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藤田真央インタビュー#01 「作曲家の理想の音を蘇らせる存在でありたい」

瑞々しい音色、豊かな抒情性で、世界の聴衆を魅了しつづけるピアニスト・藤田真央さん。
2019年、弱冠20歳にして、世界3大コンクールのひとつ、チャイコフスキー国際コンクールで第2位に入賞。同年、恩田陸さん原作の映画『蜜蜂と遠雷』で風間塵役の演奏を担当したことでも話題になりました。
現在、マエストロたちからのラブコールに応え、各国の演奏会を巡る日々を送っている藤田さん。”天才”の名をほしいままにする23歳は、音楽を通して、どのような世界を紡ごうとしているのでしょうか。
大盛況となった東京・オペラシティでのリサイタルから一夜明けた、22年1月20日。2月からの欧州・イスラエルツアーを控えた藤田さんが語ってくれたのは、「音楽」と「言葉」との、思いがけない関係についてでした。

――クラシック・ピアノ界の輝ける星。そんな存在と対面して、ひとつ素朴な疑問が湧きました。音楽世界の住人からすれば、言葉による伝達や表現なんて、ずいぶんまどろっこしいものに感じられるんじゃないか、と。
 
 いえいえ、わたしはどちらかといえばおしゃべりなほうだし、本も大好き。いつも何かしら手元に置いて読んでいますし、言葉に囲まれて生きています。
 音楽と言葉の関係ってたいへん興味深いですよ。両者はともに高め合うことのできる関係なのではないでしょうか。
 たとえば、わたしは日頃からよく歌曲を聴くのですが、これはわかりやすいかたちで音と言語が協働していますよね。優れた歌曲になると、両者がそれはそれは見事な融合を見せてくれる。
 最良の成果を挙げるなら、シューベルトの歌曲集《美しき水車小屋の娘》です。曲調と歌詞の双方に導かれるようにして、情景が次々と浮かびあがって、本当にすばらしい。 
 まずは詞、すなわち言葉が作品の主題を決め、ストーリーを築き上げる。言葉が提示した世界を受けて、こんどは音楽が、物語のピークと呼応するように盛り上がりを演出していく。うまくすれば音楽と言葉のどちらも生き生きした状態が訪れて、聴く人を興奮状態へいざなってくれるわけです。


――ふだんはどのような読書スタイルなのでしょう? 音楽活動の糧になる本が厳選されるのでしょうか。

読書はわたしにとって習慣であり日常。ですから、難しいことは考えず、ただその時々のフィーリングで本を選んでいます。
 ちょうどいま、珍しくロマンスを読んでいます。辻仁成さんの『サヨナライツカ』を再読で。最近プライベートでちょっと落ち込むことがありまして、明るい気分になれるものはないかなと引っ張り出してきたんです。でも読み始めてから気づきました、これって切ない恋の話でしたね。
 本と出逢う場は、主に書店です。演奏会のための移動が多いので、各地にある行きつけの書店に立ち寄るのが楽しみのひとつ。店頭でタイトルに惹かれたり、まえがきや目次をチラチラ読んで、おもしろそうなものはないかと探します。

 村田沙耶香さんの『コンビニ人間』は、そうやって店頭で出逢った一冊。タイトルのインパクトがすごいですものね。内容的にも、コンビニの仕事をやめて何もすることがなくなってしまう主人公の、切迫した心情が痛々しいほど伝わってきて、こんな人生もあるのかと思わされました。
 重松清さんの『ナイフ』も、書店で手が伸びた文庫でした。凄惨ないじめがなぜ、どんな環境のもとに起きてしまうのか。読み進めるうちに、中学生のときすでに読んでいたのを思い出しましたが、再読するとまた新しい発見があるものです。
 自分が体験したことのない、さまざまな状況における人の心の動きに関心が向くという性向は、昔から変わっていないのでしょう。
 長く自分の内側に残っている読書体験といえば、『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』もあります。1997年に発生した事件の加害者本人が書いたもので、当事者しか知り得ない情景や感情が事細かに描いてあって息を呑みました。そういえば当時付き合っていた女の子に「この本、凄いよ」と薦めたら、あなたどうかしてると言われてしまったものでした。


