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矢月秀作「幸福論」 #001

突出した残虐行為で、かつて大分県警を震撼させた異常犯罪者・萩谷信。
その狂気はいかにして生まれたのか? 
”悪魔”と呼ばれた男の人生に、ひとりの若き刑事が迫る

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第一章

うら君、べっの北浜で起きたひき逃げ事案の画像解析はどうなってる?」
「もう少しで、ナンバーを割りだせそうです」
「そうか。解析ができたら、すぐ別府署へ送ってくれ。逮捕状請求を急ぎたいそうだ」
 大分県警本部刑事部刑事企画課捜査支援室の室長、はなおかゆずるが指示をする。
「わかりました」
 三浦けんろうは、現在解析中の窃盗事案の作業を止め、ひき逃げ事案の画像解析を始めた。
 半年前、三浦は大分県警の刑事学校を卒業した。
 刑事学校とは、試験を受け、狭き門を突破した現職警察官がベテランからの指導を受け、捜査技術の向上を図るため、刑事企画課内に設置された部署だ。
 一九八三年四月、全国に先駆け大分県警に新設され、現在はほとんどの都道府県警察本部に置かれ、聞き込み、張り込み、現場観察、職務質問、取り調べといった基本技術から、科学捜査やハイテク機器を使った新型犯罪への対応技術まで、ありとあらゆる捜査術を徹底して学び、捜査のプロを養成する場として定着している。
 三浦は五名の仲間と共に研修生としてすべての課程を終え、卒業した後、県警本部の捜査支援室に配属されていた。
 捜査支援室の役割は、文字通り、防犯カメラや音声データの解析などで犯罪捜査の支援をすることはもとより、犯罪統計の分析や、あらゆる犯罪の手口や犯罪者の経歴などを整理し、情報管理システムに提供することも含まれる。
 三浦は日々、各署から依頼された個別事案のデータ解析や犯罪データの収集、分析、整理に勤しんでいた。
 ひき逃げ事案の画像解析は、少々難易度が高かった。
 ひき逃げの瞬間をとらえた映像が残されていたのだが、家庭用の防犯カメラの白黒画像で解像度が低かった。
 拡大すると、ナンバープレートの部分がぼやけ、さらにテールランプの明かりが反射し、全体が白んでいる。
 そういう時は、ナンバープレートの部分はあまり拡大せず、陰影でドットを結び、プレートに記された文字と数字を割り出す。その後、拡大してドットの陰影を再確認し、確定させる。
 昔はすべて分析官の目で行なっていたが、最近はAIである程度の候補を割り出し、そこから確認作業を始めるため、時間は大幅に短縮された。
 それでも、ケースバイケースで時間がかかってしまうことはある。
 三浦は先輩分析官のアドバイスをもらいながら、一人で解析に挑んでいた。
 ほぼ解析は終わったが、左のひらがなが判別できない。「あ」か「わ」だろうというアタリはついているが、どっちだと言い切れない。
 このひらがなを間違えるわけにはいかない。
「あ」は業務用登録車にあてがわれるもの。「わ」はレンタカー用のひらがなだ。
 業務用登録車であれば、その所有者、所有会社の関係者をあたればいい。
 レンタカーであれば、そのナンバーの車を借りた者を特定すれば、自ずと犯人に近づく。
 逆に、間違えれば、捜査を混乱させることにもなりかねない。
「どうするかなあ……」
 三浦はモニターを見つめ、うなった。
 と、ショートカットの女性が声をかけてきた。
「どうした、三浦君?」
 振り向く。
 ながあきだった。今年五十歳になる女性で、捜査支援室に十年以上勤務しているベテラン分析官だ。
 少々ふっくらした小柄の女性で、物腰柔らかい笑顔を常に絶やさない人だが、微妙なところを見極める眼力は、支援室でもピカイチのベテランだ。
「このひらがなが判別できないんですが」
 三浦はナンバープレートの左側を指さした。
 明子が覗き込む。
「うーん、これは難しいね。でも、よく見ると、特徴的なところが見えてるよ」
「どこですか?」
 三浦が訊くと、明子は横から手を伸ばしてマウスに手を置いた。画像を拡大していく。
 明子はひらがなの左側のドットを表示した。
「この縦棒に付いた、漢字のにすいのような点々があるでしょ?」
 明子が指でモニターを指す。
 三浦がうなずいた。
「この点々の間を拡大すると——」
 明子はさらに拡大した。
「どう? 開いてる、閉じてる?」
「ドット四つ分くらい開いてますね」
「そう、開いてる。では、これを見て」
 明子はナンバープレートの画像を出す。左のひらがなは「あ」と「わ」だ。
「あっ」
 三浦が目を見開いた。
「わかった?」
「わかりました。〝あ〟ですね。〝わ〟は縦棒に接する部分のにすいに隙間がない」
「そういうこと」
 明子はにっこりと微笑んだ。
「この場合、上の横棒でも判別できる。〝あ〟の横棒の入りは尖っているけど、〝わ〟の横棒の入りは少し角ばってる。ナンバープレートだけでなく、看板や文書などで汎用的に使われる文字には、必ず、見分けがつく特徴があるの。こういう解析しにくい画像の場合、まず、調べようとしている対象に使われている文字の特徴を把握して、その特徴に照らし合わせて判別していくのよ。頭に入れておくことはないの。その都度、対象の特徴を調べる癖をつけておけば、徐々に作業スピードも上がる。わかった?」
「はい。ありがとうございました」
 三浦は頭を下げた。
「私がここまでわかるようになるには、十年かかった。君は優秀だけど、それでも三年はかかる。焦らないで、一歩一歩着実にね。私たちの仕事で大切なことは、まず確実性。間違った情報を渡さないこと。スピードはその後だから」
「はい」
 三浦が首肯する。
「あ、それと、君が個人的に調べていることだけど」
 明子は三浦を見つめた。
「やっぱり、問題ありますか……」
 三浦は渋い表情を覗かせた。
 すると、明子は口角を上げた。
「気になるなら、最後まできっちりと調べなさい。きっと、君の力になる。ただし、通常業務に支障のない範囲でね」
「わかりました」
 三浦が笑みを返す。
「結果がまとまったら、教えてね」
 明子は言うと、自席へ戻っていった。
 三浦は小さく息をついて、解析結果のまとめを始めた。

