比寿にある刺身が美味いと評判の居酒屋だった。
〈もちろん! さかなだ~〉
それから琴美は、〈すいません今日残業しないといけなくて、ご飯ごいっしょしたあとにまた会社戻ることになりそうです〉と続けた。
19時に居酒屋に到着すると、新太はもう席に着いていた。
「すいませんバタバタしちゃってて」
「いえ、全然。こちらこそ忙しい日にお声がけしちゃって」
新太は、琴美を落ち着かせようとするようにゆっくりと言った。ジーパンにグレーのジャケット姿だった。初めて見る服だ、と琴美は思う。フリーランスのプログラマーとして働く彼は、いつもシンプルな無地のTシャツばかり着ている。今日は私がスーツだから合わせてくれたのだろうか。
「琴美さん、スーツ似合いますね」
新太が微笑むと、やたらと白い歯が覗いた。
お世辞を言い慣れているようでもない分、照れてしまう。それから、やっぱりこの人お人形さんみたいな顔立ちだな、と思う。
新太は琴美より七つ歳上の三二歳だが、同い年と言っても違和感のない外見をしていた。
マッチングアプリを介して新太と初めて会った時、代官山のスタバでなにか美容に気を遣っているのか尋ねてみたのだった。曰く、新太は毎日欠かさず保湿をしているという。それだけではなく、絶対に一時間以上の長風呂をし、二日に一度はジムに通っているそうだ。「美容のためじゃなく、単に、ルーティーンを崩すのが気持ち悪くてそうしてるだけなんですけど」と彼は言った。多忙にもかかわらず、そんな日々をもう何年も過ごしているらしい。
「自己管理、自己完結の人間なんですよね」
と彼は語った。
「じゃあ、なんで他人と出会おうと?」
そう聞くのが自然な気がした。そしてそれは、新太によって用意された会話の流れのように思えた。
「僕は、ひとりで大丈夫過ぎるから」
よくよく話を聞くと、完璧主義である自分に嫌気が差してきたのだという。ひとりで生きてしまえるし、今までひとりで生きてきた。でもそれだと、残りの人生、随分さびしくなるんじゃないか、と。
琴美は、思わず首を傾げた。完璧であるに越したことはないんじゃないの?
この人の考え方、あまりわからないな、と思う。
けれど、ネガティブなわからなさではなかった。
普段はドリップコーヒーしか頼まないんです、とレジに並んだ際に話していた新太だったが、でもせっかくだし、と琴美に合わせて新作のドリンクに流行のトッピングを加えていた。そういう些細なところが、琴美には好ましく思えた。
つきあいを重ねるうちに、新太の言う「自己管理」とは、不器用さの裏返しなのではないかと考えるようになった。
今日の居酒屋の席でも、取り皿や箸、おしぼり、コップの置き場所にマイルールでもあるのか、新太はきちっきちっと整えている。そうしないと落ち着かないのだろう。自分の持ち場にこだわるだけで、こちらには干渉してこないから、琴美は新太の所作を微笑ましく眺めた。
「この魚の名前、店員さんなんて言ってましたっけ」
「ミシマオコゼですって。僕、食べるの初めてです」
「へえー、ミシマオコゼ」
どんな魚なんでしょうと新太は傷ひとつないスマホを取り出した。「ミシマオコゼ 泳いでいるところ」と呟きながら、YouTubeのアプリを開いた。トップページに、いくつか動画がおすすめされている。そのひとつに、顔の上半分を白い仮面で覆った男の動画があった。「MAIZUちゃんねる」というチャンネルのものだった。
「MAIZU? 誰でしたっけそれ。どっかで聞いたことある」
琴美がそう言うと、新太は素早くスマホを伏せて裏返しにし、じっと机の隅を見つめた。
「新太さん、暑い、ですか?」
「え?」
「ものすごく汗かいてる」
新太はハンカチで額を拭い、ジャケットを脱いだ。そして、にこにこと微笑みながら琴美に言う。
「最近、お忙しそうですね」
なにかをはぐらかされたな、と思いながらも、新太に促されるままに採用面接の話をした。学生のプライバシーを考慮し、話の大部分はぼかして伝えたが、だからこそ愚痴に感情が乗るような気がした。
新太はただ「うん。うん」と相槌を返し、自分の意見を挟まずに、話したいだけこちらに話をさせてくれる。気を許せない相手には萎縮してしまいがちな琴美だったが、新太といると楽だった。私って実は話をするのが好きなのかもしれない、と思うが、それは、相手が新太さんだからだ、と何度でも思い直すことができて、その度に琴美はゆったりとした、しあわせのようなものを感じた。
「良いとか悪いとかじゃないんですけど、自己PRの時に、つらい体験を話す学生さんが何人かいたんですよね」
「つらい体験、というのは。あ、すいません。具体的には話せないですよね。ハラスメントとか、そういった感じですか」
「ええ。あの、私、人事としてどうしたらいいのかなって。どう受け止めてあげるべきなのかなって、考えても、もやもやするばかりで」
「話してるんだから、聞くしかないのかもしれませんね。聞いてあげることしか。よく知らない第三者の意見ですけど、そういう話って、あまり人にできないと思うんです。でも面接って、自分を語る場じゃないですか。だから、対企業という本筋から逸れていたとしても、熱が入っちゃうのかなって思います。話をした当人たちは、〝傷〟を言葉に、声にしたかったのかもしれません。琴美さんなりにちゃんと聞いてあげたのなら、それがベストなんじゃないですかね」
