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小田雅久仁 「夢魔と少女」〈中篇〉

大男・堀内に監禁された美少女・チヅルを前に、夢魔たる私に何ができるのか? イチかバチかで堀内の夢に入り込むことにした私は——

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 その後も母屋の探索を続け、わずかではあるが新たな情報を得た。居間のサイドボードの上に並べられていた写真からわかったことだが、男はどうやら一人息子だったようだ。四枚の家族写真のうち、いちばん古いものは、男がまだ一歳か二歳のころで、自分の顔ほどもある大きなハンバーガーを手に満ち足りた頰笑みを浮かべている。どんな悪党でもきらめきを放つ瞬間はあったのだ、という事実を示す貴重な一枚なのかもしれない。
 男は両親がかなり歳がいってからできた子供のようで、一人息子が生まれたとき、母親はおそらく四十ぐらい、父親はさらに上で五十を超えていたのではあるまいか。互いに婚期を逃し、余り物どうしでやっとこさくっついたというみじめななりゆきが想像され、生前に会ったこともない老夫婦に人生の悲哀を感じた。夫はハコフグを思わせる角張った顔立ちで、息子と同様、左右に離れた愚鈍そうな小さな目をしているが、写真の笑顔を見るかぎり、大らかな気のいい大男といった雰囲気だ。一方、妻は小柄で面長、あいだの狭い切れ長の目、細い鼻、尖った顎とちょっときつい面立ちをしている。両親がどんな人柄だったにせよ、四枚の写真から推測できるのは、幼いころの男は人並みに愛されていた、いや、もしかしたらできあいすらされていたかもしれない、ということだ。待ちに待ったひとつぶだねということだったのだろう。しかしその愛息は、普通の人間には育たなかった。いつごろ始まったのか知るすべはないが、あるとき、男の背中に奇怪なものが噴き出すのだ。あちらの病院こちらの病院と息子を連れまわすが、医者はみなこんなものは見たことがないとかぶりを振ってさじを投げる。占い師や霊能者に頼ったこともあったかもしれないが、カネをふんだくられるばかりで息子の病状は日に日に悪化してゆく。親子三人のうなだれて帰るさまを思うだけで気がふさぐ。
 二階北側の六畳間の本棚に、古いアルバムが並んでいるのを見つけた。もちろん実体を持たないの身である以上、手に取って眺めるわけにはいかないが、背表紙に書かれた文字から、男の名前が〝かずまさ〟だと知れる。ほりうち和正。しかし男は、親の期待もむなしく、なごやかでもなければ正しくもないどうに育ったようだ。
 母親がいつ死んだか知りたいと思い、手がかりを探したが、見つからなかった。母親はきっと書類上まだ生きていることになっており、堀内はその年金を頼りに暮らしているのではないかと思われる。堀内はおそらく無職で、少女と猫とボヅラを飼育することに日々を費やしているのだろう。そんな不毛な暮らしにあすなんぞあるはずもなく、堀内と少女は、ただくりかえされるきょうという日を呑みくだし呑みくだし生きながらえているに違いない。
 離れに戻ると、堀内は半裸のままとんの上で胡座あぐらを搔き、バラエティ番組を見ながらけたけたと笑っていた。その図体にそぐわないかんだかい笑い声を聞いていると、むくつけき男の姿に、幼い少年のあどけない煌めきが重なるようだった。少女はそのかたわらにひざを抱えて座り、テレビを見ながらときおり頰をゆるませはするが、その笑みはぎこちなく、決して堀内と同じ場面で笑うまいと腹の底で誓っているようにも見えた。
 私は少女のすぐわきに腰をおろし、あらためてその姿をまじまじと観察した。やはり私の存在を感じとったのだろう、はっとした様子でそれとなく視線を走らせるが、やがてかすかに首をかしげたあと、テレビに目を戻す。ろうの夢魔の侵入よりも、堀内がそばにいることのほうが少女にとってよほど不愉快な現実であるに違いない。長いまつりんとしたまなざし、かたちのよいつんとした鼻はいかにもかたくなそうだ。やや尖った唇は、いつか本当のことを残らずぶちまけて世界をひっくりかえしてやると言わんばかりに我慢強く閉ざされている。けんに小さなほくろがあり、あたかも意志の強さを示す天与のしるしのようだ。堀内と並んだ姿は、〝美少女と野獣〟とでも言いたくなる。やはり見た目の可愛らしさで選ばれたのだろうか。それとも狙いやすい獲物を見つけたら、たまたま美少女だったということなのか。
 いずれにせよ、最大の疑問は、いったいいくつのときにここに連れてこられたのかだ。仮に今が十三歳だとして、ここまで大きくなれば、体力的にも知能的にも、そう簡単には誘拐されまい。そう考えると、もっと幼いころにここに連れてこられたのでは、との推測が働く。あまり想像したくはないが、子供が一人で出歩くようになる小学校に入りたてのころということも考えられる。そこまで行かずとも、仮に八歳だとすると、もう五年もここにいることになる。あり得ない話ではない。この歳で五年となると、半生と言っても過言ではない。殺すよりはまだマシだということなのだろうが、殺すほうがまだ慈悲があるような気さえしてくる。殺害という瞬間的な凶行よりも監禁という継続的な虐待のほうが悪意の総量が大きく、よりむごたらしく感じられるからだろう。
