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第2章、公開! 3日連続公開2日め――知念実希人「機械仕掛けの太陽」#005

WEB別冊文藝春秋

疲弊が募る医療現場で、今日も必死に立ちあがる医師たち……
そんな彼らのもとに待ち望んでいた一報が届いた!

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4 2020年10月10日

「こんな感じでいいかな?」
 椅子に乗った妻のが、長いビニールカーテンを持った両手を広げる。医院の裏手にある従業員用の出入り口が覆われるように、ビニールカーテンが垂れ下がった。
「ああ、それで十分だ。普通のカーテンみたいに簡単に開け閉めできるようになるか?」
 長峰邦昭の問いに、千恵は胸を張って頷いた。
「そんなの簡単。カーテンレールを取り付けて、このビニールをそこにかければいいだけなんだから。二、三時間あればできるわよ」
「じゃあ、頼むよ。椅子から落ちないように気をつけろよ」
「大丈夫大丈夫、そんなへましないって。この医院の蛍光灯の交換とか、いつも誰がやってると思っているの」
 千恵は悪戯いたずらっぽく微笑んだ。
 日曜に午前診療をする代わりに休診にしている土曜の昼下がり、長峰医院には長峰と妻の千恵、二人だけしかいなかった。
 手慣れた様子で、従業員用出入り口の上部にカーテンレールを設置していく妻を、長峰は眺める。
 開業してからこのかたずっと、妻と二人三脚でこの医院を切り盛りしてきた。三十年前、大学病院で多忙な勤務に追われていた長峰に代わって、不動産屋を回って医院を開く場所を探し、内装工事を指示し、看護師や事務員を集めたのも、全て千恵だった。いまも職員への給料の管理や、税理士との打ち合わせなどの業務は、千恵が一手に引き受けてくれている。そのおかげで長峰は日々の診療や、自治体医師会の仕事に注力することができていた。
「本当にありがとうな」
 心からの感謝を言葉に乗せると、千恵は手を止めて「なにが?」と不思議そうに振り返った。
「いや、いままでのこと全てだよ。千恵がいなかったら、俺はこの医院で頑張ることはできなかったと思ってさ」
「なに水臭いこと言っているの」
 千恵は呆れた様子で肩をすくめた。
「夫婦っていうのは一心同体でしょ。お互いに力を合わせて頑張っていくのは当然じゃない。ほら、それよりいろいろとやることあるんでしょ。日曜大工は私にまかせて、自分の仕事をして」
「ああ、そうだな」
 頷いて身を翻した長峰は、「けど、本当にありがとう」と口の中で言葉を転がしつつ、すぐそばにある診察室へと入った。椅子に腰かけると、デスクに置かれている用紙に視線を落とす。

