背筋|オシャレ大好き【ホラー短篇】
オシャレ大好き
コンクリートのふちに足をかける。下から吹き上げる風が心地好い。この気持ちはアドレナリンのせいなのか。怖いと感じない私はおかしいのだろうか。下を見つめる。サラリーマン風の男が足早に歩いている。私はやっと解放される。こんな世界から。
「さようなら」
そう話したあと、宙に身を躍らせた。風の音が耳に響く。歩道の地面が猛スピードで迫る。身体の奥から木の枝をまとめて折ったようなバキッという音が響いた気がした。
※※※※※
「これ、素材はなにを使ってるの?」
磨き上げられた全身鏡の前、コートを羽織った女性が言う。年齢は五十代くらいだろうか。額の汗が厚塗りのファンデーションを浮かせている。
「ウールを使用しております」
私は迷わず答える。なるほどねえ。そのようなことをつぶやきながら、コートの内側をまさぐっている。狙いは言われなくてもわかった。
「こちらのプライスは七十万円です」
少し前から、アイテムのタグに価格は記載されていない。需要の高まりによる頻繁な価格改定に対応するための、本国からの指示だ。
「え? ウールなのに、そんなにするの?」
真意を見透かされたことを隠したいのだろうか。それとも、自分はものを見る目があることをアピールしたいのだろうか。
「そうですね。『アニュス』では」
今シーズンのなかでは人気の型だからとか、ウールの産地にこだわっているからだとか、いくらでも理由は思い浮かんだが、敢えて言わない。
「そうなの。じゃあ、少しほかのお店も回ってから考えさせてもらいます」
そそくさと去っていく女性の背中に声をかける。
「ありがとうございました。また、ぜひ」
コートをハンガーにかけ、ラックに戻す。今日の最高気温は三十度を超えているというのに、店内にはすでに秋冬のコレクションが多く並べられている。
所定の立ち位置に戻ると、同僚の真理恵が寄ってきて、小声で言った。
「恭子、どうだった?」
「言わなくてもわかってんでしょ」
真理恵と話すときは、店の中でもつい気やすい口調になってしまう。フロアには客はいないが、いつもの癖で、前を向いたまま口だけを動かす。
「まあね。あの人のバッグ見た?」
「見たよ。だから私、この人買わないなって思ったもん」
「よくあんな偽物持って堂々と来れるよね。金具だって黄色いし、縫製もあんなに雑なのに、バレてないとでも思ってんのかな」
「偽物ってわかってんならまだいいよ。自分でも気づいてないままネットで買ってたり、プレゼントされてたりしたら救えないね」
話しながら、チラリと下に目を向ける。吹き抜けになった二階からは、一階がよく見える。アクセサリーやバッグ、財布などの売り場は、たくさんの人で混雑している。なかには、大学生と思しき女性や、社会人になりたてであろうカップルなども見える。ガラス張りの入口の前では、列になって並ぶ人間をドアマンがさばいている。
「みんな、好きだよね」
ポツリと漏らした言葉に、真理恵が応える。
「ロゴが入ってれば、なんでもいいんでしょ」
五階の従業員用通路をコンビニの袋を提げて歩いていると、前から背の高い女性が歩いてきた。あれは確か、キリコサガワの店員だったか。全身ブラックの服装に、前髪を切り揃えたモードな出で立ち。遠くから見ると、まるで悪魔がこちらに歩いてくるようだ。すれ違いざまにチラリと彼女の顔を見る。悪魔でもなんでもない。ただの疲れた女性の顔だった。
広い休憩スペースに入ると、今日もたくさんの人が座っていた。広さは、大学の学生食堂ぐらいだろうか。だが、学生食堂と大きく違うのは、皆、一様に疲れた顔をしているということ。はじめて入ったときは、自分が働く館の規模の大きさが表れているようでうれしく思ったものだ。だが今ではもう、疲れを癒す場以外の意味はない。
袋からサンドイッチを取り出す。はす向かいのテーブルでは、私と同じパンツスーツ姿の女性がプラスチックのカップに入ったサラダを美味しくもなさそうな顔で食べている。ひざにはチェック柄のブランケット。それを見て、休憩室の冷房が効きすぎていることを思い出した。あの人は、四階のジュエリーショップ、カーシェの店員だったような気がする。白い手袋をはめて、輝くネックレスを客に勧める彼女の表情は、店の品格に見合った上品な笑顔だった。それが今は、一切の感情がない顔で背中を丸め、機械的にサラダを口に運びながら、もう片方の手で机に置いたスマホをタップしている。端から見れば私も同じようなものなのだろうか。パックの野菜ジュースにストローを挿しながら考えた。
地下の休憩室はもう少し賑やかだと誰かが言っていた。高級デリやおもたせを扱う地下の売り場は、中年の女性店員が多いからだという。皆、休憩中は世間話で盛り上がっているらしい。私たちよりも歳が上の人間たちのほうがエネルギッシュとは、皮肉なものだ。
三時からの来店予約のことを考えつつサンドイッチを咀嚼していると、テレビの映像が目に入る。休憩室に数台設置されたディスプレイを見ている者はほとんどいない。私も普段はスマホを見ているか、机に突っ伏して寝ていることが多いので、チャンネルの変えられないそれに興味が湧くことはなかったが、なぜかそのときは気になってしまった。
音量が絞られていて音は聞こえないが、画面の雰囲気から察するに、野生動物のドキュメンタリーのようだった。羊の群れを上空から捉えた映像が流れている。
薄茶色の点が集まっていびつな楕円を形づくりながら、ひとつの方向に向かっている。画面の下にテロップが表示される。
『野生の羊は群れで行動します』
『では、群れの行き先を決めているのは誰でしょうか?』
『それは、最初に動き出した羊です』
『続く羊たちは行き先も知らないまま、先頭に従って動きます』
私は、自分の行き先を決められているのだろうか。つまんだサンドイッチからレタスの破片がテーブルに落ちた。
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