 堀内がテレビを見ながらまたけたたましい笑い声をあげた。その笑い声を耐え忍ぶように、少女は細い腕でさらに強く膝を抱える。私は少女のこわった横顔を眺めながら、胸のうちでつぶやく。すぎもとのことは救えなかったが、この少女のことは救えるだろうか、と。

 堀内の夢に踏みこんでみよう、自然とその考えが湧いた。彼の夢のなかに、この状況を変える手がかりがひそんでいるかもしれないからだ。
 しかし堀内はなかなか眠りにこうとはしなかった。夜の九時ごろに一度、夕飯を準備しに母屋の台所に行ったが、スーパーのそうざいらしきものを手にすぐに離れに戻ってきた。鶏の唐揚げ、ポテトサラダ、チヤーハン稲荷いなり寿……テレビを見ながら二人でそれをつまんだ。印象としては、七割方、堀内が食べ、残りを少女が片づけるといった感じだ。少女はちょうど育ち盛りのはずだから、きっと物足りないだろうが、不満を述べたりはしなかった。もし余計なことを言って堀内の機嫌を損ねれば、その残りものすら回ってこないということなのかもしれない。
 十時台のバラエティ番組を見終えると、堀内はいったん母屋の台所に戻り、冷蔵庫から鶏の胸肉らしきものを取り出して、乱暴な手つきで細かく切り刻みはじめた。こんな時間からあらためて料理をするのかといぶかしみながら見ていると、次にキャベツを切りはじめた。その鶏胸肉とキャベツを洗面器に放りこむと、それを手にまた離れに戻ってきた。そのころにはもう勘の悪い私にも察しがついていた。ボヅラのえさだ。虫けらでも喰うのかと思いきや、どうやらやつらは雑食性で、生意気にも生肉とキャベツがお好みらしい。
 少女は堀内から肉とキャベツの入った洗面器を黙って受けとると、毎度のことだというふうに、慣れた身の運びで飼育ケースを一つひとつ棚からおろしては、ふたを開けて肉とキャベツを放りこんでゆく。ボヅラたちも餌の時間だと知り、飢えにたかぶった醜い顔をケースに押しつけてしきりにきいきいと騒ぎたてる。餌が来ると、我も我もと案外器用に手でつかみ、小さな鋭い歯でむさぼるように嚙みちぎってゆく。その獣じみた様子が、人間の赤ん坊に似ているだけになおいっそう不気味で、存在してはならないものがここに存在しているという嫌悪感が募ってくる。少女は餌と一緒にポリボトルの水差しでなかの小皿にも水をぎ足してゆくのだが、ボヅラたちは頭をぶつけながら争うようにして喉をうるおしては、肉とキャベツをみるみる平らげてゆく。少女の餌やりの手順は流れるようで、まさに日々のルーティンといった感じだが、ボヅラたちが彼女になついている様子は一切なく、また、少女のほうもボヅラたちに愛着をおぼえているような気配はまるでない。少女としては、自分がここに連れてこられた理由、そしてここに居つづけなければならない理由が、まさにこのボヅラにあると知っているはずだから、いくら我が手で取りあげた赤ん坊とはいえ、情が移るなどということは考えられないのだろう。
 ケースのなかをよく見ると、直径が数ミリほどの丸っこい黒いものが土の上にいくつも転がっている。どうやらボヅラのふんらしい。この部屋に充満している臭気の主な源となっているに違いないが、もしかしたらボヅラそのものも臭いのかもしれない。もちろん定期的に糞の掃除もおこなわれているはずで、それもまたおそらく少女の仕事だろう。一方、堀内は、餌やりを続ける少女を横目に、ときおり尻を搔きながら薄らぼけたような顔つきでテレビを見ているだけだ。
 結局、堀内は日付をまたいで夜中の一時過ぎまで離れでテレビを見つづけ、餌やりを終えた少女は忍耐強くそれにつきあった。おそらく少女の持っている知識は、ほとんどがテレビから得たものだろう。しかしそれを言うなら、この私も同じ穴のむじななのだが。テレビを見終えると、堀内は離れのドアのラッチ錠を抜け目なく閉めて少女を閉じこめ、惣菜のからのパックやボヅラの餌の入っていた洗面器などを手に母屋に戻ってきた。そして猫に餌をやった。猫は堀内に懐いている様子で、彼がソファに座って「ユキ……」と呼びかけると、嬉々とした様子で膝に乗ってきた。堀内はごつい手で猫の頭やら背中やらを存分に撫でまわしたあと、柔らかそうな腹に鼻面を押しつけて、いかにもかぐわしげに匂いを嗅いだ。その顔には不器用ながらも満ち足りた頰笑みが浮かんでおり、堀内が人間らしい感情をすっかり失ったわけではないことを示していた。しかし堀内が猫とたわむれるこの瞬間も、居間の真上の八畳間では、母親の死体と亡霊がはんもんし、離れという牢獄では、瘦せっぽちの少女がりよしゆうとして寝苦しい夜を過ごしているのだ。
 あいびようとの親密なひとときを楽しんだあと、堀内は背中の腫れ物の痛みにうめきながらシャワーを浴びた。そしてあの禍々まがまがしい絵で壁をおおいつくされた六畳間のベッドに座り、缶ビールをあおりながら、悠然とこうべを巡らして自分の作品を眺めはじめた。その様子はどこか満足げで、絵画に目のない孤独な富豪が、世界じゅうの美術館から盗まれた名画のそろう自分だけの秘密のギャラリーで至福のひとときを嚙みしめているような雰囲気すら感じられた。
