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朝倉かすみ「よむよむかたる」#001

小樽の古民家カフェで開かれる〈坂の途中で本を読む会〉。本を読み、人生を語る、みんなの大切な時間。最年長九十一歳、最年少七十七歳、今日もにぎやかに全員集合!

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1 老人たちの読書会

 最初の老人は男だった。午前中にやってきた。

「ヤァヤァ、どうも、どうもでした」

 朗々と声を響かせ引き戸を開け、大きな丸顔を覗かせた。すこぶる機嫌がよさそうだ。ソリ遊びをしてきたこどもみたいに笑っている。三和たたたのマットで立ち止まり、パン、パン、パン! 胸、腹、ももと叩いていって、まつわりついた雪を払い、ダン、ダン、ダン! 足踏みをして靴底の溝に挟まった雪を落とした。茶の冬靴を下駄箱に入れ、消毒液で手指を濡らして真っ直ぐ進み、肘掛け椅子に腰を下ろす。マスクを外し、あったかおしぼりで手を拭いた。メガネをおでこにずり上げて、まだほかほかのおしぼりに顔をうずめ、ダハーッと満足げにうめいたあと、トーストサンドセットAを注文し、「あれ? みんなは?」とあたりを見回したのだった。

「まだみたいですね」

 やすまつも店内を見回した。六畳と四畳半、畳敷きの二部屋がふすまを開け放してひとつづきになっている。大正ロマン風の椅子席とソファ席がゆったりと配置され、丸形の石油ストーブに載せたやかんがシューシュー湯気を出していた。

 喫茶シトロンは古い民家を改装した喫茶店だ。コンクリの土間には脚付きの下駄箱、短い廊下にはだれかの愛蔵書が並ぶ本棚と足踏みミシンが置いてある。場所はたるだ。北海道小樽市。バス停でいえば「いりふねじゅうがい」と「すみよしじんじゃまえ」のあいだに位置する。

「一時からと聞いてますが」

 安田は大きな声で、ことさらゆっくりと言い、壁掛け時計を指差した。目の前の老人に、約束の時間を思い出していただき、現在の時刻を確認してもらおうとしたのである。

 老人は、安田の指通りに壁掛け時計を見上げてから目を戻し、ウンウン、とうなずいた。安田もそれにならうしかなく、一礼してカウンターに戻った。惜しいな、日にちは合ってんだけどな、と手を洗い、食パンをオーブントースターに入れた。

 老人はショルダーバッグから紙の束を取り出し、立ち上がった。ホチキスで留めた書類をえん形のテーブルにいそいそと並べ始める。鼻歌が聞こえてきそうな顔つきだ。彼を含めて六人分の席ができ、老人は、これでよし、というふうに腰に手をあてた。イッチ、ニー、サンと舌で湿らせた唇を動かして数え直し、かんとして笑う。

 安田はひっそりとかぶりを振った。

 とてもじゃないが、あの人たちが全員ちゃんと集まれるとは思えない。

 坂の途中で本を読む会——。

 彼らのサークル名だ。坂のまち小樽に暮らす人々が人生という坂の途中で本を読み、大いに語り合う会だそうで、毎月一回、第一金曜の午後一時に集まっているらしい。

 昨年からのコロナ禍で休会を余儀なくされていたのだが、三月になるのを待って再開の運びとなり、今日がその初回。

 つまり、彼らは一年ぶりに集合するのだ。

 これが、安田が全員参加を危ぶむ最大の理由だった。

 なにしろ最年長九十一歳、最年少七十七歳。あとの四人は八十代というじんようである。「歳のわりには元気」だとしても、「なにがあってもおかしくない」年ごろだ。そのうえ、およそ一年もステイホームと称した引きこもりがつづいたのだから、いろいろと「進んだ」のではないか。いっそ加速したのでは、というのが安田の見方だった。

 とにかくしょっちゅう電話がきた。貸し切り予約と、そのキャンセルと、確認の電話だった。

 あの人たちの会では、持ち回りで喫茶シトロンに予約を入れる決まりになっているらしい。毎月開催ならシンプルなルーティーンに過ぎなく、なんの問題もなかっただろうが、新型コロナウイルスの感染拡大にともない、どんどん見通しが立てづらくなっていき、「いったん予約」と「やっぱりキャンセル」をおこなわなければならなくなった。それが彼らを混乱させたようだった。

 それぞれが、思い思いに、「そろそろコロナも止みますので」と断言しては予約し、「ヤー連絡網がきたんだワ、中止だって。ウン、会長が決めたの。苦渋の選択サァ」とキャンセルするようになった。「来月のぶん、予約してますよね?」、「ンット、取り消したんだったかナ?」の確認も数日おきに入った。

 連絡を受ける側の安田もいくぶん混乱した。

 なんといってもまだ二十七歳。祖父母にしたって七十そこそこで、彼らほどの高齢者と接するのは初めての経験だった。

 間の悪いことに、最初の緊急事態宣言がおこなわれたのは、安田が喫茶シトロンの雇われ店主として独り立ちした時期と重なった。店主として一度も店を開けないまま休業の日々がつづいたのだった。

 がらんとした店内で、あるいは二階の住居スペースで、なにをするでもなくひとりで過ごす一日の、昼夜の別なく、というか、夜討ち朝駆けみたいな勢いで、あの人たちからの電話が鳴った。固定電話は一階のカウンターに置いてあった。レトロな店のムードに合わせたレトロな黒電話で、着信音でしか知らなかったベルの音が二階まで聞こえてくる。どこにいても、早く出なきゃ、と思わせる音である。

 オカッパ頭というか鉄アレイというか、そんな形の重めの受話器を耳にあてると、あの人たちのうちのだれかの声が食い気味に聞こえてくる。どの声もいやに生き生きとしていた。一人なのになぜかわちゃわちゃとしていて、なんとなしの押し付けがましさをまぶしながら、いっしょうけんめい喋るのだった。喋り終えるとホッとしたように息をつき、たまに、ちいさなあかりを灯すような声音でもって「さん、元気でやってっかい?」と訊いてきた。

 美智留さんというのは、喫茶シトロンのオーナー兼前店長だ。安田の叔母でもある。昨年四月によわい四十七で再婚し、夫の転勤に伴い函館に転居した。喫茶シトロンを閉める気はなかったようで、埼玉県あさ市在住の甥すなわち安田を呼び寄せた。甥はチェーン系カフェでバイトをしていて、店に勧められるまま食品衛生責任者の資格を取っていた。

 引き継ぎのため、安田は三週間、美智留と同居した。こまごまとした喫茶店業務の説明のうち、美智留がひときわ心を砕いたのが、あの人たちのことだった。仕入れの間隔や分量、会計ソフトの使い方などは「自分でメモれ、そしてググれ」とスパルタ式だったが、あの人たちに関してはノートをつくってくれていた。よくしてあげてね、と何度も言った。くれぐれもよろしくと、函館に発つ前夜も。

