見出し画像

ピアニスト・藤田真央エッセイ #56〈ウィーン・リサイタルデビュー――コンツェルトハウス〉

#55へ / #1へ戻る / TOPページへ

『指先から旅をする』が書籍化しました!
世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。

 2024年3月15日、私は再びウィーンの地にいた。”再び”というのは、2月にアントワン・タメスティと共にウィーン楽友協会の〈ブラームスザール〉でデュオリサイタルを行い、その次週にはウィーン交響楽団と共に、念願の〈グローサーザール〉デビューを果たしたのだ。この模様はまた次号で触れたい。

 ウィーンはとてもコンパクトな街で、空港から都心へは鉄道でたったの16分、そして少し足を伸ばせばたくさんの観光名所が現れる。何より上質な日本食レストランが数多くある魅力的な都市だ。ベルリンにはない数々のロマンがウィーンには点在している。おにぎり専門店、抹茶カフェ、焼肉屋……私はスタンプラリーを巡るようにそれらのロマンを胃にかき集めた。加えてウィーンの街は治安が良く安全で、ゴミは滅多に落ちていないし、水道の蛇口を捻れば冷たいアルプスの湧き水が飲める。ベルリンを卑下する訳ではないが、もしウィーンに住んでいれば、もし別の都市に住んでいたら…と旅行者視点とは異なるものが見えてくるだろう。

 さて、今シーズンのリサイタルプログラムでは、グリーグ《抒情小曲集より第3集Op.43》、セヴラック《セルダーニャ「5つの絵画的練習曲」より第2曲祭り》、ショパン《舟歌Op.60》、プロコフィエフ《ピアノ・ソナタ第1番Op.1》を第一部に置き、休憩後シューマン《アラベスクOp.18》《クライスレリアーナOp.16》を演奏する。前半には様々な情景がまるで目の前で映し出されるような作品を集め、後半は揺れ動く複雑な心情を音楽に投影した文学的な二作品を置いた。

 今宵の舞台はウィーン・コンツェルトハウスにあるリサイタルホール〈モーツァルトザール〉だ。コンツェルトハウスを訪れるのは昨年2023年5月にシャイー&スカラ座管弦楽団と〈グローサーザール〉で演奏して以来になる。

〈モーツァルトザール〉は響きも上質でリサイタルに適したさすがのホールだが、肝心の楽器に難があり、まろやかで芳醇な音色を出すのが困難だった。どの音もはっきりと発音できるのは良いのだが、今回の(特に前半の)プログラムとの相性が悪い。調律師は昨年の公演でお世話になった方と同じだった。ベテラン調律師の彼は、いかにも職人気質といったオーラを醸し出しており、常に勉強熱心だ。私の音源を事前に聴いて、どのような音を欲するピアニストなのかを既に心得ていた。私が要望を事細かく伝えずとも、後は俺に任せろと言わんばかりに黙々と作業に勤しんでくれた。

 調律の仕上がりを待っている間、私は今晩のプログラムノートをパラパラとめくっていた。そこには本日の演奏曲がウィーン・コンツェルトハウスにてこれまでに何度演奏されたかが記されている。興味深いことに、グリーグとセヴラックは、110年もの歴史を持つこの舞台で今宵初めて演奏されるのだという。有名曲プロコフィエフ《ピアノ・ソナタ第1番》でさえも2回しか演奏されていない。伝統あるホールの歴史にささやかな爪痕を残せた気がして、思わず誰かに報告したくなった。

 この日は私にとって、ウィーンでのソロリサイタル・デビューの日である。ありがたいことにチケットは完売。一体どんな方が、どのようなきっかけで私の演奏を耳にしたいと思ってくださったのだろうか。それはプログラムか——いや、それほど有名な作品は取り上げていない。良い批評が多いとか——いや、いつもなんとも言えない評論が多い。謎が解けないままステージに上がり客席を見渡すと、若いお客さんが多かった。

ここから先は

2,757字 / 4画像

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!