最強の恋愛小説…!『きみだからさびしい』(大前粟生)第一部を全文公開
最強で最高の恋愛小説ができました!
大前粟生さんの最新刊『きみだからさびしい』が、2月21日(月)にいよいよ発売になります。
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』や『おもろい以外いらんねん』など、まさにいま最も旬な著者のひとりである大前さん。初長篇の本作は、コロナ禍の京都を舞台にした、純度100%の恋愛小説です。
物語の主人公は、京都市内の観光ホテルで働く町枝圭吾、24歳。
「男性である自分は相手を傷つけてしまうのではないか」と、恋愛をすることに怯えていた圭吾は、ある日、あやめさんという女性に出会います。
その日から、あやめさんが、圭吾の世界のすべてになってしまいました。そんな彼に、あやめさんは、自分がポリアモリーであると伝えます。ポリアモリーとは、双方公認で複数のパートナーと関係を持つライフスタイルのこと。果たして、圭吾の恋の行方は……?
パンチラインの嵐と、胸がきゅっとなるシーンの連続で、担当は原稿を読み返すたびに、会社の隅であうあうと泣いておりました……
この昂ぶりをはやく、はやく、みなさまと共有したい! ということで、発売に先立ち、全三部構成のうち第一部をまるごと初公開いたします。
作品をお読みになった方は、ぜひ感想をお聞かせください。noteやtwitterで、ハッシュタグ「#きみだからさびしい」をつけていただけると嬉しいです。大前さんと一緒に読ませていただきます! もちろん、第一部までの感想も大歓迎です☆
『きみだからさびしい』
第一部
1 二〇一九年二月
「わっ。おばけかと思った」
町枝圭吾は先輩社員の言葉に「はあ」とため息のような返事をした。
「そういうところがだよ」先輩は笑った。「別にいいけど、お客さんの前ではもうちょっとシャキッとしてくれよな」
「はあ」
先輩は圭吾の肩を叩くとインカムで通話をはじめ、手が足りてなさそうなフロアへと向かった。
別に普通に掃除していただけなのにな。圭吾は他人事のように思ったがさして気にも留めず、シフト表や接客マニュアルが入っている棚をウェットティッシュで拭きはじめた。
図体はでかいのに覇気がない——なんてことを、年齢が上の、特に男性の社員からいわれることがよくあった。
最近の若い子はなんでもかんでもそんなのもう知ってます、ほっといてくださいみたいな顔してさあ……なんて揶揄される。別にそれが気になったりはしなくて、というより、気にすることがうまくできない。つい、どうでもいいと思ってしまう。あんまり自分に興味を持てなくて、いつもぼんやりしている。そういった、ギラギラしてなさとでもいうような雰囲気のせいで、圭吾は勝手に馬鹿にされたり、逆に勝手に好感を持たれたりする。
さっき話しかけてきた山吹という名の先輩は、そんな圭吾のことをなんだかんだ気にかけてくれていた。三十歳手前の気のいい兄貴肌で、一昨年、大学を卒業したばかりの圭吾がこの京都ニュースクエアホテルに入社してからしばらくは教育係として世話になっていた。彼は今月いっぱいで寿退社して、結婚相手の実家がある青森に引っ越すのだという。
この日、京都ニュースクエアホテルのスタッフたちはもうすぐやってくる桜の季節を前に、休館日を設けて館内の大掃除をしていた。圭吾は業務用のコピー機を移動させてカーペットに詰まった埃を取ろうとしたり、脱衣所にあるロッカーの上に溜まった埃をハイハイの格好で拭き取ったりした。目立たないとこばかりを掃除しているのはなんというか町枝らしいな、と仲のいい同僚たちは圭吾を眺めながら思うのだった。
圭吾は痩せ型で、身長が一八八センチある。学生時代は、背が高いことを気にしていた。どうしても威圧的に見られてしまいがちだったから、そうならないようにいつも猫背でいた。目が細いせいで子どもの頃から不機嫌に思われやすく、大学進学でひとり暮らしをはじめたのを機に、目を大きく見せたくて眼鏡をかけるようになった。やさしそうかな、と思って丸眼鏡を。そしたら本当に目が悪くなってしまって、なんだかいろいろなことが馬鹿馬鹿しくなった。それからも眼鏡はかけ続けたし、猫背はもう体が覚えてしまったけど、見た目を気にすることはなくなった。ホテルマンとして申し訳程度に髪をセットしたりはするけれど、オフの日は部屋に転がっている服を適当に着て、それがちぐはぐであったとしてもそのままでいる。主張もほとんどしない。別に、人からどう思われてもいい。
だからかもしれない。ちゃんと大きな体がそこにあるのに、おばけかと思った、なんていわれるのは。
「飯でもどう?」
仕事終わりに山吹から誘われた。
すんません、と圭吾はあっさり断る。
「えーオレ明日でいなくなるんだけど」
「あー、そっすねー。でも、約束してて」
「約束? 金井と?」
「いや違う人っす」
「オレの知ってる人?」
「いや知らない人」
「へえー、女?」
圭吾は露骨に顔をしかめた。
「冗談だって。遠慮せずそっち楽しんでこいよ。でも町枝が予定入れてんのめずらしいよな」
「そうですか?」
「そうだよ。おまえ、人に興味なさそうなのに。オレのことなんて、嫌ってはないけど別に好きでもないって顔に書いてある」
「いやいやそんなことは。ほんとそんなことは」
「無理しなくていいよ。まあ、また会えるだろ、オレら」
悪い人じゃないんだけどちょっとめんどくさいんだよな。
穏便な、でもちょっと笑い合えるような返事を考えていると、「じゃあ明日な」という山吹の言葉に救われて、「はい!」と思わず大きな声が出た。
「素直か」
山吹が笑う。圭吾も笑って、振り返るなり走り出した。
早くあやめさんに会いたかった。
いつも待ち合わせ場所にしている二条城の東大手門前に着くとあやめはすでにいて、寒さを和らげるためにぴょんぴょん跳びはねるように足踏みしていた。少し離れたところから「すいませ~ん」と通りの悪い声を圭吾が振り絞っているのが聞こえたのか、やっときたー、とあやめは大きく手を振りながら、今度はほんとにぴょんぴょん跳びはねた。鹿のように肢体も顔も細長く、精悍な顔立ちをしているのに動作は子どもっぽくて圭吾は微笑んでしまう。あやめが無邪気でいるということが自分に気を許している証みたいに感じられて、圭吾は胸があったかくなるのだった。
窪塚あやめは圭吾の四つ歳上の二七歳で、京都市内でカフェバーの日替わり店長とライター業をしていた。圭吾はホテルの勤務を終えるとほぼほぼ直帰するし、休日に出かけることもあまりないから、あやめが働いているカフェバーのことも、彼女が「結婚に興味ない20代低収入女が妊婦さん31人から話を聞いてみた」というブログがSNSで拡散されたのをきっかけにライターとして売れはじめていることも詳しくは知らなかった。それまで全く接点のなかった圭吾とあやめは昨年の秋に偶然出会い、そこからたまにこうやって二条城の周囲のランニングコースを走っている。
彼女は派手な配色のランニングウェアを上手く着こなしていた。うわあ、と圭吾は些細なことに感動する。視界のなかにあやめがいるだけで気分が踊り上がる。容姿が好みだからあやめのことを好きになったわけではないはずだけれど、一度好きになってしまうと、彼女の見た目も輝いて見えた。切れ長の目。薄い唇。横に並ぶと見える、頭のてっぺんにふたつあるつむじ。左右でバランスがおかしい眉。高校生のときに抜きすぎてしまったらしくて右だけ不揃いだ。いつもは凜としているのに、笑顔は幼く見えて、笑ってるときも、笑ってないときもかわいい。首の右側に星座みたいにたくさんあるほくろ。俺も首にほくろ多いんだよって、そんな共通点を、何度も口にしたくなる。笑ったとき、奥歯にある銀歯が見えるとなぜかうれしくなる。
今日のあやめさんはすっぴんだ。違うかな。俺がそう思ってるだけでナチュラル風の手間がかかったメイクだったりするのかな。
以前街中でばったり出会したことがあった。そのとき彼女はファッションショーにでも出るみたいに目元をアイシャドウで黒く縁取っていて、見つめられるだけで圭吾はどきどきしっぱなしだった。その緊張と興奮が、どういうわけか、今目の前にいるあやめを見ていても思い出されてくる。
ぜんぶのことが今という時間に重なってきて、今という時間があやめさんなんだ、なんてことを圭吾は本気で考えたりする。植物の菖蒲が紫色をしているせいで、似た色をしたものを見ただけで彼女のことが頭に浮かんでくる。空気が澄んだ日の夕焼けの色なんてまさにあやめさんだ。その切ない雰囲気と相まって、ほとんど毎日夕方になると、なんなら空を見ていなくても彼女のことを考えている自分がいる。
ひとりでいるときのもどかしさはけれど、あやめといると噓みたいに消え去るのだった。ただ、彼女をよろこばせたい、嫌われたくない、また会いたい、もっとあやめさんのことを知りたい、なんていうシンプルな欲望が圭吾の体を満たした。そのなかには性欲があって、けっこう大きな存在だった。でも圭吾はそれを認めたくない。認めないようにしたかった。
準備体操をしながら、彼女のことをじっと見てしまっていた。
きれいだな、という言葉が水滴がこぼれるみたいに自然と頭に浮かぶ。
「ん? どした?」
あやめが見返してきて、そのまま目を逸らせない。
「じーーー」
彼女が声に出していうから、圭吾もそれを真似る。
にらめっこになって、うわ、時間止まれ……と圭吾は祈ったけれど、急き立てるような心臓の鼓動に耐えられなくて自分から顔を逸らした。
「私の勝ちね」
急にあやめが走り出し、待って、と圭吾は駆けっこでもするように追いかけた。この関係がずっと続けばいいのにな。いつまでもこうやって、遊びのなかにいるみたいに並んでいたい。
しばらくはお互い走ることに集中し、少し距離を空けた。走っているあいだはほとんど無言だけど、やけに充足感がある。ひとりひとりとして走るだけで満足だった。
圭吾はいつも、ランニングというより、全力で走る。息切れしたらペースを落とし、また全力で駆けていく。けれどこの日はしばらくのあいだ、なにかを惜しむようにゆっくりと、あやめの少し後ろを走った。
走るのに合わせてぶんぶん揺れる彼女のポニーテールを見ていた。わ、まぶしい、と圭吾は思う。ポニーテールが振り子のように揺れる、その範囲が光って見えた。
でも、と圭吾は泣きそうな表情になって、あやめが振り返ったわけでもないのに精一杯笑おうとしてみる。俺は彼女に思いを伝えたりできるんだろうか。
好きの気持ちに従ってしまうのが怖い。うまくいえないけど、俺はそれが、いちばん怖いんだ。
2 二〇一九年三月
休館日のあとは、観光シーズンまでの微妙に暇な日が続いた。
朝の七時、夜勤スタッフと朝勤スタッフの引き継ぎが行われた。今日のシフトは朝勤で、圭吾はあくびをかみころしてばかりいる。
夜勤の時間帯にトラブルは起きなかったか、要注意の客はいないか。SNSに口コミを投稿してくれた客に渡す景品を経費削減のために一部入れ替えることなど、確認事項を夜勤スタッフの元木が申し伝えていく。制服のシャツ越しにでもわかる中年太りの腹を何度もさすっていた。苛ついているときの彼の癖だった。
