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高田大介『エディシオン・クリティーク』#003 第1話完結!

文献学者・嵯峨野修理のもとを訪れた元妻の真理。
彼女が修理に見せたのは、襖の下張りに使われていた近世の書きつけ。
ディレッタントはここに、長年秘匿されてきたある謎を発見しーー

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五、説話猿橋伝承の解題のこと

 後日、私は再び嵯峨野邸を訪っていた。
 先日は、げつこうする私を妙さんがなんとかホット・ワインで宥めて落ち着かせ、杯をすでに過ごしていた私はなんだか疲れ切って居心地のよい客間に寝かされることになった。客間というか元私の部屋である。事実上は現私の部屋でもある。入り浸っているので。
 タビ氏を伴って蔵へと逃げていこうとする修理を捕まえて、そこまで判っているんなら件の肉筆回覧誌の記事が再録されている地域民俗説話集のごときものは、お前が見つけてよしなに報告しろと厳に言い渡してやった。
 というわけで調査報告会が開かれたわけである。
「それでなに、見つかったの?」
「お姉ちゃん、なんでそんなに威張ってんのよ」
 妹のも列席あらせられた。最近では姉妹間の仲はあまりかんばしくない。というか常時交戦中である。
「修理が真理ちゃんを怒らせるから」
「妙さんはどうしてそうお姉ちゃんに甘いの?」
「お前はどうしてそう修理の肩ばっかり持つんだよ!」
「あたしはいつでも修理の味方だよ」
 そして「ねぇ」としなをつくって修理に微笑みかけるが、修理は苦笑いで返していた。佐江の好意を受け止めかねているのである。一方の佐江はかつて「お姉ちゃんが別れるなら、あたしが後妻に入る」とソロレート婚宣言をして(私を勝手に鬼籍に入れるな!)、それ以来修理にれつなアタックをかけつづけ、私とは激烈な姉妹げんを繰り広げている。悪いけど本気だから、とのことだ。
 妙さんは、二人とももともと娘みたいなものなのにと困り果ててはいるものの、先だって佐江に孫は欲しくないのかとアピールされたときには、「むっ」と言ってちょっと眼が光っていた。なんだか複雑なのである。というか面倒くさい。
 ともかくも「勾玉さげたる天狗」の方でもいいし、「猿ケ沢渓谷の橋の行き違い」の方でもいいから、落ちはなんとか着けていただきたい。
「はいよ」と修理はセミナーの配布資料を渡すみたいに、二、三枚のレポートを卓上に滑らせた。それぞれ手に取ると、そこには訂正を経た「勾玉さげたる天狗」の釈文と、もう一つ、完全な形に復元された「猿ケ沢渓谷の橋の行き違い」が掲載されていた。
「結局、野町くんはどうしたって?」修理が訊く。
「近世の先生に草双紙版下が一葉見つかったかもしれないと話したら、そちらでを引き受けるという話にまとまったみたい。大発見かどうかはともかく、ちょっとした椿ちんということで、近世版本研究の界隈では語り草になってるってさ」
「襖はどうするの?」
「やっぱりその先生が草津に引き取りに行くって。旅館の方はこの逸話そのものが宣伝になるって喜んでいて、館内の全襖のチェックを画策しているとか」
「じゃあ野町くんも面目を施したんだな。相談を受けた真理のお手柄ってことになったのか」
「お姉ちゃんは何もしてないじゃん。修理のお手柄でしょう、本当は」
 まあ確かにそうだが。
「多分、学会誌の方に一報が出ることになるらしくって、野町くんは資料発見の功ということで共著者に数えられることになるみたい。野町くん、院進を考えていたらしいんだけど、修士課程が始まるやいなや一本業績が……それも専門外の業績が出来ちゃうということで戸惑っているそうだよ」
「それで問題の再録説話集っていうのは首尾よく見つかったのね」
 妙さんの問いに修理は首を振った。
「いや、それが見つからなかった」
「えっ、だってこれは?」
 手の中のレポートを慌てて覗き込むと、末尾の出典がどこのなにがしの「私蔵手稿」ということになっている。
ほくしん民俗研究会の回覧誌だったんだな。そこからは県全体の調査報告を取りまとめて信濃史研究会編纂になる『長野の説話』が上梓されたが、問題の一編は再録から漏れている」
「へえ、なんで?」
「まずは読んでみて」

