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今村翔吾「海を破る者」 #012

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 かんあけを過ぎ、海を撫でる風にも春の香りが漂い始めていた。ろくろうは釣り竿を手に久しぶりに海へ出た。今日ははんも誘ってはいない。小舟に一人、波に揺られながら糸を垂らしていた。
 ——近いだろうな。
 釣れるのがではない。蒙古の襲来、こう家への出陣の命が下るのがということである。
 げんへいどんしたそうの造船技術を取り入れ、おびただしいほどの船を作っている。大陸をまたにかける商人がそれを見て、日ノ本に伝えたという。
 噂は万里を駆け、みなとに入ってくる船の商人の耳にも届いており、
いくさが始まれば、商いどころではなくなる」
 と、口々に言っている。
 この国の存亡を賭けた戦のあしおとは、着実に、ひたひたと近付いてきている。
 河野家としても、いつ命が下ってもよいように粛々と備えを行っている中、よからぬ話を耳にした。
 ——蒙古襲来の折には、おおほうり家を伊予衆の旗頭に。
 と、大祝家が幕府に訴え掛けたというものだ。
 これを教えてくれたのは、鎌倉へと硫黄を売りにいっていた商人であった。
とくそう家は何と」
 幕府の実権を握るほうじょう得宗家のことである。六郎が尋ねると、商人は頰を緩ませた。
「ご安心を。幕府はそれを退けたとのこと。確かな筋からの話です」
 承久の乱では京方に付いた者が多く出たとはいえ、河野家は伊予第一の御家人である。よりとも公自らが口にしたことをくつがえす訳にはいかないというのが北条得宗家の言い分である。だがその本心は、
 ——河野家の水軍は捨てるには惜しい。
 といったところだろう。
 もともと河野家は船戦を得意とする家柄で、源平の時代よりその名はとどろいている。承久の乱においても、幕府方を相手取り縦横無尽に暴れまわった。そのことを幕府はしっかりと記憶しており、六年前に元が攻め寄せたときにも河野水軍に出陣を命じた。
 だがその頃の河野家は領地を削られ、朽ちた船の修復にも手が回らず、まともに戦える状態ではなかった。この時に大祝家が進言していたならば、幕府も許したかもしれない。
「だが今はみちたちまるがある」
 六郎は遠くの興居ごごしまを見た。道達丸はその向こうに浮かぶつるしまに停泊させている。むらかみよりやすがしかと手入れを行ってくれているだろう。
 道達丸が海賊を打ち破った時には、幕府の者たちはこちらも驚くほど喜んだと聞いている。中でも執権である北条得宗家のときむねなどは、
「いよいよ古豪の復活か!」
 と、膝を打って喜色を浮かべたと耳にしていた。
 河野家の郎党はそれを聞き素直に歓喜していたが、六郎だけは、
 ——余程、幕府も元が恐ろしいらしい。
 と、冷静にその心中をおもんぱかっていたのである。
 陸上における元の強さは無類である。地続きの国がことごとく敗れているのがその証左である。
「他国はいざ知らず、ばんどう武者の敵ではないわ!」
 関東ではそのようにうそぶいている御家人も多いという。六年前の文永の役において、互角の戦いを繰り広げたことを根拠としているのだろう。
 だがそれは全くあてにはならない。あの時の敵勢の内訳は、蒙古人と漢人を中核とした元軍が一万五千。従属した高麗軍が八千余、高麗人水夫七千ほどだったという。
 元軍は博多、高麗軍はももばるに上陸した。高麗軍は赤坂山という小高い山に登って陣をいた。赤坂山の近辺は足場が悪いことから、侍大将であるしょうかげすけは、敵が攻めてくるのを待ち構える策を取った。
 だが御家人の一人、きくたけふさが抜け駆けを行って赤坂山に奇襲をかけた。これが見事成功し、高麗軍はうのていで後方のはらやままで撤退することとなる。
 菊池武房に負けてなるものかと、ほかの御家人たちも後に続き、とりかいがたで両軍は激戦を繰り広げた。
 だがここで多々たた川から元軍が上陸してくると、日本軍は瞬く間に劣勢に追い込まれた。日本軍は挟み撃ちを受けるような恰好となったこと、元軍が毒矢、後に「てつはう」と日本軍が呼んだ火器など、慣れぬ武器を駆使してきたことも理由である。だが、後に九州御家人が商人に話したことを伝え聞くには、
 ——ただ単に、高麗軍に比べられぬほど元軍が精強。
 だったことが最大の要因であるらしい。
 日本軍はみず方面へ退却し、大宰府に立て籠もることとなった。その間、元軍は博多の街に火を放ち、九州御家人から信仰の篤いはこざきぐうも炎に呑み込まれたという。
 これまで日ノ本の武士は心のどこかで元を侮っていたが、実際にへいじんを交えると、りょりょく、経験、技術、どれをとっても当方を上回っていた。実際に戦った御家人はそれを肌で感じ、翌日以降の戦いでの死を覚悟したという。
 だが翌朝になると、元軍は忽然と姿を消していた。船に乗って本国に引き返したのである。つまり文永の役において、日本軍が勝利したのは高麗軍であって、元軍には圧倒されたまま幕を閉じたことになる。