「聞いてんのかッ」
元木は圭吾に向かって突然声を荒げる。
五十代なかばの元木は京都ニュースクエアホテルの現場スタッフのなかではいちばんのベテランで、ここにくる前も合わせるとホテルマンとしての職歴は二十年を超える。
おれはよく働いてる。もっと敬われてもいいはずだ、なんてことを元木は日頃から思っているし、実際に若い社員に向かって口に出すことさえあった。
「あ。聞いてます。すんません」
そういうと圭吾はまたあくびをかみころしながら頭を搔き、目尻をごしごしと擦った。
圭吾の隣にはひとつ年下の同僚である金井くんが立っていた。
金井くんは圭吾と違って、人からどう見られるかを可能な限り自分でコントロールしたい質だった。髪をきっちりオールバックに撫でつけ、ベストに合わせたネクタイだって年配の客から褒められるようなものを日々選んでいた。端から見ていると執拗なほど丁寧にクレーム対応をし、同僚たちの趣味や好物なんかも把握して出張の際には毎回ちょうどいい具合のお土産を買ってくる。金井くんは出世にそれほど興味はないし、この会社にいつまでもいる気もないけれど、なにかうまい話があったときに名前が挙がるような存在でいたかった。
金井くんは小柄だ。圭吾と並んでいると、その身長差だけでなく金井くんの清潔感と圭吾のずぼらな印象の対比もおもしろいのか、お客さんや取引先からふたりセットで記憶されることが多かった。年齢も近いし、社内でもなにかとペアのように扱われることが多い。
五分ほどの引き継ぎのあいだ、金井くんは圭吾のことをじっと見ていた。
町枝さんの顔ってなんかやさしい熊って感じがする。顎の下にほくろあるんだ。はじめて気がついた。喉のところにも。繫げると星座みたいだ。てか喉仏でっけえな。
それにこれって。
金井くんは、圭吾の首元に目を遣りながら、にやけそうになった。
鎖骨の上あたりに小さく、ぶちぶちとかたまりになっている赤紫色の斑点。制服の襟で隠れるかどうか微妙な位置にあるその痕は、どっからどう見てもキスマークだ。
コンシーラーかなにか塗ってるけど、内出血の色透けてるし。
へえー。町枝さん大人しそうなのに、やることやってんだな。
引き継ぎが終わって夜勤スタッフが退社したあと、フロントに並んで宿泊カードの整理をしながら、金井くんは圭吾の耳元で囁いた。
「町枝さん、見えてるよ。首のとこ」
「んん? 首になにが……」
気づいた圭吾は赤面して俯いた。金井くんは笑いを堪えている。
「町枝さん、おもしろすぎでしょ」
年齢は一つ違いだが入社年度は同じで、そのせいで金井くんは圭吾と話すときタメ口と敬語が混ざるのだった。
フロント横のエレベーターが開くと、彼らのふたつ先輩の鷺坂さんがやってきた。
鷺坂さんはお客さんが周囲にいないことを確かめ、笑顔を維持したまま、ごく小さな声で「ま~じ~し~ね~」とお経のようなトーンでいった。
「どうしたんすか」
圭吾と金井くんは声を揃えて聞いた。
「ドライヤーがつかへんっていうクレームの対応してきてんけどさ。コンセント入ってなかったらそりゃつかへんやんか。こんなとこに差し込み口あるのが悪い、とかいわれて、し~ね~」
「災難でしたね」
またしても声が揃って三人で笑った。
不思議と気が合う三人で、シフトが被っている日は休憩時間を共にすることが多かった。
防寒をして屋上で昼休憩を取った。五山の送り火が行われる八月十六日やイベントのある日は観覧のため宿泊客に屋上が開放されるが、それ以外はスタッフが自由に屋上を利用していた。
物干し竿に干された浴室マットが打ちつけるような音を立ててはためいていた。日が照ると鷺坂さんの爪の表面のトップコートが鈍く光を吸い込むようにきらめいた。目の周りに軽くアイラインを引いている以外、化粧けがない。二の腕くらいまである長い髪をざっと束ね、インフルエンザの予防という名目で冬のあいだはずっと勤務中もマスクをしている。
ほとんどすっぴんだな。圭吾は、あやめの顔と無意識に比べるように見てしまう。どっちがかわいいとかそういうことではもちろんないのだが、あやめのことを連想させる要素はどんな些細なものでも彼女と繫がってしまう。トイレにいったとき、鏡でキスマークの痕を確認して、内出血の赤紫色から「あやめさんだ……」と考えが膨らんだときには、さすがにやばいだろと震えてしまった。
この痕をつけたのは、あやめさんじゃないのに。
「風つよ~」
なんの気なしに放った言葉が、三度金井くんと重なった。
「ええ……なんか俺もう怖い」
「やば。兄弟みたいやな君ら。ほんま仲ええなあ」
「いや兄弟ではないでしょ」
「ああまあそりゃそうか。兄弟やったら金井くんは敬語使わへんか。敬語ね。圭吾だけにね」
「なんすかその親父ギャグ」
「私もな、景やから。鷺坂景って名前やから。景だけにな」
「いやいや。なんにもうまくないし、よくわかりませんよ?」
「てか聞いてや。元木のことなんやけど」
鷺坂さんは愚痴をこぼしはじめた。圭吾も金井くんも愚痴を愚痴以上のものにしないからいっしょにいるのが楽だった。
金井くんは欠席していたが、昨日は「繁忙期がんばりましょう飲み会」があったのだ。
一八時頃からの飲み会には二十名ほどが参加した。最近オープンした白木造りの内装が爽やかな居酒屋だった。ホテルには若いスタッフが多く、学生の飲み会と見紛うほど席はにぎわっていた。
率先して加わろうとは思わないけど、別に苦手でもないので鷺坂さんはできるだけ飲み会に参加することにしている。この日もそうだった。誰からもなにも面倒なことを思われないよう適度なメイクをし、下ろした髪をアイロンで撫でつけ、プリーツが入った真っ青なロングスカートと買ったばかりの黒いタートルネックのセーターを合わせていた。それなりに気に入った格好で大人数のなかでただぼうっとしている時間が好きだった。隅の方でぬるくなった刺身をあてに日本酒を呑みながら同僚たちの会話に耳をそばだてる。いちばん盛り上がっているのは少し離れたあたり、元木と専務が向かい合っている席だった。最年長のふたりは日頃の欝憤を晴らすかのように話に花を咲かせていた。
「そんなのただの男女の関係のもつれだよねえ。困るよねえ。若い子の恋愛沙汰なんかに巻き込まれちゃ」
専務が半笑いでいうと、元木と、その隣の経理も半笑いで頷いた。最近起きたある事件のことを話題にしているのだった。もっとも、彼ら三人はそれが事件だと思っていないから笑うのだが。
ホテルの隣のコンビニで働いている女性店員がストーカー被害に遭ったのだ。
数か月前のある日、彼女が住んでいるマンションの郵便受けに手紙が届いた。それからというもの、どこにでもあるような茶封筒に折り畳まれた便箋が入っているものが四、五日に一回のペースで届く。どの手紙にもただひと言、「好き」と書いてある。郵便局の消印はないため、直接郵便受けに投函されたようだった。彼女は警察に通報をしたが、「ラブレターでしょ? うちが対処する案件じゃないよ」と警察官は半笑いでいった。いろんなことが嫌になった彼女は引っ越すことにした。新居では通販で買った男物の下着をベランダに干し、バイト先や学校へ行き帰りする道は必ず誰かと電話をするか、都合がつかないときは電話をしているふりをした。その甲斐あってか手紙はしばらく届かなくなったのだが、ある日バイトに向かおうと家を出たときにふと違和感を覚えた。玄関扉を触ってみると指になにかが付着した。自分の影でうまく見えず、一、二歩下がって明かりの下で見ると、まだ乾いていないインクが指に滲んでいた。スマホのライトで扉を照らすと、黒い小さな字でこう書いてあった。「裏切りやがって」よく見てみるとその文字列は、アスキーアートのように無数の「好き」という字で構成されていた。
ようやく捜査が行われることとなり、京都ニュースクエアホテルにも警官が聞き込みにきたのだった。応対した専務は警官から聞いたかいつまんだ事情をすぐにスタッフたちに広めた。ホテルのスタッフたちはよく隣のコンビニを利用するし、暇なときは店員とレジの前で軽い会話が生まれることがあった。コンビニの方にも噂好きの人間がいるのか、ストーカー被害のより詳しい情報は大方のホテルスタッフたちも把握することとなった。被害に遭った女性に、鷺坂さんはなにか声をかけたかった。特にほしいものもなかったので、ラムネをひとつ、彼女が担当しているレジに持っていって、「あの、よかったら、なんでも話してくださいね」と鷺坂さんがいうと、彼女は苦笑いした。ああ……ははっ……どうも……、と小さく、鷺坂さんの目を見ないで。
居酒屋の喧騒に混じって、ガッハハ~、と笑い声がする。
「男女の関係のもつれだよねえ」なんていえてしまう専務や元木たちに鷺坂さんはうんざりした。男と女がいて、どちらかがどちらかにまなざしを向けているだけで、それがまともでないものでもきっと彼らの頭のなかでは恋愛というものになってしまう。
引き続き聞き耳を立てていると彼らの会話は退社したばかりの山吹の話に移った。男が寿退社ってどういう了見よ。主夫だって主夫、うらやましいよね。えーそうですかあ。男のプライドってもんがないんすかね。でも、もうそんなの気にしなくていい時代なわけだからさ。
そんなの、って口ではいう癖に、自分たちはその男のプライドから出ようとはしないんだな。悪酔いしてきた。マイナスの思考が止まらなくなりそうで、鷺坂さんは圭吾がいる席を見た。
鷺坂さんのなかで圭吾はなんとなく癒しキャラになっていた。出世や恋愛なんかにギラついてなくて、他人にも興味なさそう。そのぼんやりしている感じは社内にあまりいないタイプだった。
圭吾は長机の対角の位置にいて、眠りそうになっていた。頭がかっくんかっくんとダイナミックに揺れ、テーブルの上の醬油皿に額から突っ込みそうになってはハッと目を覚まし、上体を持ち上げる。そしてまたすぐにうつらうつらするのをさっきから何度も繰り返していた。おもしろいなと鷺坂さんが頰を緩めたとき、「しぶいねえ」と声がして、向かいに元木が座ってきた。
「なに呑んでんの、日本酒?」
「あ。はい。えーとなんやっけ。忘れました」
「ケイちゃんさあ。名前のわりにほんわかしてるよねえ」
「しぶいかほんわかしてるかどっちなんですか」
「でもよくいわれるでしょ。ほんわかしてるって」
なんなんだ?
「ああ。まあ。そうかもしれないですねー」
「だよねえ。いやあいいと思うよおれは。ただねえ、」
もう少しシャキッとさあ、と元木はこのあいだフランスからの団体客の対応に鷺坂さんがしどろもどろになっていたことを注意した。それだけなら別にいいのだが、話をシームレスに繫げてこの場にいない社内の人間や、取引先の女性と鷺坂さんを対比しつつ自慢と説教じみた言葉を繰り広げはじめた。
こっちがおじさんだからって……この業界のことおれがいちばん理解してるのに……彼氏がいるかどうか聞いただけだっていうのにね、セクハラだパワハラだ……こっちはそういう時代に育って汗水垂らして働いてきたんだから……大目に見てくれないとコミュニケーションできないよ。ねえ?
