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伊岡瞬「追跡」#007

「雛」を巡り、フィクサーと与党幹事長、幹事長の息子の三つ巴の戦いが。しかも、各陣営に曲者が揃い……

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19 火災二日目 新発田信(承前)

 わが子ながら、どうひいき目に見ても軽薄にしか映らないじゆんが出ていった執務室のドアを、まことは短いあいだ睨んでいた。
「どうしたらあれほど出来の悪いのが生まれるんだ」
 普段は腹に納めているが、つい口からこぼれた。いや、考えないようにしている現実を、ふいに見せつけられたことへの嘆きだ。
 過去には、妻が浮気してできた子ではないかとさえ疑ったこともある。しかし中学に進んだあたりから、顔つき体つきが自分によく似てきたことは認めざるを得ない。
 特に、我ながら好感度を下げているきつい目つきなど、そっくりそのままだ。人に言わせれば、電話越しだととっさに区別がつかないほど、声も似ているらしい。しかし自分が淳也の年頃だったとき、あれほど軽薄ではなかったと断言できる。
 まあ、そんなことは今はどうでもいい。
 問題なのは、あの馬鹿息子が『雛』の呼び名も知っていたし「取り返せるかもしれない」などと口にしたことだ。まんざらかまをかけている風でもなかった。「ちょっとやばい連中にコネがあって」とも言った。
 誰だそれは、あるいはそいつらは。
 テーブルに置いたスマートフォンの画面を操作する。最初の呼び出し音が鳴るかどうかというところで応答があった。
〈はいやぶです〉
 私設秘書の藪は、今日、別の場所で新発田信本人がその場にいないほうがよい仕事をこなしている。
「今、せがれが来た」
〈淳也さんが?〉
 訊き返す声に、驚きは感じられない。
「『雛』の居場所を知っている。ちょっとやばい連中にコネがあって取り戻せるかもしれない。そんな意味のことを言った。あの馬鹿は平気でほらを吹くが、さすがにそんなにすぐばれる噓はつかない。おまえ、何か知ってるか」
 信は人を信用していない。秘書というのも、しょせんは賃金で結ばれた雇用関係だ。根底にあるのは信頼などではなく打算だ。自分のほかに、どこでだれと繫がっているかわかったものではない。
 短い沈黙ののち、藪が答えた。
〈いえ、今は見当がつきません。ただ——〉
 この男のことだから言い淀むのも計算のうちだろう。
「知ってることは話してくれ」
〈これは確証もありませんし、もちろんこの目で見たわけでもありません。それこそ〝噂で聞いた〟レベルです〉
「だから、何だ」
〈今回、例の件でわたくしが仕事を依頼した『組合』ですが、系統だった組織ではなく、個人事業主、今風にいえばフリーランスの集団です。構成メンバーからの情報を集約、統括する本部的なものはあるようですが、基本的にはそれぞれ好き勝手に仕事をするというスタンスです。しかし、そんなゆるい規律すら守れないはみ出し者もいて、そいつらは『組合』を脱退して、本当に一匹狼的に活動するようです。もともと能力がある上に組織で非合法活動のノウハウを教え込まれ、歯止めを失くした危険な連中です〉
「まさか、淳也がそいつらと?」
〈お話をうかがいますと、かかわりを持たれた可能性はあるかと〉
「あの間抜けが、どこでそんな連中と接点を持つ?」
〈ネットに境界も壁もありません。今はSNSを通じて、普通の大学生がアルバイト感覚で特殊詐欺に加担する時代です〉
 スマートフォンを叩きつけたくなるのを、どうにかこらえた。
「あの馬鹿者が」
 息が荒くなっている。続く言葉が出てこない。ゆっくり三つ数えるほどの間をあけて、藪の声が聞こえた。
〈淳也さんがどういう経緯でそんな連中と接点を持たれたのかはわかりませんが、淳也さんご自身が抱えるリスクを度外視するならば、これも面白いのではないかと思います〉
「どういう意味だ」
〈今回の『雛』をこちらで保護する一件は、わたくしの一存でやったことです〉
「もちろんだ」
 万が一にも発覚し、隠蔽ができなくなった場合には、という意味だ。信は何も知らない、秘書がかってにやったことだという筋書きにする。もちろん、常識ではそんな苦し紛れの言い訳は通らないが、無理を通すのが政治家の力量だ。
 藪が淡々と続ける。
〈そもそも、『組合』とわたくしとの繫がりすらも足がつかないように細心の注意を払ったつもりですが、どんなに完璧に見える風船でも、ピンホールが空いていないとは断言できません〉
「おれがあのアオイとかいう女に直接電話したことを責めているのか」
