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三上延「シネマバー・ソラリスと探し物」 #002

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「シェパーズ一丁、お待たせしやしたー」

 居酒屋の店員じみた節回しで言い、皿を置いて去っていった。まともなイギリス料理を出す店は少ないので、正直あまり期待していなかった——が、現れたのは本格的なシェパーズ・パイだった。きつね色にほどよく焼けたチェダーチーズの奥から、濃厚な肉の香りがくっきりと立ちのぼってくる。

「冷めないうちに召し上がって下さい」

 郁実はチーズとマッシュポテトを崩して、その下のひき肉と絡めて口に運ぶ。

「美味しい……」

 思わずつぶやいてしまう。きちんと羊の肉を使っている。こくのある肉とチーズがアクセントになってビールが進む。マスターが口元に笑みをたたえていた。

「気に入っていただけてよかった。うちのシェフは優秀なんです」

 ちょうどグラスが空になったので、今度はギネスのエクストラスタウトをハーフパイント注文した。こういう店では定番の黒ビールだ。普段よりペースが早いせいか、頭が少しふわふわする。いい気持ちだった。

「……とにかく、入ってくるのはオーソドックスな歩くゾンビだ。まずは武器の確保だな」

 常連客たちのゾンビ談義はまだ続いていた。

「俺だったら厨房に駆けこんで消火器を手に入れる。殴るのにも使えるし、噴射すれば敵の視界を奪える……」

「こっちの視界も奪われますよ。無茶やって五分ぐらいでいなくなるモブキャラじゃあるまいし……私ならなるべく大きな料理用のナイフとタオルを確保しますね」

「ナイフは分かるけどタオルはなんなんだ」

「腕に巻いて嚙みつかれても歯が通らないようにするんです。野犬と戦う時と一緒ですよ」

「今さらっと言ったけど、野犬と戦ったことあるのか?」

「ないです。あるわけないでしょう。武器を確保したらそこのドアを閉めて、これ以上ゾンビが入らないようにします」

「それは俺がやろう。そっちは店に入りこんだ奴らを片付けてくれ!」

「分かりました! 一階は死守しないと食べ物や飲み物に困りますからね」

 だいぶ酔いの回った二人の声が大きくなってきた。自分たちがゾンビ映画の登場人物になった気分に浸っているようだ。

 新しいビールのグラスが目の前に置かれる。どこかコーヒーを思わせる色と香り。口当たりはすっきりしているが、細かな泡の舌触りと柔らかい苦みが尾を引く。もちろんシェパーズ・パイにも合う。

「そういえば、店内のDVDやビデオのレンタルは今もやっていますよ。昔の会員証も使えますし、新しく作り直すこともできます。詳しいことはあちらに」

 マスターは壁に貼られた料金表を指差した。一週間レンタルで一本二〇〇円。一人十本まで。記憶違いでなければ昔と同じ料金だ。久しぶりにここで古い映画を借りて見るのも悪くない。

「今は新作を入荷していませんが、リクエストをおっしゃっていただければ検討します」

 うなずいて席から離れた郁実は、グラスを手にしたまま店内を回り始める。

 照明は少し暗かったが、ビデオやDVDのタイトルを読むことはできる。あれから十五年以上経つのに、郁実の高校時代とほとんど雰囲気は変わらない。

(私の方も、大して変わってないな)

 三十代になった実感がまるでない。同い年の友香は結婚して二児の母だ。彼女が薦めてくれたカフェやバーでは高校時代の知り合いによく会う。みんな家庭を持ったり仕事や趣味に打ちこんでいたり、この十数年で積み上げた何かを持っている。そういったものが自分には思い当たらない。

 仕事にも結婚にも願望や意欲を持たず、同じような毎日をただ送っている。毎日見ている映画のタイトルが違うだけだ。それがいけないとも思わない。誰に迷惑をかけているわけでもなく、自立して一人で生活している。

