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今村翔吾「海を破る者」 #003

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 河野家の本貫地は風早郡かざはやぐん河野郷である。先祖は国衙こくがの役人として働いていたが、源平合戦で活躍して以降、この水居津の辺りまで勢力を広げることになった。
 承久の乱で失ったのは、本貫地である風早郡なのだ。故に亡くなった父、伯父、郎党に至るまで、いつか河野発祥の地を取り戻すという宿願がある。だが六郎は流石に口には出せぬものの、
 ——残ったのが水居津でよかった。
 と、心より思っていた。
 風早郡河野郷は内陸部にあり山も険しく決して水田も多くない。この水居津に残った領地は広さこそ風早郡のそれに劣るものの、海がある。海が無ければ今のような実入りを作ることは出来なかった。それに水軍大将の家といわれながら、領地が海に面していないなど笑い話にもならないだろう。
 こうして水居津から宮前川を上ったところにある小高い丘に、父の代に館を建ててそこに暮らし、領内における政庁の役割も果たしている。館の規模は大したものでもないくせに、大層に堀や、高さ二間ほどの土塁を巡らせてあるのは、父と伯父が争っていた頃の名残である。
 六郎が館に帰って一刻もすると、さっそく百姓や漁師たちが訪ねて来た。
 ——海若が高麗人と、得体の知れない女を買ったらしい。
 という噂が、瞬く間に巷に広がったらしい。市の見物に間に合わなかった者たちが、一目見ようと集まって来ているのだ。
 このように気軽に領主の館を訪ねて来るなど、他の地では考えられないことかもしれない。現に河野家でも父の代では無かった。しかし六郎が毎日のように町を歩き、百姓に声を掛け、漁師と一緒になって釣りをするので、民にとって六郎はすっかり近しい存在になっている。近郷の百姓たちが、立派な大根が取れたと持ってきてくれることなどもあった。
 一方で、庄次郎などの古い郎党は、
「これでは河野家の威厳が……」
 などと、いつも小言を漏らしている。
 館の縁側を開け放ち、送り届けられたばかりの高麗人と女と共に座った。これで庭からもこちらを見ることが出来る。決して広くない庭に老若男女の見物人が満ち溢れており、時折感嘆の声が上がった。
「まっこと青い目をしておる」
 舐め回すように見ているのは、河内源氏の末裔を称している村上水軍の四代目、村上甚助頼泰である。
 甚助の父も承久の乱の折に河野家に従い戦った為、領地の全てを奪われて没落している。六郎はこの男を漁師たちの網元である自身の補佐役に任じていた。
 歳は四十であるが漁で鍛えられた逞しい体軀は若者のようである。笑えば鞣し革のように日焼けした顔から白い歯が覗き見える。
「御屋形様の物好きには困ったものじゃ」
 拗ねたように少し離れたところに座る庄次郎は、白いびんを搔き毟っている。
「怖がっておるではないか。止めよ」
 男達に囲まれた女が怯えていることを察した六郎は、民を掌で制した。もとより晒し者にするつもりはなかった。肌、髪、目の色は確かに違う。だがこの女が妖などではないことは見れば分かる。秘匿すればかえって人々の恐怖を煽ることとなり、よからぬことを考える輩が出ることを危惧したのだ。
 だがそれが裏目に出たようで、女は男たちが覗き込む度に、びくんと肩を強張らせていた。
「離れろ。倭人ども!」
 ここでも高麗人が喚き散らしただけでなく、覗き込もうとした漁師を突き飛ばした。そのせいで瞬く間に屈強な男達に取り押さえられ、踏まれた蛙のように床に張り付いて呻き声を上げている。
「今日のところはもう帰れ。この者達とゆるりと物語りたい」
 六郎は衆に向けて言った。押し掛ける人は後を絶たない。このままで埒が明かぬし、妖の類でないということは十分に理解させられたであろう。
「よいものを見た。皆、引き上げるぞ」
 甚助が意を察して呼びかける。不満の声も漏れたが、その気になればいつでも見られると甚助が付け加え、集まっていた者たちは渋々舘を後にした。