 正直なところ、私はあんしていた。どこかの時点で、堀内が少女に性的な行為を強要するのではないかと恐れていたからだ。もしそんな展開になれば、あまりに無残な光景に、とうてい同じ部屋にはいられなかったろう。しかし幸い、そんなことは起こらなかった。少なくとも今夜は起こらなかった。
 缶ビールを飲み終えると、堀内は便所に立ち、恐ろしく長々と小便をした。その後、部屋に戻り、電気を消し、ようやくベッドに横になった。横にはなったが、すんなり寝つけないたちらしく、暗がりでしきりに寝返りを打ったり溜息をついたりした。背中の腫れ物が痛むのか、それとも良心が痛むのか、この男が不眠に悩まされる理由は充分すぎるほどあるが、それでも夜中の三時を過ぎたころには、とうとう息苦しげな途切れ途切れのいびきをかきだし、その巨体から夢の香りが立ちのぼりはじめた。ただの夢ではない。ひと嗅ぎでわかるような、濁りのきつい悪夢の香りだった。

 堀内の夢にもぐるやいなや、私は思わず息を呑んだ。天地左右、隅から隅まで完全に色を喪失した白黒の世がひろがっていたからだ。昔はテレビや映画が白黒だったからみんな色のない夢を見たもんだ、などという年寄りの小話があるが、実際に白黒の夢を見る人間は滅多にいない。ほとんどの場合、色を思い出せないだけなのだ。正真正銘の白黒の夢となると、私も年配の夢魔から又聞きの又聞きのような噂話を聞いたことがあるだけで、ツチノコなんぞと同様、迷信ではあるまいかと長らく疑っていたぐらいだから、当然お目にかかるのは初めてのことだった。あつに取られながらも、道理で取り憑かれたように黒一色の絵を描き散らすわけだと腑に落ちた。
 しかし驚いた理由はもう一つあった。目の前にひろがった世界は、夕方に少女が見ていた悪夢にそっくりだったのである。天をむしばむように枝を伸ばすねじくれた黒い樹々、吹きわたる冷たい風に舞う落ち葉、永遠の黄昏たそがれと言わんばかりの暮れなずむ夕陽……色こそないものの、堀内が支配するという〝出られずの森〟そのものだった。そんな世界で、私はまたもや一羽のからすとなって樹のうろから顔を出し、さくばくたる灰色の光景に目を奪われていた。この森のどこかに夢のぬしたる堀内がいるはずだが、と辺りに目を走らせるが、どちらを見ても凍りついた黒い炎のような樹々が彼方かなたまで延々と身をよじらせているばかり、しばし途方に暮れた。
 と、右手のほうから、大地のはらわたを揺らすような低い重たいごうおんが響いてきた。はて何ごとか、と洞から飛び出し、樹々のあいだを羽ばたいてゆく。すると、十数人はいたろうか、落ち葉を蹴散らしながら駆けてゆく一群の人影が見えてきた。子供が多いようだが、大人も交じっており、みな興奮した様子で目を輝かせ、ときおり言葉を交わしながら、音がしたほうに向かって我先にと走ってゆく。彼らに近づいて耳をそばだてると、「とうとう〝怪物の穴〟を見つけたぞ」「今度こそ親子ともども仕留めてやる」というようなけんのんな言葉が聞こえてくる。言われてみれば、さっきの轟音は、巨大な獣のほうこうに聞こえなくもなかった。もしや堀内がみずから描いたようなおぞましい怪物となって吠えているのだろうか。
 人間たちを追い抜いて先を急ぐと、数百人はいるだろうか、さらなる大勢の灰色の群衆が暴徒さながらに大騒ぎしているのが見えてきた。そこらじゅうから石や枝を拾っては、何やら憎々しげにわめきながら向こうに思いきり投げつけているようだ。彼らが何に向かって騒ぎたてているのかを上空から見きわめるべく、張りめぐらされた枝をかいくぐりながら上昇すると、出し抜けに巨大な穴が目に飛びこんできた。さっき聞いた〝怪物の穴〟に違いない。直径が五〇メートルほどはあるだろうか、見事な、と言いたくなるような真円に近い大穴が、こつぜんと森のふところに出現し、ぽっかりと暗い口をあけていた。しかもり鉢状の穴ではなく、奈落から水をみあげる井戸のようにすとんと深く垂直に落ちこんでおり、群衆はその大穴をいくにも取り囲んで、目を三角に吊りあげたりあざけりの笑みを浮かべたりしながら石だのなんだのをしきりに投げこんでいるのだ。
 と、そこでまた先ほどの轟音が響きわたり、私の羽根という羽根を余すところなく震わせた。やはり音は大穴のなかから聞こえてくるらしい。私は大穴の上に出て、見おろした。夕暮れ時ということもあって穴のなかは陽が届かず、髑髏しやれこうべがんのように暗くかげっていたが、底のほうで何やら白っぽい巨大なものがうごめいているのがわかった。なんだあれは、と胸騒ぎを感じながらしばし穴の上空を旋回していると、その白いものが、だんだんと、瘦せこけてごろごろと骨の浮いた人間の背中のように見えてきた。どうやら一糸まとわぬ素っ裸の巨人らしきものが大穴の底で四つん這いになり、人びとの投石のせいだろうか、ときおり苦痛のあまり呻き声をあげているらしい。巨人は骨と皮ばかりの瘦せさらばえた女のように見えるのだが、その姿はあまりにも大きく、すっくと立ちあがれば、背丈が数十メートルに届きそうだ。穴から這い出ることさえできれば、ちっぽけな人間の群れなんぞひと息で蹴散らせるであろうきよだが、そうとう弱っているのか、穴の底でうずくまって耐え忍ぶばかりのようだ。怪物と聞いて堀内に出会えるかと期待していたのだが、どうやらあの巨人は夢のぬしではないらしい。
