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荒木あかね最新ミステリー! 読み切り短篇「置き去りイヤリング」公開

江戸川乱歩賞最年少受賞作『此の世の果ての殺人』でデビューし、今年八月には長篇第二作『ちぎれた鎖と光の切れ端』も刊行。ミステリ―ファンの熱視線を集める荒木あかねさんの新作短篇が到着しました!
主人公は新幹線の車内販売員=パーサーの今井瞳子。新横浜から名古屋に向かう車内で、奇妙な落とし物を発見して――?

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 へその三センチ下あたりにぐっと力を込め、背筋を伸ばす。頭のてっぺんをピアノ線で引き上げるようにイメージして。正しい姿勢は接客の基本だ。
 三号車の扉を前に、私は一つ深呼吸をした。それは客室に入る前のルーティンだった。新鮮な空気を肺に送り込みながら、心の中で「私は完璧」とつぶやく。私は完璧。だからこの先に一歩でも足を踏み入れてしまえば、もう失敗は許されない。
 自動扉を抜けると立ち止まり、腰から上体を折って一礼する。
「お食事とお飲み物をお持ちいたしました」
 とうきよう駅を七時ちょうどに発ったしんおおさか行きのぞみ二〇三号。三号車の自由席は六、七割方埋まっていた。
 ゆっくりとワゴンを押しながら車内に目を走らせていると、金曜日の朝特有の、疲れた雰囲気がにじんでいるのがわかった。この時間帯は通勤や出張目的で利用する人がほとんどで、スーツに身を包んだ会社員らしき乗客の姿が目立っている。パソコンや書類を座席のテーブルに広げている人もいれば、せわしなくスマホをいじっている人もいた。口を開けて寝ている人も。
「コーヒーはいかがですか」
 誰に言うともなく呼びかけて、注文を受ける準備が整っていることを暗に知らせる。全ての座席に届くように、お腹から発声するのがポイントだ。
 通路側に座る乗客の一人と目が合った。
「コーヒー一つお願いします」
「はい、ありがとうございます。ラージサイズとレギュラーサイズがございます」
 言いながら、通路の片側にワゴンをぴったりと寄せた。
「かしこまりました、レギュラーサイズですね」
 紙コップを手早く一つ抜き取ってワゴン上の作業用スペースに置くと、ポットを持ち上げてコーヒーを注いだ。
 車内販売のワゴンには約六十種類の商品が積み込まれているが、一番人気は断トツでホットコーヒーである。十一月も半ばを過ぎて一気に冷え込むようになり、温かい飲み物の売れ行きはますます加速していた。
「熱いので気をつけてお召し上がりください」
 豆かられた香り高いコーヒーは、いつだって私の味方だ。私が何も言わなくとも、乗客たちは車内に広がった芳しい香りに刺激されカフェインを欲するようになる。一杯目のコーヒーの精算を済ませると、あちこちから「すみません」の声が聞こえてきた。ラッシュが始まったようだ。
 コーヒー、お弁当、サンドイッチ、コーヒー、コーヒー、お菓子、またコーヒー。小型の決済端末で素早く商品を読み込み、一つずつ確実に注文をさばいていく。
「ご一緒にお飲み物はいかがですか?」
「交通系電子マネーでのお支払いですね」
「コーヒーチケットのご利用ありがとうございます」
 ワゴンが通り過ぎる直前、通路側の座席に座っていた男性客が一瞬だけこちらに手を伸ばし、すぐに引っ込めた。「買いたかったのに」とでも言いたげな、残念そうな表情をしている。その小さなサインを視界の端に捉えた瞬間、私はすぐさまワゴンごとバックして、「商品をお見せしますね」と彼に微笑みかけた。
「ああ、わざわざありがとうございます」
「とんでもございません」