あはは、と鷺坂さんは笑う。こいつ、煙たがられてるって気づかないのかな。
けれど元木は、それなりに人望があるのだった。恋人の有無や結婚の意思、芸能人のスキャンダルがどうのこうの、外国人だからあれだこれだ、そんな有り体な話題を率先して提供する元木は裏表なく気に入られるし裏表なく嫌われる。客ウケは悪くなかった。気さくなスタッフとして口コミサイトでは評判がよくて、元木のことを苦手だと感じる、ナイーブな声は表にはあまり出てこない。
あはは、と鷺坂さんはもう一度声に出した。愛想笑いはよくないっていうことも、こっちが面と向かってはなにもいわないから元木は彼なりのコミュニケーションを続けるんだっていうこともわかってる。
愛想笑いしてしまう自分に罪悪感を感じながら、元木と面と向かい合ったときの労力をあらかじめ想像して、そのなかですでに疲れていた。現状維持の方がまだまし。それではあかんってこともわかってるんやけど、めんどくさい。
はあ、と鷺坂さんは胸のうちでため息をついた。煙草を吸いに外に出たかった。元木は会話というよりほとんど独り言のように話し続けていて、中座するタイミングがわからない。
と、突然、なにかが割れるような音がした。
見ると、圭吾が醬油の皿に顔を突っ込んでいた。いっしょにひっくり返った大葉の天ぷらや刺身のつまなんかが圭吾の頭に乗っかっていて、鷺坂さんは笑いを堪えきれなかった。
他の面々は圭吾の写真を撮ったり、面倒臭そうに机周りを片づけたりしている。
どさくさに紛れて、鷺坂さんは煙草を吸いに外に出た。喫煙は店と通りのあいだのわずかなスペースでしか出来なかった。スタンド型の灰皿の前に鷺坂さんと同い年くらいの女性がいて、「寒いっすね」「飲み会ですか」など二言三言声をかけてきて、ぼちぼちと話をした。それからは無言だったが、煙草を吸っていると沈黙が苦じゃないからよかった。相手もそうなのか、吸い終わると「じゃあ」とだけいって店のなかに戻っていった。しばらく佇んでいると圭吾がやってきた。
「あ、鷺坂さん」
「おー」
「寒くないっすか」
「寒い」
圭吾は店から自分のコートを取ってきて鷺坂さんに渡した。
ぶかぶかのモッズコートは暖房のきいた店内の空気がまとわりついてあたたかく、揚げ物と煙草のにおいが染みついていた。それから、微かに香水のにおいもする。女ものだこれ、と鷺坂さんは少し気分が高まった。誰かがこのコート着て、町枝くんに抱きついたりしたんかな。他人の関係性を想像するのは楽しかった。
「あったか~」鷺坂さんはコートの表面をぼんぼん叩いた。「でもこれだときみが寒いでしょ」
圭吾は白い息を吐きながら、夜の寒さに鼻を赤くしている。
「あー。そっかあ。そっすねえ」
飲み会の席へと圭吾は再び引き返し、鷺坂さんのコートを手に取った。粗野なキャラを引き受けて笑いを取ろうとする三十代半ばのスタッフが「ひょっとして~~?」と、鷺坂さんとの関係を冗談混じりに推測して囃し立てる。わっと生まれた笑いを猫背に受け、圭吾は少し照れながら外に向かった。
チェスターコートを丁寧に腕にかけてこちらにやってくる圭吾のことを、鷺坂さんは扉のガラス越しに見ながら、かわいいな、と思った。
圭吾は上着を差し出したが、鷺坂さんが着ているものを脱ごうとしないから、手に持っている彼女のコートを羽織ってみた。
「あ。意外と俺着れるんすね」
「まあ丈長いからな。いうて怪しいで」
「でも肩パンパンっすわ」
「破らんといてな」
「あはは。あ、火ぃありますか」
圭吾は鷺坂さんがかざしたライターに顔を近づけ、煙草に火をつけた。
深く吸って煙を吐くのを何度か繰り返すと、酔っ払っているのかまだ眠いのか、圭吾はしきりに眼を擦った。
「町枝くん前髪分け目ちゃうんやな。仕事のときと」
「前からそうでしたよ?」
「うわ」と鷺坂さんは声を上げた。「おでこから血ぃ出てんで」
「え」
圭吾の額に黒いものがついていた。
コートが汚れないよう圭吾は余分に袖を捲り、骨張った手首で額を擦った。
「ああ、醬油や」
「なんや。てか町枝くん、あんまり関西弁出さへんよな。ずっと関西やっけ」
「あーはい。神戸出身なんですけど、なんでか、仕事のときとかは標準語になってしまうから、たまに関西弁が出たら照れくさいんです」
照れくさいんです、というイントネーションは関西のもので、鷺坂さんは笑った。
スーツケースを引きずる観光客に露骨に嫌な顔をされながらふたりは煙草を何本か吸い、席からグラスを持ってきて時間を潰した。
ラーメンたべたい、といったのは圭吾だった。
二次会でカラオケにいくという同僚たちと別れ、ふたりで京都の碁盤の目の通りを歩いた。にぎやかな時間から自分たちだけ外れるように往来の少ない道を選び、歩きながらコートを元に戻すとお互いの気配が色濃くなった。寂れたラーメン屋に入っても、ふたりとも上着を脱がずに着たままでいた。
狭いカウンター席だった。スープにつかないようヘアゴムで髪を括るときに肘が圭吾にぶつかり、けれどどうしてか距離を取ろうとはしなかった。背の高い椅子に座って、だらんと垂らしたふたりの手が触れた。触れたのを確かめるようにまた触れ、それを繰り返した。湿気だらけの店内で手が絡み合うのを感じながらどちらも片手で麺を口に運んだ。
お互い戸惑いながらも、相手の手が冷たくて気持ちよくて、触り続けた。
店を出たあと、鷺坂さんの家に向かった。鷺坂さんも圭吾も自分たちが家に向かっていることの高揚と緊張を確かに感じているのに、まるでこれが仕事かなにかで、なんてことない出来事なんだという空気を醸し出していた。マンションのエレベーターに乗っても、玄関のドアを開けてもその空気は消えなかった。
圭吾のマンションよりも広い2LDKの家だった。リビングの東側の壁には本棚がずらっと並んでいる。タイトルに「恋愛」と入った新書やエッセイ、恋愛モノらしい漫画や小説が多くて、圭吾は少し意外に思いながらコーヒーを啜った。
「町枝くん」
「はい」
「平気?」
「なにがですか」
「なんでも」
「うーーん」
「私は強いていえばって感じ」
「そうなんすねー」
「うん。えっと? そういうことを、私らはする?」
「いやいやいや」
「せやんな」
「ですです」
「甘いもんたべる?」
「甘いものたべます」
同じためらいを持っていることでかえって親密さが増すようだった。鷺坂さんがキッチンの戸棚を開け、オレオを持ってリビングに戻るとき、手を洗いにきた圭吾とぶつかりそうになった。
「わ」「わっ」
避けようとしたけどまたぶつかりそうになって、狭いところでなぜかぐるぐる回ってふたりで笑った。笑い声が途切れて、一瞬の間のあと鷺坂さんの方から身を寄せた。肩に手をかけて背伸びをした。背伸びだけではぎりぎり届かない。
「ちょっと。ちょっとちょっと」
「はは」
やっぱりなんでもないことみたいに鷺坂さんが振る舞うから、圭吾もそれにつきあうようにして中腰になった。バランスが崩れそうになって、「がんばれ」と鷺坂さんが笑う。いつの間にか鷺坂さんは、圭吾の首の付け根のあたりに口をつけていた。
「あはははは」
圭吾は笑い続けてみる。笑ってないとヤバそうだ。
今、あやめさんのことを考えたくない。
圭吾が膝をゆっくりと床に折ると、鷺坂さんが左側から覆い被さってきた。その体勢のまま、ふたりとも動かない。絵画のように服の襞さえも静止し、唇は圭吾の首に密着したままだった。
「どうしようか」
鷺坂さんがそうつぶやいたきり、呼吸の音に耳を澄ますような無言がしばらく続いた。
突然、圭吾が口を開いた。
「あれ、なんですか?」
なぜそんなことをいったのか、自分でも声を発してから不思議に思った。
一冊の本が、本棚と壁のあいだの暗がりから、こちらを垣間見るように顔を覗かせている。
「あれ?」
鷺坂さんはその本を取りにいった。一度体が離れると、さっきのふたりに戻るような雰囲気は薄くなった。
「ああこれ、こんなとこに落ちてたんや。なつかし」
本の埃を払いながら椅子に座る。
表紙の中では、ジーンズとパーカー姿の細身の金髪の男性が、燕尾服を着た黒髪の体格のいい男性に後ろから抱きついていた。どちらも頰を紅潮させ、目をくしゃくしゃにして涙ぐみながら笑っている。
「それ、漫画ですか?」
圭吾も椅子に座って聞く。なにも起こらなかったみたいにコーヒーはまだ熱かった。
どうもBL漫画らしくて、俺たまに読んだりしますよ、めっちゃ軽いやつですけど、と圭吾がいうと、鷺坂さんは恥ずかしくてたまらないみたいに俯いた。そしてどういうわけか早口でまくしたてた。
「そっ、その、私が描いたんよそれ。最初に作った本やねん。全然刷らへんかったからもう在庫持ってへんと思っててんけど、本棚の裏に落ちとったんやな」
勢いづいたのか、鷺坂さんは同人活動のことをかいつまんで話すのだった。
恋愛モノの漫画を描いていて、即売会や通販サイトなどに出品してある程度の収入を得ていた。美大生の頃に漫画を描きはじめ、商業誌デビューを狙って出版社に一度持ち込みをしたけれど担当がつくことはなく、断られるとそれですんなり諦めがついた。自分でもどうかと思うほどきっぱりとやめることができた。悔しさを直視したくないだけだとわかっていながらも、そのことに気づいていないふりをして、周りがそれぞれの制作に見切りをつけはじめるタイミングで鷺坂さんは就活をはじめた。不動産会社で少し働いたあと京都ニュースクエアホテルに転職した。そして、会社員としての暮らしに余裕が出てくると漫画を描きたいという欲が再燃してきたのだった。
漫画を描きたいっていう気持ちと同じくらい、承認欲求も湧き上がってきて……と鷺坂さんはつぶやいた。それで、SNSに漫画をアップすることにした。学生時代に描いていたのは高校生たちの淡い関係性の機微を中心に据えたものだったけど、SNS用によりウケやすいものを新しく描いた。ウケやすくするためにキャラクター性を強め、時間をかけずに読めるように四コマ漫画にした。本棚と壁のあいだに落ちていたのがまさにSNS用の作品だった。〈俊二〉と〈風太〉という登場人物の恋愛を描く『俺が僕で僕が俺』というシリーズ作で、ファンのあいだでは『俺僕』と略されていた。定期的にアップし、なんとか年に一回は即売会のための単行本を出すことにしている。
「会社の人には一応ないしょでお願い」
「あ、はい、へえー。それで恋愛関係の本がたくさんあるんですね? へえー。読んでみてもいいですか?」
「やめてやめて恥ずかしいって」
「えー」微笑んだまま圭吾は、「あの、聞いてもいいですか?」と声だけ真面目な感じに整えた。
「ん。なに?」
「恋愛って、今できますか?」
「今、っていうのは?」
「なんていうたらええんかな、今の時代、恋愛っていうのが、そういう目線で誰かが見るっていうのが、その人を傷つけてしまうかもしれへんじゃないですか」
鷺坂さんの脳裏には、飲み会での元木たちの笑い声と、コンビニ店員のストーカー被害のことが浮かんだ。犯人にとってはストーキングじゃなくて恋愛なんやろうな。ゾッとする一方で、妙に冷静に考えてもいた。そもそも恋愛感情なんて一方的なんやから、みんな実際ストーカー犯とそこまで違わへんのでは。
「町枝くんがいうてんのは、あのストーカーのこと?」
