夢枕獏「ダライ・ラマの密使」序章 #006
「お話はよくわかりました。もし本当に、あれが盗まれたものであり、その正当な持ち主があなた方であるというのなら、今の条件で、それをあなた方にお返しするのは当然のことです。しかし、私は、あなたたちとは、今顔を合わせたばかりであり、お三人とテンジンとの間にいったいどういういきさつがあったのかもわかりません。よろしかったら、それをお話し願えませんか」
「おれたちの言うことが、嘘だと言うのか」
ツェリンの声が低くなり、脅しの響きがこもった。
バサンが、片手でツェリンの身体を押さえ、
「あなたがテンジンからお買いになったものが、我々のものであり、テンジンがそれを盗んだというのは事実なのです」
「それを証明できますか」
「————」
「せめて、事情をお話しいただくか、テンジン本人をこの場に呼んで、彼自身の言い分も聴いてみないことには、私にはどうしようもできません」
「事情は、こみいっているのです」
バサンが、声の調子を変えずに言う。
「我らは、まだこれから、拉薩までゆかねばならない。ここで、時間を潰してはいられぬ」
ツェリンの声が、いよいよ硬く、低くなった。
「私は、まだ、三日、ここにいるつもりです。事情をお話しいただけるのなら、いつでもいらして下さい」
慇懃な口調で、私は言った。
ツェリンが、私にむかって足を踏み出しかけるのを、バサンが制した。
「わかりました。明日、もう一度、テンジンをつれてうかがいましょう。あの男が、あなたに売った品物が我々のものであることを、あなたに証明してくれるでしょう」
バサンもまた、慇懃に礼をした。
バサンにうながされ、ツェリンと、ジャユン老人が背を向けた。
「それでは——」
三人は、ゆっくりと、我々の部屋を出ていった。
ジャユン老人だけが、最初に自分の名を名乗ったのみで、一度も口を利かなかった。
「なんだか、このままでは済みそうにないですね——」
シーゲルソンが、ぽつりとつぶやいた。
その夜——
私は、居間で、しばらくシーゲルソンと一緒に、テンジンから買いとった品物について、あれこれと会話をかわした。
シーゲルソンは、ランプの灯りの下で、例の拡大鏡を取り出して、銅板と羊皮紙を丁寧に眺めていた。
眺めながら、シーゲルソンは、
「うむ」
とか、
「おう。これは凄い……」
独り言をつぶやいたり、時には、低い唸り声のようなものを喉の奥であげたりした。
私は、もう、シーゲルソンの方法に慣れていたので、彼の好きなようにさせて、しばらく彼には声をかけなかった。
やがて、彼は、静かにテーブルの上に拡大鏡を置き、その横に、銅板と羊皮紙を並べた。
「いや、今日ほど、わたしが自分の部屋にいないことをくやんだのは、この旅に出て初めてのことですよ」
深い溜め息と共に吐き出した。
「何か、わかりましたか」
「多少のことは、昼間の見解に付け加えることができそうです」
「どういうことが?」
「たとえば、この羊皮紙ですが、それほど遠くない過去に、この羊皮紙の近くで誰かが血を流していますね。跡が小さくて、絵の具や汚れと見わけがつけ難いのですが、明らかな血痕がいくつかあります」
「本当ですか」
「わたしの部屋にさえいれば、すぐにでも実験をして、それを証明してさしあげられるんですが……」
シーゲルソンは、残念そうな表情をし、
「ここの絵の具が少し剥げているのは、最近、何かが、ここに傷を付けたからですね。拡大鏡で見ると、何カ所か、距離をおいて、平行した同じ筋の傷があります。わたしは、わたしの名誉にかけて申しあげますが、これは、人の爪が付けた傷ですね。誰かが、この絵を握っている手から、無理にこの絵を引き抜いて奪ってゆくと、このような傷が付くことになります。この絵を握っていた人物が、屍体になっているのなら、その屍体の右手の人差し指の爪の中から、この絵に使用されている絵の具の一部が、限りなく微量ながら、発見されるでしょう」
言いながら、シーゲルソンは眼を輝かせ、
「おもしろいことです」
微笑さえしたのであった。
その晩、私は、興奮でなかなか寝つくことができなかった。
寝つけぬままに起き出して、私はランプの灯りを点け、昼間手に入れた絵と、銅板を取り出して手に取り、ランプの灯りの元で眺めていた。
手にしているだけで、ますます、眼は冴えざえとし、心に熱い温度を持ったものがこみあげてくる。
どうして、こういった古い時代の文物が、このように私の心の内部にある炎を、あかあかとかきたてるのだろうか。
これは、一種の麻薬のようなものだ。
銅板と羊皮紙の絵——
明らかにチベットの様式のもの。
これが何を意味するものかははっきりとはわからない。案外につまらないものである可能性もあるかわりに、ことによったらとんでもなく貴重なものである可能性もある。
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