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小川哲、初の自伝的青春小説「walk」――短篇読み切りでお届けします!

 2005年、ライブドアがニッポン放送を買収しようとしていたあの年、僕は上京した。渋谷には信じられないほど大きい書店がいくつもあって、スタバは朝までやっていた。
 何もかもが始まった、十八歳のあの春。
『ゲームの王国』『嘘と正典』の小川哲、初めての自伝的青春小説!

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#001 walk

 かつて、ブックファーストが巨大すぎて言葉を失った人間がいた。僕だ。
 山手通りから文化村通りに出た僕は、自転車にまたがったまま口を開けてしばらく立ちつくし、「これが……海なのか……」とつぶやいた。水溜まりしか見たことがない子どもが生まれて初めて海を見たときみたいに。
 というのは噓だけど、太古の昔、渋谷に巨大なブックファーストがあったのは本当だ。信じてほしい。地下鉄渋谷駅と連結していたブックファーストではない。あのブックファーストより二百倍くらい大きくて、僕の実家の近所にあった「あづま」という本屋より二万倍くらい大きいブックファーストが存在した。
 初めて店の前に立った僕は、その辺に自転車を止めて店内へ入ることにした。二千何百年も前、アレクサンドリア図書館にやってきたバルバロイの気分がよくわかった。すべてのフロアのすべての本棚に、みっちり本が詰まっていた。店内に置かれたソファには書痴たちが座り、本を抱えて恍惚の表情を浮かべた東京人たちがレジの前に列を作っていた。彼らはレジの前で「リョーシューショ」という聞いたことのない呪文を唱えた。生まれて初めて、「本屋に殺される」と思った。呼吸ができる場所を探して、僕は慣れ親しんだSFコーナーの棚の前に立った。「あづま」では一度も見たことがないハインラインとアシモフの本を買った。逃げるように店外に出て、近くにあった普通の大きさのスタバに入り、二階席の隅で買った本を読んだ。スタバを出たら、ジョイフル本田で買った六千円の自転車が撤去されていた。
 東京だ、と思った。これが東京なのだ。
 二〇〇五年のことだ。

 二〇〇五年は愛知万博があった年で、福知山線で脱線事故があった年で、郵政民営化をめぐって衆議院選挙があり、小泉純一郎率いる自民党が圧勝した年だった。『ドラゴン桜』がドラマ化され、ヴィレヴァンにリリー・フランキーの小説が天井まで高く積まれた年だ。
 僕は十八歳で、高校を卒業して大学生になった。
 僕が入学した東大の駒場こまばキャンパスは渋谷の近くにあって、受験前に一度だけ下見をしたことがあった。駒場東大前駅から出ると、すぐ目の前に赤くない門がある。門を抜けると偽田にせだ講堂と(僕の中で)呼ばれている安田やすだ講堂の偽物があって、その裏手には銀杏の並木道が噓みたいにまっすぐのびている。当時は食堂や校舎のいくつかが工事中で、何十年も前に建てられた古い建物と新しい建物がちょうど半分ずつくらい混在していた。
 僕の実家は千葉市にあって、無理をすれば通えないこともない距離だったけれど(駒場まで片道一時間半くらいだ)、両親に頼みこんで一人暮らしをさせてもらうことにした。僕の両親は共働きで、父は会社員、母は小学校の教員だった。決して金持ちではなかったが、僕の学費と家賃を払える程度の余裕はあったし、お金が理由で何かを断念したことは一度もなかった(僕は人生において、その幸運を何度も嚙み締めてきた)。
 東大の合格発表があったのが三月十日で、新学期は四月の頭から始まるので、春休みは新生活の準備で忙しかった。忙しさそのものが楽しかったのは、今のところ人生でもこの時期だけだ。世間ではライブドアがニッポン放送を買収しようとして、ホリエモンだの村上ファンドだの日枝ひえだ会長だのが出てきてTOBだの新株予約権だの第三者割り当て増資だの何だのと、資本主義の裏技みたいなものが騒がれていた。その間に、僕と母は入学の手続きをしたり、不動産会社を回って内見をしたりした。豪徳寺ごうとくじの物件と永福町えいふくちょうの物件と迷い、最終的に新代田しんだいた代田橋だいたばし駅のちょうど中間にあるワンルームのアパートに決めた。目の前に環七が通っており、少し歩くと甲州街道があった。物件を紹介したエイブルの社員は「夜間は車の音が気になるかもしれません」と言っていた。僕はその後、経堂きょうどうに引っ越すまで、十年間新代田に住むことになったのだけれど、一度も音が気になったことはなかった。経堂への引っ越しを手伝ってくれた友だちは、「こんなにうるさくてよく寝れるね」と言っていた。
 正式に契約する前に連帯保証人になる父の承認が必要で、別日に僕は両親とともに再度アパートにやってきた。父は当時の僕が知っている人類の中でビンラディンの次に怖い人物だったので、アパートまでやってきた父がエイブルの社員に「一つだけいいですか?」と質問したとき、変な答えを口にしたらこの社員は今から父に殺されるんじゃないかと思った。
「なんでしょうか?」と社員が言った。
「このアパートはRC造ですか?」
「鉄骨です」と社員は答えた。
 父は「いいですね」とうなずいて、契約書の連帯保証人の欄に判子を押した。

