岩井圭也「われは熊楠」:第三章〈幽谷〉――那智の深山へ
第三章 幽谷
那智山の麓、大門坂の入口近くに大阪屋という宿があった。宿のすぐ傍にそびえる鳥居をくぐり、振ヶ瀬橋を渡れば、そこから先は神域である。
大阪屋の母屋には、細い廊下でつながった離れがある。広縁付きの八畳二間の和室には、書物やブリキの衣装箱の他、蔓羊歯や藪蘇鉄、立忍などの標本が目一杯広げられていた。風通しのよい場所で乾燥させるためであり、それらはすべてこの那智山で採集された代物であった。
開け放たれた広縁に三月なかばの風が吹きこんでくる。いまだ厳冬の気配が残る風を、男は浴衣一丁で浴びていた。絵筆を手に、畳に広げた紙に覆いかぶさっている。縄帯はだらしなくほどけて、胸や腹が露わになっていた。常人にはとうてい初春の装いとは思えぬが、当の本人は平気な顔で絵筆を動かしている。男は瞬きすらせずに紙の上を凝視していた。
明治三十六(一九〇三)年三月、齢三十六の南方熊楠は、担子菌類の子実体——いわゆるきのこの絵を描いていた。先日、那智山中で熊楠が発見したものだった。傍らに転がっているきのこは乳白色で、傘が花のように上方向へ広がっている。見たところ既知の菌種には当てはまらないため、新種かもしれない。
「可愛らしこた」
熊楠はつぶやきながら、素早く絵筆できのこの輪郭を写し取っていく。
これまで那智の地では菌類五百種、地衣類二百数十種、蘚苔類百種、藻類二百種、その他高等植物多数を採集していた。昨年十二月に大阪屋に腰を据えてから、間もなく三か月が経つ。少なくとも今後一年は那智に留まるつもりだった。それは、入山前に定めた目的を果たすためである。
——紀州の隠花植物を採集し尽くす。
それが那智入りの主な目的だった。隠花植物とはいわゆる「花」を持たない植物の総称である。具体的には、羊歯や苔はもちろんのこと、菌類や藻類、さらにはその二つが共生する地衣類もふくまれる。
隠花植物に注目したのは、花をつける顕花植物に比べて研究が遅れているためであった。未知の種数が圧倒的に多く、その全容はいまだ霧のなかである。日本だけでなく、欧米でもその傾向は同じであった。採集場所として那智を選んだのは、手つかずの原生林があるためだ。和歌山や田辺といった都市部に比べて、野生の植物が駆逐されていないと推察した。
熊楠の狙いは当たった。昨年から那智ではたびたび採集を行っていたが、そのたびに新たな発見があった。この地には、見知らぬ隠花植物が豊富に自生している。この調子で、菌類だけで少なくともあと千種、いや、二千種は採集したいところだ。
きのこの図を描き終えた熊楠は絵筆を置き、息を吐いた。部屋を振り返ると、そこには羊歯類の標本が並べられている。アメリカやイギリスで採集した標本、それに大方の書物はすべて常楠の家に送っていた。常楠の細君は荷物が邪魔だとか口うるさく言っているようだが、熊楠の知ったことではない。
八畳二間の離れに、大英博物館の円形閲覧室が重なる。百万を超える蔵書に囲まれ、そのすべてが無料で閲覧できる。放射状に並んだ三百もの座席では、来訪者たちが熱心に書物を読んでいる。無尽蔵の知識に満たされた楽園。あの三年半は夢のような時であった。
戻れるものなら、戻りたい。熊楠の本心を嘲笑うように、脳内で「鬨の声」が響く。
——ここはあの図書館と違て、何もないな。
——あの熊やんが山ンなかで寂しく過ごしとるたぁ、落ちぶれたもんじゃ。
——早う渡英する手筈を考えんならん。
広縁にあぐらをかいた熊楠は、うつむき、小声でつぶやいた。
「我にはもう、他に行くとこがないさけ」
熊楠が瞑目すると、細切れになったロンドンでの日々が映写された。
大英博物館との蜜月は、明治二十六(一八九三)年にはじまった。