〈そうではありません。あれが原因で外に漏れる心配はないと思います。可能性の話を申し上げております〉
 ここで効果を狙うかのように、短い空白を挟んだ。
〈あの者たちが『雛』を連れて逃げたことはぎようこうだったかもしれません〉
「どういう意味だ」
 さっきから、なんとか信の気を静めようとして「面白い」だとか「僥倖だった」とか言っているのではないかと疑いたくなる。
〈今回のイベントの目的は、選挙投票日まで『雛』を当方の目の届くところにおくこと、もしくは『雛』のしやから有利な条件を引き出すことにありました〉
 隠語や回りくどい表現を使うのでめんどくさいのだが、藪はこんな言い回しを好む。どこに耳があるかわからないからという。
 たとえば〝『雛』の庇護者〟とは、わたるの祖父にして、今や信にとってたいてんの敵となったいなまさあきのことだ。そもそも今回の騒動は、あいつを追い詰めるために始めたことだ。
 選挙当日まではまだ十日もあるが、確かな筋の情報によれば、因幡の命の火は消えかかっているという。あと二日かせいぜい三日程度のようだ。そのあいだ、因幡の軽挙を抑えることができれば、それで目的は達成できる。
〈警察からの情報によりますと、あの者たちは因幡側の命令で動いているのでもないようです。つまり、独自の狙いがあるのかもしれません。現在、警視庁の刑事二名と『Ⅰ』のメンバー一名によって追跡中です〉
「ほかは?」
〈それだけです〉
「全部で三人か!」
 罵倒したくなったが、ここで逆上してはならないと思い直し、別の疑問を口にする。
「刑事はわかるが、例の『Ⅰ』が加わっているのはどういうことだ。やつらはむしろ因幡側だろうが」
〈呉越同舟というところでしょうか、『雛』を奪い返すまでの。確保してしまえば、二対一ですし、こちらは正規の警察官です。公務執行妨害でもなんでも適用できます〉
 そううまくいくのかと思うが、今は納得するしかない。
「よほど使える連中なんだろうな、その三人は」
〈それが、特殊訓練も受けていないごく普通の刑事と、『Ⅰ』のメンバーは、そろそろ盛りを過ぎた中年の男のようです〉
「本気で捕獲するつもりはあるのか! そもそも『組合』のやつらはどう考えてるんだ。自分のところの組織員がしでかした不始末だろう。どう落とし前をつける気だ」
〈手付金ぐらいは返金されるかもしれませんが、具体的に何か行動を起こすつもりはないようです。つまり『報酬が未払いであれば損失はない』という考え方のようです。今回造反した二名の処分に関しても、この先除名などはあるかもしれませんが、その程度止まりのようです。秘匿性とかなりの汚れ仕事も引き受けるかわりに、発注者側もリスクを負うというのがやつらの世界の……〉
「わかった。もういい」
 ようやく全体像が見えてきた。普通のビジネスの常識は通用しないのだ。
「つまりこういうことか。アオイたちから『雛』を取り戻すには、追っている三名に期待するか、『組合』に別途発注しなければならないと」
〈はい。おっしゃるとおりです。お怒りを招くと思い申し上げませんでしたが、すでに追加発注の準備は整っております〉
 怒りを通り越して、むしろ冷静さが戻って来た。
「まさか、わざとあの航とかいう小僧を、おれの監視下におけないように画策しているんじゃないだろうな。たとえば、因幡と取引して。きさま——」
 めずらしく、藪の少しあわてた声が返ってきた。
〈めっそうもないです。わたくしにそんな度胸も力もありません。事実を報告いたしております。——ただ、さきほども申し上げましたが、結果的によかったのではないかと〉
「だから、それはどういう意味だと聞いている」
〈アオイたちの裏切りによって、バックに別の人間、あるいは組織がいる可能性も出てきました。先生のお味方でもない、因幡側でもない〝第三者〟です。その者が時間を稼いでくれれば、万が一ことが発覚したときに、先生のお名前が出る恐れがさらに少なくなります〉
 ようやく藪の言わんとしていることがわかった。割り込んできたその〝第三者〟が何者なのかわからない。少なくとも新発田側ではない。だが、因幡側でもなさそうだという。
 たしかにそいつが引っ搔き回してくれたら、そして事態を長引かせてくれたら、当初の狙いからはズレるが目的は達成されるかもしれない。
〈それに、見逃す心配はないと信じております。実際に追っている人間は三名ですが、かれらはあえてたとえるなら、狩りの際のそうのようなものです。バックでは警視庁や県警の垣根を越えて、捜査網を敷いて追跡しています〉
「わかった。——報告はまめに入ってるんだな」
〈はい。警察庁の筋から〉
「おれにも逐次連絡するように」
〈了解いたしました〉