――手にとる本のテーマはかなり幅が広いのですね。ややノンフィクションが多めでしょうか。

 その傾向はあるかもしれません。むき出しの事実や、それまで想像もしたことがない事象には、好奇心が搔き立てられるので。
 ただ、もちろんフィクションの中にも、事実を超えたリアリティを感じるものはありますし、逆に、ノンフィクションでも、切り取り方の偏りが気になるものもあります。フィクション・ノンフィクション問わず、作家の自意識が全面に出すぎている作品に対しては、少し身構えてしまうところがあるのかもしれません。
 想像する自由を、人に手渡したくはない。いつだって自分の手の内に持っていたい。もしかしたらそんな心理が働くのかもしれないですね。


――ピアニストが最も真剣に読み込む楽譜は、どんな位置付けになるのでしょう。作曲家からのレターのようなものと考えれば、ノンフィクション作品とみなせるかもしれません。

 そうですね、読み物であるのはたしか。ただしノンフィクションなのかどうかは……。難しいところです。ことによるとフィクションかもしれないなと思うんですよ。
 楽譜には出版社ごとにいろんな「版」があります。同じ曲でも、それぞれ音や強弱がけっこう違ったりするので、作曲家や作品によって自分が採用する版は変わります。
 たとえばショパンだったら、近年はエキエル版がすばらしい楽譜だと評価されている。けれどわたしにはそれが絶対だとは思えない。もちろんいい面もありますよ、納得できる音も多い。同時に、首を傾げたくなる点もあります。
 結局、弾く側が確固とした信念を持って、楽譜を選ばないといけません。みんながこの版を使っているから自分もそうしようなどと、流されてしまってはだめでしょう。
 版を選ぶこと、それは演奏者にとって、最も大切な作業と言ってもいい。曲とどう向き合い、どんな演奏にするか、ビジョンを築き上げていくときのいちばんのもととなるものですからね。

 無事に版を選んだとしても、その楽譜が読み物としてノンフィクションなのかフィクションなのかは、また何とも言い難い。
 楽譜として「たしからしさ」が濃厚に漂うのは、その作曲家の自筆譜が残っている場合です。たとえばモーツァルトも、そう多くはないけれど、いくつかの曲の自筆譜を確認できます。この通りに弾く場合は、ノンフィクションに近いと言えるかもしれない。
 また、スケッチを残している作曲家もいます。曲の構想を練っている段階での試し書きや下書きのことですね。それらも曲を読み解く有力な手がかりですから、わたしは入手できるものはすべてチェックします。
 スケッチと自筆譜を照らし合わせると、いろいろ変化している部分が見つかって、作曲家が何を表現しようとしていたのか、思考をたどることができて理解も深まります。

 自筆譜やスケッチの次にアプローチすべきは、後世のさまざまな版のもととなる原典版。ただし自筆譜と原典版には、比べてみると異なる部分がたくさんあったりするので気をつけなくてはいけません。
 原典版をつくった校訂者が「モーツァルトの自筆譜にはこう書かれているが、当時はこの和音がハーモニーとして最適とされていたから……」などと、勝手に楽譜を改変していたりするのです。
 いや、あなたの考えをモーツァルト本人の意思より優先されても困る、と思うけれど、実際にそういうことは多々あるのです。
 こうなると何やらフィクションの色が漂ってきますよね。もともとの事実から加工された解釈が混じってくるのですから。そう考えていくと、どこまでがノンフィクションでどこからがフィクションか、明確に線引きするのはやっぱり困難ですね。
 どの楽譜を受け入れて、曲への理解を深めていくか。そこは常に悩ましい問題なんです。ただ、わたしにはその行程がたまらなくスリリングでおもしろい。毎度その作業には深く没頭してしまいます。