「敵は恐れをなして逃げ出したのだ」
 それでも昨日まで元軍を恐れていたことも忘れ、強気なことをのたまう御家人もいたという。
 が、六郎はそうは思っていない。そもそも前回の襲撃は大規模な偵察だったのではないかと考えている。いざ本気で日ノ本を侵略すると決まった時のための予行演習の意味合いがあったのではないか。幕府も愚かではなく、六郎と同様の考えなのか、築地を造ったり、西国の御家人に交代で警固させたりと手を打っている。
 ——幕府は、元を上陸させればかなり厄介だと解っている。
 六郎はそう思っている。幕府がそう考えている以上、海戦にいちじつの長がある河野家を、伊予衆の旗印から降ろすことはない。だが河野家に大きな失態があれば、幕府としても考えを改めるかもしれない。しかもそう遠くない元の襲来までに。残る時が少ないからこそ、大祝家は正月に無理筋の難癖をつけてきたのだろう。
 その時は繁が上手くかわしてくれたが、まだ何か仕掛けてくるかもしれない。河野家の郎党たちにも強く自重を呼び掛けていた。
「釣られてはならんな」
 そこまで思案を巡らして思わず口から零れた。
 釣りをしているのだ。端から見れば、今の独り言には首をひねるに違いない。自嘲気味に笑ったその時である。浜から己を呼んでいる者がいることに気が付いた。
「何だ……」
 どうもなん衆の郎党の一人である。河野家の旗本は少ない。難波、がわりょうむらなどの六つの地侍の集団で構成されており、河野屋敷にも交代で詰めるようになっている。今月の詰め番は難波衆であるため、河野屋敷で何か不測の事態が起きたのだと思われた。
 遠くてその表情までは見えないが、全身を使って身振り手振りで伝える様子にただ事でないことは窺える。六郎は釣り竿を引き上げて放り投げると、代わりにかいを摑んで岸に向けて船を漕ぎ寄せた。
「何があった!」
 声が届く距離まで近づくと、六郎は大声で郎党に向けて訊いた。
ほうごんです!」
「何だと……」
 宝厳寺は、今から六百年ほど前の天智二年、さいめい天皇の勅願を受けて国司により創建されためいさつである。だが宝厳寺に限ったことではないものの、財政事情はかんばしくなく、昔よりかなり寂れている。河野家とは縁が深く、支援をしたいのは山々であるものの、昨今は自らの家を守るだけで手いっぱいで、なかなかそちらまで手が回らないのが実情であった。それこそいっぺんなどは特にそのことを気にかけており、
 ——いつか必ず再興したい。
 と、想いを吐露していた。
 宝厳寺そのものが襲われたという意味ではないのはすぐに解った。宝厳寺の近辺には美しい梅林があり、今日、河野屋敷の女中たちにねぎらいの意味を込め、
 ——行楽に行って来るがよい。
 と許しを与えていたのである。を筆頭に女中三十余名が行楽に出ていた。
「盗賊か」
 浜に寄せた船から飛び降りるなり、六郎は鋭く訊いた。世情不安定で各地に盗賊がばっしており、これまで伊予にも現れて捕縛したことがある。故に、念のために行楽の一行には、詰め番である難波衆の郎党十人を警護に付けていた。
しらせが届くなり、まずは御屋形様にと駆けてきたので仔細はまだ」
「解った」
 六郎が駆け足で屋敷に戻ると、すでに多くの郎党が集まって人だかりになっていた。
「御屋形様」
 しょうろうが振り返った。その顔は緊張で強張っていた。皆も六郎に気付いて、誰が言うでもなくさっと道を開けた。すると壁にもたれ掛かってうな垂れる、一人の若者が目に飛び込んで来た。
しんか」
 かつて河野家の家宝であるとしつねの太刀が消えた時、己にそれを報せた難波衆の新兵衛は今日の行楽にも随伴していた。額をさらしで押さえ、それが真っ赤に染まっている。六郎の呼ぶ声はやや上擦った。
「御屋形様……申し訳ございません……」
 新兵衛は声を震わせた。
「何があった」
「宝厳寺というところで襲われました。いずれも見知らぬ男たちです。その数は三十余……」
 雑木林に挟まれた細い道を進んでいると、いきなり十数人の男たちが林から飛び出してきて前を塞いだという。振り返った時には背後の道も塞がれていた。
 ——河野家の者と知ってのろうぜきか!
 郎党の一人が詰め寄ったが、男たちは何も答えない。一拍の間を置いて、としかさの頭格らしき男が「やれ」と短く命じ、一斉に襲い掛かってきた。
 静かな雑木林に女の泣き叫ぶ声が響き渡り、宿り木していた鳥たちが一斉に飛び立つ。郎党たちは太刀を抜いて防戦に当たった。新兵衛は後方の敵に向かい、二人斬った。
「誰か! このことを伝えよ!」
 難波衆の古い郎党が叫んだ。
「お任せを!」
 新兵衛はそれに応じ、けつを開こうとしたが数が多い。反対側の襲撃者が伏せていた雑木林に飛びこんだ瞬間、二本のはくじんが襲ってきた。一本はぎ払ったが、一本が額をかすめてこの傷を負ったという。
「すぐに出るぞ」
 六郎はそこまで聞き終えると低く言った。
「お待ちを。敵が何者か判りません」

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