 上まぶたが深く窪んだ大きな目で見つめられ、瞬間、安田はドラマチックな気分になった。喫茶シトロンの電球色の照明が美智留の顔の骨格をやさしく浮かびあがらせ、ふと言葉少なになった美智留のろうけた美しさを際立たせていた。もとより美智留は美形なのだが、顔立ちよりも口八丁手八丁のイメージが前に出てくるタイプで、安田にとっては血縁的にも俗称的にも「おばちゃん」以外のなにものでもなかった。初めて美智留の美しさに触れた、と思った。

 景色がひらけ、爽やかな風に前髪をあおられたような気もした。いよいよ新しい生活が始まるという実感がふいにくる。

 北のちいさなまちに住み、ひとりで喫茶店を切り盛りする。それは安田の前にこつぜんとあらわれたみちしるべだった。思いもよらない方向への矢印だったが、「どう? やってみない?」と美智留から軽快に打診され、安田は「いいね、やってみたい」と即答した。自分でも驚くほど迷わなかった。とにかく、いったん、現状を変えてみたいと考えていたところだった。具体的なアイディアはなかなか浮かんでこなかったが、きっかけさえあれば、と思っていた。小樽行きは申し分のないきっかけだった。

 いまいる場所から遠いというのがまずいい。雇われだから収入が安定しているし、ひとりで働くのだから人間関係のわずらわしさがほぼゼロというのもありがたかった。無口で愛想なしのカフェバイト安田は店長に「安田くんの敬語ってちょっとなんかいんぎんれい入ってるよねー」と嫌味を言われたりするが、喫茶店のマスター安田ならその心配もない。

 思春期以降一貫して安田がうとんじているのが、時と場合によってゼリーみたいにぷるぷる揺れる自己評価だった。承認されても否認されてもぷるぷると揺れ、どっちにしたってうっとうしいことこのうえない。つねにフラットでありたい安田は、なるべく自己評価がぷるぷるしないよう周りから受ける刺激を最小限にすべく、バリアをつぎはぎしているうち、そこそこの人見知りに仕上がっていた。

 そして、なんといっても美智留からの誘いということ。真面目でおとなしい勤め人ばかりの親族のなかで、美智留はだれともちがっていた。安田にとってはこどものころから身近なスターであり、自由気ままというものの象徴だった。その美智留に後継者として喫茶シトロンの店長を任せられるほど見込まれたという、ささやかかもしれないが力強い晴れがましさが、安田を埼玉から北海道に移動させる大きな原動力になった。

 さらに美智留の大事にしている客たちを託されるという光栄にも浴し、まだ見ぬあの人たちへの、なんとなくの親愛の情が芽吹いた。ほかに覚えなければならないことがどっさりあって、美智留のつくってくれたノートを読み込む余裕はなかったし、深くかかわる気もなかったが、丁重にもてなそうとは思っていた。その矢先に、不要不急の外出自粛の日々が本格的に始まったのだった。

 濃淡こそあれ、だれもが抱えていた先の見えなさが、むくむくときつりつし空を覆った感があり、安田もあっけなく鬱々うつうつとしたムードに飲み込まれた。新しい風に煽られたはずの前髪はだらりと垂れ下がり、再び、彼の目をふさいだ。どろりとした眠気に浸かるような気分。コロナ禍のせいとは言い切れなかった。もとより安田松生はこんなふうだった。

 読書会の再開が決まり、あの人たちからの電話がよりひんぱんになった。声や口調にはもちろん、息継ぎの間にすら熱気と活気とやる気がみなぎっていった。だのに開催日時のことになると記憶が曖昧になるらしく、その場で思いついたような日にちをあげて、繰り返し、繰り返し、繰り返し確認してきた。何度も間違うのが恥ずかしいのか、「いつだと思う?」とクイズ形式にする人もいた。

 安田の彼らへの好感は、刻一刻としぼんでいった。もはや美智留から頼まれた特別なお年寄りではなく、うざったさ100パーセントの年寄り軍団になっていた。電話で相手をするときは、なんとなくの薄笑いが浮かんだ。胸のうちではたまにいじる。めっちゃ盛り上がってるしとか、ニュータイプのウェイ系やんとか。

 美智留から渡されたノートは拾い読みした程度だった。とはいえ、最初にやってきた老人が、坂の途中で本を読む会の会長らしき人物というのは登場のシーンから察せられた。北海道では人気のアナウンサーだったという往時を偲ばせるいい声だったし、見られ慣れている人だけの持つ「感じ」があった。

 ゆーても、いま見てるのはぼくだけですが、と声に出さずに茶々を入れ、会長にトーストサンドイッチとコーヒーを運ぶ。喫茶シトロンのトーストサンドイッチの具は三種類。Aがハムときゅうり、Bがたまご、Cがコンビーフとレタスで、飲み物付きのセットメニューが人気である。

 奇跡だな。安田の口角がぐっと上がった。カウンターの内側から六畳間のソファ席に視線を伸ばす。なんと全員集合だあ、と胸のうちで実況風につづけ、急いでマスクをおさえた。咳払いをして誤魔化そうとしたのだが、肩が震える。なんだこのしさは。

 例会開始の一時間も前に、坂の途中で本を読む会のメンバーは、全員、顔をそろえた。

 二人目の老人も男だった。会長がトーストサンドイッチにガムシャラにかぶりついているところにやってきた。会長と同じものを注文し、緑色の蝶ネクタイをちょいとで、がいこつみたいに綺麗な義歯をかちかちさせて、「お元気そうで」と会長に笑みかけた。「ヤッおかげさまで」と会長もにこやかに応じ、なんということもなくウフフと顔を見合わせていたら、勢いよく引き戸が開いた。ほんとうに勢いがよかった。安田は一瞬、戸をやぶられたかと思った。

「チョット、チョット、久しぶり!」

 現れたのは女性だった。イタリアのマンマを思わせる容貌だった。ふくよかで彫りが深く、眉が濃い。パーマをきつめにかけた赤茶色の髪をなびかせて歩いてくる。ガチャガチャしたおどけ口調で「ヤー、生きてたかい?」と男どもに声をかけた。男どもは、イヤハヤまったく敵わないや、というふうにのけぞって、三人揃って大爆笑。早くもトップスピードに乗ったようだった。

 その笑い声がやまないうちに四人目が登場した。小柄な女性の老人で、みごとな白髪をお団子にしていた。お召し物は裾広がりのまるえりワンピース、茶のべっちん。ウサギと人間の違いこそあれ、イメージだけでいうとシルバニアファミリーの一員のようだった。感無量というふうに両手で胸をおさえ、スーと息を吸ったのち、トコトコと仲間の待つほうに歩き出した。

 マンマが持参のかまぼこを配り出した。紙皿も持ってきていて、それに二、三個ずつ載せた。安田が水とおしぼりを持っていったときには、シルバニアも手提げから、「ぱんじゅうですよ」と釣鐘形の今川焼きのようなものを取り出し、配っていた。

