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ピアニスト・藤田真央エッセイ #33〈名門ウィグモア・ホール・デビュー!――モーツァルト・全曲ソナタ〉

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 2023年7月上旬、スーツケースいっぱいに日本の食品やお気に入りの調味料を詰め込んで、私は東京からベルリンへ戻った。ベルリンの自宅に着いてほっと一息ついたのも束の間、5日後には約1ヶ月にわたる旅へ出かけねばならない。イギリスにて6公演、スイス・ヴェルビエ音楽祭にて4公演、イスラエル・テルアビブにて3公演、そしてフランス・ラ・ロック=ダンテロン国際ピアノ音楽祭にて1公演。通常であれば公演が終わる度に自宅へ帰りたいところだが、夏は世界各地がフェスティバルシーズンのため、演奏、移動、演奏、移動……の怒涛の日々となる。
 大荷物のパッキングを済ませ、いつものようにベルリン・ブランデンブルク空港に向かう。いつもは地下鉄に揺られて空港へ移動するのだが、今回は2つの大きなキャリーケースを引いているのでUberを利用した。
 毎度の如く苛立ちが募るのが、自宅から空港が遠いことだ。東京・成田国際空港が千葉県にあるように、ベルリン・ブランデンブルク空港は、実はベルリン州ではなくブランデンブルク州に位置している。テーゲル空港が存在していた数年前であれば、自宅から数十分で空港へ到着するのだが……。
 いざ空港に到着すると、チェックインカウンターも手荷物検査場も大変混み合っている。そうか、休暇シーズンが到来しているのだと一人膝を打った。

 ここからミュンヘン経由でロンドン・ヒースロー空港へと向かうのだが、さて第一の難関はミュンヘン空港での乗り継ぎ時間が50分しかないことだ。前日の運行状況をHPでチェックしてみると、ミュンヘン行きのフライトは遅延していた。さすがルフトハンザ(ドイツ最大の航空会社だが、大体この調子なので、私も慣れっこになっている)。当然この日も、遅延の案内が次々と流れてくる。私の便の出発は20分ほどの遅れで済んだが、この時点で乗り継ぎに充てられる時間は30分しかない。無事にミュンヘン空港へ着陸すると、シートベルトサインが消えた途端に乗客が一斉に立ち上がり、我先にと降機口へ進んでいった。苛立っている人々を横目で見ながら、運が良い時はツキが良い、運が悪い時はツキが悪いと割り切っている私は、それほど急がずに乗り継ぎゲートを探した。
 
 イギリスは数年前にEUを脱退してから、厳格な出入国審査が必要とされるようになった。審査に並ぶ人々の長蛇の列に、これはもう乗り継ぎ便には間に合わないだろうと半ば諦めていたところ、「自動化ゲート」の表示が目に飛び込んできた。日本ほか一部の国のパスポート所持者は、口頭での厳しい審査をパスして、機械で簡単に完了させられるのだ。すぐさまそちらに並び替えたおかげで早々に出国審査が終わり、汗だくでゲートに駆け込むと、飛行機はまだ到着していなかった。私が乗る予定のロンドン・ヒースロー行きも、出発が少しばかり遅れているという。さすがルフトハンザだが、今回ばかりは遅延は大歓迎だ。無事に搭乗して胸を撫で下ろすと、緊張の糸が緩んですぐに眠り込んでしまった。
 ところが飛行機が着陸し携帯を見ると、ルフトハンザ航空から一つのメッセージが入っていた。私の預けたスーツケースがミュンヘンでの乗り継ぎに失敗したという。やれやれと空港の遺失物取扱所に向かい、荷物を宿泊先へと送ってもらう為の手続きを済ませる。そして身一つで出口へ向かおうとしたところ、なんということだろう、荷物受取レーンに私の青いスーツケースがぽつんと寂しげに回っているではないか。こうして私はロストバゲージに遭ったはずの荷物を無事に受け取ることができた。しかしあのメッセージはなんだったのだろうか。そうして一喜一憂しながら、無事にロンドンに到着。さすがルフトハンザ。この日はまだ運が良い日だった。

7月7日には英国コッツウォルズ地方の村・ナントンの
セントアンドリュース教会でリサイタルを行った。

 7月10日、私はロンドンにある世界最高峰の室内楽ホール、ウィグモア・ホールに初めて足を踏み入れた。552席の室内楽ホールだと聞いていたが、舞台から客席を臨むとそれよりも広く感じる。上品な格調高い内装で、ステージの真上にプラネタリウムのような凹面ドームが配されている。ドームには音楽神を中心とする壁画が施され、神聖な雰囲気に背筋が伸びる。
 今日から14日までの5日間、私は〈モーツァルト:ピアノ・ソナタ全曲ツィクルス〉を開催するのだ。5日間連続でステージに立つだけで精神的にも肉体的にもハードなのに、毎公演モーツァルトの楽曲のみの異なるプログラム。さらに、今回は私のロンドンでのリサイタル・デビューでもある。デビューでいきなりソナタ全曲ツィクルスとは、ウィグモア・ホール企画部の大胆さには驚くばかりだ。
 ちょうど2年前にこのオファーを頂いたときには、たいへんな高揚感とともに、感謝と光栄な気持ちで胸がいっぱいになった。だが本番当日にもなると、凄まじい緊張が襲ってくる。これまで何度も演奏してきたモーツァルトだが、無事弾き切ることができるか不安で仕方なかった。

 ピアノを触ってみると非常に明るい音がした。この上なく明るい音だ。これだと長調の作品での音色作りは容易だが、短調の場合はどうなるだろう。与えられた3時間のリハーサルタイムを余すことなく最大限に使い、これから5日間を共にするピアノの性能を存分に試してみる。途中訪れた調律師は、私の細かい要望を理解し、すぐに調整をしてくれた。リハーサルを行ううちにピアノの音は徐々に私色に変容し、私も楽器の性格を掴んで自在に操れるようになった。
 ウィグモア・ホールのディレクターが開演30分前に私の楽屋を訪れた。彼曰く、一人のアーティストが1週間ウィグモア・ホールを貸し切って毎夜公演を行うのは、開館以来初めてのことだという。コロナ禍で先々の公演スケジュールが白紙になったため、このような画期的なアイディアが生まれたそうだ。ホール史上初の試みに、館長も緊張と期待の表情を浮かべている。私のヨーロッパのマネジメント事務所・インタームジカの社長も楽屋を訪ってくれた。彼は常にジョークを言うので、いるだけで場の空気が明るくなる。彼の来訪に私は鼓舞され、力強い味方が近くにいることを感じて少しばかり緊張が和らいだ。

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