【2/10発売】長浦京・最新作☆『アキレウスの背中』第1章無料公開!!
一章 ブラックメール
1
「しもみながれ? したつる?」
スーツ姿の警視監が、タブレットの名簿にある下水流悠宇の名を見ている。
「いや、おりだな」
警視監が視線を上げた。
「はい。おりづるゆうと申します」
悠宇はうなずいた。
「よくご存じですね」
「大学時代の友人が鹿児島出身でね。そいつの実家に遊びに行ったとき、店の看板や通り沿いの表札にこの名を見かけたんですよ。もう二十年以上前のことだけれど。君の親御さんもそちらの出身ですか?」
「祖父が鹿児島県出水郡の出身です」
「そうですか。警視庁捜査三課七係、下水流主任。確認しました。きれいな響きの名字ですね」
警視監が笑う。
「ありがとうございます」
悠宇も大きな目を細め、微笑みを浮かべると小さく頭を下げた。
「私は――」
悠宇の隣の四十過ぎの男も口を開く。
「わかるよ、間明係長」
警視監はあっさりいうと、タブレットに映っていた名簿を閉じた。
「定刻通り来ていただいたのに申し訳ないが、担当者が準備に少し手間取っているようでね。そこのミーティングルームで待っていてもらえますか」
警視監が去ってゆく。
悠宇と間明はお辞儀で見送るとドアを開いた。
部屋は狭く、小さな窓がひとつ。折りたたみ式の長テーブルと椅子が並び、さながら取調室のようでもある。
千代田区霞が関二丁目、中央合同庁舎第2号館内。警視庁本庁の裏手にある警察庁庁舎。
「本庁も薄汚れていますけど、ここもかなりのものですね」
ベージュのコートを脱ぎ、悠宇は低い天井を見上げた。
節電のため廊下は薄暗く、この部屋もLED電球とは思えないほど照明がぼんやりしている。エアコンの送風口から生ぬるい風は出ているものの、薄ら寒い。
「ここはじめてじゃないだろ?」
間明も年季の入ったトレンチコートを脱いだ。
「私? 三回目くらいですかね? 地検には呼ばれますけど、こっちは特に用はないですから。係長は最近よく課長と一緒に呼び出されてますよね」
「いろいろプレッシャーかけられることが多くてさ。でも、驚いたよ」
「何がですか?」
「おまえも愛想笑いができるんだな」
間明がさっきの警視監とのやり取りを皮肉る。
「もちろんです。大人ですから」
「俺の話で笑ったこともないし、愛想よくしてもらったこともないけどな」
「ちゃんと相手を選んでいるので。大人ですから」
「俺は優先順位の低い上司ってことか」
「あまり高くはないけど、それほど悪くもないですよ。評価すべきところはいくつかあるし」
「いい時代になったもんだ。二十年前にそんな口きいたら、女だって頭叩かれるだけじゃ済まなかったのに」
「二十年前までそんなことをしていたなんて、嫌な組織ですね」
「可愛げがないことばかりいってると、職権濫用してイビるからな」
「すぐに私が上になって、証拠の残らない陰湿なパワハラしますよ」
階級が上になるといっている。十歳以上の年齢差がある上司と部下の関係とはいえ、ふたりとも同じ警部補。役職は悠宇が主任。間明も係長とは呼ばれているものの、実際は係長待遇の主任だった。
「冗談と思えないから怖いんだよな」
間明がミントのタブレットを出し、口に放り込んだ。
「馬鹿な話はもういいですから、そろそろここに呼ばれた理由を教えてください」
「いや、ほんとに俺も知らない。ただ、メインはおまえで、俺は単なる付き添い役らしい」
「何をやらされるんですか? あの警視監、所属は警備局ですよね。本庁捜査三課とは完全にテリトリー違いじゃないですか」
「例のMIT推進の一環だろうな」
――あ、その可能性もあった。
今進めているベトナム人窃盗団捜査に関するマスコミ対応について、進言という名のお𠮟りを受けるのだろうと思っていたけれど、違うかもしれない。
「もしそうなら……面倒ですね」
悠宇は独り言のようにいった。
「ああ、面倒だ」
間明もなぞるようにいった。
そしてふたりとも黙った。
ミッション・インテグレイテッド・チーム。
ネットを経由して集められた犯人による嘱託殺人や営利誘拐、海外にいる主犯格が日本国内の実行犯に指示を出して行われる強盗や窃盗、さらには直接面識のない相手からの教唆による殺人など、それまでの捜査一課、二課、警察庁、県警、外事課などの縦割りの枠組みでは対応が難しくなった新手の犯罪に対応するため、警察庁が考え出した新たな捜査手法だった。
事件の性質ごとに各部門が適任者を出し合い、有機的に機能するチームを作って、法令を遵守しつつも慣例に囚われない捜査を展開する。事件が解決すれば解散し、各自、通常の部署と職務に戻ってゆく。いわゆるタスクフォースだ。
成立の直接の契機となったのは、二〇一九年に当時二十三歳の女性が起こした殺傷事件だった。
精神的に不安定な状態にあった彼女は、未成年だった十九歳当時から、ネット内で顔の見えない相手に何度も人生相談を求め、その中で知り合った複数の男女から、不適切かつ、違法な「アドバイス」を受けていた。結果、マインドコントロールされた状態になり、売春や窃盗などをくり返し、得た金銭は、「相談料」「カウンセリング代」「お布施」などと称してアドバイスをした男女たちに支払われていた。ちなみにその男女たちに横のつながりはまったくなく、もちろん医師やカウンセラーの資格も有していない。
彼女は四年もの間、根拠のないアドバイスを受け続け、さらに深刻な精神状態に陥り、面白半分で指示された「人を十人以上殺せば楽になれる」という言葉を信じてしまう。
そして池袋の路上で五歳の男児を含む、男女六人を殺傷した。
実行までの間にも犯罪の危険な兆候はネット内で散見され、第三者による通報まであったにもかかわらず、警察は担当を押しつけ合い、本格的な捜査を開始しなかった。責任をたらい回しにしたことや、未然に防げたはずの事件を防止する努力をしなかったことは、当然マスコミにも知られ、連日、テレビ、ネットで糾弾された。国会でも取り上げられ、当時の国家公安委員の責任放棄とも取れる失言も加わり、衆院解散の遠因ともなる大問題となった。
そうした経緯からMITが生まれて一年半。
二〇二三年一月末の現時点までに、ふたつの大きな事件をMIT捜査チームが解決したと警察庁・警視庁は発表している。だが、実際どれだけ機能し、効果があったのか、悠宇は知らない。
手短にいうと懐疑的だった。
面識のない相手といきなりチームを組まされるのは、それだけでストレスになる。
警視庁内からMITに呼ばれた捜査一課の知り合いに聞いたところ、とにかく人間関係に苦労したらしい。捜査内容は秘匿事項なので教えてはもらえなかったが、年功序列や古い捜査手法に固執する四十代以上と、携帯端末や監視カメラを駆使した手法に慣れ親しんだ三十代以下のメンバーの間には埋めがたい溝があり、調和を取るのに腐心したそうだ。
悠宇や間明係長を含む本庁勤務のほとんどが感じていることだが、警察、特に警視庁は今、過渡期にある。
長引く不況から、キャリアとなれる国家公務員採用総合職試験(旧国家Ⅰ種試験)ではなく、地方公務員の中でも給与の高い警察官の採用試験に、いわゆる一流大学の学生も殺到。以前は六倍程度だった倍率が、今では平均十三倍以上になっている。
一方、都内で生活する外国人の増加から、外国語も警察官にとって必須能力となりつつある。捜査三課所属で窃盗犯罪捜査が主な仕事である悠宇自身も、英語と日常会話程度の中国語を話せる。加えてスペイン語も習いはじめている。キャリアアップのためというより、話せなければ聞き込みなどの捜査が成り立たなくなっているのだ。
間明係長のような足で捜査をし、経験を積み上げてきた四十代以上の警察官たちにとっては特に厳しい状況で、これまで培ってきた話術を、外国人相手の聞き込みでは言葉の壁で生かせず、今になって外国語を身につけることに四苦八苦している。
以前は、上司からの昇任試験受験許可も、目立つ功績や忠誠心という名の機嫌取りを重ねないと下りにくかったが、「優秀な人材の積極発掘」という警察庁の指示のおかげで、ずっと楽に得られるようになった。それは悠宇のように二十代や三十代前半の警部補、警部を増やし、若手のやる気を奮い立たせている一方で、年上ながら階級が下の部下たちとの間に、捜査に支障をきたすような意見の不一致や意思の疎通不足も生み出している。
東京は以前とは違う街に変わっているのに、警察の組織も法もそれにまったく対応できていなかった。
ノックの音が響く。