「おやおや、今月のオヤツ当番はこのワタクシめではなかったかい?」

 と、蝶ネクタイがビニール袋をテーブルに載せた。花園だんごだ。「エッ」とマンマとシルバニアは顔を見合わせ噴き出して、きゃっきゃと互いをこづきあったのち、マンマが「このほうが豪華でいっしょ!」と声を放ち、シルバニアも「なぜなら久しぶりですので」とつづき、会長が「女性軍のおっしゃる通り!」と加勢して、蝶ネクタイがぎゃふんというふうにうなれてみせ、みんなでアッハッハと大きな花がひらくように笑った。

 間近で見ていた安田の頰もつい緩まった。しょうがねーな、というニュアンスの微苦笑ではあったが、マンマとシルバニアのじゃれあうシーンがサムネイルのように胸に残った。「おばあちゃんになってみた」とタイトルを入れてみる。そんな動画を見ているような気になって、あ、と思い出した。

 頻繁に電話をかけてきたあの人たちだったが、うざみというか、やばみというか、とんちんかんみというか、そういった度合いは横並びではなかった。女の老人二人がツートップだった。ガサツとおしとやかの二人で、安田の感触では、おしとやかが一歩リードしていた。そうか、あの二人だったか。ガサツがマンマで、おしとやかがシルバニア。

 割合しっかりしているほうのツートップもいた。男の老人二人で、たぶん一人は蝶ネクタイだろう。残る一人はまだ来ていない。というのは、いい声の会長には、こちらの言い分が通じないようなところがあったからだ。なにかちょっと訊き返しただけで機嫌を損ね、めっぽういい声で怒鳴りつけてくることがちょいちょいあった。

「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 安田はその場を離れようとした。わいわいがやがや、あの人たちの再会の盛り上がりは収まりそうになかったからだ。カウンターに向かって足を踏み出したら、入り口の引き戸が開いた。五人目と六人目の老人が同時に現れる。男女の組み合わせで、見覚えがあった。

 安田が美智留からスパルタ教育を受けていた三週間に何度かやってきた二人組だ。美智留から紹介されたが、夫婦ということしか覚えていない。おそらく美智留は、二人の名前はもちろん、読書会のメンバーだとも伝えたはずだが、安田の耳には入ってこなかった。

 目の前の夫婦を見た瞬間、病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまでという有名な誓いの言葉が頭に浮かび、全文を思い出すのに忙しかったのだ。きっと、もうすぐ、死がこの二人を分かつだろう。そうだ、死は、愛し慈しむ者たちを分かつんだ。初めて気づいたように思い、そっと、悲しくなった。

 妻のほうは驚くほど背が低い。そして、歳を取っている。川に洗濯に行く、人のよいおうなのような印象だ。こどものころ大好きだった絵本から抜け出てきたようだった。

 夫は、妻よりもかなり若い。あの人たちの中では最若手だろう。からだつきや身のこなしが、割合しなやかでスムーズだ。しっかりしているほうのツートップの片割れに違いない。妻の背中に手をあてがい、彼女の歩調に合わせてゆっくり歩いてやっている。視線は彼女の横顔と足下と前方との三点を注意深く移動した。

 妻は、海老茶色のスカーフをヒジャブのように巻いていた。杖のつき方、外股での歩き方、見ている安田の胸がざわつくほどのおぼつかなさだったが、本人も、傍らの夫も慣れているようだった。

 夫婦は、仲間に向かって、ほとびるような笑顔を送っていた。早く、早く、仲間と合流したそうなのに、その歩みは無情なほど遅い。安田はいつかみた辿り着けない系の悪夢を思い出した。ギッと奥歯が鳴ったのだが、夫婦は平気なようすだった。到着を待つ仲間たちも同様で、心配するでもいらつくでも応援するでもなく、ひたすらワクワクとした表情で夫婦に手を振ったりしていた。

 かっきり一時に例会が始まった。

 どんちゃん騒ぎのような喧騒はいつのまにか霧散していて、会長のいい声だけが流れてくる。

「ヤァヤァおよそ一年のご無沙汰でした。お待たせしました。坂の途中で本を読む会の例会を開始いたします」

 カウンターの内側で丸椅子に座り、細い足を組んでいた安田は、やはり細い首を伸ばし六畳間を見やった。会員五人、膝に手を置き、神妙な顔つきで会長の発言に耳をかたむけている。

 へえ、と顎に手をあてひとつうなずき、安田は美智留ノートに目を戻した。美智留が残した坂の途中で本を読む会の覚書だ。

 表見返しに会員名が書いてあった。役職、名前、電話番号、生年月日、干支の一覧表で、欄外に持病が書き込まれている。

 裏見返しには席の作り方が記してある。ここだけは昨夜も読んだ。

 もともとは楕円形のテーブルの長辺に、二人掛けソファを向かい合わせた席だった。そこに肘掛け椅子を二脚運び、テーブルの短辺に向かい合わせて、計六席を設けるのだ。

 貸し切り時間は午後一時から四時まで。料金はシニア割引適用で一時間につき二千円。別料金でのワンドリンク注文が条件で、持ち込みOKというのが喫茶シトロンのルールだった。

 叔母が言うには、貸し切りの需要が増えてきているそうだ。ほどよいノスタルジーに浸れる喫茶シトロンは、あちこちのメディアで紹介されていた。スタジオとして使用されることもあるし、ドラマや映画が撮影されたこともある。二十代から四十代の、行儀のよい、こざっぱりとした身なりの男女が客層の中心で、彼らはしばしばミーティングやちいさなパーティをひらいてくれる。

「デ、ですネ、われわれ坂の途中で本を読む会も、今年、イヨイヨ発足二十年となり」

 会長の声が耳に入った。あ、と安田は口を開け、足を組み替えた。発足二十年か、と、貧乏ゆすりをする。

 たしか喫茶シトロンの開店も同時期だった。安田が小学校に上がるかどうかのころで、その少し前に、美智留は離婚し、そこそこの額の慰謝料を手にしていた。弁護士だった元夫の父親は代議士で、元夫の不貞の相手はテレビコマーシャルをばんばん打っている美容家だった。ふんだくれるだけふんだくった美智留は、まず札幌にコーポを建て、その上がりを、美智留曰く「アレしたりコレしたり」して、ふるさと小樽での喫茶店経営に乗り出したのだった。

「デッ、デッ、ですからですネ、今年のですネ、わが坂の途中で本を読む会の記念事業としてですネ、例の、ホレ、エーット、ンット、あっ、コロナ、コロナになる前にですネ、みなさんと話し合った通り」

 会長の声が大きくなる。苛立ちも募ったらしく、声の調子が見る間に変わった。テンションボルトをぎちぎちに締めたドラム、めちゃめちゃ高いテンションで張ったガット、そんなものを連想させるキーキー声で「デエッ、デエッ、ですからああっ」と繰り返しわめいている。大々とした丸顔はまっかっかで、ぽやぽやと毛の生えた頭頂部からは湯気が立つのが見えるようだ。

