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大木亜希子「マイ・ディア・キッチン」第4話 料理監修:今井真実

ついにレストランの営業が再開! 料理を任された葉は熱心に仕事に励むが、母親が突然福岡からやってきて——

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第四話

「そろそろ、レストランの営業を再開しようと思うんだ」
 朝の空気を取り込むためリビングの窓を開けていると、木製の椅子に腰をかけたてんどうさんがそう告げた。んだ風が部屋中に流れ込み、彼がクシャミをひとつする。
「寒いですよね。すみません」
 慌てて開けたばかりの窓を閉じると、彼はコーヒーをひとくちすすり、「大丈夫。花粉の仕業かも。もうすっかりと春だねぇ」と言って立ち上がり、窓の外に目をやった。視線をたどると、向かいの家の庭に梅が咲いている。水彩画のような淡いピンク色が美しく、ふと私はこの街で暮らすようになり約半年が過ぎたことを実感した。この場所に来て最初の頃は、まだかればかりだったというのに。私がこの地で必死にふんとうする間も、周囲の樹々はしっかりと季節に合わせて装いを変えていた。時の流れの速さに驚く。
「あの……、いま仰ったこと。それは決定事項でしょうか?」
 おそるおそる確認すると、彼はいつものように聖母スマイルを浮かべる。
「もちろん、しらいしさんの気持ち次第。でも、僕はもう任せても大丈夫だと思ってる」
 その眼差しは不思議と確信に満ちていて、返答に詰まる。レストラン営業の再開は私自身、切望していたことだ。目標に対して熱意を失ったことはないし、レシピ集も熱心に読み込み、既存のメニューはあらかた短時間で作れるようになった。
 一方で近頃は、さんのメイクレッスンや、天堂さんの占いのアシスタント業にも慣れて、やり甲斐を感じ始めていたところだった。勿論いつかはこの状況から抜け出さなければと思っていたが、日々の仕事に追われ、その「いつか」がいつなのかということは考えてこなかった。いや、正直に言えば、心のどこかで考えることを放棄していたのかもしれない。私の複雑な気持ちを見透かしたように、彼は言葉を続ける。
「まだ不安って顔をしているね。でも大丈夫。一応、僕なりに考えたさくもあるんだ」
 彼の秘策とは、こういうことだった。
 Maisonメゾン de Paradiseパラダイスのメニューは冷菜と温菜が各四種、サイドメニューが六種、パスタが五種、肉や魚などメインが三種、デザートが三種ある。季節により食材に変動はあるが、品数はほとんど変わらない。
 天堂さんはこれを、一時的に二種類ずつに絞ろうと言う。調理にかかる負担を減らすことで、キッチンとホールを繫ぐデシャップ業務とホールスタッフを兼任する那津さんも余裕を持ってオペレーションをすることが出来るだろうというのが、彼なりのさんだんだった。
 ——品数を減らす、か。
 ただでさえ、今の料理人としての私の仕事は、占い客にスープを出すだけなのに、再びハンデをもらうことに申し訳なさを感じる。しかし、彼は言った。
「出来る範囲で新しい挑戦をするのは、ちっとも恥ずかしいことではないよ。余裕を持って料理を提供できたほうが、僕らだけではなくてお客さんにとっても良いことでしょう」
「それはそうですが……」
 この期に及んで、料理人としてのプライドが邪魔をすることに自分でも嫌気がさす。一体どうすれば良いのだろう。
「それに僕は、最近の白石さんの成長は目覚ましいと思っているんだ」
「へ?」
 思いがけず褒められて、間抜けな声が出る。彼が一例に挙げたのは、意外なエピソードだった。
「最近、感動したのは先週の土曜にさんがいつものように店にやって来て、娘さんが習うピアノ教室の先生の悪口をマシンガントークし始めた時、君が『話は聞きます。でも、せめてドリンクの一杯でも注文してくれませんか?』と言ってニッコリ笑ったことだね。彼女も渋々、エルダーフラワーのソーダを注文したじゃない。あのやり方は、見事だと思ったよ。お客様と僕らは、友達同士ではないのだから」