 お腹も空いているし喉も渇いているけれど、「わざわざ呼び止めるほどの気力も勇気もないな」と車内販売のワゴンを見送る。そういうもどかしい経験をしたことがある人は、果たしてどれほどいるのだろう。ワゴンを押す側の私から一つ言えるのは、お客さんというのは案外、諦めやすい生き物だということ。だから何気ない仕草も、視線の一つ一つも見逃せないのだ。左右の座席に向かって丁寧にアイコンタクトを取りながら、通路を進まなければならない。
 東京、、大阪の三大都市圏を結び、一日約四十万人もの乗客を運ぶとうかいどう新幹線。東西を結ぶ大動脈とも言えるこの高速鉄道に乗り込み、車内販売などの乗務サービスを行っているのが私たちパーサーである。担当区間は東京から新大阪まで。のぞみ号でおよそ二時間半という限られた時間を快適に、そして安全に過ごしてもらうために働いている。
 三号車での販売を終えた私は、続いて二号車へと足を踏み入れた。「お食事とお飲み物をお持ちいたしました」などと呼びかけながら、先ほどと同じような手順でコーヒーや軽食の注文を次々に受けていく。
 二号車、一号車と進み、一番端のデッキまで辿たどり着くとワゴンを方向転換して、今度は中央車両へと引き返す。復路だ。
 パーサーは基本的に、三人一組で班を編成する。ベテランのパーサー一名が全体を統括するマネージャー業務を担当し、残る二名がそれぞれ一台ずつワゴンを押しながら車内販売を行うのだ。今も私以外に二人パーサーが乗車しているのだが、とはいえ仕事中は案外孤独である。ワゴンを押すとき、パーサーは一人きりだから。
 十六両編成の場合、二台のワゴンは「車販準備室」が併設されている十一号車を起点として背中合わせでスタートし、反対方向に向かって進むことになっている。進行方向、つまり一号車の方へと向かうワゴンはA車ワゴン、十六号車の方へと向かうワゴンはB車ワゴン。A車ワゴンもB車ワゴンも端まで辿り着いたら折り返し、先に帰ってきた方が中央付近に位置するグリーン車へと進む。途中で合流したらまた反対を向いて端の車両を目指す。そうやって二台のワゴンで車内を往復しながら商品を売るのだ。
 たとえ不測の事態が起こったとしても、助けてくれる仲間は傍にいない。それを不安に思うパーサーもいるが、個人プレーが性に合っている私にとってはむしろ有難い仕組みだった。
 一号車の客室に入ってすぐ、五メートルほど先の座席に座る乗客がこちらに熱心に視線を送っているのに気づいた。笑顔とともにワゴンを横づけする。
「あのう」
「はい、お待たせいたしました」
 ワゴンを呼び止めたのは観光客風のおばあさんだった。平日はビジネス目的の利用客が主だが、もちろん観光中の乗客もいる。
「ごめんなさいね、商品を買いたいわけではないんですけど。富士山はいつ頃見えるの?」
 私たちパーサーが最もよく受ける質問の一つだった。さっと視線を落とし、腕時計を確認する。
 下りの東海道新幹線では、富士山はしま駅の手前あたりから姿を現す。先ほど新横浜を出たばかりなので、まだ多少は時間があった。
 E席の窓を手で示し、
「今から約十五分後——七時四十分頃から、進行方向右手に注目していただければ見えると思います」
 三島駅を通過するおおよその時刻は乗務の前に既に計ってあった。大きい声で告げれば、周囲の客にも伝わる。
「ご親切に、どうもありがとうございます」
「お役に立てて何よりです。素敵な旅をお過ごしください」
「ちょっと待って。お礼に何か買うから」
 パーサーになってから、今年で二年目になる。自分で言うのもなんだけれど、私はもの凄く活躍していると思う。去年は新人ながら東京・大阪支店合同の接客コンテストに推薦されたし、親会社の発表会にも出た。ワゴン販売の個人別売上は事務所で集計され、季節商品のキャンペーンなどが行われるときはランキングが貼り出されるのだが、そこでも毎回表彰されている。
「どうしていまさんはそんなに優秀なの?」とか、「商品を売るためのテクニックはあるの?」とか、よく訊かれる。そんなとき私は、「どうしてあなたたちはできないの?」と逆に問いただしてみたくなるのだ。