悠宇と間明はすぐに椅子から立ち上がった。
「失礼します」
だが、ドアを開け入ってきたのは、襟元に赤い「S1S」の警視庁捜査一課バッヂをつけた二十代らしき男で、同じ警視庁の警察官だった。
「俺もここで待つよういわれました」
悠宇と間明は脱力したようにまた座る。一課の彼もパイプ椅子を引き、座った。悠宇は誰だか知らないが、間明は知った顔のようだ。
「特犯二の本庶くんだったよね?」
「はい。本庶譲です」
捜査一課第一特殊犯捜査二係所属。対面によらないメールや電話、文書による恐喝・脅迫を主に扱う部署で、ここも普段は悠宇たち捜査三課とは接点がない。
本庶は黒縁眼鏡をかけ、顔は比較的整っている。中肉。身長は悠宇より少し高く、百七十五センチ前後。グレーのスーツは既製品だが安物じゃない。目つきは柔らかく、これといった特徴がないところが、今時の捜査一課の若手らしく感じる。
間明がちらりとこちらを見たが、悠宇は小さく首を横に振った。
「でも以前、少しだけお話しさせてもらったことがあるんです」
やり取りを横目で見ていた本庶がいった。
「俺も下水流さんと同じ明治大学出身で、それで一年前に本庁に引っ張られてすぐに三課にご挨拶に行ったんです。そのとき、学部は違うけれど、下水流さんのほうが一学年上だと知ったんですが」
悠宇が二十九なので彼は二十八歳か。
――全然覚えていない。
「ごめんね。こういう奴なんだ」
間明がいった。
「だいじょうぶです。下水流さんは普段はアレだけど、捜査に関する記憶力や洞察力は素晴らしいって聞かされていますから」
本庶が笑顔で返す。
――普段はアレって?
訊きたかったけれど、間明が悠宇にだけ見えるように口角の片方を上げたので、黙っていた。まあいいか。ここは警視庁本庁じゃなく、警察庁だもんな。もし下手に詰問して捜査一課の人間と揉めたら、本庁内だけでなく警察庁内でも変なうわさを流される。
今日は静かにしてよう。私は大人――自分の中でくり返す。
またノックの音が響く。三人はすぐに立ち上がった。
入ってきたのは背の高い男で、百九十センチ近くある。
中年だが間明係長より若く、三十代後半から四十代前半。肩幅も広くて、紺のスーツの下の体は今も鍛えているのがわかった。顔は彫りが深く、濃い目。省庁の中でも最難関といわれる警察庁に入庁した選りすぐりのエリートらしい、知的で隙のない表情。抑揚のきいた声。髪は整い、鼻毛も出ていない。身だしなみにも気を遣っているのだろう。
定石通り東大法学部出身で元運動部、耳のかたちはきれいなので格闘技系ではないようだ。水球? いや、団体戦より個人競技を好みそうだな。陸上種目の何かってところか?
「馬鹿デカいですか?」
ぼんやり見上げている悠宇を見下ろしながら男がいった。
「はい、ずいぶんデカい方だなと思っていました」
「すみません」
すぐ横で間明が頭を下げた。
「構いませんよ。特徴を分析するのは捜査員として当然のことですから」
大男がまたこちらに視線を向ける。
「下水流悠宇くん、ですね」
男はダークグレーのパンツスーツで肩までの髪を結い上げている悠宇を眺めている。
「パンプスのせいか、思っていたよりあなたも背が高いですね。ただ、写真より色白で体も華奢に感じます。外回りや足を使った聞き込みは、あまり好きではありませんか?」
「はい。体力を消費することは嫌いです」
悠宇の横で間明が困った顔をしている。
「だいじょうぶです。事前に調査した通りですから。それで君が本庶譲くん、そして間明係長。私は乾徳秋、警察庁警備局参事官です。まずはおかけください」
狭くて薄暗い会議室に大人四人。
寒さは和らいだが、やはり少し息苦しく感じる。
「十四時十八分、こちらが指定した時刻より開始が遅れたことを、はじめにお詫びさせていただきます」
乾が皆を見渡した。
「言い訳になりますが、まだかなりバタバタしているんです。現状調整中の事項も多々あるが、もうお察しの通り、下水流、本庶両名は新規MITに召集されました。しばらく私と一緒に働いてもらいます。のちほど正式に通達があるので、よろしく」
――ああ、やっぱりそっちか。
けれど、直接聞かされても、まだ実感が湧かない。
自分が選ばれるなんて思ってもみなかったし、少しも嬉しくなかった。が、もちろん任務に拒否権はない。ただ、自分が喜んでいないことは表情に出てしまっているだろう。
無事解決すれば警察表彰の対象となり、その後の昇給や昇進にもプラスになる。けれど、見合わないくらいの激務になる可能性が高い。
それに自分の何を評価されて今回選抜されたのか、謙遜抜きでわからなかった。
本庶は表情を変えていない。はじめから知っていた? いや、感情を表に出さないようにしているのだろう。大卒から警察学校期間を含む五年間で交番勤務から本庁刑事部所属になっただけあって、見た目の若さに似合わず、他人とうまく付き合ってゆく術を身につけている。
逆に、間明は安堵の中にも無念さの入り混じった表情を浮かべていた。大きな事件と聞けば捜査に首を突っ込みたくなるのが、長く刑事を続けてきた人間の習性なのだろう。
「間明係長も単なる付き添いではありませんよ」
乾がいった。
「今回のMITの関連人員として、警視庁本庁との連絡及び情報管理責任者を務めていただきます」
「監視役ってことですか?」
間明が訊く。
「はい。端的にいいますが、今回のMITの捜査内容については警視庁内にも伏せ、当面は完全極秘での行動となります。もし、警視庁内で上長や先輩であることを恩に着せ、下水流、本庶両名から情報を聞き出そうとする者がいたら、その防波堤になっていただきたいのです」
「過去にそういう事例があったということでしょうか?」
「ええ。本来自分が担当するはずだったという間違った縄張り意識や、古いセクト主義、MITを出し抜き事件を解決しようとする功名心など、あくまで捜査を目的としたものですが、残念ながら情報の横流しを強要する者が複数名いました。それを今回は完全に防ぐため、間明係長にも働いていただきます」
「もし、このふたりから漏れたら、私も連帯責任だと?」
「その通り。ですから、しっかり管理してください」
悠宇、そして本庶の視線が自然と間明に向いた。
「だいじょうぶ。貧乏くじを引かされるのには慣れてるよ」
上司の前にもかかわらず間明はいった。
「そんなあなただから、今回この役に選ばせてもらいました」
機嫌をまったく損ねることなく乾はうなずき、言葉を続けた。
「正直、MITへの反発心を抱えている人間は少なくありません。そういう本庁内の古いタイプの連中からのプレッシャーを、上手く捌いていただけると期待しています。加えて、それくらい秘匿性が高い事案だと、三名とも肝に銘じていただきたい」
異様な感じがする。
MITに召集されたからというのではなく、捜査事項の秘匿にこれほど念押しをしてくる会議ははじめてだ。
「質問よろしいですか」
悠宇は訊いた。
「構いませんよ」
乾が返す。
「疑問や不明点があるなら、ためらわず質問してください。階級と年齢を気にかけて遠慮していたら、MITに召集した意味がないので」
チームとしてもう動き出しているといいたいのだろう。せっかく間明係長の下でのんびりやっていたのに、いきなり一流商社の営業部にでも放り込まれた気分だった。
「では、率直に訊かせていただきます。政治案件ですか?」
「まだいえません」
肯定も否定もしないことが、逆に政治が絡んだ事件だと伝えている。議員数名程度ならまだいいけれど、それより上の閣僚レベルが関係している案件だったら面倒なことになる。
「あの、自分もいいですか?」
本庶も訊いた。
「もちろん」
「では、背景は問いませんが、具体的にどんな事件か教えていただけませんか?」
「それも今の時点ではいえません」
「は?」
悠宇の口から思わず漏れた。
自分は決して従順で規律正しい警察官ではないけれど、この反応を決して生意気だとも思わない。召集命令が下ったのに、任務の内容を明かされないなんて聞いたことがなかった。
悠宇だけでなく本庶も、そして間明も戸惑っている。
「当面就いてもらう任務については話せますが、まだ全容は伝えられません。異例ずくめだと思っているでしょうが、それはこちらも同じ。不慣れさによる多少の不手際は、どうか許してください」
警察庁のエリートである乾が口にした謝罪の言葉が、悠宇の中で膨らみかけた不安と不満に拍車をかける。
――これがMIT。
何をさせられるんだろう?
