二宮敦人 #005「サマーレスキュー ポリゴンを駆け抜けろ!」
行方不明となってしまった祥一の足跡をたどるため、
オンラインゲーム「ランドクラフト」に参加すると、
千香はずっと封印していたある衝動にかられる。
一方、巧己が「ランドクラフト」をする理由は、別にあるようで……
第三章
逃げても逃げても、追いかけてくる。
ポリゴンでできた四角い体の殺人鬼が、赤い目を光らせて、執拗に忍び寄ってくる。千香は何度も後ろを振り返りながら、夜の街を右に曲がり左に曲がり、がむしゃらに逃げ続けた。もうだめ、これ以上は走れない——そう思ったところでようやく気配が消えた。呼吸を落ちつけながら、千香は背後に広がる闇をじっと見つめる。
大丈夫だ。確かに逃げ切った。
ほっと胸をなでおろして家に入る。もうへとへとだ、早くベッドに寝っ転がりたい。
自分の部屋の扉を開けて、千香は息を吞んだ。布団が不自然に盛り上がっているのだ。だめだ、開けちゃならない。そう頭ではわかっているのに、吸い寄せられるように近づいてしまう。そっと手を差し出し、布団を摑んで、めくり上げる。赤い光が、滲むように漏れ出る——。
気づくと暗い部屋で、天井を見上げていた。背中にぐっしょりと汗をかいている。千香は掌で目を覆い、唸った。
「ああ、もう。夢に決まってるのに、何であんなに怖いの」
デジタル時計は、午前二時十二分を示している。家族は深く眠っているのだろう、時が止まったように静かだった。
「昨日ゲームしすぎたせいだ」
額の汗を拭いながら起き上がる。千香はふと、半分開いた扉の向こうから目が離せなくなった。闇の中に、赤い光が見える。蛇に睨まれた蛙のように、体が動かない。
まさか。まだ悪夢が続いているなんて、そんなはずない。
赤い光は瞬きでもするかのようにふっと消えると、余裕たっぷりに明滅してみせた。
汗が玉になって背を伝う。それを合図代わりに、千香は枕を担ぎ上げ、「とりゃっ」と光めがけて投げつけた。枕は扉を撥ね除け、廊下へとすっ飛んでいった。
がたんという音でわかった。なんだ、アロマディフューザーじゃないか。寝室のコンセントが足りない時、お母さんはいつも廊下で充電する。その間、赤い充電ランプが明滅する。千香はため息をついた。
「どれだけ怯えてるの、私」
正体が分かったら、だんだん腹立たしくなってきた。
いくらアナーキーな3Tの世界でも、どれだけ危険なプレイヤーだとしても、操作しているのは同じ人間じゃないか。こっちだって、ランドクラフトをやりこんできたんだ。簡単に負けるもんか。
眠気はとうに吹っ飛んでしまっていた。
千香はベッドに座って腕組みをしたまま、作戦を練り始めた。
絶海の孤島へと追い詰められた状況から、どう脱出するか。巧己と二手に分かれて陸地を探す。そうだ、海に潜って沈没船を探すのもいい。手つかずの宝が残っていれば、アイテムがたくさん手に入る。危険は大きいが、あえて敵プレイヤーをおびき寄せて倒し、持ち物を奪うという手も……。
また赤い光が目に入る。アロマディフューザーだとわかっていても、いい気持ちではない。千香は部屋の電気をつけ、扉を閉めた。そしてまた、うんうんと唸りながら考えを巡らせていった。
「千香ーっ。巧己君、来たよーっ」
母の声に、千香はもぞもぞと起き上がる。時計は十時。いつの間にか眠り込んでいたらしい。電気はつけっぱなし、枕は廊下に放りっぱなしのまま。
「今行くぅ」
階下から声が聞こえてくる。
「ごめんなさいね、あの子、朝ご飯も食べないままで。学校がある日もそうなのよ。そのくせ後から、お弁当が足りなかったとかうるさいんだから。巧己君もそう?」
「俺、朝からがっつり食う方なんで……あ、でも弁当は俺も足りないっすね」
またお母さんが余計なことを言っている。困った顔で受け流している巧己が、目に浮かぶようだ。
「それにしても昨日から熱心ね、何やってるの」
「それはまあ、その」
巧己が言葉に詰まっている。千香は慌てて階段を下りていくと、母の背中に向かって言った。
「勉強だよ、みんなで勉強会。祥一の家で」
「あら、そうなの」
千香は懸命に巧己にウインクしてみせる。巧己も「そうなんです、祥一も一緒に。はい」と援護してくれた。
お母さんは台所に引っ込むと、何か支度し始めた。
「じゃあ、朝のサンドイッチ持って行ったら。三人分には足りないかもだけど」
「え、いいよ」
「だけど昨日みたいに遅くまでかかるんだったら、お腹が空くでしょう」
「それは、まあ……」
「インスタント食品もいいけど、そればかりじゃ栄養が偏るから。あなたたちは成長期なんだし、口に入れるものは大事だよ。いいから待ってなさい」
こうなったら母は後に引かない。途方に暮れて千香は巧己を見上げる。
「いいお母さんじゃん」
巧己が微笑む。千香は口の中をもごもごさせた。
別に私だって、悪いお母さんだなんて思ってない。
外は相変わらずの蒸し暑さだけれど、分厚い雲が日差しを遮っているおかげで、昨日よりはまし。夕方には一雨来るかもしれない。
「勉強って。お前、親に噓ついてんのな」
自転車をこぎながら、巧己が言った。