 あめあられと飛んでくる石や枝に気をつけながら、私は穴のなかに滑空していった。全体像を把握すべく、大女のまわりをしばし旋回する。啞然とするばかりの巨大さだが、がいこつに皮を張りつけただけのような痛ましい姿で、しかもその骨の浮いた皮膚のそこかしこにじくじくと黒い醜いしゆようらしきものが散らばっており、いまにもどうとくずおれ、そのまま息絶えるのではと案じられる。べったりとした長い髪が漆黒の滝のように穴の底まで垂れさがり、顔を見えにくくしているが、隙間からちらりと覗いたその面差しに、私ははっとした。母親だ、と思った。ゆうさながらの容貌ではあるが、居間に飾られた写真で見た、四十代と思われるころの母親の面影があった。どうやら堀内は母親の夢を見ているということになりそうだが、この尋常ではない巨大さは、彼の目から見た母親の存在感の大きさを表しているのだろうか……。
 と、そこでようやく私は夢のぬしらしき人影を発見した。大きな四阿あずまやのように四つん這いになった母親の鳩尾みぞおちの下辺りに、十歳ほどだろうか、少年の姿の堀内が打ちひしがれた様子で頭を抱えてうずくまっているのが見えたのだ。少年は当たり前の子供の寸法ではあるが、母親と同様、一糸まとわぬ瘦せこけた姿で、その背には、すでにいくつもの腫れ物がごつごつと痛々しく盛りあがっている。どうやらこの巨大な母親は、一人息子を迫害から守るべく懐にかくまっているらしかった。さっきからときおり母親が呻き声をあげるが、しだいにその声が細り、体もぐらついてきており、力尽きるのも時間の問題と思われた。
 降りそそぐ石や枝から逃れるべく、私は瀕死の母親の腹の下に降り立った。少年の震える背中が見えた。すすり泣くようなえつに交じって、ママ、だの、背中が痛い、だの、助けて、だのの惨めな言葉が漏れ聞こえてき、たかがひと夜の悪夢と知りつつも、しかも子供をかどわかす悪党の夢と知りつつも、私の憐れを誘う。
 と、そのとき、母親がひときわだいおんじようの苦痛の呻きを発し、私の骨という骨を揺さぶった。その声は大穴に幾重にもだまし、穴の内壁からばらばらと音を立てて石やら土やらががれ落ちてきた。もしや断末魔のひと声か、そう思ったところで、果たして母親の巨体が左側にへんにゆっくりと傾いてゆき、爆破された高層ビルのようにすさまじい地響きとともに倒れ、暗がりに濛々もうもうと砂煙があがった。
 しばしのあいだ、砂煙に視界を奪われ、自分のくちばしすら見えぬようなあんかいしよくの世界に包まれた。大穴の周囲に群がっていた人間たちもよほど驚いたのだろう、ののしりの言葉が途絶え、石も何も降ってこない。が、しだいに視界が晴れてくると、横ざまに倒れこんだ母親の姿がおぼろながら見えてきた。母親は、いまのいままで生きて息子を守っていたはずなのに、とうの昔に倒壊した古代の石像さながらに無数のれきの山となって崩れ去り、わびしいような巨大なむくろをさらしていた。
 そう言えば少年はどうなったろう、と慌てて見まわすと、さっきまで少年が泣きじゃくりながらうずくまっていた辺りに、いまだ晴れやらぬ砂煙にかすむ黒い影が目に入った。しかもその影は、心臓のようにどくりどくりと拍動しながらも、見る見るふくれあがり、ボタ山のように黒ぐろと盛りあがってゆく。ああ、怪物だ、と思った。その姿はまさに堀内がしつように描きつづけてきた漆黒の怪物そのものだった。
 怪物だ、怪物がまだ生きてるぞ、と頭上で群衆が叫んだかと思うと、ふたたび石やら枝やらが雨霰と投げこまれてきた。私は慌てて瓦礫の山と化した母親の陰に飛んで難を逃れたが、怪物は何がどこに当たろうと毛ほどもひるまず、四つん這いのまま地を這うような唸り声を発している。そうするうちにも怪物は汲めども尽きぬ憎しみに身をゆだねるようにいっそうふくれあがり、いまや亡き母をもうわまわる黒い巨人となって穴の底にそびえ立った。その背中が泡立つようにぼこりぼこりと盛りあがったかと思うと、その無数の泡が次々にはじけてボヅラが生み出され、狼ほどもある人面の獣として、あるじたる怪物の背から甲高いときの声をあげながら跳びおり、大穴の壁を猛然と這いのぼってゆく。よく見ると、ボヅラたちの前脚には蝙蝠こうもりのような大きな皮膜があり、ある程度、壁を登ると、羽ばたいて宙を舞いはじめた。有翼のボヅラは瞬く間に増殖し、ざっと見ただけでも二、三百匹はいるだろうと思われた。しかも漆黒の怪物の背中からは、地獄の蓋でも開けたように途絶えることなくそのボヅラが湧き出てくるのだ。ボヅラの群れはどうやら穴の外に達して群衆を襲いはじめたようで、あちらこちらから老若男女の悲鳴が聞こえてくる。すると、さっきまで石や枝だったのが、今度は次から次に人間がまるごと降ってきて穴の底に叩きつけられ、どさりどさりと生臭いような嫌な音を立てる。どうやらボヅラたちが人間を手当たりしだいに捕まえては穴に落としているらしい。怪物はその破けた血袋のような人間たちの骸をつかんでは喰らいつかんでは喰らい、そのたびに何やら歓喜のたけびらしきものをあげる。