『東京都福祉保健局感染症対策部長 (公印省略)
「診療・検査医療機関」の指定について
下記のとおり貴医療機関を「診療・検査医療機関」に指定します』

 記されている文字を目で追った長峰は、「とうとうか……」と重々しい声でつぶやいた。
 長峰医院での発熱外来設置が認められたという通知だった。これまで、診察して新型コロナの検査が必要だと判断した患者は、秀医会西東京病院のPCR外来や、そこに医師会が設立している発熱外来に紹介していた。
 しかし、八月の第二波のピークにおいて、秀医会西東京病院のPCR・発熱外来には多数の発熱患者が紹介されてキャパシティオーバーを起こし、症状が重い患者以外は診察できない状態となった。
 また、長峰医院のかかりつけ患者は高齢者が多い。三キロほど離れた秀医会西東京病院まで行くのが困難な場合も少なくなかった。
 どうすればいいのか悩んでいたとき都から医師会を通じて、診療所での発熱外来設立の要請が来た。
 当初、長峰は悩んだ。この医院で発熱外来を開けば、当然、感染リスクは高くなる。そして、そのリスクに晒されるのは自分だけではなく、看護師や事務員などのスタッフも同様だ。そして何より、発熱以外で受診している患者を、新型コロナウイルスに曝露することが恐ろしかった。
 二週間近く悩んだ末、長峰は発熱外来設置を申請することを決めた。
 スタッフたちと相談したところ、全員が感染のリスクについて理解したうえで、必要なら発熱患者を診るべきと同意してくれた。また、発熱患者は待合に入れることなく医院の裏口の屋外で待機してもらい、従業員出入り口でビニールカーテン越しに診察することで、一般患者と完全に動線を分けることができると判断した。
 そしてなにより、冬に向けてできるだけ多くの診療所が発熱外来を設置する必要があった。
 真夏に第二波が生じたことに、多くの医療従事者は衝撃を受けていた。温度も湿度も高い状態では、インフルエンザや旧型のコロナウイルスなどの、主に飛沫感染をする呼吸器感染症は感染力が落ちる。にもかかわらず、あれだけ感染者が増えた。空気が乾燥して飛沫が飛びやすくなり、寒さで人々の免疫細胞の働きが鈍くなる冬に、どれだけの感染拡大が起こるか想像すらできなかった。
 第二波は、感染拡大を受けて国民の多くが自らの判断で自粛をはじめたこと、マスクや手洗い、三密回避などの感染予防に対する知識が行き渡ったこと、感染の震源地である東京で飲食店等の営業時間が短縮されたことなどからじわじわと収束し、いまは小康状態となっている。
 しかし、間もなく第二波を遥かに超える大波が日本を襲う。医療関係者の多くがそう確信していた。
 安倍前首相の辞任を受けて、九月に新しいこの国のリーダーとなったすが首相は、十月一日から『Go Toトラベル』と『Go To Eat』にこれまで唯一除外されていた東京都をくわえた。それにより、多くの都民が旅行を楽しんでいる。まだ感染が収まっていない東京から、地方へと活発に人が動いているということだ。
 合わせて、第二波収束による人々の油断と、秋に入って下がってきた気温と湿度。それらは燻っている感染の火種に、新鮮な酸素を吹き込むようなものだ。まもなく炎が燃え上がり、この国を呑み込む。専門家たちはそう警告を発していた。
 海外でも新型コロナウイルスの猛威は止まるところを知らなかった。
 ヨーロッパでは第一波を遥かに超える第二波が生じ、肺炎患者が病院に溢れている。アメリカでは十月二日に、これまで新型コロナウイルスを軽視し続けていたトランプ大統領がCOVIDとなり、症状が悪化して入院することになった。十一月四日の大統領選に向けて健在をアピールするためか、未承認の抗体療法を受けて十月六日に退院したものの、その顔色は悪く、足取りはふらついていて、逆に弱々しい印象を与えてしまったほどだ。
 欧米で起こっていることは、日本で起きてもおかしくない。しかし、菅首相は官房長官時代から再度の緊急事態宣言発令に後ろ向きな発言が目立ち、たとえ感染が拡大しても対応が遅れる恐れがあった。
 政府があてにならないなら、現場が踏ん張るしかない。つまりは俺たちが。
 そう心に決めたからこそ長峰は、診察対象を『自院患者に加え、相談センター等からの紹介患者』として、申請を出していた。
 東京で発熱した際はまず、かかりつけ医に連絡を取り、可能ならそこで新型コロナの検査をしてもらう。しかし、かかりつけ医がいない者、またはかかりつけの医療機関で検査ができないと言われた者は、東京都が設置している発熱相談センターに電話をして、近隣にある発熱外来を紹介してもらうことになっている。