「あの時は、仕込みに集中したいのに日菜子さんが全然帰ってくれなかったので仕方なかったんです。しかも最近の彼女、『お水ちょうだい』と言って、本当に水だけ飲んで帰るんですよ? この店を愛してくれるのは嬉しいですが、準備中の店にこれほど立ち寄るなら、さすがにドリンクの一杯でも注文していただかないと」
 なんだか恥ずかしくなり弁明すると、彼は真面目な顔つきで言った。
「それが頼もしいと思ったんだ。僕がこの店の料理人に求めるのはお客様相手でもへりくだらず、きちんと自分の意見を伝えられることだからね。少なくとも数ヶ月前の白石さんにはできないことでした。本当に君は、随分と頼もしくなりました」
 もっと料理の技術が重視されると思っていたので、面食らう。この店では何が評価の対象になるのか分からない。
「ちなみに前に働いていたというレストランでは、食材の発注経験はあるんだよね?」
「もちろんあります」
 そう返答するが、実際のところ結婚前に勤めていた地元・福岡のイタリアンレストランはメニューの変更が通年ほとんどなく、日々決められた業者に肉や魚、野菜を発注するだけで良かった。
 当時の私は調理担当とホールスタッフを兼任していたが、自分が作った料理も先輩料理人が作った料理も、自信を持ってお客さんに提供していたかと聞かれれば正直、微妙である。
 あの頃は何も考えず、ただ与えられた仕事をこなしていた。そのことに疑問を感じたこともなければ、不安を感じたこともない。ただ給料を貰い、ばくぜんと雇われの身として働いているだけで、日々それなりに幸せだった。
 そして五年が経ったある日、出張で同僚と周辺を訪れていたえいが、夕食をとるため店に寄った際に声をかけてきた。その後、すぐに交際が始まり、半年でプロポーズされ、舞い上がるままに仕事を辞めて上京した。我ながら世間知らずのチョロい女だった、と思う。しかし、結婚直後から彼のモラハラが始まり、私は食事と体重を徹底的に管理されるようになった。次第に夕食の買い出しでスーパーに行ってもササミしか買うことが許されなくなり、いつしか生鮮食料品売り場に並ぶ肉や魚が、光輝いて見えるようになった。
 それからは不自由さの反動で隠れて魚をさばいたり、あらゆる食材を密かに料理したりすることが人生の唯一の楽しみになった——そんなことを思い出していると、天堂さんが説明を始めた。
「ウチの店は、魚介に関してはとよ市場から仕入れて配達してくれる知り合いがいるんだ。野菜と肉は今の時代便利なもので、各地で採れた食材をスマホからタップひとつで届けてくれる業者がいて、そこに頼ることが多いね。でも、野菜に関してはX市野菜即売所にひんぱんに君が通っているし、今後はあの玉ねぎみたいなヘアスタイルの女性に仕入れを任せても良いかもしれない。彼女なら、何かと協力してくれそうだし。とにかく僕らもいるし、一人で抱え込まないで。さっそく再来週あたりから再始動するのはどう? 今ご予約を承っている占いとメイクレッスンが、丁度その頃に一度落ち着くし」
「……分かりました」
 それから、と私は付け加える。
「再開に向けて、新メニューも考えてみます」
 彼は目を見開く。
「アメージング! そのチャレンジ精神こそ、Maison de Paradiseの料理人の心意気だ。じゃあ、お手隙で営業再開のお知らせをのきさきに貼っておいてくれる? その貼り紙を見たら、常連さんも喜んでくれるでしょう。どのメニューを残すのかは、また相談しよう」
「承知しました」
「白石さん。もっと自信を持ってね。これは業務命令です。君は自分で思うよりも、ずっと素晴らしい人だよ」
 今日の天堂さんは、いつになく優しい。私は引き受けた手前、「絶対に期待に応えるんだ」と気を引き締めると、朝食の支度に取り掛かった。

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