今村翔吾「海を破る者」 #004
蟬の声が絶えると共に、少しずつ山野が色づき始めた。伊予は気候が安定していることもあり、毎年稲の実りは悪く無く、他の国に比べれば飢饉が起こることも珍しい。日々の暮らしが厳しくなると人の心も荒むものだ。伊予人に温厚な者が多いのもこの気候と無関係ではあるまい。
弘安元年(一二七八年)の秋は例年以上の豊作となった。百姓たちは豊穣を祝い、河野家としてもそれは嬉しい。が、手放しでは喜んでいられぬ事情もあった。そもそも河野家には、
——土地が足りていない。
のである。
承久の乱で京方に付いたことで河野家の幕府内での地位は失墜し、本貫地を含めた多くの土地を没収された。それにも拘わらず、大御家人であった河野家には今も累代の郎党が多くいるのだ。
今でも御家人の反乱はあるが、源平が争っていた頃に比べれば稀なことである。その滅多にしか訪れない戦の機会のために、新たに郎党を召し抱えようとする御家人は殆どいない。そのような情勢の中、郎党たちを放り出してしまえば、彼らはすぐさま路頭に迷うことになる。
郎党を召し抱え続けるのにはさらにもう一つ訳がある。河野家の者たちは、
——必ずやお家の再興を。
と、願って止まないのだ。
今は辺境の一貧乏御家人に甘んじているが、約五十年前には伊予国守護職に準ずる伊予国惣領職を与えられていた。河野家家宰の古泉庄次郎などは、華やかな時代に子供時代を過ごしたためか特にその念が強い。
再び河野家に勢いを取り戻すためには、やはり武功を立てる以外に道は無い。その機会が来た時に郎党がいないのでは話にならず、人を減らす訳にいかぬという事情もあった。
四年前の文永十一年(一二七四年)に元が来襲した時には、庄次郎ら古い郎党をはじめとする皆が、遂に機が巡って来たと勇んだ。しかしこの時の幕府の命は、水軍を率いて九州に向かえというものであった。人の数は何とか維持してきたものの、見合った分だけの船が残っておらず、武功を立てようにも手立てがなかった。
「と、いう訳だ」
六郎はそう言って水面に網を投げ打った。
本日は繁とともに海に出て漁を行っている。普段は漁師たちに託して彼らに教育を任せているのだが、暇が出来たので今日はこうして自ら連れ出したのだ。
繁は前々から武士である河野家が何故、漁師たちの元締めをしているのかと疑問に思っていたらしい。故に河野家を取り巻く事情を語ったのである。
「よく解った」
繁は次に投げる網を手に絡めながら答えた。勘が良いのだろう。繁の倭語は出逢った頃からこの国の者と遜色ないほどだったが、この数か月でさらに上達している。
「でもお前が海に出る必要はないだろう?」
繁は手許を見つめながら続けた。
郎党を食べさせていくに十分な土地が少ない分、こうして海から様々な形で銭を得て補う仕組みを考えたのは六郎であった。とはいえ湊と市のことは庄次郎に、漁師たちの元締めは村上頼泰に任せており、己はそれらを纏めていればよいだけである。自ら漁師の真似事をすることに意味はないのだ。そこに何か特別な意図があるのではないかと繁は勘ぐったらしい。
「ただ好きなだけさ」
六郎は網を手繰り寄せながら頰を緩めた。年貢を検めねばならぬため、秋頃の領主というものは多忙である。海が好きな己としては毎日でも漁に出たいが、務めをなおざりにするわけにもいかず暫く遠のいていた。久しぶりの漁ということもあり、繁がどれほど腕を上げたのか見たいという気持ちもあった。
「変わり者め」
繁は吐き捨てるように言い、舳先から美しい円を描くように網を打った。言葉だけでなくこちらの習得も早い。己が学び始めてこれくらいの頃は、網を広げて投げることが出来なかった。
「よく言われる。だが海に出ると、遥か彼方の国まで行けるような気がして楽しいのだ。この気持ちわかってくれるか?」
六郎が笑うと、繁は一瞥して鼻を鳴らした。他愛のない会話が出来るまでになったが、なぜ繁が奴隷になったのか、と立ち入った話を聞こうとすると途端に口を閉ざす。躰全体から聞くなという殺気にも似た雰囲気を醸し出すのだ。
「令那はどうだ?」
六郎は網を引きながら尋ねた。倭語を覚えたかという意である。令那も決して愚かなようには見えないのだが、言葉の習得には得手不得手があるのだろう。こちらの話は朧気に理解しているようにも思えるが、繁と異なって令那は倭語で話をしない。そもそもあまり口を開かないで、頷きや身振りで応じることが殆どである。