ベストなんじゃないか、と言われて、なんだか褒められたような気分になる。
新太さんにもなにか〝傷〟があったりするのかな。
そう思っても、そこまで踏み込むことはできず、一時間で解散した。
会社に戻り、他部署と合同のだだっ広いオフィスで、ひとり〝例の作業〟を進める。
人事部でいちばんの若手である琴美は、選考中の学生たちのSNSをチェックし、資料としてまとめるよう指示されていた。この作業は去年も一昨年もこなしているが、正直、骨が折れる。困難な作業というわけではないが、心理的な負担が大きかった。
ほとんどの学生のSNSからは、大した情報は出てこない。書かれていたとしても、恋人や家族の記念日、サークル活動の成果、資格試験の合否についてなど、ポジティブに受け取られる投稿ばかりだった。
当然、学生たちも、志望先の人事がSNSをチェックするかもしれないということを意識しているのだ。アカウントに鍵をかけている学生や、検索してもヒットしない学生は少なくない。そうなってくると、資料にまとめることのできる情報も自然と限られてくる。
琴美は、中身の薄い資料だと評価が下がってしまうんじゃないかと、学生たちのSNSを入念にチェックした。Gofeatや業界のこと、学生たちの所属大学や学部、サークル、面接日当日のオフィス近隣の喫茶店や沿線などについて細やかに検索をかけ、検索避けに用いられる語句も片っ端から入力して情報を集めた。
その甲斐あって、何人かの学生の匿名アカウントを特定することに成功したのだが、そこにもまた、新太が言うところの〝傷〟が溢れていた。まず目についたのは、「どうして生きてんのかな」という、死にたさが含まれた、素朴とも言える書き込みだった。
それらを見ているうちに、琴美の胸の中には、苦いものがじんわりと広がっていった。
私も、たった三年前まで学生だったんだ。この子たちと同じ、不安定な若者だった。それなのに今は、彼ら彼女らのプライベートまで調べ、値踏みしていく。一体、何様なんだろうか。申し訳なく思う。就活生だった過去の自分に対して、裏切り行為でもしている気持ちになった。
22時頃に一段落がついた。栄養ドリンクを飲みながらぼんやりとスマホを眺めていると、ポップアップが表示された。反射的にそれをタップする。ミアの生配信の時間だ。
■
画面に現れたミアの顔を見て、琴美は頰をゆるませた。
チャット欄に、次々とコメントが溢れていく。〈今日も綺麗〉〈尊い……〉〈枠取りありがとう〉〈雑談感謝〉〈ミアの顔を見たら今日も気持ちよく眠れそう〉〈ミアはいつだって尊いな〉
「音量どう? みんな今日どうしてた? 〈もっと顔近くで見せて〉? うん、良いよ」
ミアはコメントを読み上げると、片手で前髪を押さえながら、前のめりになってカメラに近づいた。猫のような大きな目や口元が画面いっぱいに映ったかと思うと、顔を離し、小気味良く笑いながら「びっくりした?」と言う。
こういうのってファンはたまらないんだろうな。ミアはパッと見はクールなのに、笑う時は大きく口を開けて、どこか子どもっぽいというか、隙がある印象を醸し出す。ミアは、あーおもしろ、と呟いて次のコメントを読み上げた。
「〈ミアちゃんはいつもジャージだったり、上下スウェットだったりしますね。オシャレな服は着ないんですか? 絶対似合うと思います!〉。それはさあ、絶対似合うからだよ。そしたら、みんなまぶしくて私のこと見えなくなっちゃうからね」
琴美は、ミアがラフな格好をしているのは単に服装のセンスがないからだと知っている分、その噓が微笑ましかった。
彼女は大学時代から「ミア」として人気を博している。大学卒業後、映像編集の会社に勤めていたが、去年退職し、今では配信活動をメインに生計を立てている。四年前からYouTubeやInstagramで定期開催しているライブ配信は特に好評で、SNSの総フォロワー数は八十万人を超えたところだった。
この数字はきっと、世に数多いるインフルエンサーの中ではそれほど多い方ではないのだろう。けれどミアには、熱狂的とも言えるファンがたくさんついていた。私も、そのひとりなのかもしれなかった。ミアとはもう七年のつきあいで、お互いに親友だと称し合っているというのに、琴美はファンたちと同じようにミアをまぶしく思う。
ミアは、なんでも肯定してくれる。
初めてミアと出会ったのは高校生の頃だ。
高校三年の9月という半端な時期に転校してきたミアは浮いていた。その頭の良さと優れた容姿のために、一部のクラスメイトたちからやっかみを受けて孤立していた。けれど彼女は凜として決して下を向かず、誰にも傷つけられないような強さをまとっていた。弱い私とは、正反対だった。それなのにミアは、私に優しくしてくれた。
ひそかに好いていたクラスメイトの男子が友だちと付き合うことになって、気持ちの行き場を見つけられずに病んでしまう寸前だった私を、「可愛い」と言って認めてくれた。
「琴美ちゃんは、心が耐えられなくなるぎりぎりなんだよね。精一杯、がんばってるんだよね。私はそういうのって、すごく可愛いと思う」
ねえ、私たち、友だちにならない?
