夢枕獏「ダライ・ラマの密使」序章 #004
これだけ過酷な土地に来て、ここまで適応している白人を、私はこれまで見たことがない。
身体は、どちらかといえば痩せ型であるのに、現地のガイドの誰よりも屈強で、砂漠の行軍中でも、一度も音をあげることはなかった。
鉄の意志を持っているのかと思えるほど、苦痛に対しての耐性が強い。なのに、粗暴というところは微塵もなく、会話をするだけで、彼が深い教養をその裡に持っているのがわかる。
そして、もの静かだ。
今も、私が、これまでの旅について、しみじみ回想している最中、少しもそれを邪魔しようとはしなかった。
赤あかと炎が燃える暖炉の前で、ビロードのガウンを着て、深ぶかと安楽椅子に腰を下ろしているのが似合いそうなところがあるのに、砂漠を行軍している姿も、今、こうやって、イブラヒムの家の居間でくつろいでいる姿も、それなりに様になっている。
額は、やや広めで、身長は六フィート少しくらいあるだろうか。
眼は鋭く、肉の薄い鷲鼻をしている。
顎は四角く出っ張っていて、意志の強さをあらわしていた。
彼について、驚いたのは、どういう時でも、地面の上に腹這いになるのをいとわないということだ。ただし、それは、地面に落ちているもの、あるいは、そこに残されている痕跡に、彼自身が興味を抱いた場合に限るが。
彼は、常に、ひとつの拡大鏡をポケットにしのばせていて、よくそれを取り出しては、遺跡で腹這いになったり、あるいは遺物を手に取ったりして、その拡大鏡で覗いた。
教養の幅は、おそろしく広く、雑多で不統一であったが、知識は正確だった。
いったい、どのような職業がこのような人物を創るのか、あるいは、このような人物はどのような職業につくのか、私の好奇心はそれについて知りたがったが、彼自身は、
「旅行家です」
私にはそう説明しただけであった。
この旅で、いろいろの発見を私はしたが、その多くは、このシーゲルソンによるところが大きかった。
ダンタン・ウィリクでのこともそうであったが、今回の尼雅遺跡でも、彼がいなかったら、発見のいくつかは、まだ砂に埋もれたままであったろう。
今回の最大の発見も、実は、彼が我々にもたらしたものであった。
砂漠の遺跡で発掘をしている最中、私は何度も溜め息をついた。
それは、この遺跡の住人たちが、この遺跡を放棄する時に、生活に役にたちそうなものを、ほとんど持っていってしまったらしいということがわかったからだ。
時間と、食料と水が少なくなってゆくのにいらいらし始めた私に向かって、
「いい方法がありますよ」
そう言ったのは彼であった。
「家を出てゆく時に、人は色々なものを持ち去ってゆきますが、絶対に持ち去ってゆかないものがあります。それが何であるかわかりますか?」
彼が私に訊いてきた。
「さあ、何でしょう」
すると、彼は嬉しそうに微笑して——人に自分だけが思いつくことのできた思考について語る時だけ、彼はこのような笑みを浮かべるのだが、
「塵箱の中身ですよ」
そう言った。
「その人を知るのに、その人の塵箱の中を漁ることほど有効なことはありません。人も、古代の都市も同じです。この街の塵捨て場を掘るというのが、案外、おもしろい結果が出るかもしれませんよ」
「しかし、どこにこの街の塵捨て場があったのでしょう」
「そうですね」
彼は、その地中の、どこに何があるかまで見当がつきかねるような、廃墟をひとしきり見回して、
「これまでの発掘におつきあいしてきた体験から言えば、おそらくこのあたりでしょう」
ひとつの場所を指差した。
半信半疑で掘り出した場所から、次から次へと色々な出土品が出て来た時には、私は驚愕した。
ギリシア風の印影のついた木簡も、漢文が書かれた木簡も、カローシュティー文字が書かれた大量の木簡も、彼が言ったその場所から出土したのであった。
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