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ピアニスト・藤田真央エッセイ #59〈地中海の青空の下――モンテカルロ・フィル〉

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 絵に描いたような雲ひとつない晴天。水底まで透き通る海。指先から溢れ落ちるサラサラの砂。肌にまとわりつく熱気。
 人々は水着を身につけ各々の時間を楽しんでいる。砂浜に寝そべり肌を焼く女性。サーフボードを手に海に入り込むシックスパックの男性。寄せては返す波にはしゃぐ子供達。その隣のおとなしい犬。様々だ。

 私もただただ無心に水面を眺めたり、靴下を脱いで砂の感触を確かめたりしていた。絶えず止むことのない静かな青のうねり。儚い白波。時計の針がまるで止まったかのように時間がゆっくりと流れる。
 おっといけない。そろそろリハーサルが始まりそうだ。

 2024年5月初旬、私は地中海の小さな国、モナコ公国にいた。モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団との日本ツアーのため、楽団の本拠地でリハーサルを行う。
 モンテカルロ・フィルの芸術監督兼音楽監督を務めているのは山田和樹氏だ。彼もベルリンに在住しているため、プライベートでは定期的にお会いしている。私がベルリン・ドイツ交響楽団にデビューした際に駆けつけてくれたり、ベルリナーに愛される韓国料理屋に連れて行って貰ったりもした。
 料理の極意を教わったのも彼からである。私が移住して間もない頃、”男の料理教室”として揚げない揚げ出し豆腐とミートボールを教わったのだ。
 しかし共演となると実に4年ぶり。ベルリンの”パパ”と一緒に演奏することを、私がどんなに長い間待ち望んでいたことか。

 今回私たちはラヴェル《ピアノ協奏曲 ト長》とベートーヴェン《ピアノ協奏曲 第3番 Op.37》の二つのプログラムで日本各地を巡る。
 海外招聘オーケストラによるアジアないし日本ツアーでは、ふつう二人のソリストが一つずつプログラムを分け合う。しかし今回は私が二つのプログラムのソリストを担い、楽団と全公演を共にすることになった。これはとても稀なことで、団員やスタッフと毎日の機微を欠かさず共有できるのはなんとも幸せだ。山田パパと8年間の深い絆を持つオーケストラに、私もお近づきになれたらと期待に胸を膨らませた。

 モナコは不思議な国だ。その面積は東京ディズニーリゾートほど。フランス・ニースの隣に位置するため、気付かぬ間に国境をまたいでフランスにいたりモナコにいたりする。私の携帯はEU契約なので、モナコ(EU外)にいる間は電波が入らないが、見えない国境線を越えてフランス領に出ると次々とメールが舞い込んだ。
 丘りょう地帯に位置する街のあちこちには、岩山を掘り抜いてつくられた公共のエレベーターが設置されている。エレベーターは生憎グーグルマップには表示されないため、土地勘のない私には活用が難しい。ある時は、エレベーターに乗って洞穴内の通路を彷徨い、どうにか地上に辿り着いたと思うと、元の乗り場に戻って来ただけだった。狐につままれたような気分だったが、帰路では山田マエストロにエレベーターを使った近道を教えて貰い、無事ホテルに帰ることができた。

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