 ただ、うっすらと後ろめたさは感じる。もし十六歳の自分がここにいたら、厳しく問い詰められるのではないか。あなたはずっと何をしてきたの、どうしてあの時何もしなかったの——けれども「あの時」とはいつだったのか、自分が何をするべきだったのか、それすら今の郁実には見当がつかない。

 ふと、洋画コーナーの隅で足を止める。一本のビデオが正面を向けて飾られていた。ジャケットの中で若い男女が額をくっつけ合っている。

 映画のタイトルは『恋人までの距離ディスタンス』。製作は一九九五年。監督はリチャード・リンクレイター。主演はイーサン・ホークとジュリー・デルピー。

「本当にひどい邦題だよ……『ビフォア・サンライズ』って原題と全然違うし、内容の説明にもなってない」

 高校時代に聞いた恵川綾人の声が、さっきよりも鮮やかに蘇ってきた。声だけではない。額にかかるさらっとした髪に、日焼けしていない青白い肌も。

 一年生の教室で初めて目にした時から、郁実は綾人のことが気になっていた。

 彼女だけではない。中性的な雰囲気で整った顔立ちに、最初は他の女子からの人気も高かった。しかし、無愛想で刺々とげとげしい態度にしばらくすると皆の熱は冷めていった。映画だけではなく読書も好きで、教室では一人で分厚い岩波文庫を読み耽っていた。友達どころか毎朝挨拶する相手もいなかった。イタいサブカル野郎、という陰口も耳にしたことがある。郁実ですらまったくの的外れだとは思わなかった。

 周囲と自分の間に無理やり溝を刻むような、子供っぽい気負いが綾人の背中にはいつも漂っていた。そのナイーヴさを生んだものが何なのか、郁実は知りたかった。その時にはもう恋に落ちていたのだと思う。

 彼と親しくなったきっかけは九月の文化祭だった。郁実は映画同好会に入っていた。会員は一年生の郁実と友香、それに三年生の男子生徒しかいなかった。自主映画を作るような創作意欲など誰も持ち合わせておらず、部室の小さなテレビで映画を見て、まったりと感想を言い合うだけのゆるい同好会だった。

 文化祭のために出した企画も普段の活動の延長線上にあった。それぞれが薦めたい映画を持ち寄って、借り物のプロジェクターで上映するだけだ。とはいえ、会場の準備や上映する時の人手はもう少し欲しい。そこでどの部活にも所属しておらず、クラスの出し物にも参加していない生徒——恵川綾人に協力を頼むことになった。

 彼が選ばれたのはもちろん郁実の希望があったせいだが、直接交渉してくれたのは友香だ。目的は友達のアシストだけではなかった。

「私もきたむら先輩と文化祭デートしたいから」

 その頃、友香は同好会の部長でもあった三年生の先輩に恋心を抱いていた。好きな作品の話になると止まらない特撮マニアだったが、面倒見のいい温厚な人だった。友香が先輩と二人で文化祭を回るためにも、上映時間中の交代要員は必要だった。

 十中八九断られるだろうと思っていたが、綾人は意外にあっさり引き受けてくれた。ただ、映画同好会の部室でミーティングした時、一つだけ条件をつけられた。

「上映する映画の中に、俺のお気に入りも加えて欲しい。今日、ビデオテープも持ってきてる」

 郁実は不安になった。新学期の自己紹介で大好きだと言っていたヌーヴェルヴァーグの映画——アラン・レネだのジャン=リュック・ゴダールだのを上映することになったら、最後まで起きていられる自信がなかった。綾人の前で居眠りする羽目になるかもしれない。アート系の映画に全く関心のなかった部長も困惑していた。

 けれども綾人が差し出したビデオを見て、全員別の意味で驚いた。彼の「お気に入り」は『恋人までの距離ディスタンス』。ジャケットはどう見ても恋愛ものだ。一九九五年の映画で、二〇〇四年のあの時でもすでに十年近く前の映画だった。郁実たちは誰も知らなかったので、部室でそのまま見ることになった。