20 火災二日目 因幡将明

 おれはまだ生きている。
 浅い眠りから覚めたとき、因幡将明の頭にまず浮かんだのはそれだった。
 室内の照明は暗い。将明がオレンジ色の常夜灯を「辛気臭い」と嫌うので、昼光色のまま限りなく光量を落とした照明になっている。カーテンの隙間から、夕方のものらしい光が漏れている。差し込む方向と角度でそれとわかる。
 ただ、何日の夕刻なのか、すぐには思い出せない。
 右手の先を少し動かしてリモコンのボタンを押し、ベッドの上半分を少し起こした。室内が見わたせるようになった。壁にかかったアナログ式の時計は、午後六時四十分あたりを指している。この時刻に日が残っているということは、今は夏か——。
 インターフォンに呼びかける。
「誰かいるか」
 数秒の間を置いて聞き慣れた声が返って来た。
〈はい。です〉
 筆頭秘書の井出だ。
「今日は何日だ」
〈七月二十四日です。二時間ほどお休みになられたかと思います〉
 大真面目に井出が答える。
 そうか、と答えたが、頭は晴れない。
 二時間——?
 二時間しか寝ていないのに、この記憶の混濁はどうしたことか。酒に酔っている気配はないし、薬の量が多すぎたときの嘔吐感もない。
 そんなことより、何か気掛かりなことがあったはずだが、それはなんだったろう。たしか選挙がらみだった気がする。そうだ、衆議院選挙だ。国政選挙がらみだとすれば、また民和党が苦戦しそうだとかいって新発田のばかたれが泣きついてきたのではなかったか——。
 それとなく井出に探りを入れる。
「何か変わったことはあるか」
〈申し訳ありません。大きな進展はなく、現在追跡中です。釈迦堂PAパーキングエリアでの折り返しに失敗し、再び奪われたと——〉
 井出にしてはめずらしく、最後は申し訳なさそうな口調で尻すぼみになった。そんなことより、喋っている内容が理解できない。
「何を——」
 言ってるんだと怒鳴りそうになって、ようやく記憶が戻ってきた。おかしな夢にうなされた直後ゆえだろうが、航に関する一連のことがすっかり抜け落ちていた。
 新発田側に不穏な動きがあるので『I』という組織のアジトに隠したこと。そこがあっさりと知られて襲われ、護衛は皆殺しにされ航が敵にさらわれたこと。さらった一味は『I』のメンバーだったらしいこと。追跡しているが、いまだに奪い返せていないこと。
「何をぐずぐずしている」
〈『I』もメンバーを増員して追っています〉
あおいを呼べ。あれは、つまらん男より頼りになる」
〈葵さんも追跡チームに入っています。おそらく中心となって追っているかと〉
「そうか」
 葵の名を聞いて、また沸騰しかけた怒りが寸前で収まった。
「しばらくあいつの顔を見ていないな」
〈昨夜もお見舞いにいらっしゃいましたが、先生がお休みだったようで、お声をかけずにお帰りになったようです〉
「そうだったのか」
 数秒間の沈黙。次の指示を井出が待っている。
「葵には正式に言ってないが、後継者は——あれしかいないと思っている。〝会社〟の連中ではあてにならん。やはり血が繫がっていないとな」
 航の父親、つまり息子の名が浮かびそうになって、あわてて「あれ」と呼んだ。
〈同意いたします〉
「もし、今回のことであれが航を取り戻せたら、公式に宣言しよう。あれを後継者にすると」
〈葵さんも喜ばれると思います〉
 いや待てよ。そんなことはとっくに宣言したのではなかったか。でなければ、まだ小学生の航を庇護する者がいないまま放り出すことになる。いくら死にかけているとはいえ、この自分がそんな状態のまま放っておくはずがない。
 そうだ思い出してきた。葵を自分の養子とし、航をその養子とするよう命じたような気がする。ならば、井出はなぜそれを指摘しない? 初めて聞いたような返事をする? たしかにこの男は、必要とあれば百万回聞いた話でも初耳のような顔を作れるたぬきだ。
 追及はやめて話題を変える。
「しかし、腹が立つのは新発田のあほたれだ。期日まで待たずに、例のことを暴露してやろうか。——リストは持ってるな」
「リスト」というのは、将明が「暴露する」と脅している、大物政治家の醜聞スキヤンダルをまとめたものだ。
 たとえば、防衛大臣が装備品購入に際して、武器製造会社から数億円単位のリベートを受け取っていること。たとえば、厚労大臣が保険証システムを改革するにあたって、当該システム開発を発注した会社の株を、発注発表前に大量に安価で購入したこと——。
 いくらでもあるが、世間が大騒ぎするのは、やはり新発田の息子の性犯罪もみ消し事件だろう。国民は地位のある人間のスキャンダルが、それも下半身の絡んだものが大好きだ。総選挙どころではない騒ぎになる。
 想像すると楽しくなってきて、口元に笑みさえ浮かんでいることに自分で気づいた。消滅しかけていた体力が、わずかながら復活したような気分だ。
「厚労大臣のインサイダー取引の話、脅しの意味も含めて先に暴露してやるか。あいつは、大臣就任のとき花を贈ってやったのに、礼状だけですませたケチで横着なやつだ」
〈面白いとは思いますが、いましばらくお待ちください〉
 そのとき、将明の神経回路の一本が何かを告げたが、はっきりとはわからなかった。探りを入れてみる。
「まさかと思うが井出、何か企んでいないだろうな」
〈何をおっしゃいますか。とんでもないです〉
「ふん。そんな度胸はないか。——まあいい。葵に電話するように伝えてくれ」
〈はい。お伝えいたしますが、この状況下ですので——〉
 しゃべり過ぎて疲れた。井出の返事を最後まで聞き取ることなく、また意識を失うように眠りに落ちた。

