今村翔吾「海を破る者」 #020
新直木賞作家の最新作、いよいよクライマックスへ
激戦の志賀島戦を経て、
元軍を壱岐にまで撤退させることに成功した河野家。
しかし河野家への幕府の処遇は冷酷なものだった――
弘安五年(一二八二年)、春。
相模国片瀬に、地鳴りの如き念仏の大合唱が響いている。念仏の調子を導く鉦鼓も鳴っている。その甲高い音は、人の声にはなかなか紛れないのだが、今日ばかりは霞んで聞こえた。唱える念仏に狂いなどない。どの者の口も、ぴたりと同じ動きをしていた。
人々は往来に見渡す限り溢れ、絶え間なく足を動かし、肩と肩、腕と腕が擦れ合い、仲春だというのに常夏の如き熱気が巻き起こっている。声と熱、二つが入り混じって、蒼天を衝くほどに立ち上っていた。
一昨日、一遍一行は鎌倉に入ろうとしたところ、巨福呂坂で御家人に止められた。その口からは、
——得宗家。
つまり鎌倉幕府執権北条時宗の意向だという。御家人たちに指示を出し、己たちの鎌倉入りを阻止させたのであろう。いや、
——あの場に時宗はいたのではないか。
と、一遍は推し量っていた。
一遍の前に立ちはだかった御家人たちは時折、背後を盗み見ていた。当人たちは気付かれていないつもりだろうが、一遍の目には明らかである。視線の先には、板屋根、板塀の何の変哲もない家屋があった。
家の中に気配を感じる。一度だけだが人影も見た。
踊念仏の噂はすでに鎌倉にも届いているはずだ。時宗は、自らの目でそれを見たいと、密やかに足を運んだのではないか。
——そうあってくれ。
一遍は澱みなく念仏を唱えながら、心中で祈るように呟いた。
そもそも己は何故、鎌倉に向かったのか。鎌倉にも己を欲してくれている者が大勢いるとは聞いている。それだけでも行かねばならぬ理由にはなる。ただそれは鎌倉に限ったことではなく、各地からそのような声が届いている。
それらの地を回って、己たちが決して邪でないと得宗家に示した上で、鎌倉に入るべきでないか。弟子たちの中には、そのように具申する者も少なからずいた。
だが一遍には、今この時に鎌倉に向かわねばならない理由があった。
昨年の弘安四年のこと。元は前回の数倍の大軍で来襲し、日ノ本中を震撼させた。
幕府は予め西国の御家人を動員して九州の防衛を命じていた。その中に、一遍の出自である河野家もあった。一遍の父は河野家のお家騒動に巻き込まれて命を落としている。一遍はそんな河野家に失望して出家を決めたのであった。
だが、六郎通有が家を継いでから、
——河野は変わった。
河野家は志賀島で元軍に立ち向かい、その獅子奮迅の働きを、九州在陣の御家人たちは手放しで褒めちぎった。その報は遠く幕府にも届き、時宗は食事の最中であったが、
——河野がやってくれたか!
と、歓喜に思わず立ち上がって、膳をひっくり返すほどだったとか。
博多からの上陸を諦めた元軍は、肥前の鷹島を目指した。
河野家は志賀島の戦いに続いて、鷹島の戦いにも加わった。が、この戦が終わった時、六郎は謹慎を命じられた。
河野家を如何に処するか。時宗を中心に幕府内で協議が始まってから、一年が経とうとしている。間もなく河野家には沙汰が下される。その沙汰というのが、
——領地一切の召し上げ、当主六郎の切腹。
そう、まことしやかに噂されているのである。
鷹島の戦いで六郎が取った行動を耳にした時、一遍は愕然とした。六郎たちを非難するつもりは毛頭ない。むしろ身を震わせるほど感動を覚えた。それと同時に、
——儂は何をしているのだ。
という慙愧の念が込み上げて来た。
己は河野家を見限って逃げ出した。対して、六郎は決して諦めなかった。毎年、ひっそりと伊予に戻り、六郎の苦悩に、葛藤に、そして想いの強さに触れて来た一遍には、その行動が理由あってのものだと、痛いほどに解っていた。
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