漠然と考えている悠宇に、乾がまた意外なことをいった。
「今日の本題に入りますが、まず下水流くんにDAINEXでのデータ窃盗事件についての、詳しい説明をお願いします。間明さんにも後ほど補足をしていただきたい」
一年前に起き、すでに解決した事件のことだった。
「お話ししますが、すべて報告書にまとめて提出してあります。あれ以上の情報は、今のところ私も持ち合わせていません」
「新情報がほしいわけではありません。客観的な報告書には記載されなかった、君の個人的な心証や場面ごとの認識などを交えて、今一度ここで話していただきたいんです」
乾に促され、悠宇は半信半疑で話しはじめた。
2
バンは暗いトンネル内を進んでゆく。
「運転は嫌い?」
助手席に座る二瓶茜が訊いた。
「気がつきました?」
ハンドルを握っている本庶が訊き返す。
「元々は好きだったんです。でも、特犯二係では管理官の運転手をやらされているんですけど、正直嫌で」
後部座席の悠宇、その隣の板東という男も含め、車内に小さな笑いが起きる。
「管理官の家が埼玉の北越谷にあるんです。東京の町田に帳場が立ったときなんて、朝晩片道七十キロの送り迎えですよ。遅くまで捜査してて寝る暇ないから、寮に帰らずに車で寝てたら、車内が男臭くなるからやめろって怒られるし、ブレーキのタイミングや運転の仕方にもいちいち細かく注文つけられるし。このMITに入って唯一嬉しかったのが、運転から解放されることだったんですけど」
「またハンドル握らされて自然と不貞腐れた顔になってたのか」
「すいません。無意識のうちに嫌な記憶を思い出してしまっていたみたいです」
「帰りは私が運転するよ」
二瓶が同情するように口元を緩める。
彼女の歳は三十四、中肉丸顔でウェーブのかかった肩までの髪。背は百六十センチ前後。警察庁警備局警備運用部所属。警察庁勤務といっても、課長未満の管理職ではない人員は、各都道府県警から出向というかたちで配属される。二瓶もノンキャリアで、本来は警視庁所属だった。
既婚で子供はなし。仕事は雑用中心のデスクワーク担当と自分ではいっているが、どこまで本当かはわからない。警察庁警備局の人間らしく、普段の職務について具体的なことは何もいわなかった。
もうひとり、板東隆信は警視庁警備部警護課所属。三十一歳、身長百八十センチ前後で筋肉質。八ヵ月前まで第一機動隊にいた。
四人の初顔合わせは昨日。今日が初の任務となる。
悠宇の年齢はこの中では下から二番目、だが階級が一番上ということで班長にされてしまった。ただ、四人とも二十代後半から三十代前半と近い年代で固まっているのは、年齢差による軋轢を極力回避するための、あの乾参事官の計らいなのだろう。警察庁も、内閣や世論に圧力をかけられ作り出したMITという新たな捜査システムを、より有益に使うために試行錯誤しているようだ。
悠宇たちのような四人編成の班が、乾参事官の下に五組編成されている。
今回のMITの組織自体はさらに巨大で、乾の上長に、悠宇の名字を褒めたあの警視監――印南という名だった――がいて、彼が臨時の統括本部長としてすべてを指揮していた。
警視監が訪問者の身元確認にわざわざ出てくるなんておかしいと思ったけれど、あれもやはり審査のひとつだったようだ。
バンは今、トンネルを出て冬の風が吹きつける東京湾アクアラインの上を進んでいる。
目的地は千葉県鴨川市内にあるDAINEXスポーツ総合研究所。
半年前まで都内墨田区にあったが、新施設が完成し鴨川に移転した。研究所の名の通り、さまざまな競技の身体活動や選手の心理状態を科学的に分析し、シューズやウエアの開発にフィードバックするための施設だった。
捜査に関連した職務で県境を越える――いわゆる越境捜査――のに、千葉県警にも鴨川市内の所轄警察にも何の連絡も入れていないというのは、やっぱりちょっと不思議な気分になる。
車内では、互いを知り合うための、同時にそれを短時間で済ませるための、遠回しな会話が続いていた。
「専門卒は俺だけですか」
板東がいった。
「私も誰も名前を知らない二流大学卒だもの、似たようなもの。MARCH出身のこちらのふたりには到底敵わない」
「捜査には学歴なんてほとんど関係ないじゃないですか」
本庶が気遣いを交えた軽口で返す。
警察官らしいし、一般の企業と大差ないなとも思う。職務ではじめて顔を合わせた警察官同士は、互いの職歴・学歴をそれとなく訊くのが定番だった。
世代交代が進み、だいぶ風通しがよくなったとはいえ、やはり警察は他とは較べものにならないくらい階級社会だ。習性のようなもので、相手の情報を知って、どちらが上かを確認しないと落ち着かない。自分のポジションがはっきりわかってから、ようやく本格的なコミュニケーションがはじまる。
バンは千葉県内の館山自動車道に入った。
「班長、資料では確認してありますけど、DAINEXとのいきさつを、あらためて教えてもらえますか」
本庶がいった。
さっきの学歴話に続き、捜査に関しても、他のふたりにそれとなく気を回しているのだろう。本庶は初対面のとき、乾と一緒にDAINEXのデータ窃盗事件に関する悠宇の解説を聞いているが、二瓶と板東は何も知らない。
悠宇は口を開いた――
一年前、まだ移転前で都内墨田区鐘ヶ淵にあったDAINEXスポーツ総合研究所内の複数のパソコンから、スポンサー契約を結んでいる選手たちの身体能力と新たなシューズ開発に関するデータが不正にコピーされた。
犯行推定時刻には、ロシア国内を発信源とする、複数の海外サーバーを経由しての総合研究所内への不正アクセスが確認された。古い施設とはいってもパソコンやマイクロSDなどの記録媒体の持ち出しは厳重に管理・制限されていたため、警視庁のサイバー犯罪対策課がクラッキングの線で捜査を開始する。
一方で窃盗事件として捜査に着手した悠宇は、任意での聞き取りの際、総合研究所の職員ふたりの供述や言動に不審な点を感じた。直後に間明係長の許可を得て内偵を開始。二週間の捜査を経て証拠を発見し、ふたりを逮捕。データの流出も未然に防ぐことができた。
週刊誌に「推理小説ばりのトリック」と大げさに書かれたりもしたが、実際の犯罪手法はごくありきたりだった。
研究所の職員ふたりが共謀し、社内で標的のデータを抽出、それをデータを完全消去した廃棄予定の別のパソコン内に隠し、後日、業者を装った人間に引き取らせる算段になっていた。データの買い取り相手は中国系企業で、間明係長が外事課筋から仕入れてきた情報によると、そのデータを反映したバスケット・シューズやランニング・シューズの急造品を、二ヵ月後には中国国内で販売するところまで計画は進んでいたらしい。ロシアからのクラッキングも、職員が自分たちへの疑惑をそらすために仕組んだものだった。データ抽出と海外からの偽装アクセスの時間をリンクさせるなど、他にも細かな工作があったものの、ざっと説明するとそんな内容になる。