そう言って、ミアは手を差し伸べてくれたのだ。
それから、ふたりでいっしょにいるようになった。時々、どうして私なんかといてくれるんだろうと思うけれど、ミアはその優しさで、私を守ってくれる。
今も、ほら、他の人たちにだって、ミアはこんなに優しい。
〈今日、誕生日なんです。祝ってくれませんか? 幸せな気持ちになれたら、日付が変わる前に死のうと思います。最後に、『大好き』って言って欲しいです〉
という視聴者のチャットコメントに、ミアは即座にこう返した。
「大好き。大好き。大好き。誕生日、おめでとうね。明日もここに来てくれたら、明日もまた大好きって私が言ってあげる。どういう理由で死にたいのか、私は知らないし、私にはなにも解決できないけど、あなたが自分自身を好きになれるまでは、代わりに私がいくらでもあなたのことを、愛してあげる」
大きな目は瞬きもせずまっすぐにカメラを見つめ続けている。薄い唇から発せられた言葉は澱みなく、ミアの言葉だけが真実だと信じられるほどに力強かった。
チャット欄には、〈俺も泣いた〉〈おめでとうな。来年の誕生日もみんなで祝ってやるよ〉〈ミア、ありがとう〉〈生きよう!〉〈事情は知らないけど、ここに集まった連中はみんなおまえの味方だぞ〉〈わたしもコメ主に毎日言ってあげるから、わたしもミアに言ってほしいな〉〈ミアがいる世界で良かった。それはそうと、誕生日おめでとう〉なんてコメントと共に、投げ銭が溢れた。
琴美は泣きそうになってしまい、慌ててアプリを閉じた。
ミアの言葉は、居心地がよい。
それなのに琴美は、もう半年近くミアと会っていなかった。
どうしてか、会うのをためらってしまう。
そのあとは資料作りに追われ、終電ぎりぎりで電車に乗った。
働きはじめてからというもの、推しのライブにも行けていなかった。それは忙しさのせいばかりでもない。推しは数年前に不祥事を起こしたのだ。そのことに未だにもやもやするというのもあって、二の足を踏んでしまう。
近くで花火大会があったらしく、地下鉄は混んでいた。
すぐ前に座っている乗客がスマホでYouTubeのアプリを開いた。ちらちらと眺めていると、ホーム画面におすすめされている中にミアのチャンネルがあった。ミアを見るのかなと思ったが、乗客は画面をスクロールし、違う動画を再生した。〈事務所との間に起きたトラブルについて謝罪させてください〉というテロップが見えた。話しているのは白い仮面の男だ。
新太のYouTubeアプリにも表示されていた――確か、MAIZUという名前だ。
MAIZUは、とある炎上に対して謝罪していた。しかし、謝罪と銘打ってはいるが、その実は視聴者を煽る動画のようだった。乗客は、〈炎上商法しかできないならさっさと死ね〉というコメントを打ち込んでいた。琴美はどす黒い悪意を感じ、目を逸らす。少し先の席が空いたので、鼓動が速くなるのを感じながら、慌ててそちらに腰掛けた。
向かいの座席に、満員の車内にもかかわらず、座席を何人分も占領して缶チューハイを飲んでいる初老の男性がいた。
不思議と苛立たず、むしろ、その男性のことが羨ましくなった。あれくらい図太くなれたら楽なんだろうな。社会の荒波に呑まれ切ってしまえば、就活生のSNSをチェックすることや、彼ら彼女らの一生を左右してしまうことにも、なにも感じなくなるのかもしれない。
琴美は、ここ数か月ブラウザに開いたままにしているいくつかの転職サイトを見て回った。転職サイトを巡ることは、日課になっていた。今の仕事を辞める決心が付いているわけではない。転職願望より、新しい環境への不安の方が大きい。それでも、求人の一覧は、自分の選択肢なんだと思っていたかった。自分にはまだ、未来があるのだと。
溝の口の自宅へと帰宅したのは1時頃だった。ワンルーム九帖の部屋に入るなり、メイクも落とさずベッドに倒れ込んだ。気絶するように眠った。
アラームの音で目が覚めると、外すのを忘れていたコンタクトレンズがまぶたの裏側に回り込んでしまっていた。ごろごろする目を何度も搔きながら出社した。
「おおーーっす」
オフィスに着くなりそう言ってくる先輩に、琴美も「おおーーっす」と張りのない声で返す。「おはようございます」という意味だ。縮めて、おおーーっす。いつからか、Gofeat内での慣例的なあいさつになっている。
隣のデスクに座る関は、イヤホンを片方だけ嵌めてタブレットで動画を見ていた。片方だけっていうことは話しかけても平気かなと、「それ、流行ってるんですか?」と聞いてみる。画面には、あの白い仮面の男、MAIZUが映っていた。