「それもまあ、あるんですけど、それだけじゃなくて、もっと漠然と恋愛の危なさとか、怖さ。そういうのを考えながら恋愛ってできるんかなって」
「ふぅーん。まあ、ストーカーは極端やけど、相手が恋だと思ってるものが自分にとっては暴力でしかない、みたいなことはよくあるしなあ」
圭吾に、恋愛について聞かれて鷺坂さんには楽な気持ちと少しだけさびしい気持ちが訪れた。じゃあ、自分たちのこれは町枝くんにとっては恋愛ではなさそうだ。私だって、そういうつもりではないけれど。
「違ってたらごめんやけど、町枝くんがいうてるんは、自分を押さえ込みながら恋愛するってこと? 相手を傷つけてしまわへんように?」
「あーはい。そんな感じ」
「ええー。それって恋愛なん? いや、そういう葛藤自体がすでに恋愛なんか? まあそうか。相手のことが好きやからこそ臆病になってしまうもんな。それか、ただ自分が傷つきたくないだけなのかもしれんけど」
「俺、恋愛ってなんなんかなって最近よく考えてて。まだうまくいえないんですけど」
鷺坂さんはフォローするつもりで「思春期みたいやなあ」といいながら、さっきの私の行動は町枝くんにとってどうやったんかな、と不安になってきた。その不安を隠すように、「まさか町枝くんと恋バナするとは考えてもみんかったわ」と粗野な感じで笑ってみた。
「高校生のときとかは、今から振り返ると全然恋愛じゃない恋愛してたなあ。恋愛っていうノリに乗りたいだけ。恋に恋してた。みんながやってることを私もしてみたかった。好きな人は見つかったけど、結局自分のことだけに夢中で、相手のことなんかほんまはなんにも考えてなかった。それを楽しいって感じてた。それってすごい歪なことやし、周りの人のことも傷つけてたと思う。でもその時のことを思い出すと、なんでか私はうれしくなる」
「うれしい?」
「だって大人になってしまった私は、なにかに夢中になったりあんまりできひんから。打算ってわけじゃないけど、恋するにしてもなにするにしても、自分のことを俯瞰で見てしまう」
「ああ、それは、俺もわかります。なにするにしても自分のことを他人みたいに見てしまって。だから俺はちょっと、自分の欲とかうまくわからなくて」
「さびしそう」
「さびしいっすねー」
「さびしいと疲れてしまうよなあ。疲れてしまうから、崖から飛び降りるみたいに自分をなにかに委ねてしまいたいって、そんな気分にときどきなってしまう」
無言がしばらく続いて、ぼんやりとコーヒーを注ぎ合った。ちょっとメール返していい? はい。圭吾もスマートフォンを見て、パズルゲームのアプリを開いてはすぐ閉じたり、メッセージの通知を確認したりした。あやめからはきてなくて、でも、さっきまで感じていた疾しさは消えていてホッとした。
すると突然、鷺坂さんが両手で机を叩いて、酔っ払いのような大きな声で身を乗り出しながらいった。
「私は漫画描いてんねんけどぉ!」
「知ってます、さっき聞きました」
「二〇一九年に創作してる人間として、しかも恋愛コンテンツを作ってる者としてけっこう考えてんねん。『恋愛』っていう言葉を取り巻く空気を。『男らしさ』とか『女らしさ』っていうのがあるやん世の中には。そういうの大好きな人いっぱいおるやんか。そんで恋愛モノのドラマとかで、男女間のズレがロマンチックなものとして描かれたりするやんか。ほんまは全然ロマンチックなんかじゃないのに、ただ男と女の力のアンバランスさがそこにあるだけやのに。唐突な話に聞こえるかもしれんけど、だから私はBLを描いてるんかもしれへんって思うねん。同性間やとそのあたりがまだフラットやから。最終的にふたりはふたりとして対等でいてくれるから。私はたぶん、対等な関係への飢えで創作をしてる。自分ではそう思ってる。でもな、これは『恋愛モノ』なんやって、そういうジャンルなんやって割り切ってるから描けてる部分もあるねんな。葛藤がある。葛藤なしではやっていかれへん」
言い終わると鷺坂さんは長いため息を吐いて、机に顔を突っ伏した。それからガバッと起き上がって圭吾を見た。
「エロいことする雰囲気じゃなくなってしもたな」
なにかを振り切るような明るい口調だった。
そうっすねー、と圭吾は同意した。煙草を吸いたくなったけれど自分のは切れていて、買い溜めているという鷺坂さんからメンソールを箱ごともらってベランダで吸わせてもらった。トイレにでもいったのか鷺坂さんの姿が見えなくなった隙に、うわーーー、とベランダにしゃがみ込み、俯いて脱力した。鷺坂さんとそういう関係にならなくてよかった……。あやめさん、あやめさん、ごめん、俺、これからちゃんとする……と心のなかで独りよがりに謝り続けた。そのあと圭吾は話を聞いてもらったお礼を伝えると、笑顔で鷺坂さんの家を出た。鷺坂さんも笑って見送った。
飲み会での顚末を鷺坂さんが話し終わるころには、屋上に雪が降りはじめていた。アスファルトにぽつぽつと染みができていく。鷺坂さんは制服の上に着ているダウンジャケットのジッパーを引き上げて煙草に火を点けた。
煙を吐きながら手を膝のあたりに下ろすと、細かい雪が煙草にあたって紙の色を滲ませた。iPhoneが震えて確認すると、圭吾からメッセージがきていた。
「金井くんにキスマークばれてます」
鷺坂さんは呆れたような顔を圭吾に向けた。
なんで今送ってくるねん……!
あほ! と鷺坂さんは返した。
圭吾にはその意味がわからず、鷺坂さんを見ながら、手を顎の下に当てて考え込むような仕草をした。メッセージアプリの鷺坂さんのアイコンは正面を向いた灰色の猛々しい狼で、その猛々しさとのギャップで余計に圭吾は首をひねった。
なんだ?
と、ふたりの目線のやりとりを見た金井くんがなにかいいかけたが、屋上の扉が開いて、バイトの青木さんが現れた。彼女は芸大に通う学生で、入れ替わりが激しいバイトさんのなかでも古参の方だ。
「金井さん、アメニティの納品の件で電話きてますよ」
「あ、ほんと。すぐいくね」
「さきちゃん髪切った? めっちゃかわいい!」
鷺坂さんの言葉に、青木さんは顔を赤くした。
「ええ……ほんまですか? めっちゃうれしいです」
照れたように髪を触る青木さんは、階段を走ってきたのか息を切らしている。
「師匠、これよかったら」
圭吾は青木さんのそばまで駆けつけ、ペットボトルのお茶をうやうやしく差し出した。
「悪いな」
青木さんは圭吾が自らに尽くすのがさも当たり前であるかのように、八割方残っていたペットボトルのお茶を一気に飲み干しにかかる。
「師匠はどんな髪型でも似合うなあ」
圭吾は、仁王立ちで腰に手をあてながらお茶を飲む青木さんに向かって感心したようにつぶやいた。
「当たり前やろ?」
と青木さん。
「師匠さすがっすね」
「お腹空いた」
「米たべます? おにぎり一個余ってますけど」
「いらん。わらび餅たべたい気分やねん。わらび餅持ってる?」
「わらび餅はさすがに持ってないっすね」
「なんでやねん」
青木さんはじゃれ合うみたいに、ペットボトルで軽く圭吾をはたく。
「ちょっと~」
圭吾と青木さんは妙なノリを発揮していた。
青木さんは今年二一歳になる。顔立ちが幼くて背も低いから、圭吾と並ぶとでこぼこ感が一層際立つ。
ふたりのやりとりに鷺坂さんと金井くんはくすくすと笑い声を立てていた。
「毎回思うけど、町枝くんがさきちゃんのこと『師匠』って呼ぶのウケるよね」
「だって、師匠は人生の師匠ですから」
「なんだっけ、町枝さんと青木さん学校が同じやったんですっけ」
金井くんが聞くと、圭吾はうれしそうに、そうそう、といった。
「俺が中一のときに師匠が小四で転校してきたんだよ。小中一貫の学校でさ、当時、度胸試しが流行ってたんだ。使われてない旧校舎の階段が踊り場がなくて下階から上階まで一直線になってて、その長い階段のどこから飛び降りることができるかっていう。俺はいつも日和って中途半端なところからしか飛べないんだけど、師匠は転校してきて早々、いちばん上の段から飛んだんだ。だから俺にとって青木沙紀は師匠なんだ」
「いやいや、こたえになってないっすよ」
「俺は中二で転校しちゃったけどさ、その後も師匠のことは噂で聞いてて、中学生でひとり暮らしはじめたとか、地元のヤンキー従えてるとか、やたらと動物に好かれちゃうとかさ。師匠の話聞く度に俺、すげー、って思ってて。だからびっくりしたよ、まさか就職した会社に師匠がバイトとして入ってくるなんて」
「へえ~。なんか、独特っすよね。ふたりの感じ」
「俺が勝手に師匠って呼んでるだけだけどね。でもまあ、師匠もまんざらでもないですよね?」
「うるさ。てか、金井さん、電話」
「あ、やべ」
金井くんと青木さんが屋上からいなくなると、鷺坂さんは圭吾にコンシーラーを塗り直してあげた。塗り直したことも、あとでしっかり金井くんにバレた。
圭吾はこの日、金井くんに告白された。
3 二〇一九年三月
昼休みが終わると、圭吾と金井くんはチェックインがはじまる午後三時まで男性用浴室の清掃を行った。各部屋の清掃は専門の業者に任せているが、それ以外の浴室やラウンジはスタッフが交代で担当している。
「雪、夕方には止みそうですって。雨じゃなくてまだよかったっすね」
「そうだねー」
ゴム長靴を履いてシャツの袖を捲し上げ、大浴場のお湯の塩素濃度をチェックしたり、水面を網で掬ったり。淡々とした作業を続けていると妙に落ち着いた。隣にいるのが気心の知れた金井くんだというのもある。金井くんとは物の見方が近いんだよな、と圭吾は日頃から思っていた。
ふたりは今夜、仕事終わりに焚き火しにいく約束をしていた。
入社してすぐの同期飲み会で「趣味ですか。えーなんだろう。キャンプとか釣りとか? たまに、年一くらいですけどやるっすね」とぼそぼそ話した圭吾に対して「マジっすか自分もですよ今度いっしょにいきましょうよ釣りとかキャンプとか」と金井くんが食い気味にこたえて以来、定期的にふたりでアウトドアをする仲だった。
圭吾に合わせるために噓をついた金井くんも、実際に出かけるうちにだんだんと好きになってきた。自然のなかでの静かな時間のことも、初対面で顔がどストライクだった圭吾の顔以外のところも。
浴室と脱衣所の掃除を終えると、ふたりはラウンジのある一二階に向かった。休憩室に面したベランダがスタッフ用の喫煙所になっている。金井くんは煙草のにおいが苦手だけど、圭吾が吸うからいっしょにベランダに出た。風はまだ強かったが、昼頃に降りはじめた細雪は予報よりも早く止んでいた。空の重たさを際立たせるように雲の輪郭は白く輝いていて、今にも切れ目が出来て陽が差してきそうだった。
「風って」と金井くんがいった。「僕らにぶつかってくるこの風も誰かに触れてきた風なんですよね。その誰かは、今はもう死んだ人かもしれない。でも、僕らがその風に今、触れてるってことは、その人の一部はまだ残ってて、生きてるんかも」
金井くんはときどき、よくわからないことをいう。ロマンチックだ。圭吾は返事の代わりに親しみを込めた笑みを作った。
