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河野裕「愛されてんだと自覚しな」#005

WEB別冊文藝春秋

神戸・六甲山麓に位置するホテル・金星台山荘。
幻の古書、徒名草文通録を我が物にするべく、
人々が思惑と策略を交差させていた。
そこに突然、白いタキシードを着た男が現れ……

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小束武彦の恋と彼の本日の出来事

 クリスマスまで、あと半月。
 白いタキシードを着た男——つかたけひこは今宵、恋の成就を目指して駆け回った。
 それは生半可な道ではなかった。様々な人にぶつかり、それからドアにもぶつかった。自転車を漕ぎ、自らの足で走り、階段を繰り返し上っては下った。けれど、その苦労は結実した。
 小束はついに人生の大舞台に立ち、愛しい彼女に思いを打ち明けたのだ。
 ここに至るまでの汗と涙の物語が、小束の胸を駆け巡る。

 まず思い出すのは、愛用の、電動自転車での疾走だ。
 きっかけは三ノ宮駅で、愛しい彼女がタクシーに乗り込むのを目撃したことだった。それは想定外の出来事だったが、今宵の告白の為に万全に準備を進めていた小束は、猛然とその後を追った。タクシーに引き離されても諦めず、山道にもめげずにペダルを漕いだ。
 そうして辿り着いたこのホテル。彼女を捜してさ迷い歩くあいだにも、いくつもの出来事があった。というか、いろんな人にぶつかった。
まずは、二階のエレベーターホールだ。ニット帽にマスクという出で立ちの、痩せた男にぶつかった。
 不審な奴め——そう思いを込めて彼をみつめると、あちらの方もまったく同種の目でこちらをみている。そのとき小束は、「他山の石」という言葉を思い出した。小束の方も仕事着のままで、とても告白に向いた服装ではなかったのだ。
 これはまずい! 小束は慌てて、一階へと引き返した。金星台山荘では結婚式の披露宴等も行われる為、衣装の貸し出しサービスがある。そのポスターに写った新郎新婦の姿に感銘を受けて、咄嗟に「同じものを」と注文した。
 こうして小束は、まっ白なタキシードに身を包むことになった。
二人目は、色白で泣きボクロがある女性だ。そのとき小束は、金星台山荘のエレベーターの遅さに痺れを切らせて、階段を駆け上がっていた。
 その女性は「落とし物です」と言って、神戸風月堂の紙袋を押しつけた。おそらく小束が立派なタキシードを身にまとっていたことで、このホテルの従業員と間違えたのだろう。
 小束は誤解を解こうとしたが、泣きボクロの女性は、脱兎のような勢いで階段を駆け下りて行く。声をかける隙もありはしない。
 ——まあ、この袋はあとでフロントにでも届ければ良いだろう。
 このときの小束は、そう考えていた。
三番目にぶつかったのは、濃紺色のスーツを着た大男だ。場所は四階のエレベーターホールであり、すぐ先の廊下では、驚愕の事件が起こっていた。
 なんと愛しい彼女が、ニット帽の男の手によって、その可憐な身体を壁に押し付けられていたのだ。付け加えるなら、彼女はホテルの従業員の制服を着ていて、それも小束を驚かせた。
 小束はもちろん、その窮地から彼女を助け出すつもりだった。けれど濃紺スーツの大男に「紳士には、その時々に応じた振る舞いがあるものだよ」と諭されて考えを変えた。紳士、紳士——素晴らしい言葉ではないか! 愛しい彼女と添い遂げる男は、無論、紳士でなくてはならない。
 よって、ホテルの従業員に助けを求めることにした小束だが、この決断がさらなる問題を生むことになる。一階ロビーのカウンターに立っていたのは、いかにも心優しげなふたりの女性だったのだ。
 ——いかに業務とはいえ、暴漢の相手を女性に押しつけて良いものか。それが紳士のすることか?
 迷っている余裕はない。今まさに、このホテルの四階で、愛する彼女が危機的状況に陥っている。今すぐ決断しなければならない。
 ——ああ。僕がこのホテルの従業員ならよかった。すぐにでもあの暴漢と戦うのに。いっそ、今からここに勤めてしまおうか。