「田井中ちゃん知らない? 『正義の配信者MAIZU』」
「正義の配信者?」
「MAIZUのキャッチコピー。一般人の迷惑行為を晒すスタイルで何年か前にブレイクして、当時は時の人だった。今じゃまあ、落ち目だけどね。最近また炎上してたから気になって」
琴美は、関の解説に対しては気もそぞろで、新太さんがこういうの見てるの意外だな、と考える。
別の先輩が、「ああ、そいつ、事務所クビになったんですっけ。ネットニュースになってましたよ。腹いせに事務所のスキャンダル暴露してやるとか息巻いてるって」と話に加わる。
琴美は「なんか、派手ですね」と苦笑いした。
「ところで田井中ちゃん、資料まとまった?」
「あ、はい。今みなさんに送りますね」
琴美は〝例の作業〟として遅くまで作成していたファイルを共有のクラウドにアップロードした。
「へえ。よく調べてあるね」
資料は他の先輩社員たちにも好評だった。
■
新太とは、毎週のようにお茶をしたり、呑みにいったりしている。会う間隔はどんどん短くなり、お互いに好意を抱いているのは確実だと思えた。琴美は次の一歩を踏み出すタイミングを見計らっていた。例えば夜景の見えるレストランや遊園地だとか。そういったベタなデートスポットに行きたくて仕方がない、というわけではなかったが、関係の進展のためには、このあたりでベタをこなしておくべきなのかもしれない。でないと、新太とはお茶友だちのような関係が続いてしまいそうだった。
〈明日の夜ってお暇ですか? もう日付変わってるから、正確には今日、7日です!〉
夏の夜の熱気に寝苦しさを感じながら、ベッドの中で新太にそう送った。いつもだったら、少なくとも三日以上前に連絡をしていた。けれど、今回は違った。ただ会いたいと思って、その気持ちを伝えていた。
恋なんだろうか。
そのつもりで彼と接して良いだろうか。
勢いが必要な気がした。彼の、「ひとりで大丈夫」な部分を崩すことのできる勢いが。
〈オッケーです。ちょうど今日は暇だったから。いつもの場所に20時はどうですか?〉
そう返事がきたのは、朝6時のことだった。通知音で一瞬目を覚ました琴美は、新太からの連絡に安心し、もうしばらく眠ろうと目を閉じた。新太さんらしいな、と思う。この前聞いた話では、平日休日問わず、必ず5時半に起床するのだという。電動歯ブラシと歯間ブラシで歯を磨き、昨日あったことや仕事の進捗をふり返りながら、豆から淹れたコーヒーをゆっくりと飲み、6時になると、夜のあいだに溜まったメールやLINEの返信をするらしい。聞いていた通りの時間に返信が来て、琴美は微笑んだ。彼の生活の隙の無さは、今のところ、彼ひとりのものだ。もしつきあったり、いっしょに暮らすようになったりすれば、私もその生活リズムに組み込まれるのだろうか。毎朝、私もいっしょに5時半に起きる? そんなの無理だ。想像するだけで、笑ってしまいそうになる。でも不思議と、嫌な感じはしなかった。
今日こそはベタなデートに誘おう。
仕事が終わると、待ち合わせ場所であるいつものスタバに向かった。
約束の数分前に着くと、ちょうど新太も来たところらしく、注文待ちの列に並んでいた。今日は外で打ち合わせがあったようで、ジーパンに袖を捲った長袖のグレーのシャツを合わせている。肩を叩いて、「席取っておきますね」と伝える。注文は、新太がふたり分頼んでくれた。出会った当初は、ドリップコーヒー以外を頼むのにもいちいち緊張していたらしい。今ではトレンドに敏感な十代の女子みたいに、毎回新しいドリンクを試している。自分が新太に影響を与えているのだと思うと、うれしかった。
「どうしたんですか? にやにやして」
唇の端にクリームをつけた新太が聞いてくる。
「いや、別に?」
琴美は、余計ににやにやしながら答えた。
「そうだ。このあいだはありがとうございました。仕事のこと聞いてもらえて、助かりました。今日は、楽しい話ができたら」
琴美は、なにかままごとでもするように言ってみた。
「そういえばこの間、花火大会があったんですよね。学生の頃は毎年行ってたのに、最近は仕事にかかりっきりで、何年も行けてないなあ。これから開催するところってあるのかな。新太さんは、花火ってお好きですか?」
そっちから誘ってきてよ――そう仄めかしたつもりだ。こうした些細な駆け引きは、ふたりの間ではめずらしかった。琴美としてはかなり攻めたつもりで、内心ドキドキしていた。
新太は、ゆっくり頷いたかと思うと、無言でスマホを弄りはじめた。
え……。
琴美は思わず、固まってしまう。
新太が、スマホの画面を見せてきた。
「これとかどうです? 九日後なんですけど、ご予定どうですか?」