ところでくだらない雑談なんですけど、と金井くんは、今日家から駅まで歩いてるとき、猫だと思って近づいたら水たまりに反射した光だったという話をした。「ありえへん見間違いがなんか悔しかったからしばらくその場にしゃがみ込んで、透明な猫がそこにいるみたいに水たまりの上の方を撫でてたんすよ」「あー、あるよね。そういうの」俺もなんでもかんでもあやめさんを感じちゃって……と胸のうちで思いながら圭吾は、「そういえばこの前さあ」とユーチューブで見た動画の話なんかをする。喋りながら空を眺めていると、曇り空が割れて光の柱が圭吾の体に降りかかってきた。
「え。うおー。燃えてるみたい」
「まぶしい。発光してる。えーまぶしいっすわ」
煙草の煙も白光りしていて、金井くんは男子高校生みたいにテンションが上がってしまう。気分の高揚にかこつけるかのように、好きだ~、と思うのだった。
なにかが叩かれる音がして、振り返るとベランダの窓を青木さんがノックしていた。
「あ、師匠。お疲れ様です」
「お疲れ。ちょっといい?」
「ん? はい」
「おまえもうすぐ誕生日やろ」
「え! 俺になんかくれるんすか!?」
圭吾が意気揚々と室内に戻っていくなか、町枝さんと青木さんって仲いいよな、と金井くんは、ひとりベランダに残った。青木さんがんばれ! とさえ思い、ガラス越しの青木さんに向かって、握った両手を胸の前で掲げた。青木さんはきょとんとして首を傾げていたけど、金井くんは青木さんが微笑んでいるような気がしてうれしくなる。なにやってんだ僕、という自嘲の気持ちも金井くんの笑顔には混ざっていた。自分の欲よりも、仲のいい人のしあわせの方がうれしいと思ってしまう。
「シフト被ってるの今日しかないから、これやるわ」
青木さんは、手のひらより少し大きい直方体の箱を圭吾に渡した。まぶしいくらい黄色の包装紙で包まれていた。
「うおー、なんすかこれ、開けていいっすか?」
「うん。いや、どうしよ、やっぱり開けるな! あとで開けろや。誕生日の日にでも。日にでもっていうか、当日に」
「わかりました。そうしますね」
「いや、別に今でもええけど」
「あはは。どっちなんすか」
「ん~やっぱりあとで!」
「そっすか。てか最近あんま飲みにいけてないっすね」
「せやな。まあ近々いこうや?」
ふたりが談笑するのを金井くんはベランダから見ていた。寒いし、あんまり見るのも悪いし、てか気まずいし。金井くんは、圭吾がベランダに置いていった煙草の箱から一本を取り出した。咥えて火を点けると盛大に咽せた。
大丈夫? と休憩室から圭吾が口パクで聞いてきたので、大丈夫、と金井くんは涙目になりながら笑って示す。メンソールきっつ、と金井くんは思う。町枝さんってメンソール吸ってたっけ? 記憶を辿ってみると、さっき昼休みの屋上でも圭吾はこの煙草を吸っていた。圭吾がそれを吸っているのを金井くんは今日はじめて見た。てか、あれ? あれ? 鷺坂さんも屋上で同じやつ吸ってなかった? えーそういうことなんかなあ、と金井くんは勘ぐりたくなる。鷺坂さんが別のを吸ってたらよかったのに。そしたら、僕の体のなかに溜まるこのにおいは、僕にとっては町枝さんだけのにおいになるのに。
今日はふたりとも午前七時からの朝番なので、一六時には退社できた。
会社を出ると、圭吾と金井くんはホテルからしばらく歩いたところにあるカーシェアリング用の駐車場に向かい、藍色の軽自動車を借りた。圭吾の運転で、市内の山中にあるキャンプ場に向かうのだった。冬用タイヤじゃなかったからおそるおそる山に入った。山間の道を川に沿って進むと陽が沈み、ヘッドライトが背の高い擁壁や木々の腹を照らす。圭吾は運転しながら傾斜の重力に身を任せるばかりで、景色には特になにも感じない。一方の金井くんはうおっ、すげ……といちいち感嘆している。
「ライトが当たるじゃないですか。たとえば、目の前の道と、ガードレールと、木々と、枝に残った雪。光が当たったことでその部分を僕らは知るわけじゃないですか。曲がり道の度に光が当たる部分が変わる。光る範囲が変わる度に認識が変わる。認識が作られてく。すごくないですか?」
圭吾は金井くんの話のぜんぶを理解しているわけでもないけれど、金井くんが金井くんなりのよろこびを自分に伝えようとしてくれていることがうれしかった。
一時間ほどでキャンプ場に着いた。日帰りプランが適用される時間はもう過ぎていたから、焚き木用の薪だけ受付で購入して一泊プランの料金で入場した。車を停めると、薪を川のそばまで運んだ。腰に提げた懐中電灯の光が、歩くリズムと、重たい薪を持つ手の不自由さと共に揺れる。丸い光が足元の砂利ばかりうつす。同じに見えてそれぞれ違う。こういうのも、金井くんはおもしろい? 圭吾が隣を見ると、金井くんは空を見上げていた。星をじっと見ているようだったから、ライトを消した。圭吾が空を見上げると、金井くんは一瞬、圭吾の横顔と喉仏を網膜に焼きつけるように彼の方を見て、また空に目を戻した。ふたりの輪郭が夜に暗く浮かんでいた。オリオン座を指さして、星の名前を呼んでいく。その度に手が近づいていった。
摑みたい、と金井くんは思う。触れたい。
「俺たちが今ここで死んでも、何百年とか、何億年かけて、俺たちがここにいることの光があの星たちへと届く。それはもう、俺らが俺らとしてその時間ずっと生き続けてるってことだよなあ」
どこか浮わついた圭吾の声に、金井くんはギョッとした。まるで自分がいいそうなことだったから。
鼓動が速くなっていく。無言で薪を組み、火を熾しても収まらない。落ち着くよりもむしろ、音を立てて爆ぜる火と共に、なにかが燃え上がっていく。
火を挟んで向かい合わせに座った。金井くんはじっと自分を抑えるようにして、炎越しに圭吾を見つめる。圭吾は金井くんの視線に気づかずに、焚き火だけを見ていた。集中しているのか、それとも虚ろなのか、瞳には火の色が映って揺らめき続けた。
この人は危なっかしい、と金井くんは心の冷静な部分で思う。放っておくと、ひとりでどこかにいってしまいそうだ。その場面で隣にいるのが自分だとは思えない。町枝さんの「俺たち」っていう言葉のなかに、ほんまに僕のことは含まれてたんやろうか。想像上の不安に呑まれそうになって、必死でさっきまでの得体の知れない高揚感を思い出す。この暴走気味の情緒も恋の一部なんだって錯覚したくなる。ぜんぶの感情を、圭吾への好きの気持ちをブーストさせる起爆剤みたいに利用したくなる。自分自身に集中したい。脇目も振らずあんたに好きだと伝えたい。
火を見ているあいだ、何度も喉から言葉が出かかってはつっかえた。喉仏がうねる。もどかしさが時間を加速させ、気がついたら何時間も経っていた。
「わ」と圭吾がいった。「こんな時間じゃん。帰ろう」
キャンプ場の消灯時間が迫っていた。圭吾が火を消すと、遠くの外灯と、薄い雲越しの月明かりだけになり、ふたりの輪郭が溶け合いそうだった。
「受付でテントも借りられますよ」
「え?」
「だから、泊まることもできるんですよ」
「いやいや。金井くん明日朝勤じゃん」
圭吾は笑いながら、金井くんに向けて懐中電灯の明かりを点けた。
まぶしい光のなかで、まだ押せる、と金井くんは思った。泊まろうや! といいたい気持ちが湧いてきて、少しだけわくわくした。自分にはできないだろうってわかってるからこそ余裕があって、胸が締めつけられてるのを直視しないでいることができた。
「めんどくせ~~!」金井くんは声を張る。「まじめんどくせ~な」
冷えた燃え殻を処分して、ふたりはキャンプ場を出た。
帰りの道中、助手席に深くもたれて窓の外を見ながら金井くんがいった。
「そういえば最近なんか、鷺坂さん色っぽくないですか?」
「え? へえー。そうなんだ?」
金井くんの質問の意図を図りかねて、とりあえず圭吾はそうこたえた。女性の話を金井くんとほとんどしたことがなかった。男だけでいるときに異性の話をしてもろくなことにならない。飲み会で元木たちが見せていたような、ホモソーシャルなノリが苦手だった。
そんな意図は金井くんにはなかったのだが、もしかして何か勘違いされてる? と圭吾の半端な返事から察し、「いや、なんでもないです。ただ、なんかいいことあったのかなあって」といった。窓に自分の顔が反射していた。僕は自嘲気味に鷺坂さんの話をして自分に酔ってるんや。むかつく顔。僕は町枝さんになにを伝えたいんや? 嫉妬の気持ちが出ないようにしようと意識すると、「鷺坂さん最近仕事も絶好調やし。すごいなあって」と褒め言葉しか出てこなくて、なんで僕は鷺坂さんの株をあげてるんや、と金井くんは失笑した。
窓ガラスに映る自分の表情を見て金井くんはますます虚しくなり、体ごと向きを変えた。すると目の前に圭吾の横顔があって、鼓動がさらに速くなる。
隣に座ってるんやから、当たり前やん。金井くんは汗ばんだ顔を赤くする。
圭吾の首にはまだあの痕が残っていた。いつの間にかコンシーラーが取れ、今朝よりも色濃く。金井くんは吸い込まれるようにそこばかり見てしまう。
なんでオレじゃないわけ、と金井くんは思い、見つめるうちに、顔を近づけていた。
唇よりも先に鼻が圭吾の頰に触れ、激しい揺れと共に車が止まった。
「なんだよ。危ないだろ」いいながら、圭吾は車を路肩に寄せる。
「冗談っすよ」
「なに?」
金井くんは舌打ちをした。冗談なんかとちゃうわ、と呟いた。
「だからなにが」
「なんでわからへんねん。好きやねん。オレはあんたのこと好きやねん」
「え」
「え。じゃなくて」
「そうなんだ」
「そうだよ。でもあんたやからや。こんなこといわせんなや。恥ずい」
「そうかあ。金井くんがオレっていうのはじめて聞いた」
「どうでもええやろそこ」
圭吾は笑って、金井くんも笑った。
今時ちゃんと告白するなんて金井くんはすごいな、と圭吾は妙に冷静に考えた。
妙に冷静にうれしかったし、尊敬の気持ちみたいなのも出てきたし、同時に、金井くんはゲイだったのか、と思う自分を俯瞰して見ていた。いや、バイセクシュアルかもしれない。驚いているというより、現状を認識しようと頭を働かしていて、そのことに罪悪感のようなものがあった。俺は今、金井くんを傷つけない方法を考えようとしている。それはきっと俺がマジョリティであるってことと無関係じゃない。頭で考えるまでもなく自然に他人を尊重できる俺であればよかった。自分のなかで考えれば考えるほど、独りよがりになりそうだった。それが尊重という態度でも、いやむしろ、そうであるからこその危うい上から目線だ。他人がどう思うかなんて関係なく、金井くんは金井くんだ。だから、言葉が内面にまみれないうちに声に出してみた。
「金井くんはゲイなんだ?」
「そういってるやん。だから、でも、」
「俺だからなんだね」
「うん」
金井くんは気持ちを言葉にしたことで、どっと疲れていくのを感じていた。そして、心のつっかえが取れたみたいにすっきりしていたし、焦ってもいた。好きと伝えるまで心のどこかにあった、圭吾がモテがちなことへのなにか余裕のようなものも一気に吹っ飛んだ。こんなに緊張するのはいつぶりだろう。
圭吾も緊張していた。好きだなんてはっきり言葉で伝えられたら、俺もはっきりした返事をする必要がある。自分が今から発する言葉でふたりの関係が変わっていくかもしれない。そのことに胃が痛くなっていく。