21 火災二日目 築島

「下り方向のままでいいんでしょうか」
 ハンドルを握るが問いかけてきた。
 山梨県石和温泉街への玄関である一宮御坂ICインターチエンジを、まもなく通過するところだ。
「本部からの指示はそういうことです」
 つきしまは頻繁にチェックを入れているスマートフォンタイプの通信端末に視線を落としたまま答えた。いらいらしている気分は極力抑えたつもりだ。
 そう、腹が立っている。このていたらくはなんだ。何かの冗談なのか。
 釈迦堂PAでのUターン作戦に失敗したばかりか、せっかく奪い返した保護対象である小学生を手放した。しかも、子供が自分で逃げて犯人たちと行動を共にしたのだという。このおれが脱出口を下見にいっているわずか数分のあいだに。
 なんだそれは——。
 津田もぐちも、それほど使えない人間だったのか。津田はともかく、樋口は『I』とかいう組織から派遣された、多少歳はくっているとはいえやり手ではないのか。個人的な事情で退職する前は、本庁でも異色の執念深い刑事だったと聞いたが。
 とんだお笑い草だ。今は自分たちを〝ずっこけ追跡隊〟とでも呼びたい気分だ。
 そして、そのさらわれたという子供もずいぶんなタマだ。いったいどういう素性なのか。
 こちらは警官を名乗っているのに、なぜ逃げたのか。たった二日のあいだに「ストックホルム症候群」に見舞われたわけではないだろう。犯人と人質の間に心の交流ができてしまうというあれだ。でないとすれば、津田と樋口を現時点での誘拐犯よりも恐いと感じたのか。犯人たちと一緒にいるほうがまだ安全そうだと。
 わからない。さすがに推理する材料が少なすぎる。
「やつらを見失ったわけではないんですよね」
 納得しきれないらしい津田が重ねて訊いた。疲れてきたのか感情的になっているのか、もはや「やつら」呼ばわりだ。後部シートに座ってほとんど口を開かない樋口の存在も気にしていないようすだ。
 どの口が言っているのか。おまえらが逃がさなければ、今ごろとっくに東京へ向かっていたんだぞと喉まで出かかった。
「何も言ってこないということはそう思うしかないでしょ」
 築島の口調も乱暴になりつつある。
 津田は完全に納得したわけではなさそうだが、それ以上突っ込む材料がないのか、ようやく築島の腹立ちを察したのか、そこで口を閉じた。ならば、こちらから訊きたいことがあった。
「そういえば、さっきはそれどころじゃなかったから聞き逃したけど——」
 津田にちらりと視線を走らせる。
「さっきのスタンガン、というかテーザー銃か。あれはどこで?」
 所轄の刑事にあんなものが正式採用——支給されているはずがない。いや、そもそも所持が認められていないはずだ。
「まさか特例の装備じゃないよね」
「あれ、ですか」
 津田が言い淀んだのは、説明しづらいからか、さすがに樋口を気にしてのことか。おそらく、両方だろう。
「樋口さんは大丈夫だよ。そんなことをSNSにアップしたりしない」
 冗談めかしてつけ加えたが、二人ともくすりとも笑わなかった。津田が言葉を選ぶようにして答える。
「もちろん私物です。入手経路は、今は勘弁してください。——なんていうか、しくじりたくないんですよ」
 急に言い訳のようにつけ加えた。
「しくじる?」
「親父は仕事に人生を捧げていました。高卒の叩き上げから警部にまでなりました。品行方正な公務員だったかといえばそうでもなく、ルールを踏み外したこともあると思います。しかし、警官としては恥じるところがない人生だったと思います。それが、あんなことで——あんなくそ政治家のくそ息子を守るための尻拭いで、長年築いてきた警官人生が突然終わりました。
 自分はあんなふうに終わりたくない。自分は今回の件、やり遂げます。あの子供もおそらくただの小学生ではないんでしょう。その正体なんてどうでもいい。皇族の隠し子だろうが、マル暴の会長の孫だろうが関係ない。奪い返せというなら奪い返す。また逃げようとしたら、今度は手錠をつけてでもトランクに押し込めてでも、連れて帰る。そう決めています」
「なるほど」とだけ答えた。
 悪い夢を見ている気分になってきた。