 あまりにせいさんな光景に、これ以上この悪夢にはつきあえぬと思うが、夢の出口はまず間違いなく大穴の外にある。つまりどうにかこの穴から脱出せねばならないのだが、穴のなかにも上にも無数のボヅラが縦横無尽に飛びまわっていて、見つかればよってたかって八つ裂きにされかねない。もちろん夢のなかで殺されたところで夢魔である私が死ぬわけではないが、経験上、そうやって強引に夢からはじき出されると、二、三日は立ちあがるのもおつくうなほど覿てきめんに体力を消耗する。だからなるべく正規の道すじで夢から抜け出たいのだ。
 さてどうしたものか、と思案していると、右手のほうでひと抱えもあるような瓦礫の動くのが見えた。その瓦礫がごろりと転がり落ちてゆく。また別の瓦礫が動き、同じように転がり落ちていった。どうやら瓦礫のなかに何者かが埋まっているらしい。ボヅラに落とされた人間が瓦礫のなかに突っこんだのだろうか。いや、そんなはずはない。あんな高さから落とされて生きているはずがないし、たとえ生きていたとしても瓦礫をどかすほどに動けるとは思えない。しかし手が見えた。瓦礫のなかから細っこい人間の手が生えてきたのだ。次に上半身がむくりと起きあがる。白っぽいすなぼこりにまみれた姿だが、どうやら十三、四の少女らしい。ああ、あの子だ、と気づく。離れにとらわれたナカジマチヅル……。母親のなきがらのなかから少女が起きあがる、いかにも夢らしいとつな展開だが、怪物にとって何か意味のあることなのだろうか、と首を傾げていると、
「やめてえ!」と少女が出し抜けにつんざくような声を張りあげた。「もう、やめてえ!」
 どうやら怪物とボヅラによる大量さつりくのことを言っているらしい。少女は瓦礫のなかから立ちあがると、転げ落ちるようにして駆けおりてゆく。そして巨大な怪物の膝元に走りより、すがりつき、いまにも泣き出さんばかりのぎようそうで、
「もうやめて!」と叫ぶ。「あたし、どこにも行かないから! ずっと一緒にいるから!」
 その約束の言葉が大穴に木霊する。すると、怪物の巨軀が空気でも抜けたようにひと回り小さくなり、と同時に人間の降ってくるのがぴたりと止まった。本当にぴたりと。見あげると、十人ぐらいはいるだろうか、落下の途中で時間が止まったように人間が空中で完全に静止している。人間だけではない。ボヅラたちもまた、羽ばたく格好のまま凍りつき、微動だにしない。なら怪物と少女はどうだ、と目を向けると、二人だけは動けるらしい。怪物はいまにも頭からかぶりつこうとしていた血まみれの人間を、急に喰いが失せたように放り捨てると、まじまじと少女を見おろす。怪物の目は、夜更けの車のヘッドライトのように白じらと無機質に光っているが、少女の言葉に心を動かされたのは明らかだ。くしの歯のような牙がずらりと並んだ巨大な口も、ゆっくりと閉じられ、小さくすぼまってゆく。
 そこでふと、いまじゃないか、と気づいた。逃げるならいまだ。しかし少女を置いたまま逃げるのか? いや、待て。あの少女はこの夢のぬしではなく、あくまで堀内の悪夢の脇役、彼の記憶と感情からねつぞうされた魂を持たない人形に過ぎない。救ってやる必要などないのだ。あまりに深く堀内の夢にのめりこみ、妙な錯覚におちいったようだ。そんなことを考えるあいだにも、漆黒の怪物はみるみるしぼみ、瘦せっぽちの少年の姿にまで戻ってゆく。少年は命が燃え尽きたように膝を突き、少女の胸元に崩れ落ちた。少女はそれを受け止め、痛々しく腫れあがった彼の背中をこの上なく優しい手つきで撫でさする。少女は小声で子守歌か何かを歌っているようだが、招かれざる客である私の耳には言葉も旋律もしかとは届かない。
 私は飛び立ち、空中に静止した人間やボヅラのあいだを縫うように上昇してゆく。ちらりと振りかえると、穴の底の暗がりにいだかれるように少女と少年の姿が見える。時間の止まったなる世界で、二人だけの小さな子守歌がつむがれつづける。

 夢から抜け出た私は、ベッドの傍らに立ち、堀内の寝姿をしばし見おろす。彼は黄ばんだ抱き枕にしがみつき、眉間に険しいしわを刻み、ぎこちない不規則な寝息を立てていた。夢のなかで見た少年の姿からは、三十年ほどが過ぎ去っているだろう。このたいぼくじみた巨体の奥底で、母親を求めて泣きじゃくる少年の魂がまだ息づいているのだろうか。
 灰色の悪夢の苦みがまだ頭の芯でとぐろを巻いていた。穴の底に叩きつけられ、黒ぐろとした血溜まりに浮かぶおびただしい死体、死体、死体……。色のない世界の懐で、その死屍ししの群れに囲まれて一つになる少年と少女……。おぞましさに身震いが走る。もう二度とこの男の夢にはもぐるまい。実を言えば、夢のなかで離れの少女を逃がすよう説得できるのではといちの望みをいだいていたのだが、堀内が夜ごとこんな荒れた悪夢を見つづけているのであれば、とうてい目的はげられそうにない。
 堀内の悪夢は私の活力にはなり得ないどころか、逆に体力を持っていかれてしまった。近隣の家々に狩りに出て、もっとまともな滋養のある夢を喰わねばならない。そう思いながら私はいったん堀内の屋敷から退却し、食指の動く夢の香りを求めて夜道を徘徊しはじめたのだが、頭のなかでは一つの計画がかたちになりつつあった。少女を救うために、何も堀内に直接働きかける必要はないのではないか? ゆっくり時間をかけて、外堀から埋めてゆけばいいのではないか?

