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河野裕「愛されてんだと自覚しな」#002

WEB別冊文藝春秋

幻の古書、徒名草文通録を追う祥子と杏。
どうやらこの本は、かつては杏の持ち物だったということで……

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 徒名草文通録は、かつて東北の資産家が所有していたが、その持ち主の死後——今から四年ほど前に盗み出されたと聞いている。
 以降、この本は行方知れずとなっていた。けれど古書の界隈では他に類するものがない珍妙なこうぼんとして名を轟かせていたものだから、所在の噂は諸説ふんぷん、絶えず上っては消えていた。
 なんといってもこの本は、執筆期間が八〇〇年にも及ぶ。紙の年代だけをとっても、冒頭のものは鎌倉時代に作られた和紙であり、さらに室町、戦国、安土桃山、江戸、明治とそれぞれ紙が付け加えられて綴じ直された跡がある。
 内容も奇怪千万、み人知らずの歌があれば、著名な浮世絵師の肉筆画があり、津軽三味線の譜面の隣に獣の肉球がぽんと押され、ぴったりと張り付いてひらかないページがあったかと思うと、ふいに押し花が飾られる。「文通録」の名の通り、時代を超えて各々が身勝手な文を交わしたかのような——現代風に言うのなら、SNSをあてもなく彷徨うような雑多な内容でありながら、中には一枚切り取るだけで歴史的価値があるページが紛れ込んでおり、総体では値段のつけようもない。
 いったいどんな巨大な意思がこの本を成立させたのか、それともこれといった目的のない時代を超えた悪ふざけなのか、専門家たちのあいだでも未だ答えは出ないという。言わずもがなではあるけれど、私が欲しい本というのがこの徒名草文通録だった。
 ところで祥子は盗み屋の依頼人との交渉で、毎度同じ質問をするそうだ。
 ひとつ目は「どうして欲しいの?」で、ふたつ目は「手に入れてどうするの?」。この質問に依頼人がなんと答えるかで、仕事を受けるか断るか、報酬をいくらに定めるのかを決めている。
 およそ三か月前のあの白蛇が現れた夜、私はココアを飲みながら、徒名草文通録を盗み出して欲しいと依頼した。そのときにも、彼女はやはり同じ質問をした。
「どうして欲しいの?」
「だってもともと、私のものですから」
「手に入れてどうするの?」
「多少ページを付け足します。私はそれで満足ですから、あとはいるなら貴女にあげます」
 私の返事を聞いた祥子は、あっけらかんと頷いた。
「杏のものなら盗ってあげる。料金は必要経費と、あとはごはんをおごってね」
「ごはんですか?」
「だって仕事が上手くいったら、ちょっと良いお店で乾杯したいでしょ?」
 にですねと私は答えた。

