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ピアニスト・藤田真央エッセイ #57〈矢代秋雄との出逢い――新アルバム・レコーディング〉

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 ソニー・クラシカルインターナショナルから私の新アルバム「72 Preludes ショパン/スクリャービン/矢代秋雄:24の前奏曲」のリリースが発表された。私たちチームにとっても大いに待ち焦がれた逸品である。
 実のところ、2022年に発売したモーツァルト「ピアノ・ソナタ全集」の次回作について、私たちは何度もミーティングを重ねたが、どの案もしばし難航した。三人の作曲家による《24の前奏曲》に取り掛かろうと最終決定が下されたのは昨年2023年6月のことだ。

 裏話になるが、今回の目玉となった矢代秋雄《ピアノのための24の前奏曲》は企画の初期段階では構想に上がっていなかった。きっかけを与えてくれたのはキリル・ゲルシュタインだ。いつものレッスン室でショパンとスクリャービン《24の前奏曲》を録音する展望を伝えると、彼はふと考え込むそぶりを見せた。
「今のプログラムでも悪くはないが、君がやる意味はなんだろう。ショパン・コンクールの歴代受賞者たちがショパン《24の前奏曲》をいくつも録音しているし、沢山のロシア人演奏家がスクリャービン《24の前奏曲》をリリースしている。君にしかできない何かを加えてみるのはどうだろう。君の案には既に魚(=ショパン)とシャリ(=スクリャービン)がある。寿司が完成するのは間違いない。だが、寿司の旨味が増すのは刺激的なわさびがあってこそじゃないのかい?」と助言してくれたのだ。
 その金言に目から鱗が落ち、わさびとなる存在――私にしかできない、いや私だからこそ可能な作品を探すこととなった。大量の音源を聴きあさり、砂を揺すって砂金を探すような作業の末ようやく辿り着いたのが、矢代秋雄の《ピアノのための24の前奏曲》だった。矢代秋雄は1929年生まれ、パリでメシアンにも学び、46歳で夭逝した偉大なる邦人作曲家である。なおメジャーレーベルでのこの作品の録音は世界初になる。

 周到に準備を行い、遂に2023年12月に矢代秋雄とスクリャービンを、2024年4月にショパンを録音した。前回と同じチーム(調律師、録音技師、ディレクター、映像作家)、同じピアノ、同じスタジオという環境に恵まれたおかげで、のびのびと取り組めたことは言うまでもない。

 レコーディングは朝の10時から18時まで。途中昼食休憩を挟みながら一曲一曲丁寧に音を吹き込んでいった。一曲弾き終わる度、楽譜を片手に別室の録音ブースへ行く。レコーディングしたばかりの音源を録音技師と確認し、改善点があれば再びピアノの前に戻る。それぞれの作品は平均2分程度の小曲であるが、最低5テイク、最多で20テイク以上、納得いくまでトライさせてもらった。その作業を各24曲×3=72曲、繰り返す。

 力尽きたらチームのみんなで楽しいランチタイムだ。昼食はレコーディングスタジオ随一の料理上手(彼もまた録音技師らしい)が手作り料理を振る舞ってくれる。ある日はパプリカリゾット、またある日はペンネパスタ、野菜グラタン、ピザトースト、かぼちゃスープにパン……。同じ釜の飯とはこのことか、大鍋やグラタン皿にたっぷり作った一品をみんなで分け合って頂いた。調律師はベルリンで活躍する韓国人女性だが、日本のアニメ好きが高じて日本語を少し話すことができた。幸か不幸かアニメで覚えたというのがミソで、お昼が近づくと「腹へった?」と尋ね、食事が済めば「美味かった! 腹いっぱい!」と元気な声で言う。可愛らしいのでそのままにしておいた。

 そんな素晴らしいチームに恵まれたことが嬉しく、レコーディング最終日には私がアップルパイを焼いて振る舞った。砂糖をゆっくり熱したカラメルをりんごと煮詰め、パイは便利なパイシートに頼った。

 パイにフォークで穴を開ける作業には骨が折れたが、美味しいと評判だったので何よりだ。料理を褒められるのは演奏への賛辞をもらうより嬉しいかもしれない。
 アルバムのリリースは秋を予定している。この画期的で美味極まりない”寿司”を世界中の皆さんに楽しんで頂ければ幸いだ。

 さて、この秘密のプロジェクトを進めているなか、並行してアントワン・タメスティとのリサイタルツアーを行っていた。2024年1月末、彼がベルリン・フィルと共演するためにベルリンに滞在した際に3日間のリハーサルを行い、2月にはアリカンテ(スペイン)、ミラノ、ウィーン、そして3月には大阪、富山、東京でコンサートを行った。

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