表示されているのは、花火大会の情報をまとめたサイトだった。
8月16日、都内の野球場で開催されるようだ。
「土曜日ですね。行きましょう行きましょう! あの、絶対予定空けとくんで。よろしくどうぞ!」
「はい。よろしくどうぞ」
妙にかしこまった物言いにふたりして笑った。
新太がお手洗いに席を立つと、琴美は「25歳 浴衣」と検索し、出てきたコーデをチェックしたり、浴衣レンタル店のレビューをざっと眺めたりした。
新太との花火大会を想像すると緊張したが、当日までのスケジュールや、家に似合うかばんあったっけ、などと考えていると、タスクに向かっているような気持ちになった。
ここから、どこまで進展していけるだろう。
できたら向こうから、告白か、実質的に告白になるようなアクションをして欲しい。そしていつか行為に及ぶ流れになれば、自分は拒まない気がする。クリスマスをひとつの目標にしようと思った。そのために、花火大会のあとも濃いめのデートを重ねたい。金銭感覚にお互いそこまで差があるわけではないから、普段お茶する店も、今後はスタバじゃなくて吟味して特別感のあるところに変えたっていいかもしれない。でも無理は禁物だ。新太さんは、しっかりとしたライフスタイルを持っている。そこに、うまく私を溶け込ませないと。
会うことの目的がよりはっきりして、恋へのモチベーションが出てきた。
新太のジムの時間が来るぎりぎりまでいっしょに過ごした。ひとりで空回りしないようにしようと意識しても、琴美の言動の端々によろこびが溢れた。
代官山から渋谷駅までふたりで歩き、それぞれ沿線が違うので改札前で別れることにした。駅の中はかなり冷房が効いていた。新太が捲っていたシャツの袖をなにげなく戻した時、琴美は違和感を覚えた。
シャツの袖になにかついている。
十円玉程度の大きさをした、白くて丸いものだった。
なんだろう。犬?
犬の顔を模した小さなピンバッジが袖の外側についていた。
どうしてそんなところに。新太さんらしくないオシャレの仕方だと思う。
これも、私と出会って変わった部分なのだろうか。
「それ、可愛いですね」
微笑みを向けたが、新太はなんのことか気づいていないようだった。
喧騒の中でうやむやになり、新太は琴美の視界から消えていった。
帰りの電車内でふと思い出し、大学時代にミアと行った花火大会の写真を見返した。ミアとふたり、ピースをして写真に映る自分は垢抜けておらず、白地にやたら明るい水色の流線模様が施された、安っぽい浴衣を着ている。ミアはというと上下黒ずくめ、ジャージにパーカーという、風情もなにもない格好をしていた。せっかくの花火大会だというのに、空気を読まない格好の人と連れ立って歩くのは、当時の琴美の価値観からすれば少し恥ずかしいことだった。けれど、ミアだから特別だった。ミアはなんでも着こなしてしまうし、ミアが身につけているものはなんでも輝いて見える。着こなしやオシャレが特段に上手というわけでもないのに、好意の目が特別にさせる。その頃には琴美だけでなく周りの連中もみんなミアのことが大好きだったから、ミアが身につけるものだけでなく、やることなすこと、まぶしかった。
いつも輪の中心にいるミアといっしょにいられることが、ちょっとした誇りだった。
そして同時に、不安になりもした。一体どうして、ミアは自分を親友だなんて言ってくれるのか。花火を見ながら、琴美は勇気を出して告げてみた。
「私なんてさ、普通だ。普通以下だよ。ミアみたいに美人でも人気者でもない。むしろ、嫌なやつ。友だちが美人で人気者であることに価値があるだなんて思ってるんだから。ミアはさ、どうして私といっしょにいてくれるわけ」
心を曝け出すような気持ちだった。
ミアは突然、琴美を抱きしめた。
「だからだよ。琴美は、可愛いね」
ミアは、嫌な部分や汚い部分ぜんぶひっくるめて、私のことを肯定してくれる。可愛いと言ってくれている。ミアの胸の中に自分を預けてしまうのは、楽だった。
「琴美は特別だから、琴美だけはいつまでも、弱くて可愛いままでいてね」
ミアはそう言った。
あれからもう、五年も経つ。あの頃よりも自分は、もうちょっと嫌なやつになった。具体的になにがというわけではない。ただ、社会の荒波の中で生き延びようと必死なだけだ。それだけで、心のどこかはささくれ立っていく。
ミアのInstagramをチェックすると、最新の投稿がアップされたばかりだった。
ミアを中心に、数十人……いや、画角に収まりきらないほどたくさんの人が集合写真に映っていた。添えられたテキストによると、〈ラブアワの第6回目が無事に終了しました!〉とのことだった。
