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一穂ミチ「光のとこにいてね」 はじまりのことば

「夜寝る前にちょっとずつ読んで、読み終えたら大事に手元に残しておいてもらえるような本を作りたい」

 約一年前、初めてお会いした時、編集のTさんはこうおっしゃった。正確にはこういうようなことをおっしゃったはず……とわたしの頼りない頭が記憶している。なので細部は違うかもしれない。太部(ないよそんな言葉は)も違うかもしれない。夢か妄想の可能性まである。Tさんがこれを読んで「いや言ってませんが?」とおっしゃったらすみやかに書き直す所存です。

 とにかく、その時はええこと言わはるわあ、と思った。完全に他人事だった。梅田の高層ビルの喫茶店は見晴らしがよく、店内は満員で、誰もまださほどマスクだ密だと神経質ではなかった。そこから世界はどんどん様変わりしていったが、それと全く無関係に、わたしの頭はノーアイデアノープランだった。めんつゆしか入ってない冷蔵庫くらい何も作れそうにない。中身はなくてただ煌々こうこうとしている。なら材料を仕入れに行かねば、映画とか本とか旅で刺激を得るのだ、と思いはするけれど、義務感ありきのインプットなんか楽しくも何ともない。頭空っぽで面白がるのがいいんだもんねえ、なんて自分に言い訳をしているうちにおちおち外出もできなくなり、おうち時間には魚介系YouTuberが魚をもりで突いて捌く動画を延々と見続けたりした。大きな魚の胃袋の中身はまさに一大スペクタクルで、これよりわくわくするものを書ける自信は全然ないな、と思った。

 Tさんとは「どうですか?」「うーん……」みたいなやりとりを何度か行った。毎回、わたしがネタ以前のとりとめのない話をもにょもにょっとして終わる。仕事相手の時間を無駄にさせているのが申し訳なく、本当ごめんなさいと思いながら保護猫の成長動画を見続けた。

 思いつき、らしきものが浮かんだのは、秋に友人とふたりで温泉施設に行った時だった。広い露天風呂にかって海を眺めながら「極楽ですなあ」とお約束の感想を言い合ってまったりした。まったりしながらも友人は「ちゃんと家の鍵を閉めてきたかなとか考え始めると、バクバク動悸がして止まらなくなる時がある」となかなか重い話をしていた。あと、親の老化とか。極楽の対義語は「地獄」じゃなくて「現実」とか「生活」だと思う。まあそれでも空と海がすこーんと広く、悩みを忘れられたりはしないけど、束の間自然が希釈してくれるような解放感に浸った。自分ではまず買わない、明るい色の館内着を着て岩盤浴をしたりマッサージを受けたりごろ寝したり、大人のユートピアを堪能して最後は再び露天で締めよう、となった。

 午前中よりはすこしひんやりした風に吹かれ、くっきりと濃い水平線の、水平ではない微妙なカーブを見ながら、ふとこんなところに同性の恋人と来たら楽しいだろうな、と思った。異性でも着衣ゾーンは一緒に過ごせるけれど、やっぱりこの、裸で広いお湯に浸かる時間を共有しないと。施設が新しくてきれいなことや、アメニティが充実している嬉しさを分かち合いたいから男性同士よりは女性同士のような気がする……服を着て、レストランで地ビールを飲み干している間もそんなことを考えていた。

 もやし程度のひょろひょろした萌芽ではあったけれど、自分なりに水をやって育てて覚束ないプロットを仕上げ、どうにかGOサインが出た。スタートの準備が一応整っただけなのに、早くもやり遂げた気になってM―1グランプリの予選動画を見続けた。結果、予定通りに仕上がるはずもなく年の瀬にまでTさんに電話をかけさせた。ここでちょうだいした「いちさんの意地悪成分が出ちゃってる」というダメ出しはなかなか味わい深かった。意地悪に書いているつもりが毛頭なかったので、それはもう性根が悪いということだ。令和二年の暮れ、静かに動揺しながらスピッツのコンサートのオンライン上映を視聴した。

 年が明けてからも、いろいろTさんの手をわずらわせてようやくこのたびスタートを切ることができた。いよいよどうしましょうって感じだ。これからどうするつもり? とTさんはわたしに思っているかもしれないけれど、ごめん、わたしも思ってんねんわ。

「迷わず行けよ、行けば分かるさ」とアントニオいのは言う。そんなん無理やがなアントン、と思う。わたしはいつも迷っている。行く前も、行っている最中も、どこかにたどり着いた後も。これでいいのか、これでよかったのか。その上、「どうしよう」と安易に人を頼るわりに結局自分の我を通す。後から歩みを振り返れば、多分なめくじみたいなぬるっとした筋があちこちでのたくり、ループし、わだかまって見苦しい痕跡をさらしているだろう。今も絶賛その途上だけれど、ふたりの主人公、のんと一緒に心ゆくまで迷い、惑い、それを記録するように書いていけたら、と思う。

 よろしくお願いいたします。


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