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イナダシュンスケ|お伽の国の特級酒、あるいは毛糸玉の中のローマ

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第14回 
お伽の国の特級酒、
あるいは毛糸玉の中のローマ

 その日は、早朝から始まるなかなかの大仕事でした。夜遅くまでかかることも想定内だったのですが、幸いスムーズに事が運び、夜の8時過ぎには撤収が完了しました。
 朝から12時間以上ほぼ飲まず食わずだった僕は、こんな日はちょっとくらい良いものを食べて帰ろうと、帰宅途中の駅前にあるイタリア料理店に寄ることにしました。以前に一度だけ行ったことのある、40年以上続く老舗しにせです。この時間からでも予約なしで立ち寄れそうな店として、ふと思い出したのがそこだったのです。

 腹ペコのはずでしたが、ちょっと疲れすぎていたのか、自分が空腹なのかどうかもよくわかりませんでした。なので、メインの付かない、前菜とパスタとデザートだけの軽いコースにしました。
 前菜に茄子と鰯とキノコを選び、パスタはメインが無いぶん重めのものをと、牛スジ肉のラグーソースにしました。デザートは林檎のタルトです。
以前行った時はテーブル席でしたが、その日はカウンター席でした。中央にボトル棚のあるコの字型のカウンター席を取り仕切るのは、かなりご高齢のマスターです。僕は一杯目に選んだグラスのスプマンテをまるで生ビールのようにあっという間に空け、目の前のマスターに「グラスワインの白をください」とお願いしました。
「白ワインね。グラスでいい?」と確認するマスターに、はい、と返しました。さすがに一人でボトル一本飲み切れる自信はありませんでした。マスターは、黙って頷き、少し腰をさすりながら、ワイングラスが吊り下げられたカウンターの端に向かいました。

 しかしマスターは、二、三歩歩いた後、なぜか突然、きびすを返して再び僕の前に戻ってきました。そしてこんなことを言うのです。
「あなた、特級酒飲む?」
 何を聞かれているのかよくわからないまま、「あ、はい、お願いします」と返しました。
 その瞬間、老マスターは、少年のように相好を崩しました。
「あなたは味がお分かりになりそうだから、私もお勧めしてみましたよ。うちの店はハウスワインも安くておいしいけど、特級酒は格が違う。何せね……格が違う。うちはね、お客さんは常連ばっかりだけど、赤も白も特級酒を飲む人の方が多いですよ」
 ようやく「特級酒」の意味を理解しました。この店のグラス売りのワインは、ハウスワインの他にもう一種類、それより少し値の張るものもあって、それをマスターは「特級酒」と呼んでいるようです。
「特級酒」という呼称は、たしかかつて日本酒に対して用いられていた言葉です。お酒に関する法律の改正か何かで、30年以上前から使われなくなった用語だったはず。活字ではなく、肉声でその言葉を耳にしたのは、僕も生まれて初めてかもしれません。それがまさかのイタリアン。まさかのワイン。

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