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潜入先は、音楽教室。傷付いたスパイが見つけたものは――安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』

WEB別冊文藝春秋

 スパイ活動を命じられた美貌の青年。潜入先は、町の音楽教室だった——。
天龍院亜希子てんりゅういんあきこの日記』で鮮烈なデビューを飾った安壇美緒あだんみおさん。第3作『ラブカは静かに弓を持つ』は飛躍の一作となった。
 主人公の橘樹たちばないつきは、400万曲以上の音楽著作権を管理する「全日本音楽著作権連盟ぜんにほんおんがくちょさくけんれんめい」、通称・全著連に勤めている。ある日、彼は上司から極秘任務を命じられる。
 全著連は、音楽教室から著作権使用料の徴収を開始することを決めた。それを受けて、音楽教室を経営する業界最大手の楽器メーカー・ミカサを中心とした業界団体は、音楽教室に著作権使用料の支払い義務はないと訴えを起こす構えだという。樹に課された任務とは、ミカサの音楽教室でレッスンを受け、著作権侵害の実態を明らかにすることだった。
 この設定は、実際の事件をモチーフにしている。2017年、ヤマハらがJASRAC(日本音楽著作権協会)を相手取り、音楽教室での演奏については著作権料を徴収する権利がないとして訴訟を起こしているのだ。審理中の2019年には、一般客を装って覆面ふくめん調査を行ったJASRAC職員が裁判で証言し、注目を集めた。
「まずは徹底的に実際の裁判の事実関係を洗い出すところから始めました。調べれば調べるほど、単純な善悪の問題ではなく、被告と原告どちらにも一定の理があることがわかった。そんな中で、私が思いを馳せたのは、実際に潜入調査に携わった職員のことでした」
 樹が潜入調査の仕事に抜擢ばってきされたのは、幼少期にチェロを習っていた経験を買われてのことだった。しかし、彼は13歳のときに遭遇した不幸な事件がきっかけで、あらゆる楽器から遠ざかり、人間への恐怖心を抱くようになった。それ以降、樹は深海に呑み込まれる悪夢に悩まされ、いまなお徹底して他人との交流を断ち、深海魚「ラブカ」のごとく自分を閉ざしている。
 樹は胸ポケットにボールペン型の録音器を忍ばせ、東京・二子玉川ふたこたまがわにあるミカサ音楽教室に入会する。講師として選んだのは、ハンガリー留学帰りのチェリスト・浅葉桜太郎あさばおうたろうだった。ゲリラ豪雨に遭ったからと、頭にタオルを巻いたスウェット姿の浅葉が、緊張した面持ちの樹を出迎える場面は印象的だ。
「前2作は静かで起伏の少ない小説だったので、今回は思い切って大柄なエンターテインメントに挑戦してみました。現代日本を舞台にしたスパイ小説という試みは、とてもスリリングでしたね。スパイ小説というからには、過剰な人を登場させたかったんです。傷ついた美貌の青年と、才能はあるが認められてこなかった音楽家という、ある種お約束ともいえるキャラクターですから、リアリティの演出にはこだわりました。彼らが生きている空間のにおいを伝えなくてはと、舞台となる場所には何度も足を運びましたね。その土地を歩き回り、背景のイメージが固まると、彼らが実体を持った存在として立ち上がってきたんです」

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