 だって、私は特別なことは何もしていない。ただミスをしないだけ、チャンスを逃さないだけだ。見栄を張らず、自分のできることを完璧にやる。落とし穴さえ避けることができれば、物事はおのずと上手くいくはずだった。

 ネイビーのテーラードジャケットを腕にかけた一人の女性客が、通路正面から颯爽と歩いてきた。トイレにでも向かっているのだろうか、それとも既にお手洗いを済ませて自分の座席へと帰っているところだろうか。爽やかな白シャツに細身のパンツを合わせ、高級感のあるレザーベルトの腕時計でさりげなく手元を彩っている。シンプルかつ洗練された着こなしの、まさにキャリアウーマンといった風貌だった。
 乗客の通行を優先するため、私はワゴンを端に寄せて通路を空けた。一度斜め前方に押し出し、位置を調整しつつ手前に引くのがコツである。女性客は軽く会釈をして、ワゴンの横を通り過ぎていった。
 指定席を抜けて、いよいよグリーン車へと入る。十六両編成の新幹線車両では、中央付近に位置する八号車から十号車までがグリーン車に指定されていた。
 九号車の販売を終え、デッキに差し掛かったところでちょうど、B車ワゴンを担当すると鉢合わせた。
「依田さん、お疲れ様」
 目が合うと依田はさっと視線をらし、「お疲れ様です」と小さく呟いた。それ以上の会話を拒むように、少しずつタイヤの向きをずらしながらワゴンの方向を転換し始める。
 と、勢い余ってワゴンの角が壁にぶつかった。相変わらず、ワゴンの動かし方が下手くそだ。依田は私の方にぐりんと頭を向けて、「すっ、すみません!」と真っ青な顔で謝った。
 ——ずいぶん嫌われたもんだな。
 心の中でひとちる。別に悲しくはなかった。
 依田のんは、今年の六月に新人研修を終えたばかりのアシスタントパーサーである。私の一年後輩にあたるのだが、あまり仲の良い方ではないし、今朝のミーティングでも厳しく指導したばかりなので正直言って気まずい。依田は「ここ十年でもっとも不安な新人」という不名誉な肩書を背負う、鈍くさい奴だった。
 パーサーは乗車時刻の一時間前、支店の事務所にてその日ともに乗務するクルー同士でミーティングを行う。今日の場合は朝六時、通勤ラッシュに合わせてたくさんのパーサーたちが乗務の準備を始める頃だった。
 パーサーは遅刻が許されない仕事だ。人間が寝坊しても列車を遅らせるわけにはいかないので、万が一にでも遅刻すれば、代わりに乗り込む要員を急遽手配しなくてはならない。依田はいつも遅刻寸前という時刻に駆け込んでくるのだが、今日は輪をかけてギリギリだった。一応ミーティングには間に合っていたから、そのときは私も何も言わなかったけれど、問題は乗務前の身だしなみチェックの際に発覚した。
 互いの制服や髪型を確認していたとき、私は依田の靴に違和感を覚えた。——パンプスがバラバラだ! どちらも黒色でヒールの高さもほぼ一緒だが、爪先の形が左右で微妙に異なっていた。
 よくよく見れば右足の靴は会社指定のパンプスで、左足は似た形をした別物だった。あってはならないミスである。しかも依田は、私に注意されるまで左右で違う靴を履いていることに気づかなかったらしい。
 普通、靴を脱ぐときは左右揃えるだろう。バラバラのパンプスに足を突っ込んで出勤してきたということはつまり、依田は玄関に色々な靴を脱ぎ散らかしたまま放置しているのだ。私は潔癖症ぎみなので、その有様を想像するだけでちょっと鳥肌が立った。
「依田さん、目覚まし時計はちゃんと複数個用意してる?」
「ええと、は、はい」
「じゃあ、もう少し起床時間を早めようか。朝余裕がないと、自分で自分の身だしなみをチェックする余裕もなくなるでしょ?」