22 火災二日目 樋口

 時折、カラスから短い指示や情報の文字連絡が入る。もちろん、刑事二名にはその内容をいちいち知らせない。それはお互い様だから、気にすることもない。
《泳ぎたそうであれば、しばらく泳がせよ》
 それが、釈迦堂PAに入る直前に届いた指示だった。つまりは『雛』が自分の意思で何かしようとするなら邪魔をするな、という意味だ。
 通達された指令に、わが目を疑いたくなるのはこれが初めてではない。念のため数秒後に更新したが、送信ミスではないようだった。さすがに《どういう意図ですか》と問い返したかったが、作戦の着手前ならともかく、一旦進行してしまった以上問い返すのはタブーだ。
 やむなく、不自然でない程度に獲物を取り逃がす間抜けな役を演じた。
 津田はいい体をしているが、事実上一人であの二人組に対抗するのは無理だ。あっさり逃がすことになった。それでも、樋口が〝手抜き〟をしたとは気づいていないようだ。ただ、「聞いたほどではない、使えない中年」と思われた可能性はある。しかたがない。面子など気にしない。むしろそのほうがやりやすいのだと割り切るしかない。
 その後、カラスからは《別途指示があるまで警官と同行》と来ただけだ。《あの巨漢と決着がつくまで対峙せよ》という命令よりはましだと思うことにした。
 指令の急転換とどう絡むのかわからないが、ひとつ気になっていることがある。
 日野の、誘拐犯たちのアジトを急襲したときのことだ。
 あのときアオイは、ほとんど丸腰で——隠し持っていたとしてもせいぜい特殊警棒程度で——アジトに入っていき、二分あまりで『雛』を奪い返して出てきた。
『Ⅰ』の応援組が二名いたとしても、そして敵方の人数が少なかったとしても、あまりに手際がよいことにひっかかっていた。
 結局、その後の展開と口数の少ないカラスの説明から推察するに、アオイは初めから誘拐犯側の人間で、待ち伏せていた仲間、つまりはあの巨漢と協力し『I』のメンバーを撃退した。樋口には奪取したとみせかけて、単に再移動のきっかけにしただけだった。
 あの日野のアジトは最初から捨てるつもりだったのだろう。
 それにしても、手際がいい。いかに彼我の力の差が大きかったにせよ、『I』のメンバーもそれなりのれだ。アオイの実力は身をもって測った。巨漢も人間であることに変わりはない。二対二の構図なら、それほど極端な力の差があったとは思えない。
 おそらく二分で息も切らさずに制圧できた理由は、突然のアオイの裏切りによるところが大きいだろう。
 アオイが初めから裏切るつもりで仕組んだ筋書だったとするならに落ちる。
 納得がいかないのは、なぜ今回『I』のメンバーたちは「怪我」で済んだのかという点だ。
 あれだけ圧倒的に短時間で決着がついたなら、今回もまたとどめを刺すことは簡単だったはずだ。