 あれ、これ、やばくないか。安田はつい腰を浮かし、そのまま立ち上がった。「血圧上昇 急に 倒れる」とスマホに打ち込み、万が一に備えようとする。「救急車」を追加し、画面をスクロールし、要点を分かりやすくまとめていそうなサイトを探す。

 そのあいだも会長は丸顔を赤く膨張させて「デエッ、デエッ、ですからああっ」とがなり立て、読む会会員たちはてんでに騒いでいた。彼らが静かに会長の話を聞いていたのは、実にまったく、最初のうちだけだったのだ。すぐに会長がなにか言うたび、どよめきが起こるようになった。動揺しやすく興奮しやすいミニオンズがバナナ語でざわつく光景によく似ていて、パッと見では、沸きに沸いているとしか言えない状態だった。

 安田の観察によると、その騒ぎのみなもとは、彼らの聴力の衰えだった。みんなして元気で集まれた喜びやたかぶりもベースにあるけれど、いちばんは、各人の耳の遠さだ。

 書面を読み上げる会長の声が聞き取りづらいものだから「エッ?」「なんて?」「いま、なんて?」という矢継ぎ早の訊き返しから始まり、「二十周年だって!」「二十周年なんだとサ」「アー二十周年ネ」という返答のリレーを経て、マンマとシルバニアによる「アレェもうそんなになるかい!」「人の一生でいうと成人式ですので」「どうりであたしたちもトシとるわけサァ!」といったやりとりから会長を除く一同大笑いまでがワンターンで、それがひたすらループする。

 ちっとも話が進まない。それでも会員たちのひとりとして悪びれた表情をせず、むしろ喜色満面なのは、すごく話が弾んでいるような気がして、楽しいからだろう。楽園みたいな愉快な賑わいのなかで、会員たちは、自由に、のびのびと、振る舞っていた。

 安田は会長の急変を用心しつつも、こんなものなのかな、と思い始めた。老人たちの集まりというものは、元気いっぱいガヤガヤしているうちに、なんとなくなにかが決まり、ハッキリしないまま共有され、なぜか正確に実行されてしまうものかもしれない。今日、あの人たちが全員集合できたように。

 ひょっとしたら、あの人たちは、そんな奇跡を平然と連発してるのかも、と首筋に手をやった。すげー、とひとりごち、くつりくつりと笑った。

 ゆえに安田も、会員たちと同じく、会長の機嫌の悪さを見誤っていた。ようやく再会となった例会では、おそらく会員へのお知らせがどっさりあり、要領よく伝えるために、きっとずいぶん前から、書面にまとめておいただろうに、いざ発表の運びとなったら、ひとこと言うたびに中断され、能天気に無駄話をされ、会長はたいへんな勢いで怒りを溜め込んでいっていたようなのだ。突如、キレた。

「うるさーーーーい!」

 がなり声を長く伸ばし、「うっさい、うっさい、うっさい」とドスを利かせて会員たちをめつけた。会員たちは「ひっ」という顔のまま固まった。怒られちゃった、怒られちゃった、との思いが伝播していくのが見えるようだ。会長が深く呼吸してから言う。

「あのネ、たとえ聞こえなくても、いちいち、いちいち、みんなで確認しないこと! キリがないんだから。ネッ? そうでしょ? 今後は、エーット、みなさん、聞こえなくても聞こえてるフリをしましょう。分からなくても分かったフリをしているうちに、なんとなーく分かるようになるもんです」

 もうネ、そんなの「だいたい」でいいんだから、と持っている書類を手の甲でバシバシ叩いた。

「えっ」

 ほとんど反射的に安田は腰をあげた。気がつくと「ちょちょちょちょ」と会長に向かって伸ばした腕の指先をひらひらさせていた。

「それはないですって」

 真顔で首をかしげたのだが、

「聞こえなくても聞こえてるフリしろとか、めっちゃ」

 堪えきれずに噴き出し、「めっちゃ斬新」と腹を抱えた。

 視線が安田に集まった。腰を折って笑う安田を不思議そうに見ている。なにがそんなに可笑しいの? という顔つきが、安田をさらに笑わせた。するとみんなも笑い出した。最初はどっちつかずのにやにや顔だったが、お湯を注がれた貝みたいに、ぱかっ、ぱかっとひとりずつ口がひらき、大きな笑顔が揃ったのだった。

 安田はもう口を閉じていたが、頰には新たな笑みがのぼっていた。あの人たちの笑いようには、なんとはなしの照れ隠しと、きっとなにかワタシらが面白いことをして若者を笑わせたのだろうという嬉しさが存外複雑に混じり合っているように見えた。ひるがえって安田にも、あの人たちへのコツンとしたうざったさのなかに、ごく微量の愛おしさが混じり始めた気配があった。

「ヤァ、安田松生くん!」

 会長が尻をずらして半身で振り返り、片手をあげた。上機嫌に戻っていた。眉間にWi-Fiマークみたいな深いしわは残っているものの、顔の赤みは引いている。カウンターの内側で大きな目をしばたかせ、突っ立っている背高のっぽの青年に向かってウンウン、と満足げにうなずくと、姿勢を直し、会員たちに告げた。

「彼がネ、美智留さんの甥御さんの安田松生くん! なんと小説家!」

 ネッ、と会長はまた尻をずらし、安田を見やった。「エッ? なに?」「なんて?」「小説家?」「小説家だってサ」と会員たちのざわつきが収まらないなか、安田に話しかける。

「賞をとったんだよネ!」

「エ、賞?」「チョット賞だって」の会員たちの大きめのつぶやきを割って、安田が答える。

「あー、新人賞ですね。三年前」

「なんて?」「いま、なんて?」「新人賞?」「ヘエ! 新人賞」、「最後なんてった?」「最後」「最後」の喧騒を無視し、会長がまた話しかける。

「本もネ、出してるって聞いたヨ」

「それは二年前っすね」

 投げやりな調子にならないよう注意して、安田は答えた。なんとなく胸元に手をやる。そのへんにができているような感じがする。そんなに硬くない。握ればつぶれるのだが、すぐさまヌルッと復元する。放っておけばいずれ消失するだろうと、なにかの拍子に思い出すたび、いったん放置を繰り返していた。

「本?」「本!」「本だって」「本かい」「本サァ」と会員たちの波のようなざわめきが止まらない。興奮が高まっているようで、それぞれの頰がテカテカと光っている。

 最高齢の嫗もワッハと肥満気味のからだを揺すって安田を指差し、「本」、「本」と夫に教えてやっていた。夫も、もともと細い目を波線にして「本」、「本」と嫗の膝をやさしく叩く。それまで嫗の反応は鈍かった。表情もやや乏しく、みんなに合わせているだけ、というふうだったのが、安田の紹介シーンでぜん主体的になった。

「本」はあの人たちにとって特別なものらしい。「本」そのものへのリスペクトが根底にあり、ゆえに「本」を書く人も無邪気にリスペクトするのだろう。前者のリスペクトは、「本」を踏むとバチがあたる的な感覚のもので、後者のリスペクトには「大したもんだネェ」と感心する身振りが含まれる、と思う。