 仕方なく、私がロッカーに置いていた予備のパンプスを貸した。幸いサイズは一緒だった。依田は眉を八の字にして「本当にすみません」と何度も謝っていたが、「今度から気をつけてね」と釘を刺すときの私の笑顔はきっとっていたと思う。
 依田花音はどうにも注意散漫だ。揺れる車内で重いワゴンをコントロールするためにはタイヤを常にまっすぐにしておく必要があるので、パーサーは絶えず足元を確認しなければならないのだが、いつも落ち着きなく視線を動かしている。ワゴンを壁にぶつける姿をもう何十回と見た。その度に私は「どうしてそんな簡単なことができないの?」と投げかけたくなるのをぐっと堪えていた。
 依田とは合わないな、とつくづく思う。キョロキョロと定まらない視線も、ふらふらとした足取りも、何もかもが気にさわるのだ。そしてたぶん、向こうも私に——口うるさい先輩に苦手意識を持っている。
 東京と大阪の支店には、合わせて七百名ものパーサーが在籍している。東京のパーサーだけでも約四百名いるため、同じメンバーとシフトが複数回被るのは珍しいはずなのだが、なぜだか私は依田と一緒になることが多い。たぶん、私が依田の教育係になることを期待されているのだろう。
 六月下旬、新人研修が終わってピカピカのアシスタントパーサーたちが放流され始めた頃、研修担当のインストラクターから直々に「依田さんをよく見ててあげてね」と頼まれた。
『依田さん、ちょっと空回りしちゃうタイプの子なんだけど、すごく頑張り屋さんなんだよね。今井さんの仕事ぶりを見れば、きっと成長できると思うんだ』
『私、人に教えるのはあまり得意じゃないですよ。ご期待に添えないかもしれません』
『またまた。今井さんなら後輩の指導だって完璧にやれるでしょ? 若手のホープなんだから』
 あの日冗談めかして言われた台詞が、胸に重くのしかかる。
 溜息を堪えて背筋を伸ばした。今日は長丁場だ。へこたれてはいられない。
 新幹線は早朝から深夜まで走っているので、当たり前だが私たちパーサーも定時出勤ではない。始発に乗る日もあれば、午後から出勤することもある。泊まり勤務も多い。今日はチーフパーサーのえんどうさんと依田と私、三人のクルーで東京——新大阪間を一・五往復し、新大阪で宿泊する予定だった。
 十号車へと引き返していく依田の背中を見送って、私もワゴンの向きを変える。本日二回目の往路が始まった。
 九号車に入った途端、写真を撮影する音が聞こえた。ほうと感嘆の息を吐く音も。乗客のほとんどがE席側の窓に顔を向けているのを見て、「富士山が見える地点に来たのか」と合点する。座席からはその美しい稜線がよく見えるのだろうが、通路に立ちっぱなしであるパーサーの目線ではほとんど確認することができなかった。
 乗客たちが富士山に夢中になっている間、私は周囲に視線を走らせる。ぐっすり寝ている乗客や、トイレや電話などで席を外している乗客の座席周りは特に慎重に。
 最近、新幹線車内での荷物の紛失が多いと聞く。「もしかしたら置き引きかもね」というのが先輩たちの間でささやかれている噂話である。新幹線の乗客は在来線の場合と比較すると警戒心が薄く、寝ている人や荷物を置いたまま席を立つ人が多いので、置き引きが発生しやすいのだ。そして列車内で置き引きのような犯罪が行われると、被害者自身それが単なる忘れ物なのか、あるいは紛失や窃盗被害なのか区別がつきづらく、被害が表に出にくいらしい。
 今まで私が乗務しているときに置き引きや窃盗の現場に遭遇したことはないが、車内の安全管理もパーサーの仕事の一つである。視線をやるだけでも抑止力になるので、ワゴンで巡回している間は不審者や不審物に常に注意を払わなければならなかった。
 と、すぐ傍から遠慮がちな声が聞こえた。
「すみません、ちょっとよろしいですか」
 話しかけてきたのは通路側に座る男性客。ダークスーツに糊のきいたワイシャツという服装で、還暦くらいの年齢に見える。
「ハンカチは売ってますか?」