十一

 翌日の夕暮れ時、私は堀内家のはすかいにある空き家の一室で目を覚ました。〝り〟の猫や正気を失った亡霊のまうまわしい屋敷で寝泊まりしたくなかったのだ。
 ねぐらをあとにすると、路線バスの走る大通りに出て、夕陽を背にしばらく歩いた。そしてそう時間も経たないうちに、目的のものを見つけ、立ち止まった。交番だ。小学校の向かいにある古ぼけた鉄筋コンクリート造の建物だった。なかを覗くと誰もおらずがらんとしていたが、私が探していたのは警官ではなかった。交番の前に立つ掲示板を見たかったのだ。指名手配犯の顔写真、〝秋の交通安全運動〟のポスター、きのうの交通事故の被害者数、そして幸運にも、探していたものがあっさり見つかり、思わず息を呑んだ。小学生女児略取誘拐事件のポスターだ。
 まさにこれじゃないか、と驚きに打たれた。二〇一八年八月十四日、埼玉県M市D町における小学生女児略取誘拐事件と書かれてある。女児の名前は中嶋千鶴、現在十三歳、当時八歳。私の気まぐれな予想がドンピシャリ、怖いぐらいだ。

事件発生から五年が経過、もしご自身の近くに似ている女児がいると思えばご連絡ください。心当たりのある方はぜひご連絡ください。さいなことでも、とくめいでもかまいません。皆様からの情報をお待ちしております。
捜査特別報奨金 上限額三〇〇万円
埼玉県M警察署 捜査本部

 五年前にはこの事件について全国的に報道されたはずだが、こうしてポスターを見ていると、朧気ながら記憶にのぼってくる。たしか母子家庭で、母親が怪しいとか、交際相手と結託したのではとか騒がれていたのではなかったか。しかしその線はすぐに消えて、母親と祖父母がどこかの駅前で情報提供を求めてチラシを配っていた映像もワイドショーか何かで見た気がする。私が人間だったなら三百万円が転がりこんでくるところだが、このとおりしがない夢魔のそらであるからには、三百万の使い道もなければ、匿名の電話をかけるために受話器を持ちあげる手も持ちあわせてはいない。
 少女の大きな顔写真が一枚、小さな顔写真が五枚並んでおり、まじまじとそれらを見つめた。大きな写真のなかの少女は、水色のTシャツを着、右手に黄色いフリスビーを持って顔の横に掲げ、世界は決してあたしを傷つけないとでも言わんばかりの、満ち足りた笑みを浮かべている。五年前の写真だが、間違いない。あの少女だ。写真のなかではほどよく日焼けしているが、離れに閉じこめられているせいで洞窟の生物みたいにすっかり色白になっている。やや面長になっているものの、涼しげな目元と言い、通った鼻すじと言い、整った顔の印象は変わっておらず、私は少なからず安堵した。五年ものあいだ極限の状況に置かれつづけ、ストレスによって容貌によからぬ変化が起こったのではと案じていたのだが、そうではなかったようだ。十三歳にしては小柄だという感じもせず、栄養状態も劣悪とまでは言えないようだ。堀内は間違いなくじよういつした悪党だが、少なくとも少女に最低限の食事は与えてきたのだろう。
 しかしいくらポスターを隅ずみまで眺めても、中嶋千鶴がどのような状況で誘拐されたかは書かれていない。目撃者がまったくいなかったのだろう。埼玉県M市と言えば、ここK市の南側に隣接する市だ。八歳の少女が一人で隣の市まで移動するとは思えないから、堀内のほうがわざわざ出向いて拐かしたのだろう。きっと車を使ったに違いない。車庫にあったあの黒塗りのSUVだ。力尽くで車に引っぱりこんだのか、それとも言葉たくみに自分から乗るように仕向けたのか、いずれにせよ、八歳の子供が相手では充分にあり得る話だ。
 それにしても、育ちざかり遊びたいさかりの子供が五年ものあいだ、あんな狭苦しい陰気な離れに閉じこめられつづけているとは、想像するだけで胸が悪くなってくる。しかしそこで、昔どこだかの家で見たルイ十七世にまつわるドキュメンタリー番組を思い出した。ルイ十七世はルイ十六世とマリー・アントワネットとのあいだに生まれた次男で、フランス革命の最中にパリのタンプル塔の陽もさぬ不潔極まりない独房に幽閉され、栄養失調と病のために幽鬼のごとく瘦せ細り、わずか十歳でごうの死を遂げたとされる。それを思えば十三になるまで生きながらえている中嶋千鶴はまだマシと言えるのかもしれないが、それもあくまで、これまでのところは、というただし書きがつく。あの子の行く末にいくら思いを巡らしても、悲劇的な結末ばかりが胸に浮かんでくる。それこそルイ十七世のように病にかかって衰弱死するかもしれないし、堀内のカネが底を突いて餓死に追いやられるかもしれない。あるいは少女が一か八かの賭けに出て堀内に襲いかかり、逆に殺されてしまうということもあり得る。一つだけ細い光明のような筋書きがあるとすれば、離れでうっかり眠りこんでしまった堀内の隙をついて少女が逃亡に成功するというものだが、当然のことながら、堀内はつね日ごろからその可能性をもっとも恐れ、慎重の上にも慎重を期しているはずで、私としてはそこに期待して腕をこまねいている気にはなれない。