 いずれにせよ、安田にしてみれば、洗っていない手で腫瘤をベタベタ触られたような気分だった。なのに安田は締まりのないニヤケ顔をつくり、鳩みたいに首を前後に動かしながら、老人たちによく聞こえるよう、一語一語区切り、大きな声で、正式に自己紹介をした。

「三年前に、新人賞を受賞し、二年前に、本を出しました、自称小説家兼雇われマスターの安田松生です。高い安いの安い、田んぼの田、松の木の松に生まれるで安田松生」

 よろしくお願いします、と頭を下げたら、一斉に拍手が起こった。「よろしくぅ」「よろしくぅ」「よろしくぅ」と会員たちの声がやまびこみたいに連なる。すっく、と、会長が立ち上がった。満を持して、という趣があった。

「どうでしょう、みなさん」

 まったき笑顔で、いい声を響かせる。

「安田松生くんに、わが坂の途中で本を読む会の名誉顧問になっていただくというのは」

 歓喜の顔つきで「おおっ」とどよめく会員たちを手でおさえ、会長は堂々とつづけた。

「結成二十周年目前にして、こうして小説家の先生と知り合えたのもなにかの縁。ぜひわが読書会へのご参加をお願いして、われわれ素人ではとても思いつかない、作家先生ならではのご意見をお聞かせいただけたら、われわれとしても、マ、たいへんに勉強になりますし、ネッ、どうでしょうか」

 会長は昔の歌手みたいにへそのあたりで両手を握り、会員たちにあらためて提案、するやいなや、会員たちから「賛成!」「異議なし!」の声と最前よりも熱のこもった拍手が起こった。会長も高らかに手を打ち合わせながら「ヤァ思い切って言ってみていかったワ」とだれに言うともなくハッキリ言った。

 安田は棒立ちしていた。スンナリ決まったこと、あの人たちの耳が急によく聞こえるようになったこと、安田の意向が当たり前のように無視されていること、どこから手をつけていいのか迷うほどの突っ込みどころの多さだったが、安田には、声を大にして言ってやりたいことがあった。自称小説家って言いましたよね。自称、って言ったじゃないですか、ぼく。そのときだけ耳が遠くなっちゃったんですか。

 はああっ、と深いため息をついた。長い首の後ろ側に骨の出っ張りがならんでいる。背中をかくようにして、そこに手をやった。なんとなくいじり、またため息。しかし、安田の表情はそれほど暗くなかった。強張ってもいなかった。あまりの自虐の通じなさに驚き呆れ、なんならちょっと笑けてきそうだった。もしかしたら、いじりにきてるのかもしれない、とすら思えた。と、マンマが「ハイッ」と手をあげた。

「せっかくサァ、作家先生が参加してくださるンなら、書記もやってもらったらいんでない? ちゃんと記録残してなかったっしょ、いままで。作家先生はなんたって書くのがショーバイだしサァ、サラサラっと書くんでないかナーと思って」

 とてもよい意見を言っているような顔つきのマンマと、「なるほど」みたいにうなずく一同を見て、安田は、喉を反らせて笑った。例のコツンとしたうざったさと、微量の愛おしさがくっきりと立ち現れる。リスペクトどこ行った、完全にいじりだろ、自覚ないところがまた、と腹のなかでつづけると、可笑しさが増幅する。胸の奥にできた腫瘤もぶるぶる震えた。腫瘤は腫瘤で面白がっているのかもしれない。いいぞ、と安田は言葉にせずに思った。笑い飛ばせたら、それがいちばんいいような気がする。

 さて、安田は自分用の肘掛け椅子を運び、坂の途中で本を読む会の例会に加わった。美智留ノート、それとボールペンを持参した。名誉顧問兼書記なのだから、それくらいは持ってかないと。

「ひとりずつ自己紹介といきますか!」

 上機嫌な会長の声で、安田はノートをめくった。表見返しのメンバー表と突き合わせながらメモをとるつもりでノートの未使用ページを破こうとしたら、「あっ」と隣から声がした。蝶ネクタイが床に置いたカゴからリュックを持ち上げ、新品のノートを取り出す。(これを)と口を動かし、テーブルの下で安田に手渡した。安田が礼を言うと、いえいえそんなというふうに首を小刻みに横に振った。蝶ネクタイをちょいと撫で、ちいさく咳払いをする。

 安田は頂戴したノートをひらき、真ん中に楕円形を描いた。その周りにマルを七つ、配置する。長辺の壁側に嫗と夫、通路側にシルバニアとマンマが座っていた。短辺のカウンター側には会長、反対側は蝶ネクタイと安田という並びである。それぞれのマルに名前を書き込んでいくつもりだ。

 全員の顔と名前は早いとこ一致させたかった。美智留からくれぐれもよろしくと頼まれた人たちだ。新米雇われ店長としては、なんだかんだいっても彼らを大事にする方針ではいる。

 それくらいは最低ラインの礼儀だろう——、というのはたぶん表向きの理由で、安田のなかで芽生えた好奇心がなにやら順調に育っていたのだった。昨日まで「あの人たち」とひとくくりにしていた老人集団が、こうして顔を合わせてみたら、実はひとりひとり違っていたという一種しみじみとした驚きがもとになっていた。別段彼らに限ったことではない。いったん知り合ってしまえば、どの人だってひとりひとり違ってきて、自動的にどの人もこの世でたったひとりの人になる。その現象が老人でも起こり得るというのが、安田には初めての経験で、だもんだから、少しばかりめずらしかったのだ。

 おそらく今日は会員紹介で終わるだろう。いや、脱線に次ぐ脱線で、次回に持ち越されるかもしれない。会長は発足二十周年の話をしたそうだったが、まずそこまでは行き着かない、というのが安田の見立てだった。永遠に行き着かないような気さえした、のだが、違った。あっという間に終わった。

「会長のおおつきかつです」

 ではまずあたくしから、と立ち上がって一礼した会長に引きずられ、全員が「マルマル(役職)のマルマル(本名)です」構文で挨拶したのだ。揃いも揃ってかしこまり、一様に余計なことは言いません、という顔をしていた。そのせいで、名乗ったはしから無個性になっていくという逆転現象が起きた。さっきまであんなにはしゃぎ、自由すぎるほど自由に喋っていたのに。まぁ、それはそれでなんだけど、と安田は頰杖をついた。なんかちょっとずつ意表をつくんだよね、とメモをとったノートに目を落とす。

 楕円形の周りに配置した七つのマルには、一応それぞれの氏名を書き入れていた。だが、安田としては、それぞれの本名より安田みずから心のなかでつけた愛称のほうがしっくりきた。会長、シルバニア、マンマ、蝶ネクタイ。いずれも代替不能の感触がある。例外は嫗とその夫だった。

「まちゃえさんことますまさです」

 テーブルに両手をつき、ヨォ、イィ、ショォーと立ち上がった嫗は、ムービーの手ブレみたいにふるふると顔を揺らし、なんとも嬉しそうに自分を「まちゃえさん」と呼んだ。背中に手をあてがっている夫をかぎがたに曲がった太いがしなびた人差し指でそうっと指し、