「コラボグッズのフェイスタオルでしょうか?」
 昨日から人気アニメのキャラクターとのコラボを展開しているので、車内販売でもグッズを数種類取り扱っているのだが、しかし、どうも客層が違う気がする。案の定、彼は「フェイスタオル?」と困惑している。
 そもそもこの人は本当にハンカチを必要としているのだろうか。何か他に欲しいものがあるんじゃないか? そんなことを考えながら男性客を観察するうち、私は彼の手に目を留めた。左手の指先をかばうように、右手が重ねられている。
「もしかしてばんそうこうですか?」
 彼は目を見開く。「ええ。絆創膏、売ってるんですか?」
「販売は行っていないのですが、こちらでご用意したものでよろしければ」
 準備室の救急箱から拝借した予備の絆創膏を差し出すと、彼は「凄いなあ、よく気づいてくれましたね」と笑った。見れば左手の薬指から少し出血しているが、大した怪我ではなさそうだ。早速患部に絆創膏を巻きながら、彼は言葉を続ける。
「今朝、東京駅から乗ったんですけどね、列の先頭に並んでいた人が、列車に乗り込む際にデッキで転んだみたいで。それで九号車の入口が詰まってしまい、団子みたいに混雑して、また何人かが転んだんですよ。私もそれに巻き込まれてしまいまして。後ろからぎゅうぎゅう押されたときに、どこかに指を引っ掛けて切っちゃったんですよ」
「そんなことがあったんですね。大変ご迷惑をおかけいたしました」
「いやいや、乗務員さんのせいじゃないですよ。車内販売で絆創膏は売っていないだろうから、ハンカチか何かを買って指に巻こうと思って声をかけまして。いや、今朝はバタバタしててハンカチを持ってくるのを忘れてしまったんです」
「お声をかけてくださってよかったです」
「ええ。本当に、あなたに気づいてもらえてよかったです。ありがとうございます」
 微笑んで一礼し、再びワゴンを前に進める。
 そうだ。この仕事が嫌いなわけじゃない。物心ついたときから「肝がわっている」と言われ続けてきた私は、きっと根っから接客業向きの性格をしている。今みたいに乗客に感謝されればやりがいを感じるし、売上という形で自分の仕事ぶりがわかるのも好ましく思う。——でも。
 車窓の向こうに広がる眩しい空から目を逸らし、車内を見回す。ずいぶん座席が埋まるようになったなと思った。
 私が入社したばかりの頃は、観光客はもちろんビジネス利用の乗客も激減していて、車内はまだまだ空席だらけだったのだが、しかし今年の春頃から急速に客足が回復した。新型コロナウイルス感染症が報告されてから、丸三年が経とうとしている二〇二二年十一月現在、その影響は薄まりつつある。今年の年末は、きっとコロナ禍以前のように混雑するのだろう。
 たとえこの先大幅に感染者数が増加したとしても、漠然と漂う「コロナは終わった」という空気感は変えられない。こうして何となく、なかったことにされていく。就職活動が阻害された私たち世代のことなんか、もう誰も覚えてはいないのだ。
 私はずっと、置き去りにされたままなのに。

 二号車での販売を終え、再び一号車のデッキに差し掛かった私は、ゴミが落ちていないか確認しようとゴミ箱周りの床に視線を走らせた。と、視界の端で何かがきらりと光る。ドアの前に何か落ちているようだ。誰かがゴミ箱に入れ損ねたかみくずだろうか。
 ワゴンをデッキの端に停めると、光を放つ物体のもとへと向かう。私はそれを拾い上げ、掌の上に載せた。
「イヤリング……?」
 花をモチーフにした、美しいイヤリングだった。花弁の部分はゴールドで作られていて、中央には美しいガラスが嵌め込まれている。真新しいものではないようで所々に細かな傷が入っているが、それすら味わい深く見える。——しかし、片方だけしかない。落とし物だろうか。