 入学前に引っ越しをすませた僕は、暇な時間を使って自転車で都内のいろんなところへ行った。東京には芸能人か凶悪犯罪者しかおらず、道を歩けばドラッグの売人に捕まり、油断をすればラッセンの絵を高額で買わされ、方言を口にした瞬間に殺害される——みたいな偏見は持っていなかったけれど、まったく土地勘がなかったのは事実だ。東京は千葉とは何もかもが違った。たとえば新居の新代田駅から渋谷駅までは五駅離れている。千葉県において五駅離れている場所に住んでいたら別の宗教、文化圏に属する他国の人間だと思って接するべきだが、東京における五駅はほとんど隣人だ。新居から渋谷駅まで、自転車で二十分もあれば着く。そんなことを知って驚いた。
 新居を出て井の頭通りを進み、南に曲がって東北沢の駅前を通る。踏切を越えてまっすぐ進むと駒場キャンパスの裏門がある。裏門の前から山手通りを進み、文化村通りへ入ったところに、言葉を失うほど巨大なブックファーストがある。
 その「言葉を失うほど巨大なブックファースト」はそれから二年半後に閉店してH&Mになってしまうのだけど、閉店するまでに僕は五百冊くらい本を買った。信じられないかもしれないが、僕が東京にやってきたとき、渋谷にはブックファースト以外にも巨大な旭屋書店や文教堂書店があって、大盛堂書店も今より大きくて、リブロも山下書店もあったし、東急プラザには紀伊國屋書店があった。今もまだ存在するけど、駅前のTSUTAYAだって当時からあった。欲しい本が手に入らない、なんてことはほとんどなかった。ブックファーストの近くにあったスタバは朝方まで営業していて、ブックファーストで買った本を読むとき以外にも、テスト勉強をするときやレポートを書くときなんかに二階の隅の席をよく利用した。

 二階の隅には僕以外にも勉強をしている女の子がいた。びっくりするほどいつも同じ席にいて、いつも同じドリンク(トールサイズのカプチーノ)を飲んでいて、いつも同じまっすぐ背筋の伸びた姿勢で座っていた。左上に電子辞書を、その手前に教科書を置いて、そのままフォントにできるくらい綺麗な字をノートに書いていた。僕はその隣に背筋を丸めて座り、一番安いショートサイズのコーヒーを机の端に置き、ルーズリーフや裏紙に散らばった陰毛みたいな字で計算式を書きなぐっていた。僕は熱力学や電磁気学、構造化学や線形代数の勉強をしていることが多くて、彼女は英語やフランス語の勉強をしていることが多かった。勉強をしているとき、僕はその子より先に帰らないというルールを自分に課した。その子もなかなか帰ってくれないので、テスト期間になると僕たちはいつも朝まで隣のテーブルで勉強し続けた。しばらくそんな状態が続いた。そうこうしているうちにスタバが深夜に二階席を閉めることになって、僕たちは勉強場所を変えなくてはならなくなった。

 僕の新しい自習室はタワレコの近くにある巨大なドトールだった。どれくらい大きいかというと、普通のドトール一個分くらいの大きさの噴水が店の中央にあって、噴水の周りに見たことないほど巨大なドーナツ形のテーブルが置かれているくらい大きかった。
 ある日、そのドトールで勉強をしていると、スタバ時代の盟友だった女の子が隣のテーブルにいることに気がついた。
「スタバにいつもいましたよね?」と僕は思わず声をかけた。
「いましたね」と彼女は言った。「勉強に使ってました」
「あそこの二階、なんで閉めちゃったんですかね」
「終電を逃した人が宿に使ってたからじゃないですか?」と彼女が言った。
「たしかに」と僕はうなずいた。深夜の一時や二時を過ぎると、店内は客席で寝ている人ばかりになった。勤務を終えたキャバクラ嬢たちが客の悪口を言っているのも聞いたことがある。
「寝てる人、多かったですよね」と彼女が言った。
「寝てない人は、一杯のコーヒーで朝まで勉強してるし」
「私はちゃんと二時間ごとにお代わりを注文してましたよ」と彼女が笑った。
「一度もお代わりしたことないな」と僕も笑った。
 僕たちはドトールが閉店するまで勉強してから連絡先を交換した。彼女は青学の学生で、山梨から上京して山手通り沿いのマンションに住んでいた。親が医者らしく、液晶のテレビや乾燥機付きの洗濯機やコードレスの掃除機を持っていた。何回か二人でご飯を食べてから、僕たちは一年ほど付き合って別れた。
 別れたとき、僕の部屋には二人で半額ずつ出して買ったCDとDVDが結構あって、「これは譲ってくれ」とか「これはブックオフで売ろう」とか言いながら一緒に山分けした。すべての作業が終わったあと、彼女が「ドトールは譲ってあげる」と言った。
「どういうこと?」と僕は聞いた。
「勉強場所として使っていいよ」
 僕はどう言えばいいかわからず「ありがとう」と口にしたけれど、その後巨大なドトールで勉強したことは一度もない。