〝ラブアワ〟こと〈LOVE OURSELVES CLUB〉は、ミアがファンに向けて今年の2月からはじめた月額制のスクールだ。文字通り、自分にも他人にも寄り添って愛する方法をミアが受講生たちに語るのだ。その中には、自分自身をうまくアピールする方法や、人を惹きつける喋り方なんていう項目もあるようで、就活生たちのSNSをチェックしていると、ラブアワの話が出てくることがままあった。〈ガチで自己肯定感上がるからおすすめです〉〈冷静に考えてミアさんと直接話ができるって神過ぎん?〉〈今月もラブアワがあるからがんばれる……〉
ミアから教わるのだ。きっと、たくさんの人が救われているんだろう。
■
彼女の自信も、ミアに影響されたものだろうか。
8月8日、Gofeatの採用活動も終盤に差しかかっていた。
観月優香さんは、三次面接に残った五十名の学生の中でもひと際印象が良かった。グループ面接での機転の利いた受け答えや所作は申し分がなく、「常になにかを学んでいないと落ち着かないんです」と語るその前向きな姿勢も好ましく受け止められていた。
観月さんのSNSにこれと言った非は見当たらない。昨日は「ここからだ」と投稿していた。面接への意気込みだろう。アグレッシブに就活をする観月さんがGofeatを受けるのは至極妥当だと思われた。
観月さんのInstagramの最新の投稿は、ラブアワでの集合写真だった。やたらと小綺麗な板張りの室内で、他の参加者たちと共に笑みを見せている。どうやら、半年前の第一回から通っているようだ。
ミアと接点がある分、無意識のうちに贔屓してしまわないようにと観月さんの面接にあたったが、先輩たちの評価と同様に、この人が落ちることはまずないだろう、と期待は高まるばかりだった。
グループ面接が終わり、学生たちが退出しようとしている時だった。
椅子の脇に置かれた観月さんのかばんが目に入った。一般的な黒色の就活かばんだが、こちらを向いた狭い方の側面、マチ部分に、白っぽいバッジがついていた。
ビーズで作られているようだった。
目を細め、十円玉ほどの大きさのそれをよくよく眺める。
白を基調として、目鼻を表す黒と、耳の内側を覆うピンク色。
犬の顔に見えた。
これって、新太さんがつけていたものと同じだ。
「あの、なにか」
観月さんが、琴美の視線に気づいたようだった。
「えーっと。そういうの、人気なんですか? その、犬のやつ」
「チワワですか?」
観月さんはかばんを見もせず、即座にそう言った。「お好きなんですか?」と琴美が聞くと、観月さんは一瞬のためらいを見せた。
「いえあの、これ、なんでしょう」
「えっ?」
「私これ、知りません。私がつけたものじゃないです」
観月さんは、ゆっくりとかばんを手に取った。凶器にでも触れているように慎重にかばんの外側を見る。そして数秒黙ると、胸の高さまで持ち上げ、面接官や他の学生たちにゆっくりと回して見せた。琴美は、なにかのショーでPR用の看板を頭上に掲げて見せるラウンドガールを頭に浮かべた。観月さんは自分でもシュールな光景だと感じたのか、ごく控えめな咳払いをしたあと、かばんを膝の上に置き、ピンバッジを外した。
「これ、なんですか?」
ふふっ、と観月さんが笑うと、琴美含め、周囲の者たちはそれに合わせて笑った。
あのバッジなんなんだろう、とぼんやり考えながら帰路に就いた。
最寄り駅で降り、小さなスーパーに入った。食材や調味料をかごに放り込んでいく。
昨夜会った時に、新太は、最近自炊をはじめたということを教えてくれた。二日に一度、ジムに行かない日にまとめて作るらしい。「じゃあ、明日は自炊の日ですね。なに作るんですか?」と琴美は聞いた。あんかけ焼きそばです、と彼が答えた流れで、「私も同じものを作っていいですか? それで電話しながらいっしょに作って、いっしょに食べませんか」と取りつけたのだった。彼の日常に自分を食い込ませていくことに、心が浮ついた。
スーパーを出ると、雨が上がって少し経つからか、犬の散歩をしている人とよくすれ違った。その中にチワワもいた。
今日の出来事と共に、嫌な思い出がよみがえる。まだ、踏ん切りがついているわけではない。チワワは踏みつけそうなほど小さく、琴美は余分に迂回して避けた。あとで、あのピンバッジの話をしようかな、と思う。
家に到着し、新太と通話を繫ぐ。主に夏休みの予定について話した。新卒採用の選考や諸々の手続きに一段落がついたら、もう夏とは呼べない時期になってしまうけれど、有給を繫げて数日の休みを取ることができそうだった。フリーランスである新太も、それに合わせて調整したい、と言ってくれた。