 無駄な殺生はしない主義なのだと言われれば納得がいく。仕事のたびにいちいち相手を殺していては、必要以上に騒ぎが大きくなり、やがて仕事がしづらくなるからだ。可能な限り目立たないようにことを運ぶのが、『I』や『組合』のような組織の不文律だ。
 ならばなぜ武蔵境の家では、『雛』を守っていたメンバーを皆殺しにしたのか。放火までしたのか。
 証拠隠滅のため、というのは理由にならない。相手が『I』であれば、放っておけば自分たちで勝手に証拠などきれいに消してくれる。むしろ、放火したことによって事案を隠しきれなくなり、警察が介入し、マスコミが大々的に報道する騒ぎとなった。
 日野のアジト襲撃の手際のよさと差があり過ぎる。この差異は何に由来するのか。
 最初の殺人放火の騒ぎが大きくなりすぎて、組織の上から急遽「無駄な殺生はするな」という指示が下った可能性もある。しかし、あれだけ場数を踏んだプロだ。そんな取り決めをするなら最初にしているはずだし、あれほどの実力者が確信をもって始めたことなら、小言ぐらいでやりかたを変えたりしない。
 ではなぜ?
 いくつかの仮説がありそうだが、現実的なものはひとつしか思い浮かばない。
 それは、武蔵境のアジトのメンバーを皆殺しにして放火したのは、アオイたちとは別の人間の犯行だった可能性だ。
 ではどんな事情で『雛』を連れて逃げる主体が入れ替わったのか。武蔵境事件の際か、日野のアジトで内紛が起きたのか。計画だったのか、ハプニング——というよりアオイたちの裏切りだったのか。
 後者だとすれば、アオイたちの目的は何なのか。
 アオイが『I』と『組合』の両方、二重に籍を持っていた可能性は考えられないだろうか。
『組合』はもともと独立系の集団だと聞いている。会社組織でたとえるなら、管理部門のような機能はあるものの、ほかは完全歩合制の営業担当であったり業務担当であったりする。ほかの組合員に迷惑をかけなければ、何をしようと互いに干渉はしない。手助けを求められれば、なにがしかの見返りを条件に手を貸す。
 アオイが、今回は『組合』員として動いたなら、裏切りという概念はあてはまらないかもしれない。
 一方、アオイが当初の計画どおり、純粋に『I』のメンバーとして行動したなら、重大な裏切りに相当する。
『I』は裏切りを許さない。裏切ったメンバーは社会的に抹殺する。裏稼業はもちろん、表の世界でも仕事につくことはできない。破滅の道しかない。いくら腕っぷしが強くても、〝個人営業〟では、菌類のように政府中枢まで触手を伸ばした『I』にいつかは負ける。アオイの活動員としての余命は、いくばくもないことになる。
 それを承知の上で、『雛』をどうしようというのか。前例をみないほどの巨額の身代金を要求するつもりだろうか。
 因幡と新発田の両悪を手玉にとって、身代金の額を吊り上げるつもりか。たとえ何億せしめようと、割に合わない商売になるだろう。

