見出し画像

三上延「シネマバー・ソラリスと探し物」 #001

レンタルビデオ店を”リメイク”し、オープンしたシネマバー。
大人たちは束の間そこで、映画に想いを乗せて解き放たれる。
映画とビール、恋とひみつの物語

TOPページへ戻る / 次へ

第一話 ビフォア・サンライズ

 そういえば、これまでの人生でどれぐらい映画を見てきたんだろう。

 駅前のバスターミナルを歩きながら、たかいくはふと思った。昔から映画は好きな方だと思う。洋画でも邦画でも、古くても新しくても。

 千本はたぶん超えている。問題はその先だ。映画館ではパンフをあまり買わなくなった。テレビで放映された作品を録画することも多いけれど、見た後はすぐに消してしまう。学生時代はレンタルビデオ店でしょっちゅう映画を借りていて、三十代になった今もたまに駅前のTSUTAYAに立ち寄っている。

 何をいつ見たのか、はっきり思い出せない。

 最近よく使っているネットの動画配信サービスには視聴履歴が残っているはずだ。でも覗いたことなどない。DVDやBlu―rayのソフトを買うこともあるけれど、全部合わせても五十枚は超えていない。日記でも書いていれば話も違ったのだろう。

 昔見た映画は記憶の中にしか残っていない。もし記憶から消えたら、見たという事実すらなくなってしまう。

 郁実はバスやタクシーの行き交う大通りを北に向かっていた。もう日はほとんど沈んで、仕事帰りらしい人々が歩道に目立つ。駅の向こう側にある会計事務所に勤めている郁実もその一人だった。家電量販店や老舗のデパートを通りすぎ、駅から離れるに連れて人通りは少しずつ少なくなっていく。

映画のことを考えていたのは、今向かっているのがレンタルビデオ店だからだ。それも個人経営の。

 東京の多摩地域にあるたちかわ市に郁実が引っ越してきたのは三ヶ月前、夏の始まる頃だった。新しい勤め先が立川駅に近い会計事務所だったからだ。

 といっても、この街に住むのは初めてではない。中学から高校にかけて、五年ほど暮らしたことがある。自衛隊の駐屯地や市営の競輪場があり、JRの他にモノレールも通る立川は昔から栄えていたが、再開発が進んだ今はさらに賑やかになっている。駅前の古いデパートが取り壊されてタワーマンションが建ち、おしゃれなビストロやカフェが目につくようになった。

 その分、昔ながらの喫茶店や中華料理屋は少し減った。学校帰りにコロッケを買い食いしていた肉屋もなくなっている。全体的に小綺麗になり、便利にもなったけれど、どこかつるっとしたよそ行きの街並みがほんの少し寂しい——。

『まあ、確かにね。私も同じようなこと、時々考えるよ』

 そういう愚痴に頷いてくれるのは、高校時代にクラスメートだったあさくらゆう。今はくま姓に変わっている。引っ越しの多かった郁実と違って、彼女はずっと立川に住み続けてきた。同じようにこの街で生まれ育った男性と五年前に結婚し、今は二人の子供を育てている。友香とはパソコンのビデオチャットを使って話していた。

『でも子供連れとか女同士で気軽に入れるところが増えたから、私としては嬉しいかな……分かった分かった、上手に描けてる。はい、じゃ、トイレにいってきて』

 絵を見せに来たパジャマ姿の男の子を回れ右させてから、ごめんね話の最中に、と謝ってきた。ううん全然、と郁実は答える。

 神戸の大学に進学し、卒業後も長く大阪で働いていた郁実は東京の知り合いと繫がりが薄くなっている。そんな中、引っ越してきてすぐに連絡をくれたのが友香だ。よかったらお茶でも飲もうよ、と誘ってくれた。真新しいショッピングモールにあるカフェで一度会ったが、その後はネット越しにおしゃべりするようになった。独身の郁実と違って、子育て中の友香に時間を作るのは難しかったからだ。

「最近、何か気になるお店とかあった?」

 と、郁実の方から尋ねる。友香はこの街にオープンしたカフェやバーに詳しい。SNSや地域の情報サイトでチェックして「いつか行く店」リストを作っているらしい。それが彼女の気晴らしなのだろう。どんな店なのか確かめてきてと頼まれると、足を運んで感想を伝えていた。新しいバーを教えてもらえるので、酒好きの郁実にとってもありがたかった。

『そうそう。郁実に行って欲しい店があってね。なんか変わった店ができたみたいで』

 友香は内緒話のように身を乗り出してくる。変わった店、という言い方は珍しい。

『高校時代に行ってたレンタルビデオ屋、憶えてる? シネマ通りの』

 古めかしいネオンの看板が郁実の脳裏をよぎる。駅から歩いて十分ほどの場所にあった小さな店だ。モノクロの古い邦画やヨーロッパ映画の在庫が多く、駅前のTSUTAYAで見当たらない作品はそこで借りていた。