犯人逮捕はもちろん悠宇ひとりの功績じゃない。
サイバー犯罪対策課からは、早い段階から内部犯の可能性も視野に入れてほしいと要請があったし、研究所捜査には、間明係長の下、悠宇を含む七係全体が当たった。悠宇はたまたま犯人の聴取担当となっただけで、自分が特に目覚ましい活躍をしたとは思っていない。
ただ、あの事件の捜査を通してDAINEXスポーツ総合研究所の副所長やコーチと知り合いになり、それが今回の任務担当に選ばれた遠因にはなっていると思う。
それでも何故自分だったのか、今でもまだ疑問だった。
乾参事官から今回悠宇たちの班に命令されたのは、ある日本人マラソン選手を脅迫している犯人の特定と逮捕。
脅迫はこれまで三回。郵便で届いた手紙に、今後の競技会への参加をやめなければ、本人および家族の「命にかかわることが起きる」と書かれていた。
しかしこのブラックメール(脅迫状)、不可解な点も多い。
悠宇も読んだが、三通とも同じ封筒、紙、書体が使われているものの、差出人が何者かを示す通称や偽名、マークなどの記載はなし。内容も単に競技への不参加を強要するだけで、なぜ脅すのか理由は一切書かれていなかった。すでに選手本人の周辺には千葉県警の警護担当者たちが張りついているが、悠宇たちへの命令にも、一部その選手の身辺警護が含まれている。
MITでは何でもやらされる――とは聞いていたけれど、警察学校卒業以降、職場実習、実践実習中も含めて、悠宇には実際の脅迫事件捜査に加わった経験も、誰かを警護したこともない。
「まずは顔見せだと思って四人で挨拶に行ってください」
今日、鴨川に向かっているのも、乾参事官のそんな一言のせいだった。
DAINEXスポーツ総合研究所の施設を見学し、選手本人にも聞き取りをする予定だが、参事官からは何か具体的な成果を持ち帰らなければならないような指示は出ていない。
――緩い任務。
ほんとに顔見せというか、社会科見学のようだ。
それだけに、この先に何か面倒なことが待っているのではと疑心暗鬼になってしまう。
現時点では、脅迫がいたずらの可能性もゼロではないが、そんな案件で今回のような大規模なMITが立ち上がるはずがない。
窓の外を眺めながら、頭の中では無意識に選手が脅迫された理由をあれこれ考えている。
単純な選手個人への恨み? DAINEXという企業への憎しみ? ライバル企業の妨害? 一年前の事件でデータを奪い損ねた組織からの報復? それともデータ奪取には社内的な対立が絡んでいて、それが選手にも飛び火した?
やめよう。
上司から何の材料も与えられていないのに、こんな推理以前の妄想を勝手にくり広げてもしょうがない。
考えるのを中断したら、ちょっと眠くなってきた。
MITに一時的に移るせいで、これまでの経費精算を間明係長に急かされたせいだ。昨日は帰りが午前二時過ぎになり、あまり寝ていない。
新しい捜査班のメンバーの前で、いきなり寝るわけにいかないし。とりあえず目は開けたまま、考え込んでいる振りでぼうっとしていよう。
鴨川市街まで五キロの看板が見え、社内の話題は音楽の趣味に移っていた。
「エレクトロニカとか。自分でもパソコン使って曲作ったりしてるんですけど」
板東がいった。
「へえ、洒落てるね」
二瓶が返す。
「体力勝負のがさつな任務ばっかりなもんで、普段くらいはスタイリッシュで気分が上がることしたくなっちゃって。似合わねえ、気取ってんなってよくいわれるけど」
「でも、仕事と毛色の違うことしたいってのはわかるな。うちは和太鼓だもん」
「祭り囃子の?」
「うん。ダンナともども祭り好きなの。神輿ももちろん担ぐけど、大太鼓、桶胴太鼓、締太鼓、やらせてもらえるなら何でも叩く。血湧き肉躍るっていうよりも、あの響きが心落ち着くんだよね。本庶くんは?」
「俺はビブラフォンを」
「ええと、鉄琴?」
「そうです。中学でブラスバンド部入ったら、鉄琴担当にされたんです。手持ちのやつで重いし、練習も厳しくてすぐ辞めちゃって、バスケ部入り直したんですけど」
「珍しい転身だね」
二瓶が笑う。
「ただ、鉄琴は妙に好きになっちゃって。個人的に音楽教室に月二で通ってました」
「本物じゃん」
板東も笑った。
「今も弾くの? まさか待機寮には?」
「持ち込んでないすよ。たまに神奈川の実家に帰ったとき、仕事のストレスぶつけて一心不乱に叩いてます」
「個性的な班だな。もしかして班長も何か演奏されるんですか?」
二瓶が訊いた。
「あ、三味線とか」
あれ? 半分寝ぼけているときに訊かれたせいで、つい答えてしまった。
「えっ?」
二瓶と板東に揃って驚かれた。
――しまった。
「主任、日本舞踊の有名な師範なんですよ」
横から本庶がいった。
「その流れで三味線と長唄もやられてるんですよね」
「ええっ⁉」
ふたりにもっと驚かれた。
「日本舞踊と三味線、今も続けられているんですか?」
板東がちょっと早口になって訊いた。
「いや、私のことはいいから――」
「一緒に住んでいるお母さんも師範で、そちらも日本舞踊の世界では有名な方なんですよね?」
本庶の言葉に反応し、助手席の二瓶も振り返ってこちらを見ている。
「そう聞くと、何かお嬢様っぽく見えてきますね」
「うん、実家が資産家っぽい」
悠宇は返事をする代わりにふたりに曖昧に笑いかけたあと、本庶に訊いた。
「間明係長?」
「はい」
本庶が明るい声で答える。
情報源はやっぱりあの人か。
――おしゃべりおやじめ。
でも、まずったな、嫌な方向に話が逸れてきた。
子供のころ、母親に「お稽古に行けば好きなものを買ってあげる」といわれ、釣られて日本舞踊を習いはじめた。今も好きで続けているというより、止めどきを失ってしまったというのが、正直なところだった。
悠宇の実家は神戸で、大学進学で東京に移る際も、「踊りを続けるなら生活費を出す」と母親にいわれた。週二回お稽古に行けば、バイトをする必要もないという好条件に負けて、結局、母の手配した当代の名人と呼ばれる、やたら厳しいお師匠の下で習い続けた。
面倒臭いし、嫌だったけれど、大学時代に味わった挫折を乗り越え、胸に空いた穴を埋めるのにも踊りは役立ってくれた。
それでも警察官になったのを契機に止めようとしていたのに、今度は神戸の母が離婚し、東京に出てきて、「踊りを続けるなら、家賃光熱費タダで、中央区内のマンションに同居させてやる」という新たな条件を突きつけてきた。
で、結局またその魅力に負けて、週一のお稽古――ただし重大事件発生時はお休み――を続けながら、そして母としょっちゅう揉めながら暮らしている。
「藤娘とか舞うんですよね? 一度舞台を観てみたいな」
二瓶が怖いもの見たさを含んだ声でいった。
そんなに意外?