 ルイ十七世の死後、彼がタンプル塔から脱走したという噂が流れ、のちに我こそがルイ十七世であるとせんしようする者が数多く現れたという。こんにちではDNA鑑定により彼がタンプル塔で死亡したことがたしかめられているが、私としては、中嶋千鶴にルイ十七世のてつを踏ませるつもりはない。夢魔であるがゆえにかなわぬことを、夢魔にしかできない手で補うほかないと、私は腹をくくった。

十二

 堀内の屋敷の真向かいに、〝みず〟と表札のかかった一軒家がある。その水野家にあがりこんだところ、夫婦に子供二人の四人家族であると知れた。子供は、中学生であろう姉と小学校高学年と思しき弟で、それぞれ〝イチカ〟と〝アオト〟と呼ばれている。イチカはスマホに心を奪われており、アオトは携帯用のゲーム機に夢中だ。要するに二人は、平凡であるがゆえにこの上なく幸福な子供たちである。当然のことながら二人は、道路を挟んだ向かいの屋敷の離れにこの上なく不幸な中嶋千鶴が監禁されているなどとは、夢にも思っていない。しかし私に課せられた仕事は、その、夢にも思っていない、をひっくりかえすことだ。つまり、夢によって思わせる。
 まず目をつけたのはアオトだ。幼いほうが夢の影響を受けやすいと踏んだのだが、なにぶん初めての試みで、成功が約束されているわけではない。アオトは幼いながら二階に自分一人の部屋を持っていた。四畳半の洋室だ。入浴後、十時には寝なさいと母親に言われていたが、その時刻を過ぎてもゲーム機を手ばなさず、結局、床に就いたのは十一時過ぎだった。消灯後、アオトはいかにも子供らしくことんと音がしそうなほど迅速に眠りに落ち、すぐさまあどけない夢を立ちのぼらせはじめた。

 アオトはどことも知れない砂浜にいた。黒いTシャツに青い半ズボンという出で立ちで、吹きわたる風に柔らかな頰をなぶられながら一人ぽつねんと立ちつくしていた。地のはてまで続こうかという長い長い砂浜だったが、アオトのほかには人っ子一人見あたらず、まるで世界の終焉の地にたどり着いた人類最後の子供といった風情だった。空は見わたすかぎりにびいろに曇っており、索漠たる光景にさらなるせきりようかんをもたらしていた。
 アオトの前には船影一つ見あたらぬ大海原がぼうばくとして広がっているのに、不思議と波の音が聞こえない。それもそのはずで、風があるにもかかわらず海は鏡さながらにべったりといでおり、ひとつまみの波も立っておらず、渚で陸と海がせめぎあうことなく、息を止めたようにぴたりとこうちやくしていた。この浜辺は、大地の涯というばかりでなく時間の涯でもあるかのようだった。
 アオトは恐るおそる波打ちぎわに近づいてゆき、爪先で探りながら海面に足を伸ばしていった。裸足の足は海にまったく沈むことなく、そのひんやりとした表面にしっかりと降り立った。半円の波紋が生まれ、水平線の彼方にまで音もなく広がってゆき、やがて消えた。アオトは息を呑み、一歩また一歩と踏み出してゆく。ひと足ごとに巨大な波紋が生まれ、そのたびに海が鳴り響くようだったが、実際に耳に届くのはぴしゃりというかすかな足音だけだ。それでもアオトは夢中になり、孤独であることも忘れ、沖へ沖へと歩いていった。
 やがて霧が出てきた。その生ぬるい霧はまるで生きているかのようにざわざわと流れ、たちまち水平線をぼやかし、やがて見るものすべてを白く濁らせてしまった。振りかえると、すでに陸地も見えず、すっかり霧に取り囲まれていた。アオトはにわかに心細さに襲われ、濃霧の立ちこめる海のまんなかに立ちつくしたが、しだいに心細さが恐怖へと転じ、顔をくしゃくしゃにしてすすり泣きをはじめた。霧はそんなアオトをあざわらおどりするかのように渦巻き、瘦せっぽちの少年をじっとりと押し包んだ。
 私は例によって鴉の姿をとり、泣きじゃくるアオトのまわりを何周か旋回したあと、海の上に降り立った。その様子を見たアオトは驚きのあまり途端に泣きやみ、空を飛ぶ生き物の存在しない星からやってきたかのように目を丸くして私を見おろした。
「この海は君の涙でできているの?」と私がからかうように尋ねると、アオトは鴉が口を利いたことにうろたえながらも、
「違うよ」と慌ててかぶりを振り、決まり悪げに手の甲で涙をぬぐった。「僕じゃない。別の誰かが泣いたんだよ。たぶん大勢の人が何千年も何万年も泣きつづけたんだ。そうじゃないと、こんな大きな海はできあがらないでしょ」
「それは違うな」と私はかぶりを振る。「本当のことを言うと、この海はたった一人の人間の涙でできてるんだ」
「たった一人? いったい誰のこと?」とアオトは好奇心に目を見ひらく。
「会わせてあげるよ。と言うより、ぜひ会ってもらいたいんだ。この海をつくった涙のぬしに……。そのために私は君に会いにきたんだからね」
「どこにいるの、その人は?」とアオトは霧のなかから誰かが現れるかのように眉をひそめて辺りを見まわす。
「それよりもまず君の肩に乗せてくれ」と私は返事も待たずにアオトの肩に飛び乗った。「案内するよ。涙のぬしのもとに……」
 アオトは、うわ、と身をのけぞらせたが、得体の知れない鴉を振り払いはしなかった。私が嘴で方角を指し示すと、アオトは半信半疑の顔つきながらも霧のなかを歩きはじめた。