 長距離列車の中で知り合ったアメリカ人青年と若いフランス人女性が、ウィーンの街を一日だけ観光する。主な登場人物は二人だけだ。次の日の朝まで過ごすだけの約束だったが、語り合ううちにだんだん親密になっていく。結局、別れ際に互いの気持ちを打ち明けて、半年後に同じ場所で再会する約束をする——。

 主人公たちを応援したくなる、とても素敵な物語だと思った。こんな映画があるなんて知らなかった。興奮しながらそう感想を伝えると、綾人は初めて存在に気付いたように郁実を見た。

 綾人も加わって着々と準備の進んでいた上映会だったが、文化祭の前日に学校側から突然中止を言い渡された。家庭用に販売されているDVDやビデオをプロジェクターで上映すると、著作権の侵害になるおそれがあるという理由からだった。

 唐突な話に納得できなかった郁実たちはもちろん抗議した。綾人の怒りは同好会の会員以上で、無料で上映する分には問題ないはずだと教師たちに激しく詰め寄った。法的にはグレーゾーンのようだが、残念ながらリスクがある以上は許可できない、というのが結論だった。

 その日、郁実は初めて綾人と二人きりで下校し、駅前のマクドナルドで教師たちへの悪口をさんざん言い合った。企画が流れたのはもちろん残念だったが、綾人と親しく話せるようになったのが嬉しい。それこそ「恋人までの距離」も縮まった気がする。彼が言うほどひどい邦題ではないと郁実は感じていた。

「どうして恋人まで……じゃなくて『ビフォア・サンライズ』が好きなの?」

 郁実はずっとできなかった質問をようやく口にした。綾人はしばらく迷ってから、言葉を選ぶように語り始めた。

「似たようなことが、俺にもあったんだ」

 小学生の頃、一度だけ会った人がいるという。小学校のクラスでも孤立していた綾人は、ある日登校せずに近所の国営公園に向かった——公園と言っても隣のあきしま市にまでまたがる広大な施設で、ボート乗り場のある池やプールや遊具場には遠足で来た子供たちも多い。大人から呼び止められる危険は少なかった。

「にわか雨が降ってきて、屋根のある休憩所に入ったら、同じようにランドセルの小学生がいて……二人でしばらく話したんだ。その子も周りと馴染めなくて、学校をサボったって言ってた。あの映画みたいに一日一緒に過ごして、仲良くなって……次の週に同じ場所でまた会う約束をして別れた」

 郁実は直感した。きっと初恋の相手だ。容姿には触れずじまいだったので、どういう女の子だったのかよく分からなかった。

「次の週、その子とは会えた?」

「会えなかった。俺は行ったけど、向こうは来なかった。通ってる学校も名前も聞かなかった……後から思うと、向こうはわざとそういう話を避けてたのかもしれない。最初から俺と会う気なんかなくて……二人とも小学生だったから、たぶん今会ってもお互い分からないと思う」

 力のない声に胸が締め付けられる。その気がなかったなら、約束をして彼を傷つけて欲しくなかった。私がその相手だったら必ず会いに行ったのに。郁実がかける言葉を探していると、綾人は急にぱっと明るい顔になった。

「そういえば今年『ビフォア・サンライズ』の続編が九年ぶりにできたんだ。監督は同じリチャード・リンクレイターで、主演の二人も一緒。映画の中でも二人が九年後に再会するんだって。日本でもそのうち上映されると思う」

「あれ? でもあの映画、ラストに半年後に会う約束してたよね?」

「よく分からないけど、九年後に会うってことは結局会えなかったか、半年後に会ってもうまく行かなかったんじゃないかな」

 現実みたいに残念な展開だが、九年後にちゃんと再会できるのはフィクションならではだ。そうでないと映画にはならない。

「続編、なんていうタイトルなの?」

 郁実がそう尋ねると、綾人は嬉しそうに口を開いた。

「……『ビフォア・サンセット』」

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