――まあ、意外だろうな。
自分でも思うんだから、しょうがないか。
悠宇の話したがっていない雰囲気を察し、三人が静かになってゆく。
おっさんばかりの捜査班に入れられたときの、経験と自慢を話したがる説教臭いノリも苦手だけど、趣味の話で盛り上がる大学のサークルみたいな雰囲気も、これはこれできついな。
――あ、やばい。
私のほうが世代の壁を越えられない中高年捜査員みたいになってる。
四人を乗せたバンは館山自動車道を下り、鴨川市内に入った。
3
「お話は聞いています。オリガミさんでしたっけ?」
DAINEXスポーツ総合研究所の本館メインエントランス。半年前の移転と同時に就任したという所長が訊いた。
「いえ、おりづると申します」
悠宇が返すと、「それは失礼」と笑いながら頭を下げた。
ここの所長は、都内にあるDAINEX本社の重役を退任した人間が順送りで就任し、短期間で去ってゆく。いわゆる天下り先のようなものらしい。
所長の隣にいる五十代後半の賀喜という女性副所長に、研究所の実質的な運営は任されていた。
賀喜自身も体操の元日本代表で、国際大会などへの出場経験がある。彼女とは一年前のデータ窃盗事件の捜査の際に知り合った。
鴨川市郊外に移った新しい研究所の規模は、都内墨田区にあったころとは較べものにならないほど広く、所内の移動は、基本的に電動バスとカートで行っていた。
「造成中の区域も合わせると東京ディズニーランドの二・五倍の面積があるんです」
一緒に六人乗りカートに乗って案内してくれている賀喜副所長がいった。
「へえ」と適当に驚いてみせたものの、実はディズニーランドに一度も行ったことのない悠宇にはよくわからない(ユニバーサル・スタジオ・ジャパンには三回行った)。
それに冬場のカート移動はやっぱり寒くて、バスのほうが嬉しかった。ただ、こうして散策するようにゆっくり所内を進むことで、どこにどんな施設があるのかよく理解できる。
研究所というより、巨大なトレーニング施設の集合体のようだ。
競技ごとに練習棟があり、選手がそこで日々トレーニングを積むのと同時に、研究用のデータが収集される。それらの研究は商品開発だけでなく、選手の記録向上のためにももちろん使われる。トレーニングはフィジカルだけでなく、メンタルに関するものも必須で含まれ、さらに海外遠征や外国人コーチとのコミュニケーションのための語学学習も受けられる。
ホテル以上に充実した宿泊施設も完備され、すでにここで生活している選手も四十名以上いるという。
――ここはスポーツトレーニングのための街だ。
寒さにコートの襟を立てながら悠宇は思った。
日本国内でもこれだけ充実した施設を作れるのかという驚きとともに、DAINEXという企業のブランド力をあらためて感じた。
スポーツメーカー・DAINEX単体の収益だけでなく、広告代理店を含む様々な企業の資本、そして国や大学からの資金もふんだんに投入されているのだろう。
三十二年前、DAINEXは今は故人となった田淵大によって創設された。
オニツカタイガー時代からアシックスで働くシューズ職人だった田淵は、独立し、データサイエンスを生かした自身の求めるサッカー・シューズを作り出すため、DAINEXを立ち上げる。当初は個人工房に近かったが、サッカーJリーグの創立で人気が拡大。さらに総合商社兼紅が資本参入し、シューズやウエアの機能性だけでなくファッション性も高めたことで、日本国内のみならずアジア圏でも人気のブランドとなった。
二〇〇〇年に兼紅の完全子会社となると、サッカーに限らずテニスや水泳など、各国のプロ選手とスポンサー契約を結び、世界中にDAINEXのブランド名と品質が知られるようになる。
加えて、二〇一七年以降の世界の陸上長距離レースを席巻したナイキのランニング・シューズ、「ズーム ヴェイパーフライ 4%」の登場も、ある意味でDAINEXの追い風となった。
悠宇の知っている概要はこの程度。まあこれも一年前のデータ窃盗事件のときに本やネットを読み漁って、慌てて詰め込んだ知識だけれど。
「下水流さんたちも泊まる場所が必要なときは、いつでもいってくださいね」
カートの隣の席で施設の説明を続けていた賀喜がこちらに目を向けた。
「都内との往復は大変でしょうから。部屋ももう用意させてあるから」
この案件のために?
常駐が必要になるほど事態が深刻になる可能性があるってことか。
「賀喜さんは私たちの上司とどんなお話をされました? 情報共有したいので、できれば教えていただきたいんですが」
「それは大園さんと海老名さんを交えて話しましょう」
あれ、はぐらかされた? カートを運転している社員に聞かれたくないから? いや、違う。これでも警視庁の刑事なので、人の目の動きと表情を見れば、考えていることの一端くらいはわかる。
賀喜副所長も何かを知り、でも、それを口止めされている。
マラソン選手脅迫事件の捜査のため、私たちはここに来た。なのに、私たち現場の捜査員だけが、今も全体像を知らずにいる。
――ずっと焦らされているようで嫌だな。
冬の午後の風は一層冷たくなり、悠宇はコートの襟元を握りしめた。
※
「遠いところをようこそ」
八階建ての真新しい陸上競技棟の前で、ふたりの壮年の男が出迎えてくれた。
眼鏡に白髪の大園、禿げ頭に無精髭の海老名。どちらも笑顔で新しい名刺を出した。
大園がDAINEX鴨川ERP陸上中長距離部門総監督、海老名はその研究部門責任者。
ふたりとも一年前のデータ窃盗事件を解決したことで、悠宇のことを高く評価してくれている。
このERPって何だろう?
