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第2章、公開! 3日連続公開3日め――知念実希人「機械仕掛けの太陽」#006

WEB別冊文藝春秋

COVID患者は妊婦だった――。
医療現場に走る緊張。
正解がわからない中で、それでも医師たちは走り続ける。

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7 2020年12月18日

 触れれば切れそうなほどに空気が張り詰めている。息苦しさをおぼえた椎名梓は、つけているサージカルマスクの上部に指を引っかけ、少しだけ隙間を作って一呼吸した。
 金曜の昼下がり、心泉医大附属氷川台病院の本館にあるミーティングルームには、十数人の医師がパイプ椅子に腰かけ、正面を見つめていた。
 換気のために開けている窓から、冬の冷えた外気が入り込んでくる。梓は軽く身震いをした。それが寒さからくるのか、それとも武者震いなのか、自分でもよく分からなかった。
 横目で他の医師たちの様子をうかがう。感染対策として椅子と椅子を離して座っているにもかかわらず、彼らの緊張が伝わってきた。
 この空間に呼吸器内科医は、梓と部長の扇谷の二人だけで、大部分はこの本館にある周産期センターに勤める産婦人科と小児科の医師たちだ。
「それでは、手順の最終確認をします」
 産婦人科の部長であるやなさとが、部屋にいる医師たちを見回す。まだ四十歳だが、産科医としての経験は随一で、周産期管理においては誰もが一目置く存在だった。
 しかし、そんな多くのハイリスク出産の管理をしてきた簗瀬の態度にも、明らかな緊張が見られる。当然だ、彼女にとってもはじめての経験なのだから。
 これから茶山礼子の、つまりはCOVID妊婦の帝王切開での出産が予定されていた。
 先月の二十二日に入院した礼子は、その後、じわじわと症状が悪化していった。高齢者のように急速に呼吸状態が悪化するということはなかったが、肺に生じた炎症は少しずつ、しかし確実に広がっていき、必要な酸素の量も増えてきた。
 産科主治医の簗瀬、呼吸器内科主治医の梓、そして新生児管理専門の小児科医が意見交換をくり返し、なんとか妊娠を継続させようとした。しかしCOVIDの悪化に伴い、これ以上の妊娠継続は母体にも胎児にも危険だという判断が下され、帝王切開により出産することとなった。
 礼子は妊娠二十七週で、胎児の体重はエコー検査での推定では一二〇〇グラム強といったところだ。この状態で出産された新生児は極低出生体重児と分類され、まだ体が完全には完成しておらず、様々な疾患が生じる危険性が高い。
 少なくとも、一五〇〇グラムまでは待ちたかった。簗瀬の説明に耳を傾けつつ、梓はほぞを嚙む。しかし、母体が低酸素状態に陥れば、胎児にも危険が及ぶ。もしここで肺炎が一気に悪化したら、準備不足のまま緊急帝王切開による出産と、挿管による人工呼吸管理を同時に行わなくてはならなくなる。母子のどちらか、もしくは二人ともが命を落とす可能性が高い。その判断のもとに今日、帝王切開をすることになった。
「予定通り、帝王切開はこの周産期センターの手術室で行います。本日、出産予定の妊婦はいないので、ここの手術室はこれから、清掃・消毒が終わる明日の朝までレッドゾーンに指定します。もし緊急の分娩・帝王切開が必要な症例が来た場合は、産婦人科外来か新館の手術室で対応します。ここまでで質問は?」
 誰もが無言で簗瀬を見つめ続ける。
「妊婦の移動は主に、コロナ病棟の看護師が行います。コロナ病棟の入退院用エレベーターを使い旧館から出て、この本館の裏口から入り、貨物用エレベーターで手術室まで搬送します。途中での急変に備えその間は、呼吸器内科の主治医である椎名先生について頂きます。よろしいですか、椎名先生」
 指名された梓は、「はい」と力強く答える。
「妊婦に接触するスタッフは全て、PPEを完全に装備して下さい。手術室に入室後は、市ヶ谷部長に脊椎麻酔をお願いします」
 前方の席に座っていた麻酔科部長の市ヶ谷が、重々しく頷いた。
「麻酔がかかったことが確認でき次第、私の執刀で帝王切開を行います。胎児を取り上げたあとはすぐに新生児科にお渡ししますので、挿管をお願いいたします」
 新生児科の医師たちが首を縦に振った。
 極低出生体重児は肺が未成熟なことが多い。すでに母体にステロイドの投与をして肺の成熟を促しているが、それでも不十分だろう。
 そのままでは肺胞が膨らまず、新生児呼吸窮迫症候群という呼吸不全を起こしてしまう。そのため、即座に気管内挿管を行い、肺サーファクタントと呼ばれる肺胞が膨らむために必要な物質を投与したうえで、人工呼吸管理にする必要があった。
「今回の出産では、新型コロナ感染のリスクがあるため、一般的に行っているような母子の対面は行いません。挿管後、新生児はすぐに手術室から退出をして下さい」
 梓は膝の上に置いた拳を握りしめる。感染リスクを少しでも下げるために、妊婦の胸元に大きなビニールカーテンを設置する予定となっている。つまり、礼子は取り上げられた我が子に触れることはおろか、ほとんど見ることもできず、引き離されてしまうのだ。
 五年前、息子の一帆を出産した際、大きな泣き声を上げる息子をカンガルーケアとして胸に抱いた記憶が蘇る。あのときの感動を、礼子は感じることができない。感染対策として仕方ないとはいえ、あまりにも残酷だ。
「新生児は本来、NICUでの管理ですが、今回は新型コロナウイルスに感染している可能性もあるため、小児科病棟の個室で管理します。感染していないことが確認されるまで、その部屋もレッドゾーンとします」
 明日から週末だが、新生児科の医師と看護師が常にその部屋に常在し、生まれた子供の健康状態を管理することになっていた。梓も簗瀬も市ヶ谷も、休日返上で母子の健康管理にあたる予定だ。ただ全てがはじめての経験なだけに、うまくいくかどうか、誰もが確信を持てずにいた。
「皆さん」
 一通りの説明を終えた簗瀬が、よく通る声で語りかける。
「現在の感染状況からみると、おそらく今後、多くの妊婦がコロナに感染するでしょう。地域最大の周産期センターとして、私たちはこれから何度もCOVID妊婦の周産期管理をすることになると思います。ここ以外に、COVID妊婦の出産に対応可能な施設は近隣にありません。だから、頑張りましょう。まずは、今回の出産を何としても成功させ、母子ともに健康に退院できるように全力を尽くしましょう。皆さんの力をお貸しください」
 簗瀬は深々と頭を下げた。「おう」という雄叫びのような声がこだまし、梓の内臓を揺らした。

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