「もちろん憶えてるけど……えっ、まだあるの?」

 郁実が通っていた十数年前も繁盛していたとは言えなかった。モニターに映し出された古い映画を、店長らしい女性が座って見ていたのを憶えている。まして今はネット配信で映画をいくらでも見られる時代だ。大手のチェーン店も次々に姿を消している。

『ううん、とっくの昔に閉店してる。ずっとシャッターが閉まってたんだけど……最近ビアバーになったらしくて』

 郁実は曖昧にうなずいた。ビアバーならこの街のどこにあっても不思議はない。何が変わっているのかよく分からなかった。

「お店があった場所にビアバーができたんだよね?」

 違う違う、と友香は大きく首を振った。

『レンタルビデオ屋が、そのまんまビアバーになってる、って話』

 大通りから折れて細い道路に入り「シネマ通り」という標識をくぐった。喧噪が背後に遠ざかっていく。大昔は映画館がいくつもある賑やかな通りだったそうだが、郁実が初めて足を踏み入れた頃には一館も残っていなかった。それでも、日用品を売る店や飲食店が並んでいて、商店街としての姿を保っていた。

 再開発が進んでいる区域からは少し離れているせいか、雰囲気は以前とあまり変わらない。高校時代に戻った気分に浸っていると、唐突に「レンタルビデオ」というネオンの看板が目に飛びこんできた。営業しているのは間違いない。

 ただ、道路に面したガラス窓に貼られているポスターは海外ドラマの『LOST・シーズン3』とサム・ライミ監督の『スパイダーマン3』。二〇〇〇年代後半で時が止まっている。ずいぶん前に一度閉店したのは確かなようだ。ポスターの隙間から店内を覗きこむと、ビデオテープやDVDの収まったスチール製の棚が並んでいる。その眺めは昔のままだ。

 とはいえ、違っているところも目につく。レジカウンターが長方形の大きなものに変わっていて、スツールも五、六脚置かれている。何人かの客がビールのグラスを片手に何か話しこんでいる。暗めに抑えられた照明もバーらしい雰囲気を醸し出していた。

 ふと、郁実は入り口の上にある看板にもう一度目を向けた。ネオンの光でさっきは気付かなかったが、「レンタルビデオ」の横に金属製の看板がかかっている。洒落た切り文字で「BAR SOLARIS」。最近取り付けられたもののようだ。派手なネオンとのギャップがすごい。

「……レンタルビデオバー・ソラリス?」

 小声で読み上げる。レンタルビデオ店なのかバーなのか、一体どっちなんだろう。

「……あの」

 突然かけられた声に飛び上がりそうになる。振り向くと黒いコートを羽織った男性が立っていた。年はたぶん二十代前半。地肌が見えそうなほど短くした髪を赤く染め、耳にピアスをしている。背はさほど高くない。切れ長の目が印象的だった。

 なぜか一重まぶたを不機嫌そうに細めて、郁実を睨みつけている。一文字に結ばれた唇から、今にも舌打ちが洩れてきそうだった。

「すみません、どうぞ」

 出入りを邪魔していることに気付いて、郁実はガラス戸の前からどいた。赤毛の若者は少し戸惑ったようにドアを開け、郁実を迎え入れるように手で支えた。

「いらっしゃいませー」

 無愛想だがよく通る声で言う。居酒屋で客を迎えるような節回し。この若者は店員だったのか。よく見ると黒いコートの下には腰までのエプロンを巻いている。買い出しにでも行っていたらしく、手から提げたナイロンバッグからはマッシュルームのパックと西洋ねぎが覗いていた。

 郁実は促されるまま中に入った。カウンターの周りにいた人々がこちらを振り返っている。男女二人がスツールに並んで腰かけている。

 白いシャツを着たマスターらしい中年男性が、彼らとカウンターを挟んで向かい合っていた。すらりと背が高く細い体付き。くせっ毛なのかパーマに失敗したのか、微妙に髪がうねっているのが気になる。それなりに彫りが深く整っているが、印象に残りにくいぼやけたような顔立ちだ。おそらく郁実よりは年上で、四十代になっている。

 軽くみはった目が郁実の顔を捉える。口元に品のいい笑みが浮かんだ。

「こちらへどうぞ」

 温かみのある声に呼ばれて、郁実はカウンターへ近づいていった。入り口からは見えなかったが、カウンターの奥にはビールのタップ——注ぎ口が十個ほど並んでいる。郁実は内心驚いた。タップが多いということは、鮮度の落ちやすい樽詰めのビールをそれだけ用意しているということだ。一応はちゃんとしたビアバーらしい。

「おっさん、領収書」

 赤毛の若者がカウンター越しに紙を差し出す。従業員とは思えない態度だったが、マスターは気に留めた様子も見せなかった。

「ご苦労様。たいようくん、買い物は大丈夫だった? これ、忘れていったでしょう」

ここから先は

4,258字

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!