「お主たちも下がれ」
 残る部屋の隅で渋面を作る庄次郎を始めとする郎党たちに向けて言った。
「しかしですな……」
 女はともかく、高麗人は先ほどから激昂している。庄次郎はもし己の身に何かあればと心配しているらしく、なかなか腰を上げようとはしない。
「心配ない」
 六郎は掌を向けてゆっくりと首を振った。
 六郎に太刀や弓、組討を教えたのは庄次郎。胡乱うろんな真似をすれば取り押さえるくらいは一人で出来る。庄次郎はその腕前を重々知っているからこそ、再び深い溜息をついたものの、皆と共に下がっていった。
 自然、部屋には三人だけとなった。先ほどまでの賑わいが噓のようで、室内にはかまびすしい蟬の鳴き声だけが響いている。
 高麗人はようやく昂りも収まったようで、下唇を嚙みつつも大人しくしている。
 女も落ち着いている。人が去ってからというもの、ずっと庭に目をやっていた。何を見ているという訳でも無い。その視線は入道雲のそそり立つ夏空に注がれている。
「さて……ようやく静かになった」
 六郎が切り出したが、高麗人は反応を示さない。女はこちらを見た。やはり言葉を理解していないようで、訝しんでいる。その肌は雪を彷彿とさせるほど白く、どこか夏と不釣り合いに思えた。
「名をなんという」
 続けて訊くが返答は無い。高麗人は少なくとも分かるはずだろう。
「教えてくれないか」
「はん……」
 三度、努めて優しく語り掛けると、高麗人はようやく口を開いた。その目にはやはり猜疑心が宿っている。
「はん……か。どのような字を書くのだ?」
「字などない」
「はて、何故だ?」
「そういうものだ」
 高麗人はこの国の民と同様に高貴な身分の者を除いては姓を持たないという。また文字も漢民族のものをそのまま使い、一部の貴族だけ読み書きが出来る。庶民は己の名を書き記すことなど生涯無いらしい。
「字が無いと不便もあろう」
「別に……」
「こう書いてはどうだ。繁……縁起がよい」
 掌を指でなぞりながら六郎は微笑みかけた。
「好きにすればいい」
 繁はそっぽを向き舌打ちした。己のことを嫌っているのだろうが、反対に六郎は繁のことをどうも嫌いにはなれなかった。郎党たちにも、集まって来た漁師や百姓たちにも憤怒の眼を向けていた。全ての者に憎悪を向けている繁は、どこか一族の愚かな争いを憎んでいた頃の己に似ていると思うからかもしれない。
「そなたの名は何と言う」
「れいなは倭語をほとんど話せぬ」
 六郎の問いを遮り、繁が代わりに答えた。名を呼ばれたことで己の話をしているのは分かるのだろう。碧い眼で六郎たちを交互に見つめる。
「れいなか、変わった名だ。どのような字を書くのだ」
「知るか」
 何事も試してみなければ気の済まない性分である六郎は、下人を呼びつけ紙と筆を用意させた。
「名を書けるか?」
 言葉が通じぬならば、身振り手振りで伝えるほかない。己の鼻先にちょこんと指を置いた後、残る手で筆を宙に走らせながら尋ねた。
 それで伝わったようで、女はぱっと細い眉を開いて頷く。筆を持たせようと膝をにじらせると、女はさっと手を胸元において退いた。再びその顔に怯えの色が浮かんでいる。ここに至るまでの日々に想いを馳せると、六郎の胸は詰まった。
「何も悪いことはしない」
 六郎は努めて穏やかに話しかけたが、女の強張りは取れない。言葉の偉大さを痛感して、六郎は困り果てた。これも身振りで伝えるしかない。少しわざとらしいのではないかというほどの笑みを浮かべつつ、六郎は筆を逆さに持ち替え、距離を取ったまま差し出した。
「書いてくれないか」
 女はこくんと頷くと、摘まむようにして筆を受け取る。そしてすぐに紙に向って筆を走らせた。
「これは面白い」
 六郎は感嘆の声を漏らした。蚯蚓みみずが這ったような文字とも言えぬものが書かれている。女の生まれ故郷ではこう書くのだろうか。このようなものを一度見ただけで覚えられる者などこの国にはいまい。

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