フランクスとその部下リードの知遇を得た熊楠は、まず仏教関係の収蔵品整理に取り組むことになった。館内には東洋の文献を読みこなせる者が他にいないため、仕事は熊楠の独壇場と言ってよかった。さらに東洋図書部長とも知り合い、日本図書の目録作りにも携わった。
その傍ら、『ネイチャー』をはじめとする科学雑誌へ精力的に論文を投稿した。「蜂に関する東洋の俗信」「拇印考」「マンドレイク」などの論文は、いずれも日本や中国の古典から多くを引用している。東洋の文献を自在に紐解けることこそが強みだと、熊楠は自覚していた。
もっとも、熊楠にとっては己の存在を誇示することだけが目的ではなかった。すべては最も重要な使命、すなわち「事の学」の創始のためだった。
——心でも物でもない学問を、我はやるんじゃ。
その一心で熊楠は博物館に通い、手紙や論文を書き、読書を続けた。土宜法龍との文通は断続的に続き、仏教への知見もますます深まった。
充実した研究生活がさらに密度を増したのは、一年半後のことであった。待ち望んでいた大英博物館の図書館を利用する許可が、ついに得られたのだ。円形閲覧室への出入りには入館証が必要だったが、組織に属しない熊楠にはそれを手に入れる手蔓がなかった。だが、幸いにもリードが保証人となってくれた。
以後の熊楠は閲覧室に入り浸り、叡智の海に溺れた。英語だけでなく、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、中国語など、あらゆる言語の書籍を閲覧し、抜き書きした。特に関心を引いたのは、旅行記の他、『売春の歴史』や『梅毒の歴史』といった性に関する文献である。
相変わらず、羽山兄弟は熊楠の夢にしばしば現れた。そして兄弟を夢に見るたび、吉事あるいは凶事が起こった。これを偶然の一致と片付けることもできたし、実際、熊楠はそのように考えていた。ただ、羽山兄弟がまとう色気には、妖気のような抗いがたさがあった。彼らが目前に現れると、熊楠は砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、ふらふらと足を進めてしまう。その引力こそ、物でも心でもない、事としか呼びようのない現象であった。熊楠は性に関するあらゆる書物を紐解いたが、兄弟の妖しい魅力を説明してくれる解は見つからなかった。
それからさらに二年後、自室で日本の新聞を読んでいた熊楠は仰天した。あのプリンスこと片岡政行が、日本で逮捕されたというニュースが掲載されていたのである。
「なんじゃ、こら」
記事によれば、片岡は東京の骨董商に「注文が入った」と噓をついてイギリスへ美術品を送らせ、その美術品をロンドンで売りさばき、代金を独り占めしたということだった。堂々たる詐欺行為である。開いた口がふさがらなかった。
——最初に会った時から怪しいと思うとったんじゃ。
——噓こけ。調子よう飲んどったくせに。
——とにかく博物館に伝達しよし。
さっそく新聞記事を英訳してリードに見せると、たちまち難しい顔になった。
「南方さん、これは……」
「我はほんまに知らんかったんじゃ。詐欺師とは」
幸い、数年にわたって博物館の仕事を手伝っていたお陰で、熊楠個人への信頼が揺らぐことはなかった。熊楠はパブに行くたび、傍迷惑なやっちゃで、と己のことを棚に上げて片岡をくさした。
その他、ビールを飲みすぎて店や友人に反吐を吐く、嘲笑してきた女に殴りかかる、といった私生活での波乱は多少あったものの、研究生活は概ね順調であった。このまま研究を続ければ、「事の学」が確立する日もそう遠くないように思われた。
しかし、好事ばかりが続くとは限らない。
同じ年の秋、円形閲覧室で、熊楠は大事に使っていた絹帽が何者かに汚されているのを発見する。犯人の目星はついていた。以前から、こそこそと己を嘲笑したり、ちょっかいをかけてくる白人の男がいたのだ。そいつの仕業に違いない。確信した熊楠はその四日後、閲覧室で男の顔を見つけるなりつかつかと歩み寄った。