 アオイの立ち位置のほかに、もうひとつ大きな疑問がある。
 今のこの追跡体制だ。
 さらわれたのは『雛』こと因幡航、政財界の事情を多少なりとも知る人間なら〝あの〟をつけて呼ぶ因幡将明の直系卑属、世間でいう内孫だ。
 聞くところによれば、因幡は今、瀕死だそうだが、仮にも平成最強のフィクサーと呼ばれた男の、たったひとりの跡取り候補がさらわれたのだ。いくら与党の大物幹事長と敵対しているとはいえ、そしてそいつが陰で警察に圧力をかけているとはいえ、この寂しい追跡劇は何の茶番だ。
 もしかすると、と真剣に思う。比喩ではなくこれは本当に茶番劇なのではないか。自分たちは世間向きのエクスキューズとして野に放たれた使い捨ての走狗で、裏では別の取引がなされているのではないか。警視庁、県警をまたいでほとんどタイムラグのない追跡情報が得られるわりに、追っている人間が少ないのはそれでなんとなく説明がいく。
 まさかというよりも、またか、と思った。
 またしてもカラスに踊らされたのか。

23 火災二日目 新発田淳也

「おお、百七十出てますね。こんなん久しぶりです」
 新発田淳也は、運転席側後部シートから身を乗り出すようにしてメーターパネルを覗いた。クラッチバッグから煙草を取り出しかけて、『シズマ』が嫌煙派なのを思い出した。
「自分もめったにないですね。淳也さんのおかげでお墨付きだから、安心して走れます」
 左隣の助手席側後部シートに座ったシズマが、口元に笑いを浮かべて答えた。聞いているところでは、煙草だけでなく酒もやらないようだが、かなり荒れた声をしている。凄みを出すためにわざと声帯をつぶしたのかと聞きたいが、怒らせるのが恐くて切り出せない。
 それもそうだ。『シズマ』というコードネームしか知らないこの三十代半ばあたりの男は、あの闇の集団『組合』の中でも、トップクラスの戦闘能力を有していたという話だ。フル装備の警官八人に囲まれて、その全員を半殺しにして逃走したという伝説がある。「歩く凶器」という呼び名があったそうだ。
「でも、マイバッハ乗ってみたかったですね」
 本音半分、ご機嫌取り半分だ。シズマが普段乗っているのは、メルセデスの最高級グレード車種であるマイバッハS680だ。総額で四千万近くしたと聞いた。
 しかしながら今乗っているこれは、やはりシズマの車だが「仕事用」と呼んでいるトヨタの黒いハリアーだ。淳也は初めてこの車に乗った。ただ、価格は桁がひとつ違うが、このスピードを出しても振動は少なく乗り心地はいい。さすがは日本車だ。『組合』が、仕事用として推奨している車種だけのことはある。
 メーターは百八十までしか刻まれていないが、リミッターを切ってあるそうで、二百五十を出したこともあると運転している男が、少し前に自慢げに言っていた。
 ちなみに、追っている連中が乗っているのも白いハリアーだそうだ。
