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今村翔吾「海を破る者」 #011

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 道中、近隣の村から見物に出ている者もいた。彼らは皆、己に向けて手を合わせて拝む。
 己を拝むことで、祈りを仮託する意味合いもある。つまり己が民の分まで代参するのだ。領主であるが、この時ばかりは、神官としての性質もはらんでいる。
 当主に支度を手伝わせないのは、初詣の前に休みを取らせるためではないかと繁は言ったが、実際は代参者としての神聖さを保つためではないか。確証はないし、もっともそうだとしても、それで神聖さを保てる道理が解らないのだが。世の中一見無意味に思えるものにも、何か役割があるのかもしれない。
「おめでとうございます」
 人々が自分を拝み声を発するのに対し、六郎は馬上から会釈をしながら進んだ。
 湊に着くと、村上頼泰がすでに支度を整えて待っていた。六郎を除く皆で荷駄を積み直し、道達丸に乗り込む。船首にはなわがすでに括られている。これも数ある風習の一つである。
 道達丸は闇を切り裂くようにして進む。船上でも篝火を絶やすことはないため、端から見れば大きな火の玉が滑っているように見えるはずだ。岸にも人影がちらほらと見えるのは、漁村の者たちが出て拝んでいるのだろう。
「頼むぞ」
 六郎は頼泰に向けて言った。まだ辺りは暗いが、頼泰はこの辺りの地形を熟知しており安心していられる。
うみわかはゆるりと。今のうちでござるからな」
 頼泰も、大三島に着けば己が一言も発してはいけないこと、多くの儀式をしなければならないことを当然知っている。六郎が気を緩められるのは、この船上が最後になるのだ。
 二刻ほど波に揺られ、道達丸は大三島に辿り着いた。島からも篝火を携えた船は目視できるため、三島社の者が岸まで出迎えに来ている。
「河野六郎殿、お迎えに上がりました」
 下船すると、が厳かに言った。
 六郎は官途に就いていないため、このような時もただの六郎と呼ばれる。昔ならば己くらいの歳になれば、河野家の当主は何らかの官位を授かっていた。承久の乱で京方に加わった後の不遇は、このようなところでも尾を引いている。
 ここからは声を発することは禁じられている。六郎は鷹揚に頷くと、禰宜に案内される形で歩み出した。この間も行列は篝火を絶やさず、粛々と歩を進めた。
 向かう間に東の空と海の境が滲み始め、三島社に着く頃には、辺りはさらに明るくなり始めており、石畳がぼんやりと青光りしている。
 ——さて。
 六郎は気を引き締めた。確かに長丁場の儀式は大変であるが、それ以上に気を揉むことがある。
「お久しぶりです」
 一人の男が近づいて来ると、笑みを浮かべながら言った。でっぷりと肥えているが、彫りの深い顔立ちであることは間違いない。二重瞼の大きな目が爛々としている。令那から聞いた「るうし」の男の相貌に似ているのではないか。以前は考えなかったことを思った。
 ——相変わらず嫌な男だ。
 尊大さが顔に滲み出ている。六郎は辟易しつつも深々と頭を下げた。その目の端に繁の姿が映った。繁もやすたねに良い第一印象を抱かなかったのだろう。眉間に皺が浮かんでしまっており、
 ——そいつは何者だ。
 と聞きたそうなのが、顔にありありと書いてある。
 今、繁にこの男のことを教えるならば何と語るかを考えながら、感情を表に出さないように努めた。
 男の名はおおほうり安胤と謂う。確か歳は己より二つ上の三十四歳で、三島社の大祝職を務めている。この男について語るためには、まず河野家と三島社の関わりから触れねばならない。
 源平の争いの頃には、河野家はすでに有数の官人であった。伊予国一宮として祭祀を行う三島社と関わりを持ち始めたのはこの頃だと伝わっている。
 鎌倉幕府が開かれた時、河野家は三島社の荘務を管理する「三嶋七嶋社務職」という権益を与えられた。その中には、三島社の大祝をにんする権利も含まれている。大祝とは社の中で最も位の高い大神主のことである。つまり河野家は伊予国の政だけでなく、宗教も支配していたことになる。
 ——だが、それも変わった。
 こうして社内を見ると、哀しい気持ちが湧き上がって来る。
 河野家は幕府より三嶋七嶋社務職を剝奪されたのだ。これもやはり承久の乱において、京方の味方をしたため。今の河野家に暗い影を落としている原因は、全てがこれに起因するといっても過言ではない。
 取り上げられた三嶋七嶋社務職は、伊予国の知行国主である西さいおん家に渡された。そして実際に大祝に任じられたのが越智家である。
 それこそ百済から三島社の神を渡来させたあの一族で、古くからその姓の基にもなった越智郡、野間郡を治めていた豪族である。幕府が開かれた後は御家人となり、承久の乱でも幕府方に付いた。そのような経緯から、大祝には申し分ないと考えられたのだろう。
「ささ、河野六郎殿。参りましょうぞ」
 安胤は手を宙に滑らしながら案内した。姓名で呼ぶのは、官位を得られていない今の河野家への当てつけと見てよかろう。
 ——顔は似ていないが、やはり親子だな。
 六郎は口内で小さく舌打ちした。風貌も、声も違う。だがやはり共通する何かを感じるのだ。
 この安胤の父は、越智やすとしと謂う。現在は齢五十六。安胤が己と同年代であることから判るように、己の父と世代を同じくする男である。
 この安俊が曲者であった。まず越智を本姓として残しつつも、三島という姓を用いだしたのだ。言わずもがな三島社から取ったものである。暗に己の家がこれからも三島社の大祝を代々務めることを示したのだ。
 安俊はそれで満足しなかった。その意志をもっと直接的に表したのである。さらに三島の姓を、遂に役職の名である大祝に改めたのである。
 しかも知行国主西園寺家で実際の政を執る、家臣のよし氏とも何度も婚姻を結び、その体制を盤石のものとしている。安俊の野心はまだ留まらない。
 ——大祝は半明神である。
 と言い出したのである。
 つまり三島大祝は、その身こそがご神体で、あらひとがみであるということ。この考えを流布し、知行国主である西園寺家さえも易々と手出し出来ぬ状況を作った。
 御家人にして大祝、さらに自らを半神と称したことで、伊予での地位はいやがおうにも高くなり、安俊は専横をさらに極めた。
 安俊は、伊予には元来三島社のものであるのに、奪われている土地があると六波羅探題に次々と訴訟を起こした。そして大祝の地位を上手く利用して訴訟を有利に進め、ぎょうしょじょうを得て、他の御家人の領地を奪っていったのである。そして子の安胤を代官にしたて、その領地に乗り込んで支配を進めている。

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