好意を寄せられるのが苦手だ。うれしさはもちろんある。ただ、相手の気持ちが寄りかかってくると、なにかを背負わされているように感じてしまう。向けてくれた好意をそんな風に思うなんて、自分が嫌になってくる。それに俺には、
「好きな人がいるんだ」
「あっ……、あ~。はい。はいはいはいはい……」
金井くんはこの結果を予測してないわけではなかったけど、つい涙目になってしまう。それを相手に見せたくなくて、笑ってみる。さっきから笑ってばかりだ。痛々しいな、と自分で思うと、瞳から涙が溢れて、拭いながらもっと笑顔を作ってみる。涙が止まらなくて、目のあたりを手のひらで覆った。
「ごめんね」
「あやまらんでいいです」
「ごめん」
「町枝さんの好きな人って、僕の知ってる人ですか?」
「いや、知らないと思う」
「あれ? 鷺坂さんではない?」煙草とかキスマークは? とまで聞くのは、怖いからやめておいた。
「あー。鷺坂さんじゃないね」
「え、じゃあまさか青木さん?」
「ちがうちがう。だから金井くんの知らない人だって。師匠とは本当にそういうんじゃない。あの子は大胆なことして孤立しちゃいがちだから、俺はなんていうか、できるだけ見守っていたいんだ」
「あー、そっすか」
金井くんは、こんな話がしたいわけじゃないのに、と思いながらも言葉を続けた。
「知ってると思うっすけど、馬鹿にされてますよ? 町枝さんが青木さんのこと『師匠』って呼んでるの、上の人たちに」
「ああ……。無理にでも慕っていかないと師匠は気を許さないから」
「へえ。でもそれって、町枝さんにしてはなんか強引なコミュニケーションじゃないですか?」
「そうかな? でも俺見てたから。小学四年生の女の子が、ナメられないよう階段から飛び降りて、泣くのを必死で我慢してたのを。あのころの俺はなんにもできなかったけどさ、大人になった今なら、せめて見守ってあげられるかなって」
はっ、と金井くんは笑った。
金井くんは暴れ回りたいような気分だった。圭吾に好きな人がいることもだし、恋愛とは関係なく大事な人がいるということも悔しくてたまらなかった。
それってめっちゃ自己満足の偽善じゃないですか。いい奴ってむかつきますよね。そんなことをいってやろうか。そうやって善良ぶっちゃう町枝さんのことを嫌ってる人けっこういるんですよ、って。
好きやのに、なんでなんやろう。
意地悪な気持ちが浮かんでくる自分が嫌になって、金井くんは打ち消すように言葉を続ける。
「へえ。そっかあ。そっか。好きな人はもういるわけか。ふうん。まあ、ノンケの人に告白した時点で観念してたけど」
開き直っていいながら金井くんは考えていた。でも、なんていうか、町枝さんってそこまでノンケでもなくない? まあ女が好きなんやろうけど、男が絶対無理ってわけでもなさそうよな。
車を発進させながら、「またこようよ」と圭吾はいった。
そんなん生殺しやん、と苦笑いしながら金井くんは、「そっすね~。またきましょう。会社でも全然ふつうに、オレ ふつうにやっていきますし。むしろ今日のことでオレら前より仲良くなったんでは。あはは」
まあいいか、と金井くんは思った。精一杯そう思った。自分を少しでも楽にするために。
人生長いんやし、いつか町枝さんが僕に振り向くかもしれへんもんな、と強がった。
東山区のマンションまで金井くんを送り届けると、圭吾はコンビニで食料品の買い足しをしてから帰路に就いた。行きに利用したのと同じパーキングに車を停め、冬の夜中の空の下を十分ほど歩いた。自宅までの道中に京都ニュースクエアホテルがあって、誰か仲のいいスタッフでもいるだろうかとなかを覗いてみるが反応はなく、通りを西に歩いて二条城前の広場に向かった。夜遅くでもちらほらとランナーがいた。足音が近づいてくる度に圭吾はそちらに顔を向けた。ランナーたちはギョッとして距離を取る。こんな時間に人がただ立ち尽くしているのは、シンプルに怖いだろう。
あやめさんいないかな、あやめさんが走ってたりしないかな、と圭吾は祈るような気持ちでいた。明日いっしょに走る約束をしていたけど、今この瞬間あやめさんに会えたらどれほどうれしいだろう。偶然会うことができたらきっと、運命だって思ってしまう。あやめさんと出会ってから彼女の存在が、まるで自分の心臓の鼓動になったみたいに胸のなかで灯り続けてる。
人恋しくなっていた。金井くんとの親密な雰囲気や断ってしまった罪悪感、まだ圭吾にはうまく言葉にできない感情が混ざり合って、ひとつひとつ整理することもできずに、ただそのエネルギーの大きさに興奮していた。
金井くんが俺に向けてきた「恋愛」は、輝いてた。いいなあ。俺も光りたい。恋愛がしたい。俺は、一方的に好きだって思ってるだけじゃなくて、あやめさんと恋愛したい。
一時間ほど立っていると、体が芯まで冷えてきた。ランナーがやってくる度に彼女ではないかと確かめたけど、そんなわけはなかったし、体と連動するように気持ちも冷静になってきて、俺はなにしてんだ、と自嘲気味に笑った。
二条城から家までは歩いて数分の距離で、家に帰って風呂にお湯を溜めているあいだベッドに横になると、疲労感で起き上がることができなかった。今日は疲れたな。金井くんをフッたことで普段はそれほど意識しない自己肯定感が極端に下がっていた。仕方ないとはいえ友だちにあんな表情させてさ、なんなんだ俺。
俺なんか、俺なんか……と思えば思うほど自分の存在理由があやめさんへの好きの気持ちだけになって、どうしようもなくなってくる。他人から好意を向けられるのが苦手なのに、俺は、あやめさんへの好きは止められないんだもんな。この好きがもっと暴走して、怖いことになったらどうしよう。ストーカーとか俺はしないけど絶っっっっ対にしないけど、他人事だとは言い切れない。好きの気持ちを持ってるせいで変になっちゃって、あやめさんとの距離がおかしくなるのが怖いんだ。
衣類やペットボトルなんかが雑然と散らばった部屋に通知音が響き、圭吾はびくっと体を震わせた。スマートフォンを見るとあやめから「ごめん明日のランニングいけなくなっちゃった」とメッセージがきていた。どうして? と聞くのは躊躇われた。がっかりする気持ちのなかに、メッセージがきたというだけでうれしい気持ちがあって、そのうれしさだけを見つめたい。「りょうかーい」と送って、ほがらかにタヌキが笑っているスタンプをチャット画面に投下する。もう四日も会っていなかった。たった四日、と思うことができない。くぅ、ぅぅ。枕に顔を埋めて呻く。そうやってじたじたとベッドの上で悶えながら、圭吾はあやめと出会った頃を思い出していた。
4 二〇一八年十月
昨年の秋、圭吾は勤務先である京都ニュースクエアホテルの近くに引っ越してきた。夜勤明けにとにかく早く帰って眠りたかったのだ。新居となるマンションは二条城のそばにあり、六階の部屋のベランダからは城の周囲を走るランナーの姿が見えた。休みの日にはベランダに椅子を出して、人が走るのをぼーっと眺めているとリラックスできた。
ある日、俺もやってみるかと走ってみるとすぐに苦しくなった。息が切れ、運動不足の体の節々が痛んだが、それがよかった。痛みにどこか安心する自分がいた。
ちょうどその頃、高校のクラスの同窓会で元カノと会って、「町枝は変わんないね、やさしいね」といわれたのだった。俺のどこがやさしいわけ? 高校生だった当時も、今も、変わらず思うのだった。俺は、なんにもしないだけだ、欲の出し方とか、自分の欲がどこにあるのか自分でもうまくわからない。ただがっついてないだけだ。がっつけないのかもしれない。それだけではじめは「いい人だね」「やさしいね」なんていわれて告白されて、でもつきあってみると彼女には俺は物足りないらしい。俺だって、俺なんてつまんないよ。でもどうしたらいいかわからない。
走ると自己破壊的な気持ちになって、心にも体にも苦しさはよく染みて気持ちよかった。俺は人から好意を持たれるような人間じゃない。内側から自分を刺すような気分になって、他のランナーたちが軽く流すように走っているなか、危険を察知した動物みたいに全力疾走した。
ランニングをはじめて少し経った頃。そのときも圭吾は苦しくなるほどスピードを上げて走っていた。しんどさに夢中になってなにも考えずにいたい、そんなことを願いながら駆けていると足がもつれてずっこけた。ナイロンのズボンが転んだ拍子に破れて膝を擦り剝いていた。生々しい血の色が光り輝き、砂利がいくつもめりこんでいる。頰に触れてみると、毛筆でも走らせたような細かい線が皮膚を抉っているのがわかった。
仰向けになってしばらくその場に倒れていた。痛みで体をうまく動かせない。呻いていると、まるでそこに心臓が移動したみたいに怪我をした場所からばくばくと脈打つ鼓動を感じた。なんか、生きてるって感じがする……。消えたい気持ちよりも、怪我の痛みの方がましなくらいだった。このままずっとここでこうしてようかな。あー、とだらしなくつぶやくと突如疲労感がやってきて、なんだか眠くなってきた。目を閉じてうつらうつらしていると、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですー」
圭吾は目を閉じたまま、心配してくれた女性の声に返事をした。
「大丈夫じゃないですよね」
なぜかうれしそうな声だった。
「放っといてください。俺はこれでいいんで」
でも、という言葉とともに頰のあたりに激痛が走った。驚きのあまり「フャン!」と犬でも鳴くような叫びと共にまぶたを開けると、こちらを見下ろす女性の姿が目に飛び込んできた。
彼女はすぐそばにしゃがみ込み、目が合うと「あ、起きた」と笑った。
めっちゃ顔近い……。圭吾は痛みを忘れ、ちゃんと心臓が胸の位置で脈打っているのを感じた。ひっつめで、おでこのかたち、こういうのなんていうんだっけ、ああ、富士額だ。目ぇおっきいな。一瞬見惚れてしまって、気まずくて目を逸らすけど、距離が近すぎてどうしても彼女の顔が視界に入ってしまう。わざと「いって~~~」と呻いて寝返りでも打つように横を向き、さっきひょっとして俺の傷口に指をめり込ませてきた? と圭吾は戸惑っていた。
「げ!」
と彼女はいった。いったいなにが、と圭吾は緊張する。
「すいません! 怪我してるなあって思ってたらつい触っちゃって。起きれますか?」
「起きれます。起きます」
ついってなんだ。疑問を抱きつつ起き上がろうとしたが、痛みで足に力が入らずそのまま苦悶の表情になる。
「ほら、つかまって」
差し出された手を摑むと、他人の体なのに自分と同じ温度で驚いた。
「引っ張り上げますよ。せーの」
「いたっ、いたたたた……うう。あああ」
変に気を遣って笑顔を作ろうとした。起き上がると片足でけんけんをして道路脇のベンチに向かった。彼女が肩を貸してくれようとしたから、おそるおそる手を乗せようとして、おそるおそる止めた。
ベンチに腰掛けると大きなため息をつき、隣に座った女性に頭を下げた。
「ほんとすいません。ありがとうございます」
「いやいや。全然全然。びっくりしちゃいました。走ってて、誰かに追い抜かれたと思ったらその人ずっこけるから。あの、痛いですよね。私コンビニで消毒液と絆創膏買ってきますね」
「いやそんなそんな」
