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ピアニスト・藤田真央エッセイ #61〈我がホーム! ヴェルビエ音楽祭〉

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 2024年6月の中旬から7月の下旬まで、1ヶ月の休暇を貰った私は、次に待ち構えているレパートリーをじっくり練習したり、新しいレシピを考案したり、はたまた読書にふけったりしていた。不朽の名作、ダニエル・キイス作『アルジャーノンに花束を』には大いに胸を打たれた。ロングセラー作品のため多くの方がご存じだと思うが、際立って魅力的なのは作品全体を通しての構成や文体の巧妙な変化だろう。主人公の視点による一人称で物語は進み、日記調の「経過報告」で彼の心境、周囲の人々の変化などが描かれている。中盤から終盤にかけた怒涛の展開にはページを捲る手が止まらなかった。

 大いに影響を受けやすい私は、2024年夏のヴェルビエ音楽祭での日々を、日記スタイルで構成してみたいと考えた。『アルジャーノンに花束を』は涙なしでは読めない作品で、終盤の展開には読み進めるのを躊躇してしまうほど心がもみくちゃにされてしまうが、私の連載では決してそんなことにはならないためご安心を。

7月25日

 ヨーロッパのアパートには通常エアコンが装備されていない。我が家も例外ではなく、夏にご近所への配慮から窓を閉めて練習に励めば、たちまち汗だくでメガネや鍵盤に汗がポタポタと滴り落ちる。だが幸いなことに、今日から10日間はそのような思いをしないで済むだろう。昼過ぎの飛行機でジュネーブへ飛び、スイス・アルプスで行われる世界的な祭典、ヴェルビエ音楽祭へ今年も参加するのだ。ヴェルビエは避暑地で、その山間は真夏とは思えないほどに涼しい。陽が沈むと寒いくらいだ。半袖Tシャツのみならず、長袖や厚手のフーディーもスーツケース一杯に詰め込み、上から体重を乗せてどうにかチャックを閉める。
 空港のチェックイン時には重量上限の23キロをどうか超えませんようにと祈りつつ、薄目で表示を確認すると22.7キロだった。ふう、今日も運が良かった。

 ジュネーブ空港から電車に乗り、美しい湖を眺めること約2時間。マルティニー駅にて下車し、そこからお迎えの車に乗り込んで宿泊先のシャレーへと向かう。車では、ジョージア生まれの神童ピアニスト、ツォトネ・ゼジニゼと相乗りだった。彼はヴェルビエでの出番を終え、他のコンサートのために南仏へ一度発ったが、この涼しい山間で交響曲を書き上げるためにもう一度ヴェルビエへ舞い戻ってきたという。

 彼はこの春日本でのピアノ・リサイタル・デビューを果たしたばかりで、日本で体験した食文化、人、歴史に感銘を受けていた。未だ14歳の彼が満面の笑みで数々の思い出を一生懸命語る姿に、一回り近く年上の私は嬉しさと感動のダブルパンチを喰らった。

 いろは坂顔まけの急カーブの連続を抜けてヴェルビエへようやく辿り着く。私は前年宿泊したのと同じシャレーの前で車を降りた。シャレーにエレベーターはついておらず、23キロ弱のスーツケースを3階まで持ち上げるのはなかなかの苦行だ。
 明日は早速リハーサルが行われるため今日はこの辺で就寝します。おやすみなさい。

7月26日

 普段と異なるベッドだからか夜中に何度か起きてしまったものの、8時半ごろに起床した。居間に入ると、メガネを着けずとも壮大な山々の風景が目に飛び込んできたではないか。青空とコントラストを成す山頂の雪化粧が美しい。気温は17度で、ベランダへ通ずる扉を開けるとやや肌寒い。とうとう、待ち望んでいたヴェルビエでの日々がやってきた。

 シャレーでの滞在は、朝昼は自分で食事を調達しなければならない。この日のランチはベルリンから持ち込んだホットケーキミックスを使用し、ホットケーキを作った。シャレーの素敵なテラスで、美しい眺めとともに食べるほかほかの甘いホットケーキに夢見心地だ。

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