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ピアニスト・藤田真央エッセイ #64〈夏の終わり――デュトワとの共演〉

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世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。

8月3日

「ミルクバー」でブランチ。
 今年のスケジュールは自由時間が限りなく少なかったが、それでもお気に入りのこのお店に2回も訪れることができた。ヴェルビエ滞在のラストに好物のオレオミルクシェイクを飲むことができて嬉しい。

 17時からはサン=サーンス《ピアノ協奏曲第2番》のリハーサルがあった。あまり弾かれる機会の少ない作品のため、私もオーケストラの団員も感触を掴むのに苦労した印象だ。しかし他のプログラムとの兼ね合いでリハーサルはたったの1時間で終わってしまった。明日はもう本番なのだが大丈夫だろうか。

 今晩のディナー会場はマーティンの滞在するシャレーだった。いよいよ音楽祭は明日で最終日。すでに他のアーティスト達はそれぞれ新たな地へと発ってしまった。つい先日まで、同世代のアレクサンドル・カントロフ、ダニエル・ロザコヴィッチ、ブルース・リウらと仲良く円卓を囲み、ジョークを飛ばしあっていたので寂しい。

8月4日

 朝10時から一人で黙々と練習。サン=サーンス《ピアノ協奏曲 第2番》1楽章の展開部では、私の苦手な3度の連続和音があるため、ゆっくりと丁寧にリズム練習を行なった。3歳から毎日ピアノを練習し続けて、やっとテクニックがついてきたと思っていたが、3度の連続和音はいまだに苦手だ。
 サン=サーンス《ピアノ協奏曲 第2番》は2021年に一度だけ弾いたことがあるが、年月が経つと感覚も暗譜もすっかり忘れてしまうため、新レパートリーの披露に近い。作品はコンパクトで、緩徐楽章を持たない不思議な構成をしている。1楽章のAndante sostenutoはテンポ表示こそ緩やかだが、曲調はドラマティックで情熱的、細かい32分音符がたくさんちりばめられている。

 12時からゲネプロが行われた。前日のリハーサルでは懸念点がいくつか残ったが、ゲネプロでは不思議と上手くいった。これが音の魔術師の呼び声高い、シャルル・デュトワの力なのだろうか。御歳87歳の大ベテランの彼は日本でも根強い人気を誇る指揮者だ。指揮台に上がれば、滑らかな指揮でオーケストラの音を色鮮やかに変化させていく。

 だが本人は「指揮のテクニックは二の次で、一番大事なのは本人のパーソナリティだ」と語った。彼はそれを往年の芸術家、ヘルベルト・フォン・カラヤン、アルテェール・グリュミオー、アルトゥール・ルービンシュタインらに学んだという。さらにはクララ・ハスキルの最後の公演を生で聴いたと話すので、私が大いに驚いたところ、彼は上機嫌で様々なアーティストとの指折りのエピソードを語ってくれた。

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