「いいから。ここでじっとしててください」
圭吾は待ちながら、すごい、やさしい人だ、とまだ名前も知らない女性の気遣いに感動していた。それと同時に、自分のことを警戒する。深い交流もなしに「いい人」とか「やさしい人」ってみなしちゃうことに自分は苛ついていたはずなのに。傷の痛みで自意識が膨らむようで、うなだれてだらだらと汗を搔きながら彼女が戻ってくるのを待った。何分経ったのか彼女の声が聞こえるとバッと顔を上げ、目のあたりを手で擦った。なんで俺、泣いてんだ。え、大丈夫ですか、といってくれた彼女の声をかき消すように圭吾は「あーありがとうございますー!」大袈裟な声と身振りでコンビニの袋を受け取り、包装を剝がすと膝にばしゃばしゃと消毒液をかけた。
「~~~~っ」
悶絶しながらも明るさを装ったけど、徐々に苦々しい顔になっていく。そのことに圭吾は、自分を見る彼女の表情に憐みのようなものが浮かんだのを見て気づいた。
「うわわわ、すみません……」
「消毒液貸してください。ほっぺたは私が拭いちゃいますね」
「いやいや、それはいいです大丈夫です」
初対面の女の人に頰を消毒されるところを想像すると、なんか看護を超えてキャバクラというか、そういう男女間の奉仕とかプレイみたいにも思えて、その構図、グロテスクだな……。本当はただ怪我への対応が発生してるだけなのにそんな風に考えて圭吾は、「いいですいいです!」と大事なものでも守るように消毒液を握りしめた。
「は? なんでですか私が消毒しますよ貸してください」
彼女は圭吾の手からはみ出た消毒液の青い蓋部分を指でぎゅううっとつかんで引き抜こうとした。「大丈夫ですよ俺がやります」「大丈夫じゃないでしょ怪我人は大人しくしててください」「いやほんとに。なんでそんな意地張るんです」「別にいいでしょ……」なんて揉み合っていると「あれ?」と圭吾はすっとんきょうな声を出した。気がつけば手が触れ合っている。消毒よりこっちの方がなんかあれだろ。でもいまさら手を離す気にもなれなくて、とはいえ急に恥ずかしさも湧いて動きがしおらしくなる。向こうも意識したのか、拗ねたような顔をしながらしずしずと手を動かして、お互い無言になってゆるい引っ張り合いを繰り返した。なんだこれ? やがて彼女は吹き出すのを堪えるような表情になって、先に笑い声を漏らしたのは圭吾の方だった。つられて彼女も顔をほころばせる。
うは。はははははは、ってふたりの声が混ざり合って不思議なあたたかさを圭吾が感じていると、「もらったーー!」と彼女が消毒液をつかんで誇らしげに天に掲げた。
「あーーっ」
「もうだめですこれは私のもんです」
結局こうなってしまった。圭吾は汗をかきながらも勝負(?)に負けたのでいさぎよく従うことにした。
彼女は圭吾の頰の傷を凝視しながら、めりこんだ細かな砂利をティッシュを使ってこそぎ落とし、消毒液を含ませて焼き印でもつけるかのようにじゅううっと押し当てた。
液が染みて圭吾は歯を食いしばる。痛みで波打つ鼓動に混ざり合っていくこのどきどきは、なんなんだろう。いやいや、と圭吾は思う。いやいやいやいや。
「い! いい天気ですね!」
動揺を隠すみたいにいってみる。
「夜なのにいい天気っていうかなあ」
「だってほら星が……星が、ぜんぜん見えないですね」
「あはは。見えない。まあ雲の上は星だらけですよ」
「すごい!」
「なんだそのリアクション。このあたりよく走られるんです?」
「最近ランニングはじめて。いつまで続くかわかんないですけど。職場が近いからこの近くに引っ越してきて。えっと、ホテルで働いてまして」
「へえ~。忙しそう」
「そうですねけっこう、昼夜逆転しちゃったりとかも。もう慣れましたけど」
そちらはよく走られるんですかと聞こうとして、そちらって言い方変じゃない? でもあなたとかも変だし、どう呼ぼうか。えっと~~、と伸ばし伸ばし考えていると、「ああ、あやめです」と向こうからいってくれた。
「窪塚あやめといいます」
「町枝圭吾といいます」
どっちも妙にかしこまった言い方で、そのことに笑いそうになるのと同じタイミングで向こうも笑顔を見せてくれたから、楽だった。
あやめのランニング用のポーチには昔流行ったアニメの主人公のアクリルキーホルダーがついていて、圭吾は「自分も観てましたそれ」と、当時のおぼろげな記憶を思い出しながら伝えた。とりとめのない世間話がしばらく続いて、体が冷えていることに気づくと圭吾は慌てて「すいません」といった。
「すいませんありがとうございます。あの、助けて頂いて。よかったら、お礼になにか、食事でも奢らせてください。あ、いや、そういう意味じゃなくて、ただ純粋にお礼がしたくて」
そういいながら圭吾は、本当に純粋にお礼がしたいだけなのか? と自問していた。俺、下心とか持ってるんじゃない? 持ってるよな? だからまた慌てて言葉を紡ぐ。
「いやでもあのお気軽に断ってください。その、知らん男が急になんなんだよって感じで怖いかもしれないし、ほんとお気軽に」
はははは、とあやめが笑ってくれて少し救われた気分だった。
「うーーん。じゃあ、またここで走ってるの見かけたらなんかお菓子でも奢ってください。私もうちょっと走ってから帰るんで。町枝さんは無理しないで。お大事に」
それからというもの、圭吾はスーパーやコンビニに寄る度にチョコレートやスナック菓子を買った。二週間後に膝が治ると、お菓子でぱんぱんになったリュックサックを背負いながら走った。連絡先は聞かなかったけど、会えるはずだと信じるように圭吾は何時間も走って、それで実際に会えたからときめいた。彼女に対してもだけど、時間とか日々とか、そんなようなものに。大げさなくらいぶんぶん手を振ると向こうも振り返してくれた。
「なにが好きかわかんなくてたくさん買ってきたんですよー」
リュックの中身をぶちまけると笑ってもらえた。
ふたりでベンチに腰掛けて、あやめがiPhoneのライトでお菓子を照らしていく。
「私ぜんぶ好きだな!」
「俺も俺も!」
ランニングの揺れで星みたく砕けたスナック菓子をたべながら、ぽつぽつとまた世間話をした。夜が深くなっていって、圭吾は意を決して提案した。
「よかったらいっしょに走りませんか?」
「あーー。どうしようかなー。まあ悪い人じゃなさそうだし別にいいかなあ。いやあ、でもなあ、うーん。まあいいかなあ」
「心の声出てますよ」
やさしいな、と圭吾は思った。
「ははは。合わない感じだったらちゃんと合わない感じっていうんで」
二条城の外周を横並びになってしばらく走ってみた。
「あの、俺やっぱ、自分のペースで走ってみてもいいですか」
足を踏み鳴らして全力疾走すると、苦しくて安心する。
息が切れると少しのあいだ立ち止まり、また勢いよく足を動かした。しんどいのに、腿のあたりがいつになく軽い。はは、と圭吾は笑った。バラバラで走っていても、心のどこかであやめさんと繫がってるみたいだ。こんな風に考えるのはキモいかな。でもそうなんだ。ふたりで隣り合って走ってるときより、ひとりの方が相手の存在を感じられて、妙な爽快感があった。あやめさんとはバラバラでもいいのかも、その実感は駆けるほどに増していった。まだ友だちにすらなっていないのに、あやめさんとうまくやっていくことができそう、そんな気がした。
それからというものふたりは、空いている日に二条城の周囲を走るようになった。門前で集合して準備体操や雑談をし、あとはそれぞれのペースで走る。
あるとき、圭吾は自分がどうして走っているのかをあやめに話してみた。苦しくなって無になりたいということ。自分が男であることとかそういう、枠組みのなかにいるのが苦手で、何者でもなくなってしまいたいような気持ちのことを。ちょっとひかれるかな、と思いながら、でも、むしろ少し誇張するように話をした。これであやめさんが離れていくなら別にいい。いつからか俺のあやめさんへの思いはもう、好意と恋のグラデーションの上にあるみたいだった。それはなんだか楽し過ぎて、危ない気がしていたから。
「へえー」
あやめの反応はそっけなく、なんか怒らせてしまった? と圭吾は不安になった。
「なんか、私の走ってる理由と近いかもしれないです。全然うまくいえないんですけど、走ってるときって孤独で、でもその孤独は、わずらわしいものから解放してくれる、いい孤独っていうか」
それを聞いて圭吾は、胸が熱くなって熱くなって仕方がなかった。
なんだろうこのうれしさは。あやめさんといると俺は、自由になれるような気がする。そんな期待がとめどなくあふれてきて声が弾んでいく。
「あの、あやめさん! よかったらなんですけど、俺と、これからも走ってくれますか?」
いっしょにいたい。
彼女は笑顔で「もちろん」といってくれた。そしてどこかリラックスした表情で続けた。
「びっくりした~。告白されるのかと思ったよ」
週に何日か、あやめと走る日々が続いた。でもそれだけだ。いっしょにいられるだけでうれしくて、そこから一歩を踏み出せないまま時間は過ぎていった。
出会ってから四か月ほど経ったある日、圭吾は木屋町通を歩いていた。東京から出張にきている知人と待ち合わせをしていたのだけれど、急な仕事が入ったらしくキャンセルになった。どことなくさびしい気分を燻らせて、けれど店に入る気にもならず、声をかけてくるキャッチをかわしながらふらふらとしていた。風が冷たくてモッズコートのフードを被りながら通りを進んでいると、狭まった視界の外側から突然あやめの顔がにゅっと現れた。
わっ、と驚いて仰け反った拍子に後ろに転びそうになった圭吾を、あやめが背中に手をあてて支えた。
「圭吾くんだあ。私けっこう力あるでしょ。すごいでしょ」
えっへら、とあやめは笑った。
「あやめさん……酔ってます?」
体勢を立て直すけど、距離が近い。あやめは圭吾の背にあてた手を離さず、そのまま抱き着いた。
「酔ってるでしょ」「酔ってないよ」
こんなの、友だちとしてのハグだ。それくらい俺にもわかる。
香水のにおいがした。甘いにおいのなかに川辺のような青っぽさが混ざっている。このにおいを俺は覚えておきたい。知り合ってしばらく経つ。告白なんかしてなにかが壊れるくらいなら、ずっと友だちのまま仲良くしていたい。でもどうしようもない。俺の体は、これが恋だと俺に伝えてくる。
抱き合っている状態がしばらく続いた。心にも体にも浮わついた気持ちよさがあった。気持ちよくなればなるほど、圭吾の心境は複雑だった。だって、気持ちいいんだ。今日ジーパンを履いていてよかった。勃起しないようにと願う。心地よさが続くと、どこまでが恋で、どこまでが性欲なのかわからなくなっていくみたいで、なんだか泣きたい気持ちになってきた。俺は自分の性欲のことが好きじゃない。俺っていう、男の性欲だ。グロテスクだって思ってしまう。できることなら、恋愛感情と性欲なんかきっぱり区別してしまいたい。見分けたい。自分の心を整理したい。でも、そんなことできるんだろうか。あやめさんに恋をしてると自覚すればするほど、気持ちは暴走していきそうになる。見境なくいろんなものを取り込んで、恋をするための原動力にしていく。でもそういうのの果てに、あのストーカー事件が起きたとすれば?