「あの、じゃあ、旅行でも行っちゃいませんか?」
叶えばいいなと願いつつ、冗談半分と受け取られてもいいように明るく言ってみると、「はい。ぜひ」と返ってきた。琴美は小さくガッツポーズする。
いくつか候補を挙げ、江ノ島が悪くないんじゃないか、という話に落ち着いた。料理を作りながらチューハイを飲んでいると、気分が盛り上がってきた。
「嫌じゃなかったら、泊まりとかって……。あー、うそうそ、冗談です。忘れてください」
「あはは。良いですね。一泊、いや二泊とかでも」
「うん。二泊とかでも」
通話を繫いだまま、共に遅めの夕食を食べる。
「ポイント貯まってるんで、宿泊先は私が予約しちゃって良いですか?」
ホテルという言葉を出すと下心に自分で引いてしまいそうだった。宿泊先の候補のリンクをメッセージアプリで送り合い、シングルベッドが並んだ部屋を予約した。予約完了のメールに〈お気に入り〉のチェックをつけ、スクリーンショットを撮った。これから何回も見返そう、と思った。
「楽しみです」琴美は堪えきれなくなって、「あードキドキするどうしよう」と早口で捲し立てた。
「僕もです」と返ってきた。
琴美が入浴するまで通話を続け、風呂から上がってドライヤーを済ませたあと、また通話を繫いだ。パックをしていることを話すと、「見たいな」と新太が言った。どうしようか悩んだが、タイマーが鳴ったのでパックは捨て、せめて映えるようにと照明を調節し、カメラをオンにした。はじめてすっぴんの顔を見せるが、新太さんにならいいやと思える。
画面越しに見る新太の顔は、肌理そのものが「細かい」という表現を超え、もはやないように見えた。シンメトリーな顔立ちの中で目がぱっちり開き、こちらを見ている。がっしりした印象を与える頰骨のあたりは筋肉が詰まっていて、喋るのに合わせてぷくぷくと膨れた。
「ちょっとこれから仕事しないとなんですけど、見えるところに琴美さんがいてくれたらがんばれそう」
「えー。じゃあ私、なにしてましょうか」
普通にしていて欲しい、と新太が言うので、どうしていいかわからず、邪魔にならないようにゆっくりと歯を磨いたり、雑誌をパラパラめくりながら、新太の様子を気にしていた。仕事に集中しているようだ。しばらくの間お互い声をかけなかったが、新太を見ていると、胸の奥があたたかくなっていった。
「――琴美さん、大丈夫ですか」
「あ……」
一時間ほど眠ってしまっていた。
「僕も寝ようかな」
新太はいつの間にか着替えていて、上下白のスウェット姿になっていた。映像が揺れた。ホルダーかなにかで机に固定していたスマホを手に取ったのだろう。
その拍子に、棚の上に置かれている、白くて小さなものが映った。
画像はブレていたが、あのチワワのピンバッジに見えた。
それって、なんなんですか?
そう聞こうとしたが、緊張でそれどころではなくなった。
ベッドに入った新太の横顔が至近距離で映っていた。前髪が片側に寄り、いつもと雰囲気が違って見える。琴美はスマホを握ったまま布団にくるまった。新太の息がスマホのマイクにぶつかり、くぐもった音になる。
逸る鼓動を誤魔化そうと、「今日会社で不思議なことがあって」と話題を変えた。
「不思議なこと?」
「学生さんのかばんに、妙なものがついてたんですよね。その子が言うには、身に覚えのないものらしくて」
「身に覚えのないって、それ、大丈夫なんですか? なんていうか、盗聴器だったり、盗撮用のカメラだったり」
「そんな物騒なものではないんじゃないですかね。可愛いチワワのピンバッジですよ? その場にいたみんなで見てたけど。まさか」
「今、なんて言いました?」
「チワワのピンバッジだったんですよ」
新太がぐっと目を見開いた。
「新太さんの部屋にあるのと同じものかな。新太さん、昨日もそれ、シャツの袖につけてましたよね」
新太の頰が小刻みに痙攣したかと思うと、画面が真っ暗になり、通話が切れた。
かけ直したが繫がらず、何度か試みている内に眠気に負けてしまった。
新太からメッセージがきたのは、翌朝9時だった。
「Wi-Fiの調子がおかしかったみたいで、なんとかしようと思ったんだけど、ついそのまま、眠っちゃいました」
いつものルーティーンの時間を大幅に過ぎていた。
■
それ以降、新太の雰囲気が変わった気がする。
様子がおかしいというほどのことではない。ただ、毎日のメッセージに対する返信に時間がかかるようになった。メッセージに添えられる絵文字やスタンプの数が減った。電話の途中で沈黙が増えた。