「ああ、エンタープライズ・リソース・プランニングだよ」
名刺の文字を見ている悠宇を察して、大園が説明した。
「人材とか物とか金とか情報を有効活用する計画のことだって」
「よくわからないけど、難しそうですね」
悠宇が首を傾げると、
「俺もよくわかんないんだ」
と大園が笑った。海老名も横で微笑んでいる。
「みんなに訊かれて、何度も説明してるうちにお経みたいな感じで頭に入っちゃっただけでさ。本当の意味は全然わかってないの」
大園、海老名揃って人柄は穏やかだった。
一年前の事件の捜査中、一ヵ月に亘って何度もふたりと接触したが、指導中の彼らが選手やスタッフに声を荒らげているところを見たことがない。周囲の人間たちもふたりを悪くいう者はいなかった。大園も海老名も、「選手個々の詳細な記録は、選手生命にかかわる大切なものだ」といって誰よりも真相の究明と事件の解決を願っていた。
ふたりからは監督、研究者というより、町工場の社長や専務に近いものを感じる。
大園は元陸上中距離の選手で、現役引退後は、高校、大学駅伝の選手育成で結果を残し、このDAINEX陸上部にも当初アシスタントコーチとして加わった。そこから長い時間をかけ日本最強の陸上長距離チームと呼ばれるまでに育て上げた。
一方の海老名は、十一年前まで信越医科薬科大学で運動生理学の准教授をしていた。
当時発表したマラソンなど長距離走競技の走法やトレーニング、実際のレースに関する一連の論文で、次世代のスポーツ科学者として、国内よりもまずヨーロッパで注目を集めるようになる。
海老名の理論は実践的で、常に勝つためにはどうするかに主眼が置かれていた。
例えばマラソンのレースでは――
事前に、選手自身だけでなく医学生理学者を含む専門の分析スタッフで、マラソンコースの起伏、風速、日照角度などを詳細に測定し、綿密にレースプランを練る。当日も選手は、腕に体温計・心拍計、耳に小型のインカムを装着してレースに臨み、区間ごとのペース配分や速度だけでなく、サングラスやキャップを外すタイミングに到るまで、インカムを通して逐一監督から助言を受け、選手自身が総合的に判断し、実行していく。
今では当たり前となったことも多いが、当時の陸上指導者や研究者からは強い反発と非難を受けた。
勝利に強く固執する姿勢を、「教育上よくない。スポーツマンシップに反する」と批判する教育者もいたし、まだスマートウォッチも一般化していない時代に、心拍計や体温計をつけたままレースを走ることを「ナンセンス」と笑う研究者もいた。
もっとも多かったのが「個人種目のマラソンを団体競技にする気か」という嘲笑だった。
しかし、大園は海老名の理論を積極的に取り入れ、まさにその嘲笑通り長距離走をチーム戦に変えてゆくことで、DAINEX陸上部長距離班は飛躍的に記録を伸ばしていった。
大園、海老名、さらにDAINEXのシューズ工房責任者で主任フィッターの権藤を加えた三人が、二〇一〇年代後半、日本の陸上長距離界が世界的に躍進する基盤を作ったといっていい。
三人の基盤の上に立ち、今、日本の長距離走競技を牽引しているのが、現在の男子マラソン日本記録保持者・嶺川蒼選手だった。
脅迫状はその嶺川選手の元に届けられた。
悠宇は会ったことがない。
前回の捜査時は、間明係長が嶺川への任意聴取を担当した。
係長の人物評は――
〈決して話しやすい種類の相手じゃなかったな。でも、気難しいというのとも違うし、尊大にも振舞っていない。孤高って言い方が一番近いんじゃないか〉
とっつきやすい人間でないことは覚悟している。
悠宇は大園と海老名に、本庶、二瓶、板東という自分の班のメンバーを紹介した。
班の連中にも警察官らしい鋭さや棘々しさがないせいか、町工場の経営者と地元の信用金庫の職員たちの名刺交換を見ているような気分になる。
「嶺川、メンタルトレーナーとのミーティングが長引いてるんだ」
大園がいった。
「まだかかりそうだから、その間、工房でも見学していてくれないかな」
「いいんですか?」
悠宇は訊いた。そこは開発中で社外秘のシューズやアイテムが並んでいるため、社員や選手でもごく一部の者しか入ることが許されない場所だった。
「今は見られて困るものもないし、副所長の許可ももらっているから」
大園に視線を送られ、賀喜がうなずく。
カードキーと虹彩認証で管理された二重ドアの奥には、工房というにはあまりに清潔で広大な、白で統一された空間が広がっていた。
「おう」
白衣の研究員の中で唯一、灰色のツナギと帽子に身を包んだ権藤が気づき、片手を上げた。胸ポケットにタバコのハイライトを入れ、皺深い顔にかけた老眼鏡の奥からこちらを覗くように見ている。権藤の周りだけはまさに昭和の町工場のようで、なんだか可笑しい。
だがその背後では、頭部がなく、簡単な腕だけがついた二足歩行ロボットがシューズを履き、十五メートルほどの競技用レーストラックの上を、音もなく静かに走っていた。透明なゲル状の素材に包まれた金属の関節が、ちょっと不気味に感じるほど人間の足に似たしなやかな動きを見せている。
しかもコースは二レーン。二台のロボットが並んで走り、競い合っていた。
本庶、二瓶、板東だけでなく、都内墨田区鐘ヶ淵にあったころの工房を知る悠宇も目を奪われた。あそこもすごかったが、ここは較べものにならない。
スポーツと、それに関連するスポーツ・アイテム・ビジネスの急成長ぶりはわかっていたつもりだけれど、まだまだ認識が甘かった。以前、日本有数といわれている大学のロボット工学研究所を見学したことがあるが、規模も設備もこちらのほうがはるかに上回っている。
「すごいですね」
悠宇は感じたことを素直にいった。
「まあな、鐘ヶ淵のころよりはだいぶよくなった。ただよ、今度は広すぎて、タバコ吸おうにもカートで五分走らなきゃ喫煙所にも行けねえ。そもそもこの研究所の中にあるコンビニには、タバコ自体売ってなくてよ」
権藤が苦笑いする。
「それより、おまえさんは相変わらず顔色悪いな。ちゃんと食べてるか? 美人が台無しだぞ」
今度は悠宇が苦笑いを返す。
よけいなお世話だとは思うけれど、なぜか冷たくあしらえない。悠宇自身がこういう職人気質の人たちに囲まれながら育ったせいだろう。
権藤と知り合ったのも、一年前のデータ窃盗事件の捜査のときだった。
はじめは口が重く苦労したけれど、悠宇の実家が神戸の精密工作機器メーカーで、父はそこの社長だと知ると、この初老の男はとたんに打ち解けてくれた。
興味深げに工房内を眺めている悠宇たちの前に、権藤が未使用のシューズを差し出した。
「あんた機動隊か何かだろ」
板東にいった。スーツの上から体型を見ただけでわかるらしい。
「はい、『元』ですけれど」
板東が返す。
「これ履いてみるかい? 再来週にはマスコミ発表されるやつだから、機密云々は気にしなくていい。自分らで試してみれば、ここが何やってるか一発でわかるだろうからさ。おたくの主任さんに勧めても嫌がるんで、あんたが代わりに」
一年前の捜査期間中、悠宇はいわゆる厚底シューズの最新型を何度か無理やり履かされそうになったものの、運動も走るのも大嫌いだとくり返して、どうにか逃げ切った。