悔しい。背中にあてられたあやめの手をアウター越しに感じながら、圭吾の両手はどこにも触れず、だらんと垂れ下がって冷え切っていた。
佇んでいると音が聞こえてきた。あやめが、圭吾に体を預けたまま寝息を立てているのだった。
「起きてください。風邪ひいちゃいますよ」
圭吾は微笑んだ。
5 二〇一九年四月
花見客でごった返す円山公園に桜の花びらが連綿と降り続けていた。
大学生やサラリーマンが入れ替わり立ち替わりやってくるのを横目に、京都ニュースクエアホテルの面々も桜の樹のそばに長時間陣取っていた。この季節はもろに繁忙期なのだが、会社全体がそこはかとなくパリピ体質というかブラック体質というか、毎年この時期になると花見というイベント事をねじ込むことで多忙の感覚を麻痺させているのだった。今現在シフトに入っている者を除いた多くのスタッフが出席していて、過労に慣れた体にアルコールの心地よさと桜の艶やかさなんかが回ってハメを外す人がたくさんいた。
この前繁忙期がんばりましょう飲み会したばかりなのにうちの会社大丈夫かよ。そんなことを考えながら圭吾は、喧騒を倦むように少し離れたところで木にもたれて焼き鳥をたべていた。
他のスタッフたちは芝生の上で車座になっていて、その真ん中では最近ボクシングをはじめたという青木さんが酔った勢いでシャドーボクシングを披露してひゅーひゅーと歓声を受けていた。
圭吾のスマートフォンには勤務中の金井くんから「忙しい~」「なんで花見今日なんだよ」「コピー機詰まったうが~」とちょこちょこメッセージが入っていて、圭吾は金井くんが好きそうな猫のスタンプを送ったりしながら、目が合った青木さんに手を振った。師匠、がんばれ、と口パクで声援を送る。
「町枝こっちきなよお」不意に、よく通る声で元木から呼ばれた。「木にもたれたりしてなにかっこつけてんのお?」
元木の隣には鷺坂さんがいた。また絡まれてるのかもしれない、と圭吾は鷺坂さんに助け舟を出すためにその席に加わることにした。
「町枝は呑んでる~?」
「いや俺このあと夕勤入るんで」
「あーそうそりゃ災難だったねえこんな気持ちいい天気なのに。ところでさあ、景ちゃんと圭吾くんって名前似てるよねえ。ひょっとして姉弟?」
はあ? と思わず声に出していた。
「ちょっとちょっと元木さん。そんなダルい絡み方してたら若い子から嫌われちゃいますよ?」
元木のことははっきりと苦手だから、圭吾はいつも思い切ったことがいえた。でも当の元木には逆効果だった。「ガッハハ~」と彼は漫画のキャラクターみたいに笑い返してきた。うれしそうだった。若い奴と円滑なコミュニケーションが取れたとでもいうように、元木は打ち解けた口調で話し続ける。
「ねえ見てよ町枝。小学校に上がったばっかり」
元木は圭吾に身を寄せてスマートフォンの画面を見せる。ランドセルを背負い、足を交差させてませた感じに微笑む女の子がうつっていた。元木がその写真を他のスタッフたちに見せているところを圭吾は何度も目にしたことがあった。どうやら自分にもなにかの順番が回ってきたらしい。「娘さんです?」そうだとわかっているけどあえて聞いた。
「ふふふ。心に羽って書いてココハっていうんだ」
ぬいぐるみを抱える心羽ちゃん。クリスマスツリーの前に立つ心羽ちゃん。元木にドリップコーヒーを淹れてあげようとしている心羽ちゃん。元木は画面をスワイプし続け娘の写真を何十枚も圭吾に見せた。
「いいもんだよ子どもがいるっていうのは。カタカナを書くのが上手でね。将来はプリキュアになりたいんだってさ、女の子だよね。鳩にエサやったらダメだって叱ったら泣いちゃって。やさしいんだよなあ心羽は。おれ今奥さんと離婚の協議進めててさあ」
「えっ」
「養育権あっちに持ってかれそうなんだ」
「そう、ですかあ」
それ以外なんて返したらいいかわからない。助けを求めようと鷺坂さんを見ると彼女はうつらうつらとして目を閉じていた。絶対寝たふりだ。
気まずさをやり過ごすために圭吾は冷えたオードブルを口いっぱいに詰め込む。
口をもちゃもちゃ動かしていると、汗だくになった青木さんがやってきた。
シートの上にあった誰の飲みさしかわからない日本酒を一気にあおり、圭吾の前で仁王立ちになった。
「なあ、この前渡したやつ開けてくれた?」
「なになに? プレゼント?」
元木がにやつきながらいう。
絡まれるのが面倒で圭吾は「いやちょっと」と立ち上がって青木さんを離れたところまで連れていった。あの場から逃げることができてホッとした。
「プレゼント開けましたよ~。ありがとうございますマジで」
青木さんがくれたのはフォトフレームだった。美大の制作で使った流木の余りで作ったものらしい。
「いやー、師匠がくれたフォトフレームになに入れようかなあ」実家の犬の写真かな。それか、あやめさんと写真撮って飾るとか、なんて夢想してみる。でもそれだと青木さんに悪いような気がした。「ねえ師匠、俺らの写真とかどうっすか?」
「はあ?」
「てか師匠、なんでボクシングはじめたんですか」
青木さんは一瞬黙ったのち、「なんでもいいやろが」と悪態をつく。
「たまには弱音ぶつけてくださいね。師匠はひとりでがんばり過ぎちゃうところあるから」
「うっさいわ。おい、写真撮るぞ」
青木さんはいつも持ち歩いているのか、かばんから使い捨てカメラを取り出して圭吾に渡した。なんだこれ懐かしい、と圭吾は満面の笑みを作ってカメラを自分たちに向けシャッターを押す。「ほら、師匠ももっと、スマイルスマイル」もう一枚撮ろうとしたとき、視線の先にあやめがいるのが見えた。
花見を終えたところなのか、同年代くらいの男女五人といっしょに空のパックやペットボトルなどを入れた袋を手に持って公園をあとにしようとしていた。圭吾は声をかけようか考えたけど気後れしてしまった。
あやめは体格がよくて顎髭をヤギみたいに伸ばした男性の隣で談笑しながら、ときどき彼の肩を軽く叩いていた。それを見て圭吾は思わず顔をしかめてしまう。
なにかを察知した青木さんが圭吾の視線を追った。
「あ、あやめさんやん」
「え? 師匠、知り合い?」
「そうやけど、おまえも?」
「ランニングいっしょにしてて。え、師匠はなに繫がり?」
「へえ、ランニング。私はあやめさんとサークルがいっしょやねん」
「サークル?」
「片づけのサークルでな」
「片づけのサークル? なんすかそれ。片づけ?」
「人の家にいって片づけを手伝うサークル。他人の生活が見れるわけやから絵の役に立つかなって」
サークルのことが気になるけど、「師匠、大学で日本画やってるんでしたっけ」と会話を続ける。
「でもまあ、絵では食べていけへんから、どうしようかなって。就職して働きながら続けたらいいんやけど、それって妥協なんとちゃうんかなって思いがどうしてもあって」
「なんか、師匠がそうやって将来の話とかしてくれるのうれしい」
「おまえが弱音吐けっていうたんやろが」
「あはは。でもサークルかあ。いいなあ。俺、あやめさんといるとなんか元気になるんですよね。あやめさんはあやめさんなりに世の中のわずらわしいものとかぜんぶ突き放していこうとしてるんですけど、いっしょにいると俺のことまでどこか遠くにつれてってくれるような感じがするんですよね」
「お?」
「ちょっ、なににやにやしてんすか」
「おまえもサークル入る?」
「えっ、いいんですか?」
「紹介制やから。いけるはずやで」
「まじっすか。前向きに考えますよ俺。片づけのサークルかあ。ゴミ屋敷とかつい連想しちゃうけど」
「そういう家はいったことないけどな。ほとんどは捨てる決心がつかないから誰かに手伝ってほしいとか、大切なモノを捨ててしまって罪悪感でいっぱいやから誰かに話を聞いてほしいとか、そんな感じやで? けっこうやってみると楽しいし、合ってるかもな。捨てたり整理したりしてるうちに考えもまとまっていくっていうか。おまえいろんなことうじうじ考えがちやんか」
「うわ、師匠さすがっすね。俺のことよくわかってる」
きも、と青木さんがつぶやいた瞬間、ふたりは後ろから誰かに肩を組まれた。
振り向くと金井くんがいた。
「なんや金井さんか。驚かさんといてくださいよ」
「なんだ金井くんか。お疲れ」
「なんやとはなんやねんふたりとも。前から思ってたんすけど、町枝さんって青木さんの前だとだいぶアホっぽいっすよね」
「ええ~? そうかなあ」
「うん。私もそう思う」
「師匠まで……」
「酒あります? はあ~めっちゃ疲れた。てか町枝さん夕勤でしょ? もういった方がよくないっすか?」
「うわほんとだ。俺いくわ」
圭吾はビニールシートからかばんを拾い上げると小走りで駆け出した。
金井くんがなぜか片手を掲げて「へーい」というので、圭吾はハイタッチした。
「ほら。師匠も師匠も。へーい」
圭吾の方から青木さんに手を重ねた。
春の京都市内は観光客でごった返していた。あいだを縫って進めないほど人が溢れているし、車道も渋滞しているのでタクシーも使えない。観念してのろのろ歩きながら、圭吾は片づけサークルのことを考えていた。そして青木さんの話のことを。モノを片づけるっていうのは自分の気持ちと折り合いをつけることに繫がるのかも。俺は、俺の心を把握したい。あやめさんと会えるだけじゃなくて、サークルに入るのは恋愛をいいものにするための役に立ってくれるかもしれない。
圭吾は、いつか鷺坂さんと交わした対等な恋愛についてのやりとりを思い出した。そしてあやめのことを考えているときの、自分でコントロールし切れない情緒のことを思い浮かべる。
恋ってそもそも把握し切れないものだ。整理なんてうまくできない。そんなことはわかってる。でも俺は、恋に恋したくないし、恋と性欲を混同したくない。ちゃんと俺の恋のこと、あやめさんへの好きの気持ちのことを把握したい。欲望を把握したい。120パーセントでも80パーセントでもなくて、100パーセントきっちり丸ごとの俺をあやめさんにぶつけて俺は、最高の恋がしたい。
(第一部・了)
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