「この霧はね、怪物がつくりだしたものなんだ。漆黒の怪物が人目を避けるために毎日毎日霧をつくりだしているんだよ」と私が教えると、
「怪物がいるの? この霧のなかに?」とアオトはおびえた様子だ。
「大丈夫だ。いまはいない。怪物はいつもこの時間は出かけてるんだ。食べ物を探しにね。食べ物を手に入れたら、それを屋敷に持ち帰る」
「屋敷? 怪物は屋敷に住んでるの?」
「そうだよ。その屋敷に涙のぬしが閉じこめられているんだ。ほら、見てごらん。向こうに屋敷が見えてきただろう? 君も見たことがあるはずだよ、あの屋敷を……」
 霧の向こうに、まるでベックリンの描いた〈死の島〉のような、濃い翳りを帯びた荒涼たる小島が現れ、そそり立つ断崖やうつそうたる竹林を背に屋敷がうずくまっているのが見えた。
「本当だ。見たことがある。あれは堀内さんの家だよ。まさかあそこに怪物がいるの?」とアオトは驚く。
「そうだよ。あそこに怪物がいるんだ。いつもならね。怪物の飼う醜い獣たちもいるけど、いまはやつらも眠ってる」
 アオトは足音を忍ばせるように島に歩みよっていった。「本当に怪物はいまいないんだろうね」などと不安げに声を低めてつぶやきながら、砕いた骨でも敷きつめたような不気味に白じらとした砂浜を通りぬけると、びついた金属製のもんの軋みにおののきつつそっと開け、野放図に草の生えさかる荒れはてた庭に足を踏み入れてゆく。「大丈夫だよ。玄関から入っていこう」と私もつられて声を低めると、アオトは恐るおそる玄関の引き戸を開け、耳を澄ましつつ、抜き足差し足、暗い母屋に入ってゆく。そしてアオトを玄関左手の仏間に導き、渡り廊下を歩かせ、離れの入口に立たせる。
「ほら、頑丈そうな錠が三つもついてるだろう? ここに閉じこめられているんだ」
「涙のぬしが?」
「そう。もう五年もここから出してもらえずにいるんだ。中嶋千鶴、中嶋千鶴……この名前を絶対に忘れないでくれ」
「わかった。忘れないよ。ナカジマチヅル、ナカジマチヅル……」
「ほら、錠を開けてくれ。君のその目で囚われの少女の姿をしかと見とどけてほしいんだ」
 アオトは怖ごわといった手つきで三つのラッチ錠を開けると、ノブに手をかけてゆっくりと開き戸を押し開けていった。八畳間のまんなかに敷かれた蒲団の上に、こんこんと眠りつづける少女の姿が見えた。
「本当だ。女の子がいた!」とアオトは目を丸くする。「あの子がナカジマチヅル?」
「そうだよ。あの子はいま十三歳で、八歳のときからずっとここに閉じこめられてるんだ」
「十三歳? イチカと同い歳だ。それにしても八歳のときから? 五年間も? じゃあいま逃がしてあげたらいいじゃないか! 怪物がいないこの隙に……」
「そうはいかないんだ」と私はここで種明かしをする。「実を言うと、君はいま夢を見てるんだ」
「夢? これが?」とアオトは驚いて部屋を見まわす。
「そうだよ。夢だ。夢だからこそ、君はこの屋敷に入ってくることができた。でもこの少女は夢じゃない。本当にこの離れに閉じこめられているんだ。ほら、もっと近づいてあの子の顔をよく見てくれ」
 アオトは私を肩に乗せたまま中嶋千鶴の横たわる蒲団のほうへ近づいてゆくと、寝顔を覗きこみ、少女の眠りをさまたげぬよう小声で、
「すごく綺麗な子だ」と呟く。「でもどこかで見た気がする」
「交番の前にこの子の写真が貼り出されているよ。五年前の写真になるけど、君も見たことがあるんじゃないかな」
「そうかもしれない。でも僕はいったい何をしたらいいんだろう。この子のためにできることなんかあるのかな」
「この子のことを憶えていてほしいんだ。そのためには、君にはこの夢から覚めてもらわなくちゃいけない。人はたいてい覚めぎわの夢しか憶えていられないからね」

 私はろうこんぱいの溜息を漏らしつつアオトが目覚める様子を見おろしていた。まだ夜の十一時半にもなっていなかったが、私が夢の外に連れ出したせいで起きてしまったのだ。夢の記憶はほとんどの場合たちまち色褪せてしまうが、夢魔のあいだでは、大人よりは子供のほうが長く鮮明に憶えていると信じられている。私に創造しうるかぎりの忘れがたい夢を吹きこんだつもりだが、果たしてアオトは憶えていてくれるだろうか。
 アオトは訝しげな面持ちで上半身を起こすと、目をしょぼつかせながら暗がりでしばらく呆然としていた。しかし思い立ったようにベッドの上に膝立ちになると、窓のカーテンを開け、月明かりに照らされた夜の世界に目をやった。その目線の先には、堀内家の離れがあった。堀内家はすべての雨戸が閉めきられ、針穴ほどの光も漏らさず押し黙っていたが、少年の煌めくまなざしはその分厚い沈黙を穿うがとうとしているようだった。
「そうだ。アオト……」と私は聞こえないと知りつつも少年の耳元でささやいた。「あの子のことを忘れないでくれ。中嶋千鶴のことを忘れないでくれ」

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