 車内で拾った落とし物、忘れ物は、駅で回収される。このイヤリングは私の交代駅である新大阪駅の「忘れ物承り所」に預けられ、駅の「遺失物管理システム」に登録されることになるだろう。忘れ物に関する問い合わせがあればそのシステムを検索して対応することができるのだが、原則として、その持ち主は保管場所まで自費で取りにいかなければならないことになっていた。着払いで受け取るにしてもお金がかかる。
 イヤリングの持ち主を車内で見つけることができれば、そんな手間をかけさせることもないのだが。ドアの前に落ちていたということは、持ち主が車両に出入りするときに片方だけが耳から外れてしまったのだろう。乗車時に落としたのか、それとも降車時に落としたのかは判別がつかない。
 のぞみ二〇三号は今、名古屋に向かって走っていた。持ち主が東京——新横浜間の移動に新幹線を利用している場合はもう既に降りてしまっているだろうが、名古屋、きよう、新大阪のいずれかで降りるつもりならば、まだ車内にいるはずだ。
 取り敢えずワゴンの空いているスペースにイヤリングを置いて、客室に足を踏み入れる。私は乗客とアイコンタクトを取りながら、一人一人の耳を——特に女性客の耳をチェックし始めた。片方のイヤリングを落としたということは、持ち主はもう片方をまだ耳につけているかもしれない。
 一号車の端まで歩き、折り返して二号車、三号車と進むが、それらしきイヤリングをつけた人物は見当たらなかった。乗客から落とし物について何か尋ねられることもない。
 持ち主はイヤリングを片方落としていることに気づいて、もう片方も外してしまったのかもしれないな、と思い直す。イヤリングは二つで一揃いのもの。片方だけ身に着けておくのは不格好だから、片耳にだけ残ったそれを外すのは自然なことだ。
 八、九、十号車とグリーン車を通過したところで、腕時計は八時二十八分を指していた。あと十分ほどで名古屋に着く。十一号車のデッキが目の前にあった。
 乗り降りの妨げにならないよう、停車駅に近づいたらワゴン販売は一時中断しなければならない。ワゴンを停めるには少し早いが、今のうちに商品を補充しておこうと、私は十一号車に隣接する車販準備室へとワゴンを押し進めていった。
 車内放送設備やコーヒーを淹れるためのコーヒーマシンなどの機材、それから商品の在庫などが所狭しと並べられた準備室。業務用冷蔵庫の前には依田の背中があった。ソフトドリンクを補充しているようだ。
 車体が小さく揺れる度、依田の足が蹈鞴たたらを踏んだ。体幹が弱いせいか依田はいつも足元をふらふらさせていて、姿勢も悪い。そんなに高いヒールを履いているわけでもないくせに、と今朝私が貸した予備のパンプスをついつい睨んでしまう。
 物音に気づいたのか、依田がこちらを振り返った。アシスタントパーサーの証であるえん色のライセンスバッジが胸元で光る。
「お疲れ」
「あっ、お疲れ様です」
「今日はホットコーヒー、けっこう出るね」
「そうですね」
 中身のない会話をしながら補充用の商品に手を伸ばす。依田は私のワゴンに目を留めていた。正確に言えば、作業台の上に載っている美しいイヤリングの片割れに。
「ああ、これ。落とし物。一号車のドアの前にあったの」
「イヤリング……ですよね?」
「そう。私たちが降りるまでに直接持ち主に渡せればいいんだけどね。もしイヤリングの落とし物について問い合わせがあったら伝えてね。これを拾ったのは一号車のデッキだったから、たぶん依田さんが担当してるB車ワゴン側の車両に持ち主はいないだろうけど。一応ね」
 依田は唇を嚙み、激しく瞬きを繰り返していた。変な顔だ。わからないことがあるくせに、それを尋ねるのを迷っているときの顔。
「何?」
「あの、そのイヤリングなんですけど」
 ポケットから、何かきらきらと光る物体を取り出してみせる。
「あたしも同じのを拾いました。十六号車のデッキで」

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