「この人、あたしの亭主。シンちゃんこと増田しんぺいです」

 と紹介したのだった。夫は、ズコーンとおどけてみせてから立ち上がり、「まちゃえさんの亭主ことシンちゃんです」とほぼ直角にお辞儀して、ふさふさとした半白の髪をかき上げた。

 だから、この二人はまちゃえさんとシンちゃんと呼ばざるをえない。うん、と安田は力強く顎を引いた。なぜ「だから」なのかは安田にも説明できない。でもすごく「だから」だった。

 安田の呼び名も決まった。「センセー」が優勢だったが、マンマの言い出した「やっくん」が拍手笑いが起こるほどウケたため、そちらになった。べつにどっちでもいいけど、とマスクをつまんで引っ張り、ぱちんと戻した安田の耳に会長の声が入ってくる。坂の途中で本を読む会の成り立ちをお話ししてくれるらしい。

 お話は、会長の経歴から入った。昭和なん年だかにアナウンサーとして道内某放送局に入局しました、エーットそれはきしのぶすけ内閣が成立した年でえ、と付け加えたところから察するに、長くなりそうだった。

 新入りの安田のための「お話」だったが、よく知っているはずの古参会員のほうが熱心に耳を傾けた。待ってました! という空気が満ちていて、どの人もハッキリしない輪郭の濁った黒色の目を歳相応に輝かせていた。揃って顔を上げ、胸を張っている。グラデーションはあるもののどの顔も皺くちゃだ。だが、どの鼻の頭にも皺がなかった。そこだけ若い鼻の頭を先頭にして、広い野原をみんなで誇らしげに行進するような風情だった。

 へーえ、と安田は椅子に腰かけ直した。この人たちは、自分らが所属する集団が大好きなようすである。

 なるほどね、とうなずいた。ここでは仲間たちの密なつながりがなにより楽しく大切で、作家先生などちょっとした彩りにすぎず、たとえ作家先生だとしても入会した以上はヒラの新入り会員で、だから、ぼくは、居やすさと居にくさを同時に感じているんだな。

 つい、からかうような短い鼻息が出た。「居にくさ」って、と胸のうちに浮かんだ言葉をあげつらい、作家先生として遇されていないことを、どこかで不満に感じている自分自身をせせら笑った(わざわざ「自称」って言ったくせにね)。

 会長は某地方放送局で情報番組を長らく担当していたらしいが、定年後はフリーアナとしてラジオ番組を持ったそうだ。「じんたか行こうぜ」という番組で、訊くと、「じんたか」とは「ゆっくりと」の意味だと言う。マンマがすかさず安田をからかう。

「やっくんは内地の人だもんネェ、『じんたか』知らないかー」

「中学に上がるまではコッチでしたよ」

 答えたら、シルバニアも話の輪に加わった。

「ですよね、美智留さんはコッチの人なので」

「親戚はほとんどコッチです。ぼくは父親の転勤があって」

「アー転勤なら仕方ないネェ」

「辞令ですので」

「ええ、辞令ですから」と応じた安田は、その後、少しのあいだ勤め人にと
って辞令は天のお告げだみたいな話題でマンマ・シルバニア組に付き合う流れになった。軟着陸するように会話の間が空いてきたら、会長が「お話」を再開した。「お話」は一気に動いた。死病を得た妻を看取るため、会長はラジオ番組を降りたのだそうだ。翌年妻が永眠、その二年後に坂の途中で本を読む会を結成したと、ひじょうに短く会長は話をまとめた。

 一呼吸置き、会長が語り始める。満々と水をたたえた湖を映すような目をしている。

「妻の入院先で〈おみとりさん〉の噂を聞いたんですよ。助かる見込みのなくなった患者のもとにどこからともなく現れて、お看取りをしてくれるというね。資格のない、流しの付添婦らしいんですが、この人に看取ってもらう患者はみな安らかに、しあわせそうに逝くんだそうで」

 会長は広めのおでこにメガネをずり上げ、二本の指で両の眉頭を揉むようにした。

「ここに〈おみとりさん〉がいたら……。病に脳を乗っ取られてどうもうな顔つきで痙攣を起こす妻を見て、何度も思ったことですよ。結局、あたくしはどうすることもできず、妻を荒々しく歪んだ顔のまま逝かせてしまったんですが」

 会長はうつむき、歯を見せずにうっすら笑んだ。ふうっと息を吐き、顔をあげる。

「ひじょうに虚しくなりました。目と口をクワッと開けた妻のすごい形相がまぶたの裏にチラチラしたり、夜中に大々的に迫ってきたりするんですね。そんなんだから、しばらくなにも手につかない。とにかく彼女の表情が浮かぶんですから。あのすごいのがね、あちこちから」

 めちゃくちゃにシャンプーするような手つきをした。ぱたっと動きを止め、手をおろす。指はひらいたままだ。

「救ってくれたのが本でした。妻は読書家でしてね。本をどっさり遺してくれていた。ふと思いついて一冊読んで、そしたら止まらなくなったですよ。妻の引いた傍線ですとか、本人しか読めないような走り書きやらがびっくりプレゼントみたいに出てきましてネェ。読み終えて、本棚に戻すときの手つきだとか、考え考え読後の感想を話す口元だとか、ねえ、これ読んでみない? と本を差し出したときの泣いたばかりという目だとかが思い出されて、あたくしはね、病床の妻に本を読んでやればよかったと思いましたよ。彼女がもう理解できなくてもね、読んであれこれ思い浮かんだことを思い浮かんだまんまに話せばよかった」

 会長のいい声は湿っていた。感情を声に乗せようというのではなく、感情が声に乗ってしまった、二十年以上も経っているのに、というような湿り具合だった。

「よくあるじゃないですか。本を読んでると、とくにどうということのないシーンや描写でも、それがきっかけでごく個人的な思い出が連想されること。記憶に埋もれていたこども時代のある瞬間や、家族とのなんでもない会話なんかが、渡り鳥みたいにはるばるとやってきて、ここに留まるというような」

 会長は胸の真ん中に手をおいた。トントン、と、叩く。

「そんな話もあたくしは妻としたかったですよ。あたくしと同じ渡り鳥が妻の胸にも留まっていたような気がして仕方ないですよ。そういうことはよくありますからね。ええ、よくあることです。同じページで同じ場面を思い出すこと。そういう時間を積み重ねていっていたら、もしかしたらですね、もしかしたらですけど、あたくし自身がですね、妻の〈おみとりさん〉になれたかもしれないと、」

「そうなのサァ!」

 マンマが割って入った。安田は目をみはる思いだった。こんなにきれいに空気を壊す瞬間を見たのは初めてだ。会長の「お話」は明らかに山場だった。ちょうど感極まったところで、安田もかなりしんみりしていた。しかしマンマは平然と、いや、むしろこれからとても重要なことを言います、みたいな顔でつづけた。