「おい」
書籍を読んでいた男は顔を上げ、目が合うと、口の端だけで笑った。
次の瞬間、熊楠は男の頰桁を力の限り殴っていた。男は派手な音を立て、椅子を倒して床にひっくり返る。ぎゃあっ、と女性の悲鳴が上がり、周囲は騒然とする。熊楠は構わず、胸倉をつかんでもう一発拳を見舞った。再び悲鳴。男は熊楠の手を振り払い、逃げようとする。
「待て、いてもうたら! 馬鹿にしくさりおって!」
熊楠は職員や他の利用者に羽交い締めにされたが、それでも罵声を吐き続けた。そうこうしているうちに図書館長まで飛んできたが、熊楠の罵詈雑言は止まず、利用者たちは辟易としていた。
結果、熊楠は翌月下旬まで閲覧室の利用を禁じられた。
——何とはなしに、調子が変じゃ。
ちょっとした不快に対しても苛立ち、激情が抑えきれず、手を出してしまう。腹立ちを紛らわすために酒を飲むと、今度は酔いのせいで道徳の箍が外れる。自分が今酔っているのか、素面なのか、それすら定かでなかった。
博物館では他の利用者の胸を突き、転居先の下宿では老婆を殴って朝まで牢に入った。さらには泥酔して閲覧室に入り、声高に話す女性利用客を激しく注意した。しかし相手が聞かないので館長代理に訴えたところ、熊楠のほうが追い出された。
「いい加減にしろ、ミスター・ミナカタ。あなたは揉め事ばかり起こす」
すぐに陳情書を提出したが、後日出された博物館の結論は「閲覧室への出入り禁止」であった。熊楠は再度許可を得ようと奔走したが、すべて不調に終わった。厄難の渦に呑まれているかのように、もがけばもがくほど溺れた。
その時期、常楠から送られてきた手紙にこのようなことが書かれていた。父弥右衛門の遺産のうち、熊楠が受け取るべき財産分はすでにこれまでの送金で超過している。また、世は不景気のうえ南方酒造が腐造を起こしてしまい、経営が苦しい。ついては、今後の送金は打ち切りたい。
手紙を読んだ熊楠は、愕然としてその夜眠れなかった。定職についていない熊楠にとって、収入源は実家の常楠からの送金だけである。
その後も常楠は少額だが仕送りを絞り出してくれたし、熊楠も倹約に励んだり、知人から借金をしたりして金を工面した。だが、十二分に研究をまかなえるほどではなかった。そして閲覧室への復帰の目処は、一向に立たない。
——熊やん、もう限界じゃ。
——何を。論文はようけ書いちゃある。
——諦めろ。日本でも学問はできる。
頭のなかの声は日々帰国を促す。熊楠は聞き流していたが、とうとう折れた。もはや、ロンドンにはいられぬ。
明治三十三(一九〇〇)年十月、熊楠を乗せた丹波丸が神戸港に到着した。出立した時に十九歳の青年だった熊楠は、三十三歳になっていた。
出迎えに来た常楠は三十歳になっており、妻子もいた。不景気のなかでどうにか南方酒造を切り盛りしつつ、長兄弥兵衛が事業に失敗した尻拭いをし、次兄熊楠の学費を捻出するという奮闘ぶりであった。ふがいない兄たちに代わって、見事に弥右衛門の跡を継いだのである。
熊楠はその後二年余り、常楠の家に居座ったり、田辺に滞在したり、湯崎の温泉宿に泊まったりと、紀州各地を転々としつつ採集を行ったが、移動、宿泊、飲食、その他諸々にかかる費用もすべて常楠の出資によるものだった。当然、那智の大阪屋の滞在費も常楠に払ってもらう腹積もりである。
もはや、金を出してもらうことへの後ろめたさは感じなかった。それは、来るべき学問の確立が人類の役に立つと信じているからであった。己は旧弊の学界に真新しい道標を建てる。その偉業の下では、数十万円の費消など安いものだ。というのが熊楠の主張である。
要するに、他に行き場がないがゆえの開き直りであった。
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