 そう考えて、ふと思い出す。つい先ほど、あの泣きボクロの女性に、ホテルの従業員と間違われたばかりではないか。
 ——つまり。僕が。この僕が、従業員のふりをすれば良いんだ!
 純白のタキシードで「お客様」と声をかけたなら、それは立派なホテル側の人間だ。華麗に彼女を助け出し、危機が去ったのちに正体を明かしてみせる。なんて、劇的! なんて、大団円! 紳士的である上に、ヒーロー的でさえある。
 小束はバラ色の未来予想図で胸を膨らませ、再び階段を駆け上がる。
けれど四階に舞い戻った小束が目撃したのは、意外な光景だった。
 目の前で愛しい彼女がエレベーターに乗り込み、声をかける暇もなくドアが閉まったのだ。
 いったい、どういうことだろう?
 すでに、問題は解決した?
 だとすればもちろん、喜ばしいことだ。けれど、小束の燃える心の行き場がない。本当は手あたり次第に彼女を助けたかった。一ダースの暴漢が順に現れるのを望んでいた。だが戦うべき敵がいないなら、せめて今すぐ告白したい。
 彼女を乗せたエレベーターを追って、小束はまた階段を駆け下りる。
 その直後、目の前に美女が現れた。
 黒いトレンチコートを着た、ショートカットの女性が、手すりを支えにして華麗に踊り場をターンする。その先にいたのが、小束だった。
 また、ぶつかる。四人目だ——そう思ったが、今回は未遂で済んだ。
 小束が「わっ」と悲鳴を漏らすのと同時に、美女が「うおっと」と掛け声を上げ、こちらに両手を伸ばした。その手が小束の肩に触れると同時に、彼女は前宙の要領で飛び上がり、音もなく背後に着地していた。
「ごめんね。ちょっと逃亡中なの」
 そう囁いた彼女が浮かべた笑みは、あまりに鮮やかで、もし思い人がいなければ小束は恋に落ちていたかもしれない。
 ——なんだろう? 今の女性は。なんだか天使みたいな人だったな。
 小束がふわふわとした気持ちで階段を下りていると、今度こそ四人目にぶつかった。相手は全身が血で汚れた、中年の男性である。
 正に天国から地獄。普段であれば、血まみれの男なんてものにぶつかったなら悲鳴を上げていただろう。けれど先ほどのトレンチコートの女性と合わせて感情が相殺され、ちょうどゼロで釣り合った。
 小束は妙に冷静に「すみません」と謝ったが、男の方は何も言わない。無言で小束を押しのけ、ばたばたと階段を駆け上がっていく。
 ——ああ、そうか。先ほどの美女は、この男から逃げていたのか。
 いったい、何事だろう? 大事件のはずだが、どうにも危機感を覚えない。
 なぜならあの美女が、まったく捕まりそうになかったからだ。
今夜、最後に小束にぶつかったのは、二〇七号室の硬いドアだった。
 そのとき小束は、愛しい彼女の声が聞こえ、ドアの前に棒立ちになっていた。
 ——いよいよだ。もう、すれ違う余地はない。僕がこのドアの前から動かなければ、必ず彼女が現れる。
 そう考えると、小束は震えた。告白の恐怖がむくむくと膨れ上がったのだ。
 いったい、どう声をかければ良いだろう? できるだけ自然に。できるだけ、こちらの緊張を悟られないように。——そう考えて小束は、手の中の紙袋を思い出した。
 そうだ。押し付けられた落とし物。
 愛しい彼女がこのホテルの従業員なら、これをきっかけにすれば良い。「落とし物ですよ」なんて、いかにも恋が始まりそうなフレーズじゃないか。なんだか若干、この定番フレーズの王道とはシチュエーションが違うような気がするけれど、なんにせよスムーズに話を始められる。
 よし、これだ——小さなガッツポーズをした直後、ふいにドアが開く。そして小束は軽やかに弾き飛ばされ、尻もちをついた。
 見上げると、ドアの向こうから、愛しい彼女がひょっこり顔を出す。
「おや。また事件?」
 美しい瞳でこちらを見つめて、彼女がそうつぶやく。それで、小束の頭がまっ白になる。
 思わず叫んでいた。
「いえ。これは、運命なのです!」
 今宵の長い迷走の果てに、ようやく彼女の前に到達した。
 だからきっと、この恋は叶う。小束はそう信じていた。

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