 三時間後、分析結果を別府署に送付した三浦は、昼食に出かけた。
 県警本部近くにあるファミリーレストランだ。平日の昼間、ピークを越えた時間帯なので人は少ない。
 窓際奥の席に座り、ゆっくりと食事をしながら手元のタブレットに目を落としていた。
「よっ、遅い昼めしだな」
 声がかかる。
 顔を上げた。
「総代」
 笑顔を向ける。
 ひめゆうだった。
「総代はやめてくれ」
 苦笑して、向かいの席に座る。
 姫野は、刑事学校で研修を受けていた時の仲間だ。六名のチームをまとめる総代に任命され、卒業試験のような実地捜査では研修生代表として、捜査の指揮も執った。
「総代……いや、姫野さんもこれから昼食ですか?」
「ああ。昨日まで、ちょっと面倒な組織関係を調べてたんでな」
 姫野が答える。
 姫野は卒業後、県警本部の警備部に配属された。警備部とはかつての公安部のことだ。警視庁には例外的に公安部が残っているが、それ以外の警察署では警備部として公安関係の捜査を行なっている。
「警備、どうですか?」
「なかなかきついよ。刑事事案と違って、終わりがないからなあ。ひたすら、情報を集めるだけ。時たま、敵の懐に潜入することもあるから、緊張も強いられるし」
「そうですか」
 姫野を見つめる。
 研修生時代の姫野は、正直と誠実の塊のような男だった。
 しかし、警備という特殊な任務についているからか、たった半年で、優しかった雰囲気にはたけだけしさがにじみ、目つきも鋭くなっていた。
「まあでも、三年後には刑事部への転属が決まってる。それまではしっかり、警備で得られるものは吸収するつもりだ」
 姫野は気負いなく微笑んだ。
「他のみんなはどうしてるのかな?」
「姫野さんのところに話は入ってきていないんですか?」
「警備の仕事で手いっぱいだったから、余裕がなくてな」
「そうですか。はたなか先生としま課長からは少し聞いていますよ。同じ部署なので」
 三浦が言う。
 先生と呼んだ畑中けいすけは、刑事部刑事企画課刑事研修所の教育係だ。三浦たちは畑中から捜査のいろはを叩き込まれた。
 手嶋しゅうぞうは、刑事企画課の課長で、今は三浦の直属の上司でもある。
 副総代を務めた最年長のうえむらまことは、なか署の盗犯係で日々せったくしているそうだ。ただ、卒業祝いの宴会で世話になった店で働いていて、中津の事件解決につながる重要な情報をくれたかつゆきは病気で亡くなったと聞いた。
 いき署の強行犯担当となったもりこうだい、別府署の刑事第二課暴力犯担当に配属されたどうじんもそれぞれの持ち場でがんばっているらしい。
 県警本部の機動捜査隊に配属されたきくは、四苦八苦しながらも奮闘しているようだった。
「みんな、がんばってるんだなあ。おまえはどうだ?」
「思ったより細かいところが難しくて、目下、勉強中です」
 苦笑する。
「おまえなら大丈夫だよ。分析力にかけちゃ、俺らのチームではピカイチだったからな」
 そう言って笑う。
 警備部に行って、話しぶりもワイルドになっていた。
 姫野はメニューを見て、簡単に食べられるラーメンとドリンクバーを頼んだ。
「ちょっとコーヒー取ってくる。おまえは?」
 テーブルのコーヒーカップを見やる。
「僕はまだ大丈夫です」
「そうか。待ってろ」