「どうも〈おみとりさん〉は一人ってワケじゃないみたいなんだよネェ」

 どうだと言わんばかりに腕を組む。いつだったかの町内会のだれそれさんのお通夜で隣り合わせたナントカさんの知り合いの知り合いが言うことには、〈おみとりさん〉は実は複数いて、腕のいい悪いがあるそうだ。腕のいい〈おみとりさん〉なら、病室に入ってきて、カーテンを開けただけで患者の心は平安になるらしい。

「はい」

 シルバニアが皇族のお手振りみたいな手の挙げ方をし、
「えっと、あたしは、〈おみとりさん〉は、やさしい死神さまのようなものだと思います。なぜなら、とどのつまり、〈おみとりさん〉が現れたら、その人は死ぬので。決定なので」

「一理ある!」

 蝶ネクタイが声をあげた。え、という口をして、安田は首を伸ばすようにして蝶ネクタイに目をやった。この人たちのなかでは比較的しっかりしている蝶ネクタイでも、マンマ・シルバニア組主導の脱線に加担するのか。

「しかし、いまの際のそのときに〈おみとりさん〉からかけられるやさしさは無上では。その人がそれまで受けたやさしさを合わせた以上のものがあるほど無上ではないか、ト、ワタクシは」

 シルバニアに向かって熱弁をふるう蝶ネクタイだったが、「そうだネ、無上だね、むじょーむじょー」とマンマに軽くあしらわれ、「ンー」と蚊の羽音みたいな音を長く発し、口をつぐんだ。

「で!」

 とマンマが声を張る。

「つぶれた銭湯の脱衣所でサ、会長が知り合いに頼まれたとかで定期的に講演会やってたんだよ。二、三十人が車座になって会長を囲んでネ、お話を聴くのサァ。ウン、みーんな会長のファン!」

 意外なことに、読む会立ち上げ時の話に戻した。

「奥さんの話を聴いたあとにネ、『ねーねー、みんなで本を読み合いっこして話し合いっこする会をつくろうよ』って言ったのが、この人、まちゃえさん!」

 と、まちゃえさんを指差した。まちゃえさんがテーブルに両手をつき、ヨォ、イィ、ショォーと立ち上がる。

「増田正枝と申します。まちゃえさんです。九十一歳です。おととし、読む会のみんなに卒寿のお祝いをしてもらいました。あのときはえーっとたしか」

「あたしの傘寿と合同!」

 マンマが助け舟を出し、「あらいやだ、そうそう、そうだったねぇ」とまちゃえさんはふふふ、と口をつぼめ、わずかに肩をすくめて照れたのち、傍のシンちゃんを指差した。

「こちらが亭主でシンちゃんです。一緒になったころはまちゃえさんの若いツバメなーんて言われたものなのに、七十七になりました。今日はこれからみんなで、去年できなかったシンちゃんの喜寿のお祝い会を」

 言いかけたら、シンちゃんが「今年も中止になったんだよ」と大きな声でまちゃえさんに耳打ちした。シンちゃんは、急に二度目の自己紹介が始まり、ちょっぴり啞然としていた安田に向かって、「それからまあいろいろな理由で会員の出入りがあり、現メンバーに落ち着いたというわけです」と読む会結成の話題に戻し、「安田さんが入られるまで、まちゃえさんの付き添いで入ったぼくが一番下っ端でした」と笑ったら、マンマがなぜか立ち上がった。

「まちゃえさんとならぶ読む会最古参、とうりゅうです! 今年八十二歳。おととしは会計を担当しました!」

「えっ」

 安田は思わず声が出た。自己紹介二周目が本格的に始まった。今度はたっぷり脱線する予感がする。いや、予感しかない。ほら、シルバニアが立ち上がった。

ももです。桃はピーチの桃で、」

 シルバニアの挨拶の途中でマンマが茶々を入れる。

「よっ副会長」

 シルバニアがおっとりと応戦する。

「会長に任命いただいただけですので、なぜならパソコンが使えるので」

 携帯電話もアイフォーンですし、と真っ白い毛糸玉みたいなお団子を揺すりながらつづけるシルバニアに、マンマは赤茶色のパーマヘアに指を入れながらまたしても野次を飛ばす。

「独身貴族!」

 シルバニアは落ち着いたものだ。こほん、と咳払いし「貴族ではないので」と返した。マンマがニヤニヤと「独身貴婦人!」と言い直すと、シルバニアもつい、残り少ない前歯を見せて笑ってしまい、「貴婦人でもないので」と言った。

「あのネ、コッチも独身貴族なんだよ」

 マンマが安田に教えるように蝶ネクタイを指差した。

「なんとなんと桃さんと同い歳の独身同士! しかも二人とも中学の先生だったんだ」

 ねーと蝶ネクタイに向かって大きく首をかしげるマンマ。冷やかすような笑い方だったが、蝶ネクタイはまんざらでもなさそうで、ごくんと唾を飲み込んでから、「桃さんとは、かつて東中で同僚でした」と安田に打ち明けるように告げた。それにかぶせるようにしてシルバニアが「でもそれだけなので」とピシャリと言い放ち、蝶ネクタイは「んー」とまた蚊の羽音みたいな音を細く長く出し、あらぬほうに目をやった。

「つづきまして秋の二十周年事業について」

 座がしずまったのを見計らい、会長は用意しておいたペーパーを読み上げた。

「公開読書会の開催と、我が坂の途中で本を読む会の歴史をまとめた冊子づくり。この二本立てでいきましょうと前回の例会までに決まっていました」

 そうですね、みなさん、と会長は会員を見回した。会員たちは一斉に「そうでしたね、会長」という顔でうなずいたが、女性三人はたぶん話を合わせているだけだった。というのは、三人とも、会長が発表したとき、初めて聞いたようにエーッとちいさく声をあげ、目を泳がせたからだ。マンマとシルバニアは「公開読書会?」「公開読書会?」、「冊子?」「冊子?」と両者疑問形でのやりとりをしていたし、まちゃえさんはシンちゃんに大きな声で耳打ちされていた。

「来月の例会までに、めいめい具体案をまとめてきてください。みんなで話し合って詰めていきましょうや」

 会員たちはそれぞれのノートにメモをとった。盛んにペンを走らせる音がする。え、そんなに、というほど時間がかかるのは、どの人も実に丁寧に字を書くせいだった。それと、漢字を訊き合ったりするから。

「二十周年事業の責任者は安田くんにお願いしますか!」

 会長が言い出したときも、みんなうつむいてメモ書きに夢中だった。パンパンと会長が手を打って、皆の顔を上げさせ、繰り返す。もちろん「賛成!」「異議なし!」だった。

 どの顔もほっとしているように見える。「やっくんなら間違いない」とか「任せて安心」など、次々あがる声を聞き、安田の目が大きくひらいた。数瞬かけて細まっていく。猫が親愛の情を伝えるときの動きに似ていた。