 彼女と付き合っていた期間に、脇島わきしまというサッカーサークルの同期にしつこく粘られて、彼女の友人を紹介したことがある。僕と脇島、彼女と彼女の友だちの四人でスポッチャへ行った。脇島はその子と二回デートをしたようだったけれど、結局付き合うことはなかった。女の子の方が嫌がったようだ。「自慢話ばっか」が理由らしい。その気持ちはよくわかる。
 僕と脇島は大学のクラスが一緒で、初めて会ったのは入学前だ。「クラスの親睦を深める」という理由で、大学のクラスメイトたちと河口湖へ一泊二日の旅に出た。東大ではオリエンテーション合宿(通称「オリ合宿」)として慣例となっている旅だ。脇島は行き帰りのバスで僕の隣の席だった。地方の男子校出身のよく喋る男で、移動中ずっとセンター試験の点数を自慢されてうんざりした(「一切勉強しなかったけど数学は満点だった」とか、「センターの前日は友だちと一日中サッカーをしていた」とか、そういうやつだ)。彼の地元では自慢として通用したのかもしれないが、残念ながら東大合格者たちを乗せたバスで通用する話ではない。僕は「へーそうなんだ」を繰り返し、「すごいね」とは一度も口にしなかった。きっと脇島はデートの間もセンター試験の自慢を繰り返していたのだろう。
 脇島は決して印象のいい男ではなかったが、当時の僕は知らない場所で新生活を始めたばかりだったし、クラスには一人も知り合いがいなかった。僕たちは入学してしばらく、よく一緒に行動した。たまたま脇島も大学でサッカーをしようとしていて、彼と一緒にいくつかのサークルを回り、同じサークルに入った。脇島はそのサークルに馴染めず、別のサッカーサークルに行くようになったけれど、そこでも馴染めなかったようだった。別の学部に進学したこともあり、大学三年の夏にスポッチャに行ってからは一度も会っていないし連絡も取っていない。サークルの友人たちと会うとたまに脇島の話になったが、彼が何をしているのか知っている人は一人もいなかった。

 脇島とスポッチャに行ったのはちょうど参議院議員選挙の日で、二十歳になって選挙権を得た僕の初めての国政選挙だった。スポッチャへ行く前に僕は投票をすませた。僕が誰に投票したのかは別として、選挙では民主党が躍進し、その後第一次安倍内閣は総辞職した。
 僕の家族はきわめて平凡というか、基本的に堅実で穏当だったと思うけれど、唯一の例外はかなり強烈な左翼だということで、小学校の入学式の前に「君が代」の歌詞の意味を教わったことがあるくらいだ。サッカー日本代表の試合があると、小川おがわ家では「どの選手が熱心に国歌を歌っているのか」をチェックしたりする。
 そういうわけで、僕の家では「自民党に投票する人間は悪の手先か犯罪者かその両方」だという常識が存在していた。とりわけ僕の祖父は筋金入りだった。元共産党員で、戦後にはポツダム政令違反で逮捕されている。大学に入学したばかりの僕が三島由紀夫を読んでいたら祖父に呼びだされ、「どういう意図で読んでいるんだ?」と聞かれたことがある。
「教養として読んでる」
 言葉を選びながら僕はそう答えた。祖父は「もっと面白い本を読みなさい」と言って僕の前に数冊のバルザックを置いた。『共産党宣言』や『資本論』ではなかった。

 祖父が亡くなったのは二〇二一年の春だ。九十六歳だったから大往生と言っていいだろう。
 葬儀の前に、母から「棺に祖父の著作を入れたいんだけど、実家に見当たらないから持ってきてほしい」と頼まれた。祖父は二〇一〇年に(親族全員に馬鹿にされながら)自費出版で自伝を出版していた。その本を僕は一冊だけ持っていた。
 僕は祖父の本を棺に入れたくなかった。なぜ嫌なのか、理由を考えてみた。僕が死んだとき、自分の棺に自著を入れてほしいと思うだろうか——思わないに違いない。僕が死んでも本は残る。自分の体と一緒に燃やされるくらいなら、どこかに保管しておいてほしい。
 僕は『華氏451度』のことを思い出しながら、「おじいちゃんは本を燃やされても喜ばないと思う」と断った。母は「たしかに」と言った。祖父の棺には本の代わりにお気に入りだったベレー帽を入れた。

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