今、権藤が手にしているのは、それよりさらに進化した、一万メートルトラック走に特化した試作品だという。
ただ、シューズの裏面部分が何ともいえない。
平面ではなく、でこぼこしていた。大きめの気泡というか、小粒のマスカットというか、黄緑色をしたイクラのような半球状の素材がソールにびっしりと張りついている。
正直ちょっとグロい。
「見た目が良くないのは承知しています。そのあたりは試作品ということで目をつむってください」
賀喜副所長が笑う。
椅子に座り、ちょいグロシューズを履いた板東が立ち上がった。
日本最高峰のスポーツシューズ・フィッターといわれる権藤の見立てだけあって、サイズも測っていないのにぴったり足に馴染んで見える。ただそれでも、はじめはかなり歩きにくそうだ。慣れるまで五分程度の練習が必要ということで、板東がそろそろと工房内を歩き回っている。
権藤と大園総監督が賀喜に目配せし、その視線を引き取った彼女がまた口を開いた。
「慣れていただくまでの間に、皆さんの捜査に関連することを、ちょっとお話しさせてもらいますね」
賀喜が悠宇たち捜査員を順に見てゆく。
「ナイキの厚底ランニング・シューズが数年前から世界の長距離レースの記録を次々と塗り替え、今も多くのトップランナーに支持されています。でも、私たちDAINEXも、それに勝るとも劣らない技術を十年前から持ち、いわゆる革新的なシューズの試作品も完成させていたんです。ただ、気後れと選手へのアピール不足から完全に後塵を拝してしまいました。でも、それももう終わるでしょう。一ヵ月後の東京ワールド・チャンピオンズ・クラシック・レースでは各社がこぞって新製品を発表しますが、DAINEXもレース用に調整されたカスタムタイプのシューズをお披露目します」
東京WCCR、東京都心部で行われる世界陸連公認のマラソンレース。
一般ランナーが参加する東京マラソンの前日に、同じコースで世界ランキング上位の招待選手三十名と、大学生を含む国内外の将来有望なランナーからの選抜選手十名、計四十名で争われる。優勝選手への賞金一五〇万ドル(約一億七千万円)を筆頭に六位までの入賞者に計三〇〇万ドルが支払われる。
元々は、新型コロナウイルスが世界的に蔓延する中、当初より一年遅れで二〇二一年夏に行われた東京オリンピック・パラリンピックの男女マラソン競技に対する不満から立ち上がった企画だった。沿道での観戦・応援が制限されるだけでなく、暑さ対策として競技場所を東京から札幌に移したにもかかわらず、男子マラソンスタート直後の気温は二十六度、湿度八十パーセント。猛暑の中、出場百六選手のうち、三十人もが途中棄権する過酷なレースとなり、一位のゴールタイムも二時間八分三十八秒という、男子マラソンの歴代五十位以内にも入らない平凡な記録で終わった。
そのため、「マラソンレースではなく単なるサバイバルだ」「敵は他の選手ではなく暑さだった」などの批判、さらには「八月にフルマラソン競技をする意味はあるのか」などの問題提起が相次ぎ、東京オリンピック・パラリンピックのマラソンの代替となる、真のマラソンランナー世界一を決めるレースを望む声が、オリ・パラ終了直後の二〇二一年秋の段階から上がっていた。
その声への賛同が短期間に広まり、翌年春に二〇二三年三月の東京WCCR開催が決定する。
三月四日に行われるレースは、日本やアジア地域だけでなく、世界七十二ヵ国に生中継される国際スポーツイベントとなったが、この急拡大の裏には、従来のIOC(国際オリンピック委員会)と、中国・ロシア・サウジアラビアの資本を背景とした新興スポーツ・ビジネス勢との対立があり、さらには二〇一八年ごろから東京WCCR開催に向けた国際交渉が秘密裏に進められていたからだといわれているが、悠宇はあまり詳しくない。
もうひとつ、東京WCCRは日本政府の認可する公営ギャンブルの対象マラソンレース第一号にもなっていた。競馬や競輪と同じように、どの選手が一位、二位、三位に入るかを予想し、的中すると賞金が支払われる。
WCCRは東京以降、パリ、ロンドン、ベルリン、さらにシドニーか北京のどちらかの計五都市で開催され、年間獲得賞金一位の選手には各レースでの優勝賞金に加え三〇〇万ドルが進呈される。
賀喜が突然プレゼンテーションのような話をはじめたのは、東京WCCRへのDAINEXの意気込みを説明したいからではない。
悠宇は気づいた。他の捜査員もわかっているようだ。
それを裏づけるように二瓶が手を挙げ、質問した。
「DAINEXが後塵を拝してしまった理由としてお話しされた、気後れと選手へのアピール不足とは、具体的にはどんなことでしょう?」
「臆病心だよ」
賀喜ではなく権藤がいった。
「ナイキの第一世代のヴェイパーフライには、厚いソールの中にカーボン製のファイバープレートが仕込まれている。これが反発性を増すのに一役買っているんだが、俺たちも十年前にまったく同じアイデアを持っていた。海老名先生がDAINEXに持ち込んだんだ。で、試作品も作り、採取した初期データも良好だった。だけど心配になっちまった。ソールにラバー素材以外のものが混入したシューズで好記録を出したら、非難されるんじゃないか、すぐに使用禁止にされるんじゃないか、コンシューマ製品化も閉ざされるんじゃないかと。当時の日本の陸連のルールブックにも海外レースのルール規約にも、そんなシューズは使用禁止だなんて一切書かれていなかったのに、俺も含め、みんなが勝手にビビって、自分たちの技術を勝手に封印しちまったわけだ」
「技術面だけじゃありません」
今度は海老名が口を開いた。
「当時のオリンピック、世界陸上代表クラスの日本人マラソン選手にも履いてもらって、データを取ったんですが、ことごとく不評だったんです。ソールが厚いのも、反発効果を得る走りをするのに慣れが必要なのも嫌われた。こんなものを履いて練習したら、自分のベストフォームを崩してしまうともいわれました。海外も含め一流選手になるほど、ソールの薄い、素足で走っているのに近い感覚のシューズを求めた。我々の提供したものは、そんなニーズとはまさに真逆だったわけです。時代といわれればそれまでですけれど、選手たちの意識を転換するだけの材料を、我々は持っていなかった」
「そう、説得しきれなかったんです」
賀喜が言葉を引き継ぐ。
「でもナイキのヴェイパーフライで状況が変わり、ずっと隠しておいた葛籠を慌てて開けてみたら、自分たちでも半ば忘れかけていた素晴らしい技術が詰まっていた。間の抜けた、お恥ずかしい話だけれど、そういうことです」
嶺川選手の元に届けられた脅迫状が本当に標的としているのは、もしかしたらDAINEX社の持つ技術かもしれない――
賀喜副所長をはじめとする総合研究所のスタッフは、暗にそう伝えている。
はっきりと言葉にしないのは、悠宇たちよりずっと階級が上の、今回捜査を指揮している人々から口止めされているからだろう。
警察庁がMITを立ち上げた理由が、悠宇にもようやくわかってきた。
――この案件、金も政治もがっちり絡んでいる。
口止めされているにもかかわらず、遠回しなやり方をしてまで副所長たちが話してくれたのは、悠宇たち捜査員の仕事を助けるため?
