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第2章、公開! 3日連続公開1日め――知念実希人「機械仕掛けの太陽」#004

WEB別冊文藝春秋

西東京市の開業医・長峰は、発熱外来への参加を決めた。
しかし、そこはまさに戦場だった。

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第2章 α

1 2020年7月5日

 暑い、いや熱い。全身を炭火であぶられているかのように、熱が体の内側に染み込んでくる。汗を吸った下着が、体に張り付いて不快だ。
 冷たい水を飲みたい。いや、水でなくてもいい、冷えた空気を一息吸い込みたかった。密閉性の高いN95マスクの中に、自分が吐き出した生ぬるい空気ではなく。
「じゃあ、熱が出たのは一昨日の夜で、今日の朝から倦怠感が出はじめたということだね」
 倒れそうなほどのめまいをおぼえながら、長峰邦昭は必死に言葉を絞り出す。少し離れた位置に置かれた丸椅子に座った中年男性は、「はい」と首をすくめるように頷いた。その目は虚ろに濁り、背中は丸まっている。
「息苦しさは?」
「それは大丈夫です。ただ、体が凄くだるいだけです」
 男性は弱々しい声で答えた。
 日曜の午後六時前、長峰はなし駅から車で十分ほどの距離にある、秀医会西東京病院の敷地に設置されたテントで発熱外来を担当していた。
 初期には保健所の許可がなければできなかった新型コロナの検査だったが、この半年で様々な医療施設や検査会社などが必死にPCR検査のキャパシティを増やした結果、医師が必要だと判断すれば行えるようになっていた。
 五百床の病床を持ち、地域医療の要となっているこの秀医会西東京病院の敷地にもプレハブ小屋が作られ、PCR外来と発熱外来が設置された。
 PCR外来は全身状態は良好だが、新型コロナに感染している可能性があると地域の開業医などが判断した患者が送られてきて、検査のみを受けるシステムになっている。これまで、長峰も数人の発熱患者を紹介した。
 一方で、発熱外来はすでに呼吸苦などの症状が出ていて、場合によってはそのまま入院が必要な患者が対象だった。毎日午後四時から六時まで行われ、西東京市医師会が秀医会西東京病院の施設を利用するという形で行われる。当然、担当するのは西東京市医師会の医師、つまりはこの一帯で自分の診療所をもつ開業医たちだ。
 今日、長峰ははじめての発熱外来の担当医に当たっていた。
 この発熱外来、PCR外来ができてから、普段の診療はだいぶ楽になった。それまでは、どれだけCOVIDが疑わしい患者が受診しても、帰国者・接触者相談センターの電話番号を渡し、「ここに連絡をして」ということしかできなかったが、いまは必要に応じ検査を行うことができる。
 だからこそ、たとえ感染リスクがあったとしても、発熱外来を担当することに迷いはなかった。
 ただ、この暑さは予想外だった。
 プレハブに一応の空調はついているのだが、感染対策のために窓を開けて換気をしておく必要があるため、暑く湿った外気が常に吹き込んでくる。そんな室内で、さらに感染対策のためにN95マスク、アイシールド、ガウン、キャップ、防水ズボンなどのPPEを隙間なく着こまなくてはならないのだ。蒸し焼きにされているような心地になる。
 首筋に冷却スプレーをかけたり、ひょうのうを当てたりして必死に体温を下げながら患者を診てきたが、もはや限界は近かった。
 この患者が最後だ。長峰は自らをしながら、問診を続ける。
「なにか心当たりはないかな。この二週間以内に大人数で会食をしたり、周囲でコロナの人が出たり、あとは歓楽街に行ったり」
 長峰が「歓楽街」という言葉を口にした瞬間、弛緩していた患者の表情がかすかにこわばった。
「いや……、べつに……」
 露骨に視線を外す男に、長峰は諭すように話しかける。
「医師には守秘義務があるから、ここで聞いたことは会社にも奥さんにもばれない。ただ、あなたに適切な医療を施すためには、正しい情報が必要だ。だから、正直に答えてくれるかな。そうじゃないと、あなたがどれだけコロナに感染している可能性があるのか判断ができないから」
「実は……、先週、キャバクラに行きました」
 患者は上目づかいに視線を送ってきながら、蚊の鳴くような声で答えた。
 長峰はマスクの下で小さくため息をつく。五月二十五日に緊急事態宣言が解除されてから、ホストクラブやキャバクラなどでの感染者が増えてきた。
 音楽がかかっている密閉された空間で、酒を飲みながら話をすることの多いそれらの業態は、まさに感染リスクの塊だ。さらに新人のホストやホステスは、狭い部屋で集団生活を送っていることも多い。当然、クラスターが生じやすい。
 なぜ、これだけ歓楽街での感染に対して注意喚起がされているにもかかわらず、そこに行ってしまうのだろう。新型コロナウイルスが怖くないのだろうか。