 この地域には医療機関が少ない。おそらく、発熱外来を設置するのはうちだけだろう。
 感染の炎がここまで迫ってきたとき、この医院が最後の砦になる。だから、どれだけ危険でもやるしかない。長峰が決意を固めていると、「長峰先生、いるのー?」という女性の声が聞こえてきた。長峰は慌ててデスクに置いていたサージカルマスクをつけると、患者待合に向かう。電源が落とされた自動ドアの向こう側に、高齢の女性が立っていた。この診療所の大家だ。
 急いで自動ドアのスイッチを入れる。大家は「休みの日に悪いね」と言って、入ってきた。
「買い物に行こうとしたら、医院のシャッターが上がっているのが見えてね。長峰先生、いるかなと思って覗いてみたんだ」
「そうですか。どうされました? なにか体調が悪いとか」
 八十歳を超えていて、糖尿病と高血圧の既往がある大家は、この医院のかかりつけ患者でもあった。
「いやいや、おかげさまで体調はすこぶるいいよ。そうじゃなくて、ここでコロナを診るって話のこと」
 心臓が大きく跳ねる。三年前に行った心臓バイパス手術の傷口がかすかに疼いた気がした。
 この医院は大家が所有する四階建てマンションの一階の、商業用テナントの一角にある。同じ並びには美容院や喫茶店などが入っていた。
 発熱外来の開設を申請する前に、当然、大家から許可を得ていた。彼女は「いいんじゃないの?」と拍子抜けするほど軽く了解してくれた。
「とりあえず、立ち話もなんなんで」
 長峰は患者用のスリッパを用意する。大家は「それじゃあ、お言葉に甘えて」と待合に上がると、長椅子に腰かけた。
「いやあ、最近寒くなってきたから、膝がまた痛くなってきてね。ねえ先生、次の診察のとき湿布も処方してもらえるかな」
 大家は自分の両膝を撫でる。
「ええ、もちろんいいですよ。それで……どんなお話でしょうか?」
 緊張しつつ訊ねると、大家は上目遣いに視線を送ってきた。
「ここで先生がコロナを診はじめるって噂を聞いて、私に文句を言ってきたマンションの入居者がいたんだよ」
 やはりそうか。長峰は奥歯を嚙みしめる。
 新型コロナウイルスは主に飛沫感染をする病原体だ。「マスクなしで一メートル以内で十五分以上接触する」ことが『濃厚接触』と定められているように、すれ違ったりするだけでうつるようなウイルスではない。換気の良い屋外で診察するのだから、近所の人々への感染は考えられない。しかし、それはあくまで医学を専門としている自分だからこそ分かることだ。恐ろしい感染症の診療が、自分が住んでいるマンションで行われる。そのことに恐怖を覚えるのも、自然な反応だ。
 ただ、そのクレームが大家に向かったことが申し訳なかった。自分なら感染のリスクがないことを可能な限り丁寧に説明したうえで、細心の注意をもって診察に当たるので理解して欲しいと真摯に頼むことができたというのに。
「すみません、ご迷惑をかけて」
 長峰が深々と頭を下げると、大家は「迷惑?」と目を大きくする。
「なに言っているの。先生は迷惑なんかかけていないよ」
「え? それじゃあ、ここでコロナを診ないで欲しいって言いに来たわけじゃないんですか?」
 長峰はまばたきをくり返した。大家は「そんなわけないでしょ」と、かぶりを振る。
「私、腹が立って言ってやったんだよ。『長峰先生はずっとここの周りの人たちの健康を守ってきた。そして、いまも私たちをコロナから守ろうって必死になっているんだよ。それなのに文句を言うってなんなんだい。あんただってコロナにかかったら、長峰先生に診てもらうんだろ』ってね」
 大家は顔を紅潮させてまくしたてると、ふっと相好を崩した。
「その人、ちゃんと『ごめんなさい』って謝っていったよ。まあ、本当は私じゃなくて先生に謝るべきなんだけどさ。私はさ、先生がやること応援しているよ。いや、私だけじゃなくて周りの人たちもね。だからさ、頑張ってね。大変だとは思うけどさ」
 感動が胸郭を満たしていく。三十年頑張ってきたことは、決して無駄でなかった。ここでの献身を多くの人々が見て、応援してくれている。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
 想いが言葉になって溢れ出す。大家は立ち上がると、小さな手で長峰の肩を軽く叩いた。
「もし、他に文句を言ってくる人がいたら、私に教えて。ちゃんと叱っておくからさ。それじゃあ先生、来週受診するから、そのときは湿布もよろしく」

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