「いや」
繁は短く答えた。二人は繁の故郷である高麗で出逢い、己よりも半年ほど付き合いが長い。己には話さないものの、繁と二人の時は会話があるのではないかと思ったのだが、そういう訳でもないらしい。
「そうか」
淡い落胆を隠すことができなかった。令那の故郷について色々聞きたいという欲求がある。それは繁も同様で、そのために二人を引き取ったのだ。
「そもそもな……」
繁は波のさざめきを縫うように語り始めた。奴隷商人が引き連れていた奴隷の数は多い時で八十余人、少ない時でも二十人はいた。肌や眼の色も違えば、使う言語も異なる。日中は無駄口を叩くことさえ許されないし、夜に少し話す機会があっても、自然と言葉の通じ合う者どうしが固まる。つまり繁も令那とほとんど会話したことはなかったという。
「ほう」
では何故、令那を引き取ろうとした時に、俺も連れていけと訴えたのか。それを聞くべきかどうか迷った。語らないのもむしろ余計な誤解を招くと思ったのか、繁は舌を強かに打ってぼそりと答えた。
「恩があるからな」
「恩?」
六郎は振り返って鸚鵡返しに訊いた。繁は振り返らずに網を引き寄せている。細身であるが逞しく締まった腕に筋が浮いていた。
「俺はいつもあの蛙男に嚙みついてばかりいてな」
蛙男が奴隷商人のことだとすぐに判った。己もあの卑しい笑みを見て蝦蟇に似ていると思った。生まれた国は違えども、同じように見えることに可笑しみを感じた。
あの男は奴隷をまるで物のように扱う。少し反抗的な眼付きでもしようものならば、足蹴にするようなことも間々あった。高麗の同朋が奴隷商人に打擲を受けているのを見かね、繁は体当たりして助けたことがあるらしい。だがすぐに取り押さえられた。逆らった罰として数日の間、飯を与えられず水だけで過ごすことを強いられたという。
「俺はここで死ぬんだな……そう思った」
繁はなかば覚悟したという。
少しでも腹を減るのを抑えたい。夜になると一切動かずに小さく縮こまって眠ろうとする。しかし己の腹の虫の鳴き声で眠れぬほどであったという。そんな時に、令那は何も言わずに自分の分の粥を差し出した。
——いいのか?
と嗄れた声で尋ねると、令那は無言でこくりと頷く。
飢えのあまり飛びつくようにして冷えた粥を貪り食った。八割方腹に収まったところで、繁ははっとして匙を止めた。無我夢中であったため、令那の分を残すことを失念していたのだ。詫びて残り僅かな粥を返すと、令那は手を差し向けて穏やかに微笑んだという。
何度返そうとしても受け取らない。今日は全て食べておけと言いたいのだと繁は察した。申し訳なさが込み上げてきたが、正直なところ腹はまだ満たされていない。伝わっているのかどうかも判らないが、精一杯詫びて全ての粥を啜るように呑んだ。罰の絶食はそこから三日続いたが、令那はいつも自らの粥を半分分け与えてくれたらしい。
奴隷になった訳は様々だろうが、不思議なことに、いつのまにか一つの共通点が生まれる。それは己のことだけを考え、他者のことなど全く顧みなくなるということ。繁が救った同朋も、己に累が及ぶのを恐れて蛙男にへこへこと頭を下げた。繁が罰を受けている最中も、部屋の隅で背を向けて抱えるようにして粥を食っていたという。
「あいつだけは違ったからな。だからいつか恩を返したいと思っていた」
「義に篤いのだな」
「当たり前だ」
繁は鬱陶しそうに返事をするのが常だったが、この時に限っては即答したので、六郎はおやと首を捻った。
そうこうしている内に引き続けていた網が船に上がった。並の大きさの魚が一匹、あとは小さな雑魚が数匹かかっているだけである。
「そちらは……」
六郎は溜息を零して振り返った。繁の眼前の水面が激しく波立っている。魚たちが跳ねているのだ。引き上げた網には、しっかりとした大きさの魚が十数匹掛かっている。漁は業も大切だが、勘の鋭さも重要だと漁師たちは口を揃えて言う。この分だとあっという間に抜かれてしまいそうだと、六郎は苦く頰を緩めた。
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