 今を遡ること三百年余、ほうえい年間の信州に山寺があった。寺請証文にはりよううんと号したが檀家や旅人にはぎしでらと呼ばれていた。
 峻険な猿ケ沢渓谷の断崖上に開山されていたのが理由だ。
 猿ケ沢は北信濃の山岳を南北に切り裂いて続く渓谷群の一部で、幾つかの湖を数珠繫ぎにするように結ぶ渓谷の数々が北信越山中の東西の往来を阻んでいた。特に猿ケ沢近辺ではすぐ近くであるはずの、霧の中対岸に隠れる山里、隣村の玉の郷に向かうにすら、遠く下流の街道まで足を延ばすか、さらに山に分け入って尾根を越えるか、大変な迂回を強いられるのだった。
 凌雲寺の住職は特段の高僧でもなかったが、だんに慕われ、きこりやまには猿坊主と親しまれていた。それというのも大変小柄だったからである。
 この住職があるとき旅の僧を世話することがあった。このうんすいは大柄で、住職と比べるとあたかも童子と天狗のごとくであった。雲水はへむかう道行きであり、猿ケ沢右岸に建っている切り岸寺からは目的地は対岸にあたり、くだんの南北の大迂回を経ねばならない。厳しい山行が続いて足を痛めていた雲水はしばし切り岸寺に滞在し骨を休めることになった。
 その間に住職と雲水は中山道から北陸道の市井の消息を尋ねあったが、住職が繰り言に「橋があったら」と嘆くのに応えて雲水は「一身を捧げれば橋はいずれ架かる」とますばかりだったという。
 雲水が発ってほどなく住職は夢を見た。猿ケ沢渓谷に橋が架かっている夢である。両岸に手掛かりがなく吊り橋も吊れぬと諦めていた住職が幻視したのは、夢にあらでは想いもしない丸太組みの反り橋だった。岩盤に斜めに穿った穴に丸太を深く差し入れ、突き出したところに横桁を渡し、それを支えに次の丸太を斜めに張り出す。また次の丸太をさらに張り出すように重ねていく。重ねるたびに次の丸太は張り出しをやや大きくし、大きく弧を描いて平らに近づいていく……。
 はねを重ねるはねばしと呼ばれる架橋である。甲斐国に古く知られる例があるが住職の知徳するところではなかった。しかしの内容はめいりようなもので、しかも橋のたもとの様子に見覚えがあった。何処の場所にどの岩盤を頼りに架けられた橋であるかさえもがはっきり判ったのである。
 住職は寺の普請と近隣の里人、りようそまびと、山鍛冶の助力を頼み、架橋の事業に乗り出した。始めに石を穿つ場所すら、はっきりここと指さすことが出来た。
 加えて刎橋の木組みは、一つひとつの工程はそれぞれ決して困難なものではなかった。
 大きな橋桁を運んできて一度に架け渡さねばならぬような仕掛けではない。小さな労力を営々と積み上げていけば橋は延びていくのである。必要なのは積み上げるべき営為を、大きく見通す意匠の確かさである。
 霧の向こうの対岸からも同様の普請が始まった。さほどの困難はないとは言え、架橋はそれでも大事業である。普請には月日を要し、住職はやがて病床に就いたが、かつて切り岸寺に勤めていた小僧がいいこうで僧籍を得て普請と寺の管理を引き取った。かくして両岸から橋は延びていったのであるが……。
 霧の中、対岸からの普請の様子がすぐそこに見えるようになった頃、ある朝に霧がさっぱりと晴れて猿ケ沢渓谷の両岸に日が差し、その全貌が現れた。
 驚いたのは普請に携わっていた里人である。対岸からあと数間のところまで延びてきた橋は、こちらの普請している部分と並べてみると……行き違っている。ちょうど橋巾の分だけ両者は合い口が行き違っている。二人が互いに真向かいで両の手を伸ばして結びあうように、両の橋桁、両の欄干が結びあわなければいけないところ、まるでやや半身に構えて相互の右手同士を握りあおうとしているよう。
 これが普通の架橋なら、互いに最後の橋脚をずらすなり、橋桁を途中で曲げて撓めて、なんとか繫げてしまうことも出来たかもしれない。だがこれは両方からしずしずと中空を延ばしてきた橋である。途中で方向を変えて繫ぐというわけにもいくまい。延ばしてきた円弧が中央でぴったり結ばれなければ強度を担保できず用をなさない。
 若い僧や里人は、事業の頓挫を悟って、これを病床の住職にどう伝えたものかと慨嘆した。
 だがこの懊悩はわずかに一日だけのものだった。それというのも同日夜、住職は大往生を迎えたのだった。辞世の一語は「橋は架かったか」。
 そして不仕合わせは重なるもの、同じ晩に渓谷一帯をの神が揺さぶった。数年前の宝永地震に比べると影響範囲の小さな地震だったが、猿ケ沢一帯は激震に揺れ、近隣には被害が大きかった。有名なところでは善光寺が被災している。局地的な被害のみをもたらす類の地震だったのである。たとえば猿ケ沢から下流沿岸では被害はもっぱら左岸に偏っていた。
 中央がまだ結ばれていない、普請中の橋は脆弱なものである。翌朝に里人が恐る恐る橋を見舞ってみたところ誰もが驚いた。前夜の激震が地盤を動かしたか、両岸から延びる橋桁がいまや縦に揃っていた。両者の中心線はもはや正しく一直線上に並んでいたのである。
 さすがに架橋先端には揺れに由来する綻びがあったが、収拾は容易だ。残りの数間を繫ぐまでさしたる時間はかからなかった。よもや亡き住職の普請の指示は、この地震の影響を予察してのものだったのか。
 かくして猿ケ沢をまたぐ信濃猿橋、一名に天狗橋はしようとく某年に落成し、以後今日に至るまで北信山中の東西往来に益するところ大であったと伝えられている。
 信濃はねばしあいくちゆきちがいの一席である。

にいがきはるひこ「信濃猿橋合口行違のこと」回覧誌『北信民俗研究会』に収録されたものの手稿、同研究会世話役みずあつろう氏個人蔵)

 なるほど襖の下張りの断簡は、この手稿の回覧用清書に他なるまい。
 そして一編の落ちは「地震によって橋が繫がった」だったのである。
「これ、修理はどこまで予想していたの?」
「どこまでって?」
「この、地震で行き違っていた橋が繫がったっていうところよ」
「まあ、そんなところじゃないかなと思っていたよ」
「初めから?」
「まあ、そうだね。初めからこれは地震の話だなとは思ってた」
「なんでよ」
「糸魚川静岡構造線は地震の多発地帯だからね」
 呆れてものも言えない。

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