夢枕獏「ダライ・ラマの密使」序章 #003
序章 2
一九〇一年二月二十日——尼雅
深い満足感と脱力感とは、どこか似ているところがある。
今、私は、そのふたつをしみじみと味わっているところだ。
タクラマカン砂漠と、崑崙山脈との間に在る、小さなオアシスの街、尼雅。この街の名は、生涯、私の頭に刻みつけられることだろう。
私のささやかな探検は、充分以上の成果をあげたのだ。
カシミールのスリナガルを出たのが、昨年の五月である。それからほぼ九カ月という月日が経っているが、そのどの一日とて、無駄な日はなかったように思う。一日中、キャンプ地から、白い雪を戴いたパミールの峰々を眺めていたこともあったが、それとても無為の日々ではなく、限りない魂の充実を、私は味わっていたのである。
オーレル・スタイン。
これが、私の名である。
一八六二年に、ハンガリーのブダペストで生まれた。
しばらく前まで、カルカッタのカルカッタ・イスラム寺院付属学校の校長をやっていたのだが、一八九八年に、インド政庁に提出した中央アジア探検の計画書が受理されて、この旅に出発することができたのであった。
私が選んだルートは、スリナガルから、パミール、ヤルカンドへ抜ける道であった。かつて、玄奘や法顕も、インドからの帰路、この道を通ってシナに入っている。
スリナガルから、ギルギッド、フンザを経て、パミール山中のタシュクルガンに至る道を歩いている時、この上ない至福を、私は味わっていた。かの玄奘が踏みしめたのと同じ道を、自分の足が今踏みしめているのだという実感は、私の精神を激しく昂揚させた。
カシュガルを経て、和闐へ着いたのは十月に入ってからであった。
崑崙山脈に源を持つふたつの河川、白玉河と黒玉河との間にはさまれたオアシスが、和闐である。このふたつの河川は、和闐の東と西を流れ下り、タクラマカン砂漠の中で合流して、ホータン・ダリヤ河となり、さらに下流では、ヤルカンド・ダリヤと合流し、天山山脈から流れ下ってきた幾つもの川と重なって、タリム川となって東へ流れてゆくのである。
私が、敬愛してやまない玄奘や法顕の記録によれば、和闐は、かつて、仏教の盛んな地であった。僧侶が数千人もいたことがあり、玄奘は、この国について、
”国は周囲四〇〇〇余里、穀作が行なわれ、白玉、黒玉を産し、仏教の伽藍は一〇〇ヵ所を数える。”
と報告している。
玄奘は、この和闐の伝説について、幾つか紹介しているが、そのうちのひとつに、この王国の桑蚕伝来譚がある。
知っての通り、シナは、古来より絹の輸出国であった。この絹が、タクラマカン砂漠を経て、東から西へ動くことにより、莫大な富をシナにもたらしたのだ。
その絹の製法は、シナという国にとって、秘中の秘であった。その絹の製法を、ひとりの女性が、初めて、西域へもたらしたのである。
かつて、和闐は、この絹の製法を知りたくて、シナにそれを尋ねたのだが、むろん、それを教えてはもらえなかった。そこで、和闐王は一計を案じた。
東方の国、シナから妃をむかえることにしたのである。その妃に、絹の製法の秘密を持ち出してくるように頼んだのである。
王妃は、髪飾りに、蚕の卵と桑の実を隠しもって嫁ぎ、この王国に絹の製法をもたらしたのである。
今回の探検で、まさかこの私が、玄奘が記したその伝説の証拠品を発掘することになろうとは、和闐に到着したばかりの時は、考えてもいなかったのだ。
発掘のため、和闐を出発したのは、一九〇〇年の十二月七日であった。白玉河に沿ってゆっくり下ってゆき、タワッケルという小さなオアシスに到着したのは三日後だった。
そのオアシスで、予定通り、ガイドと人夫を雇うことになった。
ガイドは、トゥルデイという老人で、彼は宝捜しの専門家であった。
砂漠の中の遺跡を、あちこち掘り返しては、文字の書かれた板、陶器の欠片、仏像の一部を収集し、それを売っている男だった。
カシミールで雇った、我々の探検に同行しているインド人たちとは別に、この砂漠旅行の助手として、アーマド・メルゲンとカシム・アフンというタワッケルの屈強な猟師を二名も雇った。このふたりは、何年か前の、スウェン・ヘディン博士の探検行の時にも同行した男たちだった。
たいへんであったのは、三十人の人夫を、現地のタワッケルで集めることであった。
彼らは、迷信からくる恐怖と、予想される冬の砂漠の厳しい気候におそれをなし、砂漠の奥深くに入ることをいやがった。
時間をかけて彼らを説得し、賃金をたっぷり払うことを約束して、ようやくタワッケルを出発できたのは、十二月十二日になってからだった。
総勢四十名になんなんとするわれわれ一行全員の荷物と、四週間分の食料を運ぶのに、四頭の駱駝と十二頭のロバを使った。
ロバは、わずかのまぐさを食料とするだけで済み、駱駝の食料は、菜種から採った油である。水も草もない砂漠を何日もかかって踏破する時でも、このいやな臭いのする油を、一日に四分の一リットルほど与えるだけで、駱駝たちのスタミナを維持するには効果があった。
全ての動物たちに荷を背負わせたため、我々は徒歩であった。
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