 もはや新型コロナによる危機は過ぎ去ったかのような風潮が、世間では広まりはじめていた。テレビのワイドショーでは、新型コロナ診療を全くしたことのない医師や、専門家を自称する学者たちが、しきりに楽観論を繰り広げている。
 曰く、コロナは日光に弱いので夏には消え去る。
 曰く、日本人はコロナに強い体質を持っている。
 曰く、すでに集団免疫ができ上がっている。
 なにを馬鹿なことを言っているんだ。公共の電波で根拠のない楽観論をばら撒く者たちを見るたび、長峰は怒りに拳を握りしめずにはいられなかった。
 そんなに甘いウイルスじゃない。たしかに、緊急事態宣言で徹底的な外出自粛が行われた結果、感染は急速に収束した。しかし宣言が解除され、人々が動きはじめるとともに、再びウイルスも息を吹き返しはじめていた。
 六月の初旬には、歌舞伎町のホストクラブなどでクラスターが頻発し、じわじわと感染が広がりつつあった。
 七月に入り、東京では二ヶ月ぶりに一日の新規感染者が百人を超えていた。
 くすぶっていた感染の火種に、いま新鮮な酸素が吹き込まれている。このままでは、ふたたびウイルスのごうが社会を焼きはじめるだろう。しかし、どうすればその炎を抑え込めるのか分からなかった。
 無力感に苛まれながら、カルテに『先週歓楽街への出入り有り』と打ち込む。手袋を嵌めた手で苦労しながらキーボードを叩いた長峰は、デスクに置かれたパルスオキシメーターを手に取り、「ちょっと指を失礼」と患者の人差し指に着ける。
 爪を通して血液中の酸素飽和度を測る小さな機器の画面に『89%』と表示された。長峰の眉根が寄る。
 正常の血中酸素飽和度は九十六から九十九パーセントだ。あまりにも低すぎる。
「息苦しくはないんだよね?」
 再度訊ねると、患者は「全然」と不思議そうに首を横に振った。
 もし本当に酸素飽和度が八十九パーセントなら、かなりの呼吸苦が生じるはずだ。うまく測れていないのだろう。
 まあいい。さっさと必要な検査をしてしまおう。これ以上この格好でいたら、熱中症になってしまう。
「とりあえずPCR検査をして、そのあとにCTを撮影しよう。その結果を診て、対応を決めるから。じゃあ、真横を向いてくれるかな」
 長峰の指示通り、患者が丸椅子を回して真横を向いた。
「マスクから鼻だけを出して。そう、口は絶対に出さないように。そして、ずれないようにマスクを両サイドからしっかり押さえて」
 長峰はかすかに緊張しつつ、後ろに控えていた看護師から綿棒を受け取る。これから行う処置こそ、この発熱外来で最も危険な作業だった。
「鼻の奥に入れるんで、嫌な感じがするけど、我慢してね」
 長峰は慎重に患者の鼻の奥に綿棒を差し込んでいく。ここで患者がくしゃみをすれば、大量のエアロゾルが口から吹き出し、そばにいる自分はそれを浴びることになる。たとえPPEを着込んでいても、危険なことには変わりない。
 鼻腔の奥に綿棒の先端が当たる感触が、手袋越しに伝わってくる。長峰は手首を小さく回して、鼻咽頭粘膜を採取する。痛みで患者の顔が大きく歪んだ。
「はい、採取は終わり、マスクを戻して」
 安堵の息を吐きながら、長峰は採取した綿棒を看護師に渡す。看護師は慎重にそれを円筒状のプラスチックケースに入れた。このあと、このケースはこの病院の中央検査部に送られ、PCR検査が行われる。今晩中には結果が出るはずだ。
「じゃあ、最後にCTの撮影に行きますね。この車椅子に乗って下さい」
 看護師が押してきた車椅子に、患者は緩慢な動きで移った。
「先生、本当にお疲れさまでした。それでは失礼します」
 長峰に労いの言葉をかけ、看護師は患者を乗せた車椅子を押してプレハブ小屋から出ていった。この時間、秀医会西東京病院の地下にあるCTは、発熱外来の患者専用になっている。一般患者とは接触しないよう、機材搬入口からエレベーターで地下に降り、一時的にレッドゾーンとして封鎖されている区間を通ってCT撮影室へと患者を運ぶのだ。
 CT撮影後は毎回、部屋の換気と消毒も行うらしい。
 看護師と患者を見送った長峰は、ゆっくりと立ち上がった。めまいをおぼえて一瞬バランスを崩したあと、足を引きずるようにしながらプレハブ小屋を出て裏手へと回る。そこに、バイオハザードマークのついたプラスチックボックスと、テーブルが置かれていた。
 長峰は防水ズボンとキャップを脱いでプラスチックボックスに捨てると、ガウンの襟に手をかけ、養生テープで固定された背中側を破っていく。中に籠っていた熱気が、蒸発した汗とともに吹き出した。灼熱の拘束具から二時間ぶりに解放された長峰は、目を閉じて背中から吹き込んでくる風を味わうと、内側に巻き込むようにして防護ガウンを脱いでいく。こうすれば、ウイルスが付着している可能性がある外側に触れないですむ。ガウンを丸めて脱ぎ終えると、同様に手袋を外側に触れないようにして取り去り、それらをまとめてプラスチックケースに入れた。

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