 そう言って席を立ち、コーヒーを淹れて、戻ってきた。
 再度座ると、改めてまじまじと三浦を見つめた。
「ところで——」
 身を乗り出す。
「なんですか」
 三浦は少しった。
「調べてるんだって? AtoA企画の事案を」
 姫野が言う。
「どこから、その話を?」
 三浦は目を丸くした。
「たまたま、あの事案に関わっていたチンピラと接触することがあってな。AtoA企画のことを嗅ぎ回っているデカがいるってんで、少しこっちで調べてみたんだよ。そうしたら、おまえだった」
 姫野は笑った。
「すみません。そちらの捜査に迷惑かけてしまいましたか?」
「いやいや、大丈夫。まったくの別件だから。一応、おまえの身辺は調べさせてもらった。勝手に嗅ぎ回って、すまなかったな」
「いえ、それも姫野さんたちの仕事でしょうから」
 返事をしつつ、警備部の任務の底知れない深さを感じる。
「最終的に、うちの主任が花岡室長に確認して、こっちの件とは一切関係ないことが判明した。問題なしだ」
「よかったです」
 三浦は胸をなでおろした。が、すぐ、まじまじと姫野を見やった。
「ひょっとして、それを確認するために、今、ここへ来たんですか?」
「正直、それもある。身内を疑うのは気が進まないんだが、おまえのことを一番よく知っている俺の目で確かめておきたかったんでな」
「どうですか?」
 三浦は姫野を見据えた。
 姫野は正視した。されそうなほどの迫力だ。が、姫野はふっと目元を緩めた。
「変わらないな。大丈夫だ」
 笑みを濃くする。
 三浦の顔のこわばりもほぐれた。
 姫野の頼んだラーメンがやってきた。箸を取って、さっそく食べようとする。
「おまえのメシはまだか?」
 姫野が訊いた。
 三浦の前にあるのは、シーザーサラダだけだ。
「僕はこれだけなんです」
「サラダだけか! 少食だなあ」
「仕事中に食べ過ぎると、頭が回らなくなるんですよ。必要なエネルギーはゼリーなんかでもれますし」
「おまえらしいが、メシはしっかり食っとかんと、いざって時に力が出ないぞ」
「なんか、畑中先生みたいになってますね」
「教え子だからな」
 姫野は笑って、麵をすすった。
 三浦もコーヒーを口に含む。
 姫野は黙々と食べ続け、わずか五分でラーメン一杯を食べきった。
「姫野さん、そんな早食いキャラでしたっけ?」
 目を丸くする。
「外回りしてると、食える時に食っとかないと食いっぱぐれる時があるんだよ。なんで、早食いするようにしていたら、こうなった」
 器を持って、スープを飲み干し、テーブルに置いた。
「ごちそうさん」
 腹をさすり、コーヒーカップを手に取る。
 脂ぎった口の中をコーヒーで洗い、ようやく落ち着いて大きく息をついた。
 紙ナプキンで口周りを拭い、丁寧に畳んで、器の脇に置く。仕草や言葉つきには男くささが増したものの、几帳面なところなどは変わらない。
 三浦は思わず目を細めた。
「で、何を調べているんだ?」
 姫野が訊いた。
はぎのことです」
「萩谷まことか?」
 姫野の問いに、三浦はうなずいた。
「あの事案は強烈だったもんな」
 姫野は少し目を伏せ、カップの取っ手にかけた指を握った。

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