 祥子の話では、現在の徒名草文通録の持ち主はまさという方らしい。本職は宮司をしているけれど、古書の世界では剛腕の背取りとして名を馳せ、また本人も稀代の珍書蒐集家であるそうだ。
 ところでこの夏、酷暑のあおりを受けてある文豪が長逝した。結果、一説には一〇万冊を数えるとも言われる彼の蔵書が市場に放たれ、好事家たちが我先にとその玉石入り乱れる紙とインクの山脈に群がった。和谷さんも資金を青天井と仮決めしてその競争に参加したけれど、もちろん実際にはそれなりの高さの天井があり、金の工面を迫られることになった。そこで徒名草文通録を手放すことにしたのだという。
 和谷さんは滋賀に居を構えている。でも本日は忘年会を兼ねた神主たちの会合で神戸を訪れており、金星台山荘に宿泊する。そして今夜、このホテルである男に会い、秘密裏に徒名草文通録を売り渡す——ここまでは、間違いのない話らしい。
 妙にゆっくりと動くエレベーターの中で、祥子が言った。
「ひとつ、懸念事項がある」
「なんですか?」
「ここに来るまでのタクシー、誰かにつけられていた気がする」
 私はまったく気づかなかった。「危ないですか?」と尋ねると、彼女はわずかに眉を寄せた。
「わかんないけどね。なにかあったら、各自逃げよう」
「了解です」
 そしてようやく、エレベーターのドアが開く。
 二〇七号室のスタンダードシングルが和谷さんの部屋だ。やや色褪せた赤い絨毯敷きの廊下を進み、その部屋の前で足を止める。私は軽く自身を見下ろし、我が身を包むこのホテルの制服の着こなしを確認してから、そっとドアをノックする。
「和谷様。いらっしゃいますか、和谷様」
 祥子は私の隣に座り込み、二本の折れ曲がった金具を鍵穴に差し込んでいる。金星台山荘の鍵は、推理小説のアイコンになりそうなアンティーク風のもので趣があるけれど、鍵の歯が嚙み合えば開く単純な構造なので防犯面では心許ない。彼女の手元から聞こえる、金属が擦れる音をかき消すため、私は繰り返しドアを叩いて「和谷様」と呼び続ける。返事はない。
 やがて祥子の手元で、かちん、と気持ちの良い音が鳴った。祥子が静かに立ち上がり、私に目を向ける。
 ——ただ従業員が、マスターキーで錠を開けたように。
 そうしてねと言われている。
「どうやら、お出かけになっているようです」
 私は祥子に向かって演技を続けながら、ダミーの鍵——私たちが借りた部屋のものだ——を片手に持ってドアを引く。
 中にはひとりの男がいた。まずまず長身で身体つきの細い男性だ。神主たちの会合から帰ったばかりなのだろうか、鈍色のピーコートに身を包み、頭には黒いニット帽、口元はマスクという出で立ちで、部屋へと続く通路の途中——バスルームのドアの前に立っている。
 私は大げさに仰天した顔を作る。
「ああ、いらっしゃいましたか。和谷様、お休みのところ失礼致します」
 目を見開いた和谷さんが、上ずった声で言った。
「なんです、急に」
「誠に申し訳ございません。実はいく警察署の方がいらして——」
 私は答えながら、これ見よがしにダミーの鍵をポケットにしまう。こちらはまっとうなホテルの従業員ですよというアピールである。
 私の脇を抜けて祥子が前に出て、トレンチコートの懐から出した偽の警察手帳を、ほんの一瞬だけ開いてみせた。
「すみませんね、急にお邪魔して。ちょっと協力していただきたいんですよ。実は昨日、この部屋に宿泊した男に薬物密輸の嫌疑がかかっていましてね。まだ逃走中なんですが、部屋を調べればなにか痕跡があるんじゃないかって話です」
 なかなかの名芝居をみせる祥子に思わず吹き出しそうになりながら、それでもどうにか真顔を保って、私は補足する。
「和谷様にはたいへんご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。四階にデラックスダブルの一室をご用意致しましたので、そちらに移っていただきたいのです」
 いまだ驚いた様子の和谷さんが、やたらよく通る声で叫んだ。
「困ります! そんな、一方的な」
 祥子が再び偽の警察手帳を取り出して、今度はゆったり提示する。
「そうおっしゃられてもね。こっちだって、何億って額の違法薬物を追いかけているんですよ。いいじゃないですか、部屋もグレードアップするんだし。それともなにか、ここを調べられたくない理由でも?」
 和谷さんは目を泳がせながらも、「わかりましたよ」と答えた。彼が足元の鞄に手を伸ばすと、祥子がすかさず声を上げる。
「触らないで! 一応ね。そちらの荷物も確認させていただきます」
「どうして、僕のものまで」
「すみませんが、決まりなもので。ほら、職務質問でも、カバンをみせてっていうのが定型句でしょ? 私たち手荷物検査が本職なんです」
 盗品の古書を持っていることがずいぶん後ろめたいのか、和谷さんはしばらく身体を小刻みに震わせていた。その姿は時雨しぐれに濡れる子犬のように哀愁を誘ったけれど、やはり止めますというわけにもいかない。私が「お部屋にご案内します」と声をかけると、彼は諦めた風に頷いた。
 あとは和谷さんを四階まで送っているあいだに、祥子がこの部屋から目的の本を探し出す。最後に和谷さんに「盗品の疑いがある本がみつかったから署で預かる」と断っておけば、被害届も出ないだろうという目論見だ。
 時刻はまだ、午後九時一〇分。
 これならゆっくり、ディナーの予約に間に合うだろう。私は和谷さんが後ろをついてくるのを確認して歩きながら、こっそりと口元を緩めた。

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