不穏な空気を感じたが、つっつくようなことではないし、客観的に見れば大したことじゃないだろう。絵文字やスタンプの数が減ったのだって、それはむしろ、私に気を許してくれている証かもしれない。気にしてしまいそうな時には、私たちには花火大会も旅行もあるのだとこれからのことを想像して、気分を盛り上げた。
8月15日の金曜日に新卒採用の最終面接があり、翌16日が花火大会だった。
レンタルした浴衣は、薄ピンク色をした綿麻生地に大小の朝顔を散らした柄だった。着てみると思っていたより幼い印象になった。どうかな、と着つけをしてもらいながら思ったが、同年代と思しき店員さんがしきりに似合ってます素敵ですと連呼するので、「こういうの着られるの今のうちだけですしね」と話を合わせた。悪くはないんじゃないかなと鏡や窓を目にする度に思い、何度も繰り返してみるうちに、悪くない、とスムーズに思えるようになった。あとは、新太から褒めてもらえるかどうかだ。
一時間も早く着いてしまったので、会場である野球場の周辺を散策することにした。
球場に隣接した大きな公園内には、球団マスコットの派手な立像が建っていた。二足歩行で、手裏剣を投げるようにして野球ボールを放る眼帯をしたカワウソの像は、フォトスポットとして人気なのだった。下駄を鳴らしながら立像のところへと行くと、皆がべたべたと触ったせいで靴の部分の青い塗装が剝げかけていて、なにかご利益でもあるのか、両足の間のスペースには小銭が置かれていた。像の正面には、カップルや女の子たちが自撮りのための順番待ちをしていた。迂回してカワウソに近づき、五円玉を置いた。新太さんと長続きしますように、と願い、あとで時間があったら、ふたりで来て写真を撮ろう、と思った。
ひとりで楽しむのはもったいない気がし、琴美はにやけながら、人の流れに逆らって待ち合わせ場所である駅前へと引き返した。
待ち合わせ時刻から三十分を過ぎても、新太は現れなかった。彼は、遅れる前には必ず連絡をしてくれる。〈すいません。遅れてしまいます〉からはじまるメッセージが、いつも到着予定時刻の四十分前に送られてくるのだ。どういうルールかはわからないが、決まって四十分前だ。琴美はそうしたこだわりを新太さんらしいな、と思い、気に入っていた。ところが、今日は未だなんの連絡もない。
Xで〈都内 電車 遅延〉と検索しても、目ぼしい情報は出てこなかった。
ふと、トレンド欄の〈チワワテロ〉というキーワードが目に入った。見ると、チワワのピンバッジを撮影した写真が大量に出てきた。
発端となるのは、一週間ほど前にアップロードされた〈知らないあいだに服についてた。なにこれ〉という投稿だったが、それを今日、フォロワー数の多い元アイドルのタレントが〈ウチのバッグにもこれついてたんだよな。可愛いけど、一体なに? チワワテロでも起きてる?笑〉とピックアップしたことで話題になっているのだった。
誰もが、そのピンバッジに見覚えがないという。いつの間にか、かばんや衣類に取りつけられたらしい。
琴美は、新太が得体の知れないなにかに巻き込まれているのではないかと心配になった。
〈大丈夫ですか?〉〈もし、なにかトラブルに遭っているのなら、慌てなくて良いんで。全然、ゆっくり来てくださいね〉続け様にそう送り、既読のつかないメッセージを見つめた。
約束の時間から一時間が過ぎた。もうすぐ、花火の打ち上げがはじまってしまう。駅前から球場にかけての道は花火客でごった返していた。琴美の目には誰もかもが楽しそうに見え、胸の内が焦げつくようだった。妬ましいというより、早く安心したかった。新太さんがもし来られないとしても、せめて、無事かどうかだけでも確かめたい。彼は、私にとって大切な人だ。琴美は、自分がそう確信していることに気づいて、涙目になった。もっと、素敵なシチュエーションで思えたら良かったのに。
「早く来てよ」
そう呟くと、空に甲高い音が昇っていき、轟音と共に花火が弾けた。周囲から歓声が上がった。
琴美の目は、打ち上げられていく花火ではなく、スマホに釘づけになっていた。新太から、メッセージが来たのだ。
琴美は、ホーム画面に表示されたポップアップをゆっくりとタップした。
〈これから、会わないようにしよう。僕のことはもう信じないで〉
どういうことだろう。
「どういうことだろうな」
声に出すと、涙が出てきた。理由もなにもわからないというのに、フラれたし、嫌われた事実だけは確かにあるのだと、自分自身に突きつけてしまった。
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