 なにかこう独特の勢いのあるこの人たちだが、もしかしたら、自分たちの心もとなさにとっくに気付いているのかもしれない。二十周年事業は大仕事だ。公開読書会も冊子づくりも、この人たちには初めての取り組みだろう。けれども失敗はゆるされないし、したくない。大好きな読む会のハレの日のイベントだもの、なんとしても成功させたいはずだ。と、ここまで考えたときには二十周年事業の責任者を引き受ける気になっていた。

 ぼくは、きっと、この人たちの助けになることができる。

 知っていながら断れるほど安田は薄情ではなかった。といっても、とくべつ情に厚いわけではない。人並み程度に親切なだけだ。くれぐれもよろしくと美智留に頼まれたというのも大きいのだが、実のところ、とても単純な理由だった。彼らは、もう、安田の知り合いだったのだ。上機嫌で安田のつぎはぎのバリアを破った人たち。

 強いんだか弱いんだか。

 長い前髪に指を入れた。浅く笑って、安田は思う。

 ぼくみたいな若者の入会は渡りに船だったろうなぁ。

 あの人たちのなかでは比較的しっかりしている蝶ネクタイとシンちゃんがひときわ喜んでいるのがその証拠だ。二人とも、会長と女性軍の顔を立てながら自分たちが引っ張っていかなければならないと知っていて、だからこそ二人だけでは荷が重いと思っていたに違いない。「いまの若い人はネ、そういうのが得意だから」「やーぼくらにはとてもとても」とざっくりした表現の会話をしている。

 見込まれ方が急。てか名誉顧問っていうぼくの肩書どこいった、と安田は背もたれにからだをあずけ、組んだ足の膝を抱えた。いちゃもんめいたチャチな抗議が次々と浮かんでくる。浮かべば浮かぶほど愉快になっていくのはなぜだろう。

 座の空気が軽やかになったのは感じていた。二十周年事業の預け先というかケツモチが決まったことで、皆、すっきり爽やかなきもちになったようだ。一年の休会を経て、坂の途中で本を読む会は、いよいよ新たに始動する、そんな船出のような気分が充満している。

 課題本も改めようとなった。安田は美智留ノートをめくった。「さまざまな係」のページにさっと目を走らせる。「会場当番」、「司会当番」、「オヤツ当番」など読む会の当番はたくさんあったが、課題本決めを担当するのは「読む本当番」のようだ。課題本の候補作を挙げる係で、話し合いを経て決定するらしい。課題本は次回の例会までにおのおの用意するのが基本だが、希望すれば「読む本購入当番」が買ってきてくれる。「読む本購入当番」は購入した課題本を喫茶シトロンに預けておく、購入を希望した者は次回の例会までに引き取りに来る、というルール、だそうだ。複雑な感じがして、老人にはむつかしいのでは、と思ったが、ノートの端に美智留の字で「読む会のルールに口出ししないこと。みんな長年それでやってきたので変更とか無理」と書いてあった。

 今回の「読む本当番」はまちゃえさんだった。蝶ネクタイとシンちゃんが覚えていた。それぞれのノートを見返し、「まちゃえさんですね」「まちゃえさんです」と声を揃えた。それから安田をちらと見て、「次回からはやっくんさんが」「書記ですからね」と荷下ろししたような微笑を交わした。

「あ、あ、あ」

 まちゃえさんは大きく笑った口をして、右上、左上、また右上と目を動かした。思い出した、というふうにパクンと口を閉じ、また開けて、
「『だれも知らない小さな国』がいいなあ!」

 と言った。

「たしかコロボックルが出てくるんだわ」

 胸をかき混ぜるような手つきをして、つづける。

あきのりがね、ガッコの図書室から借りてきた本なんだわ。なんべんもなんべんも借りてきて読んでたんだけど、お正月にお年玉で自分専用のを買ったのさあ」

「あきのり、さん?」

 安田が独白した。蝶ネクタイがノートになにやら書き込み、テーブルの下で安田に見せる。「明典」と書かれた漢字を読んでいたら、「まちゃえさんの息子さんで」と蝶ネクタイが小声で告げた。安田はふと蝶ネクタイを見、それから全員を見回した。皆、なんだか、はばかりのあるような顔つきをしている。

「今年四十八になりますけどね」

 親にとってはいつまでもこどものまんま、と、まちゃえさんが安田にふっくらとした笑顔を見せた。

「息子さんが、ですか?」

 安田は相槌がわりに訊き返した。まちゃえさん以外のみんなはオジギソウが葉を閉じるように思い思いの方向に視線を外している。

「そうだよう」

 まちゃえさんは明るい声をあげた。あんまり明るくて、少しだけタガが外れているように聞こえた。

「美智留さんと同い歳なんだからさあ」

 ゆっくりと表情が動き、さも愉快そうに笑い出しそうになったのだが、その寸前でフリーズした。チャレンジに失敗したパズルがばらばらと落ちてくるように、表情が剝がれ落ちる。

「美智留さんから聞いてないのかい?」

 なんも? なんもかい? と安田に向かって這ってくるように身を乗り出した。ぽかんとした驚きと、じゅわっとした悲しみが、まちゃえさんの顔のなかで混じり合う。目から涙が出ていた。皺に溜まってなかなか垂れない。シンちゃんがまちゃえさんの肩をさすり、安田に曖昧な会釈をした。ああ、はい、というふうに安田も会釈する。

「じゃあまー、来月からの課題本は『だれも知らない小さな国』でいいですかね」

 会長が一段といい声を放った。

「いいんじゃないんでしょうか。コロボックルが出てくるっていいますしね」

 蝶ネクタイがつづき、

「こども向けの本は字が大きいから読みやすいしネェ!」
 とマンマが持っていた花園だんごで字を書くような真似をし、

「深い味わいもあるので」

 と言うシルバニアは右手にかまぼこ、左手にぱんじゅうを掲げている。

「なんたって味わいだよ」とマンマがだんごにかぶりつき、ムッチャムッチャとしゃくしながら「ねねね、とお正油と黒あん、白あんのどれが好き?」と花園だんごの推しをシルバニアに訊ね、答えを待たずに「あたしは胡麻!」と言い切った。シルバニアが「あたしは抹茶あん、でもここにないので」と言うと蝶ネクタイが「やっ! 失礼しました、次回はぜひ!」と勢い込み、そこに「あたくしは昔っからお正油」と会長も話に加わり、するとまちゃえさんが「あたしはヤッパリぱんじゅうさあ」とタコの頭みたいなかたちのまんじゅうを両手で持ってちびちび食べ始め、シンちゃんは「かまぼこ、かまぼこ、大八栗原のかまぼこだ」と刻んだシソを練り込んだのをムシャムシャやった。

「賑やかでしょう?」

 会長が自慢げに安田に話しかける。

「賑やかですね、とても」

 安田は応じ、頰に手をあてがった。あの人たちが嬉しそうにこちらを見ている。安田は胸のうちで彼らを画角におさめ、サムネイルをつくった。老人になってみた、とタイトルを入れる。まあ、つまり、そんな印象だった。そんな動画を見ているようだった。

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