 今、中央自動車道をやや〝抑え気味〟の平均時速百七十キロほどで、長野方面へ向かっている。父親のコネを使って、この車のナンバーがフリーパスされるように手配してある。要するに緊急車両と同じ扱いで、時速何キロ出そうと違反で捕まることはない。
 それでもここまでで止めているのは、淳也という客を乗せているからだろう。万が一事故など起こさないようにと配慮してのことだ。それがわかっているので、淳也も無理を言わない。シズマの機嫌を損ねたくない。恐いというのもあるが、このあとの計画を成功させるまで、いざこざは起こしたくない。
 逃げている連中には速度超過の特権はないから、すぐに追えば追いついたはずだが、スタート時刻でずいぶん遅れをとった。高速道路上でまみえるのは難しいだろう。
 ならば、得ている情報を基に目的地へ直行するのみだ。
 この車を先頭に、後続にあと二台、色も型番も同じ車が続いている。それぞれに五人ずつ乗っており、この車も前に二人乗っている。つまり、シズマと淳也を除いても十二名の猛者がいる。どれも格闘技の心得がある連中だ。
 さらには、シズマ自身が「歩く凶器」だ。
「控えめに言って、秒殺だろ」
 つい、淳也の口から嬉しそうな言葉がこぼれる。逃げている二人組も相当なやり手らしいが、シズマとその手下たちを相手に勝てるはずがない。

24 火災二日目 アオイ

 ヘッドライトが前方を照らしている。
 すっかり暗くなったその行く手を睨みながら、リョウが軽く手振りをした。
 アオイはその動きを見る。あえて普通の文章にするなら「あんなものどこで買ってくるんだ」というところか。いまごろ思い出したようだ。
 ごく短時間とはいえ、リョウから運動能力を奪った強力なスタンガンのことを指しているのだろう。発射式だったらしいから、正確にはテーザー銃と呼ぶべきかもしれない。いつから日本の刑事がそんなものを持つことを許されるようになったのか。
〈八王子あたりのホームセンターじゃない?〉
 アオイはにこりともせず手話で答え、続ける。
〈拳銃の弾が高いから、コストダウンでしょ〉
 リョウも真顔のまま続ける。
〈子供に当たらなければいいが〉
〈そうね〉
 リョウの心配も当然だ。もしもそんなものが航に当たったら、場合によっては命にかかわる。少し面倒なことになった。
〈やつらだけならどうということはないと思うけど、航に怪我をさせるわけにはいかない。それがネックだね〉
 リョウが同意した。
 そこでふと思い出した。航も手話を少し理解できたのだ。あわてて後部シートを振り返った。
 いったい何人の大人どもを振り回しているのか。おそらくそんなことに気づいていない航は、飲み終えた豆乳のパックを床に落とし、渡しておいたタオルケットを胸のあたりまでかけて熟睡していた。

[次回:2024年11月公開予定]

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