いや、これから行われる聞き取りでの嶺川選手の負担を軽くし、自分たちの、そして日本のナンバーワン・ランナーを守るためだ。
板東の足にシューズが馴染んだようだ。
街中のジムに置いてあるものの二倍以上のサイズがあるランニングマシンに乗り、走り出した。
「自転車と同じだ」
走りながら板東が話すと、権藤がうなずいた。
「コツが要るけど、慣れれば忘れない」
マシンの速度が上がり、板東のピッチも上がってゆく。
「不思議な感じです。走ってるんじゃない。走らされてる」
スーツの裾をなびかせ、走り続ける。その顔は走ることを明らかに楽しんでいた。
「こういうことだ」
権藤が悠宇たちに視線を向けた。大園と海老名も見ている。
「これからのシューズは選手が走るための道具ではなく、選手を走らせるための道具になる――この潮流は世界的に揺るがないでしょう。もちろん優秀な選手がいてはじめて機能が発揮されるわけだけど」
賀喜がいった。
「その走らせるための、世界で一番優れた技術を私たちは持っています」
4
板東がマシンを降りたところで、大園総監督の携帯が鳴った。
嶺川選手のミーティングが終わったようだ。
エレベーターで四階へ。
陸上競技棟の横にある四百メートルトラックを見渡せる、人のいないカフェテリアの奥で彼は待っていた。
こちらに気づくと、被っていたジャージのフードを取り、立ち上がった。
身長は悠宇と同じ百七十センチ前後。マラソンランナーらしい細身の締まった体に薄すらと焼けた肌。短髪で、少しの顎髭、大きな目をしている。
――意志の強そうな目。
そう思った。一流のスポーツ選手なのだから、当然かもしれないけれど。
悠宇から順番に捜査員たちは一礼し、自己紹介をしてゆく。
「千葉県警の捜査や警備の方たちとは、何か違うんですか」
悠宇の名刺に視線を落としながら嶺川が訊いた。
「私たちは彼らとは違う視点で状況を見つめ、異なるアプローチで捜査を進めます。いわばこの事件の解決を早めるため、特別に編成されたチームです」
「違うかたちで捜査を進める」
嶺川が小さくいった。
「はい」
悠宇はゆっくりとうなずいた。
「二度手間や、考え方に齟齬が――アメリカの映画やテレビドラマでよくある、FBIと地元警察の認識のズレのようなものが起きる可能性はありませんか?」
嶺川がさらに訊く。
「内部での意思疎通を心がけ、極力無いようにしますし、もし嶺川さんがお感じになったら、遠慮なさらずおっしゃってください。できる限り早く解消します」
「わかりました」
嶺川はそこで言葉を区切った。不満があるのだろう。警備をしている千葉県警の担当者に何か不手際や、説明不足のところがあるのかもしれない。
が、彼はそれを口にしなかった。ただ文句をいうだけでは何も解決しないとわかっている。それより今はまず、悠宇たちの出方を見ようとしている。彼の外見だけでなく、心も鍛えられていることが小さな行動の一つひとつから伝わってくる。
「それで今日のご用件は何でしょう?」
「千葉県警の担当者とお話しされて以降、何か新たにお気づきになったことなどはございませんか?」
「特にありません」
「では、新たに不安や不審に感じるようになったことは? どんな些細なことでも結構です」
「それもないです。以前のまま不安はずっと消えていないですけれど」
「申し訳ありません。一日も早く安心していただけるよう努力します。今日はありがとうございました」
「終わりですか?」
「はい。今後このメンバーであらためて嶺川さんにお話を伺ったり、お近くで作業をさせていただくことがあると思いますので、知らない顔がいることで、さらなるご不審や不快さをお与えしないよう、ご挨拶させていただくことが今日の主な目的でした。それだけのために、わざわざお時間を割かせてしまい、申し訳ありません」
「いえ、早く終わるほうが、こちらもありがたいです」
嶺川が視線を上げ、はじめてはっきりと悠宇の顔を見た。
「下水流悠宇さん、ですか」
「はい」
悠宇も彼の顔をまっすぐに見た。
「何かありましたら、いつでもその名刺の番号かアドレスにご連絡ください」
彼がまたフードを被り、笑顔で手を振る大園総監督とともにカフェテリアから去ってゆく。あとを追うように悠宇たちもその場を離れ、エレベーターに乗った。
一階で降りた直後、視線の端に、軽くアイコンタクトを交わしている二瓶と板東が見えた。
警察官らしいな。このふたりも私を値踏みしていたのだろう。
もちろん本庶も、私が嶺川選手に何を訊き、どう言葉を返すか、自分の基準に照らしながら詳細に観察していた。
そしてどうやら私は、班長としての第一段階を合格したらしい。じゃ今度は、この三人がどれくらい使えるか、私のほうが試させてもらおう。
「またな」
権藤の声と、海老名の微笑みに見送られ、陸上競技棟を出た。
冬の夕陽が陸上競技用トラックの向こうに沈んでゆく。さらに冷たくなった風の中を、またカートで走り、駐車場に戻った。
※
都内へ戻るバンの車内の空気は、来たときとはまるで違っていた。
自分たちに命じられたのが、日本中の期待を背負う有名スポーツ選手の身を守るだけの任務でないことを、この班の全員がもう十分理解している。
バンは暗くなった館山自動車道を進んでゆく。
悠宇は下水流班の三人に指示を出した。本庶には、嶺川蒼選手本人のこれまでの経歴と現在、交友関係を再度洗い出すように。二瓶と板東には手分けして、嶺川選手の周辺人物を、今日会った賀喜副所長、大園総監督、海老名研究部門責任者、権藤工房責任者らも含めて調査するように。千葉県警がMITに提出してきた現時点までの調査報告書は、一切アテにするなとも付け加えてある。もう一度、自分たちのフラットな視点で、この案件全体を眺めてみなければ。
「私はDAINEX社について、関連会社も含め、もう一度洗い直してみる。戻ったら今日は解散、明日朝九時に成果を持ち寄りましょう」
三人が「はい」と返す。
あと十五時間程度。猶予があまりない中で、三人がどれだけのものを見つけてこられるか? その結果を見て、三人の能力を判断し、今後の担当を決める。
警視庁捜査一課第一特殊犯捜査二係所属の本庶、警察庁警備局警備運用部所属の二瓶と較べ、警視庁警備部警護課所属で八ヵ月前まで第一機動隊にいた板東のほうが不利なのはもちろん承知している。ただ、だからといって大目に見るつもりはない。
そんな甘さは、逆にこの班を窮地に追い込む。まだ二十代の悠宇だが、馴れ合いと優しさが原因で沈んでいった警察官や捜査チームを、これまで嫌というほど見てきた。
ハンドルを握る二瓶を除く、悠宇、本庶、板東はタブレットや携帯の画面を見つめ、もう与えられた課題に関する調査を開始している。
だが、バンが東京湾アクアラインに入ったところで、全員の持つ支給品の携帯が同時に震えた。警察庁内に設置されたMIT本部からの一斉送信――
〈全員召集 本日十九時三十分 2号館内大会議室 欠席不可、遅れる可能性のある者は要事前連絡〉
霞が関にある中央合同庁舎第2号館十七階、警察庁大会議室。
並んだ椅子はすでに警察官たちで埋まっている。
最後に本件捜査の最高責任者である印南総括審議官を先頭に、警視長以上で構成された首脳陣が入室し、入り口のドアが閉まった。首脳陣の中には、悠宇たちの直属の上官である、あの馬鹿デカい男――乾参事官も交じっている。
今回のMITで召集された捜査員全員が起立し、号令とともに印南ら首脳陣と敬礼を交わした。
全百三十八名。これが初の全体会議で、悠宇も自分の班以外にどんな人間が呼ばれているのか、はじめて目にした。
だが、マイクの前に立った印南は、形式的な挨拶も、MIT立ち上げについて言及することもなく、すぐに本題に入った。
「これまで本件に関しては秘密厳守を優先するあまり、諸君に説明不足な点が多々あったことをお詫びする。だが、ようやく官房長官その他、政府筋からの許可が出た。本件の容疑者と思われる者たちが狙っているのは、嶺川蒼選手個人やDAINEXという一企業を標的とする強要・恐喝ではない。連中の狙いは、約一ヵ月後の三月四日に開催される東京ワールド・チャンピオンズ・クラシック・レース内において、複数の選手の走行を妨害すること、すなわち優勝及び上位入賞の阻止にある」
集まっている経験豊富な捜査員の何人かが、驚きとも的中とも取れるため息を漏らした。隣と囁き合っている者もいる。
「もっと単純にいおう」
印南が強い声で続ける。
「連中の企みは、特定のメーカーのシューズを履き、ウエアを身につけた選手だけを勝たせ、他を負けさせること。世界中が見ているまさにそのとき、壮大な八百長をやろうとしているわけだ。我々の目的は、それを阻止し、不届き者を残らず排除・逮捕することにある」
捜査員たちの戸惑いを表すざわめきは、すぐに会場全体に広がっていった。
(一章・了)
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