――版選びにこだわり抜くところから、「曲の解釈がオリジナル」と称される藤田真央の音楽は始まっているのですね。

 たしかにわたしの解釈は、聴いてくださる方によってずいぶん受け取り方が違うみたいです。
 わたしは楽譜から得られるだけの情報を得て、自分の解釈を組み立てて弾いていますが、そうではないアプローチの仕方があるのも事実。
 というのも1900年代に、たくさんの偉大なピアニストが活躍して、いくつもの演奏スタイルの系譜をつくってきた。ホロヴィッツやバックハウス、ミケランジェリにポリーニ、ギレリスとリヒテル……。いずれも巨匠と崇められる存在ゆえ、彼らがこう弾いているんだから後続の者は同じように弾かなくちゃ、という慣例のようなものができてしまいました。
 そのいい例がロベルト・シューマンの《ピアノ協奏曲 Op.54 イ短調》。第一楽章の第一主題で繰り返される「ド・シ・ラ・ラ(C-H-A-A)」という旋律は、彼の妻クララの名前の綴りをもじったものとされています。そこは誰の意見も一致するところなのでいいのですが、この曲を多くのピアニストは、たいへんノーブルにゆったり弾くんですよ。

 たとえばルーマニアの偉大なピアニスト、ラドゥ・ルプーは、すばらしく美しい音色で、スロー再生でもするかのようにこれを奏でます。なるほどそれもひとつの解釈でしょうし、そうした演奏に追随する人は多いです。
 けれどじつは、シューマンはこの曲について、ちゃんとテンポ表示を楽譜に書き残しています。二分音符=84と、かなり速いテンポで弾いてくださいと本人が指定しているのです。
 わたしはかつてあるコンサートで、この曲を楽譜通りのテンポで弾きました。すると新聞で、「総じてテンポが速すぎる。居心地の悪さを感じた」と評されたのです。
 巨匠のCDを聴くのもいいのですが、そこに録音されている演奏をあたかも正典か何かのように考えるのは違うと思います。作曲家の残した楽譜こそ、わたしたちが作品に最も近づける「よすが」だとわたしは考えます。そこをすっ飛ばして、誰それがこう弾いているから同じようにするべきだというのは、なんだかもったいない気がしてしまうのです。


――演奏を自身の表現というより、作曲家の意思や意図を、時を超え蘇らせるものと捉えているのでしょうか? 
 
 そうですね。たとえばショパンも、わたしは楽譜を自分なりに読み取った結果、他の多くのピアニストと異なるテンポで弾くこともあります。そこは解釈の違いであって、どちらが正解とか優れていると言えるような類のものではありません。
 印象派のクロード・モネの風景画と、16世紀マニエリスムのジュゼッペ・アルチンボルドの野菜を寄せ集めて描く肖像画、どちらが優れていますか? と問うても答えようがないのと同じです。
 わたしもコンクールを受けることのある身なので矛盾を承知で言いますが、音楽は競うものじゃありませんし、点数を振って優劣をつけられるものじゃない。本来はただ、一人ひとりの芸術を尊重するべきものです。
 
 評価や基準はいつだって揺らいでいるものです。そこに振り回されないようにするためには、自分の信念を絶対に曲げないこと。
 人によって解釈や意見、好みが分かれるのは当然のことですから、わたしの演奏を受け入れてもらえるかどうかも、わたしにはまあなんとも言えません。だってつぶ餡とこし餡でも好みは二分されるのだし、誰もが好きそうなカレーだって苦手な人はいますから。そんなものだと思っています。
 みんなが異なる感性を持っているから個々の表現というのは成り立つもの。「違っている自由」みたいなものは、どこまでも尊重するべきですよね。

インタビュー・構成:山内宏泰
撮影:杉山拓也、佐藤亘

#02につづく

藤田さんの新連載「指先から旅をする」はこちら


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