「そうだけど。それが何」
千香は片手で巧己の腰にしがみつきながら、片手で背負ったリュックの紐を握りしめた。中では英語の参考書とノート、そしてサンドイッチの入ったタッパーが揺れている。少ない荷物が罪悪感で重く感じた。
「昔と印象違うなって。前は友達と遊んでくる、でパッと家を出てたじゃん」
「小学校の頃でしょう。いつと比べてるの」
「まあそうか」
巧己がぐいっとペダルを踏み込む。坂の頂点を越えて下りに差し掛かると、初めはゆっくり、次第に勢いよく加速していく。
「だいたいゲームしに行くだなんて、親に言えないよ。いくら祥一を助けるためでも」
「危ないからって止められる?」
「ううん、うちの親、ゲームに対する抵抗感がすごいの。スポーツは体が鍛えられるし、将棋や囲碁は頭が鍛えられるけど、コンピュータゲームは体が弱ってバカになると信じてる」
「無理もないか。子供の遊びだもんな、ゲームなんて」
巧己が語尾に笑いを交えた。風が、彼のシャツをばたばたとはためかせている。
「そうだよ」
素直に同意するのがやけに苦しくて、千香は一度言葉を切った。
「子供の遊びだよ、あんなの」
下り坂が終わると巧己はサドルから腰を浮かせ、力強くペダルを踏み始めた。しばらく続いた沈黙の後、ふと同時に口を開く。
「ねえ、巧己は」
「千香、なんで」
あ、と互いに口をつぐんだ。
「わりい、千香から先にどうぞ」
「いや、巧己からでいいよ」
「そう? じゃあ言うけど。なんでゲームやめちゃったの」
商店街を抜け、自転車は滑るように川沿いを走っていく。二人乗りしていて良かった、と千香は思った。唇を嚙んで俯く自分の顔を見られたくなかったから。
「小学生の頃はランドクラフト博士って呼ばれてたし。俺らが飽きてやらなくなってからも、ずっと千香は続けてたのに」
千香はごくんと一つ唾を飲む。口をぱくぱくする。
よし、大丈夫だ、話せる。
「前にも言ったでしょ、もっと身になることをやりたいの。そう、英語とか。海外で働いたり、ゆくゆくは起業したりして、たくさんお金稼いで。かっこいい女になりたいんだよ」
「へえ、いいなー、金かあ」
巧己は素直に頷いてくれた。
「俺も金さえあればなあ、今さらランドクラフトなんて……」
「どういうこと? そう、さっき聞こうと思ってたんだけど。巧己こそ、どうしてまたゲーム始めたの」
ゆっくりハンドルを回して、巧己は自転車を祥一のマンションへと近づける。
「こら、聞こえないふりしないでよ。答えてってば!」
大きなビルの影に入ると、急に肌寒く感じた。駐輪場にずらりと並んだ自転車たちの隙間に、巧己はちょうど良く愛車を滑り込ませると、ブレーキも使わずにぴったり止めた。
巧己の頰は少し赤らんでいて、額の汗を手の甲で拭う仕草が爽やかだった。
祥一の部屋は、昨日と変わりがない。ゴミ袋の中に二つ、カップラーメンの容器が入っていて、少しチリトマトの残り香がある。
「ええっ、じゃあ彼女のためなの?」
千香が叫ぶと、巧己は「声がでかい、でかい」と繰り返し、唇の前で指を一本立ててから、ぼそりと呟いた。
「絶対誰にも言うなよ。うちの親も知らないんだ。ばれたらお前から漏れたってわかるからな」
「言わないよ。しかしまさか、去年の冬から彼女がいたなんて」
それも相手は高校二年生なのだと言う。とてつもなく大人に感じられた。
「本当はお前にだって言う気なかったのに。あーもう、うっかり口滑らせた。失敗した」
「しかも大海高校だなんて、頭いい人なんだね」
「そう、医学部を目指してる。で、その……医学部ってお金が凄くかかるらしいんだよな。特に私立だと、二千万とか三千万とか。だから俺、金のことなんか気にせず勉強頑張れって、まあ、言ってやりたくてさ」
頭をぼりぼりとかく巧己。
「彼女想いじゃない。どういうとこが好きなの?」
「いや、その話はもういいだろ」
「どこで知り合ったの」
「先にやることやろうぜ」
ぱん、と巧己が机を叩く。そこにはパソコンが二つ。祥一のデスクトップパソコンと、巧己のノートパソコンだ。
千香は頷いた。
そうだった。
すでに電源はついていて、ランドクラフトが起動していた。3Tへの入場待ちの状態になっている。どうせ長い順番待ちになるからと、巧己が事前にセットしておいてくれたらしい。
「しかし千香、元気だな。俺なんて昨日からずっと憂鬱だったのに」
巧己は腕組みをして、椅子に深く座り込む。
「私だって夜じゅう悩んでたよ。二度寝したのだって、そのせいなんだから」
「そうなの?」
「そう。それより巧己、ログインしたらどうするか、作戦はあるの」
「あんまり。行ってから考えるつもり」
「じゃあ私の考えを聞いて。ログインしたら、まずは……」
「あ、そろそろ入れそうだ。行列待ちが残り2になった」
「私も残り3だ。入れたら、とりあえず周りに危険がないか確認しよう。モンスターがいないか、危険なプレイヤーがいないか。それからもう一度島をよく探して、木材が一つでもないか、食料がないか、何か使えそうなブロックがないかチェック。いいね」
「オッケー。先に行くぞ」
巧己の背中を見ながら、千香はふと肝心なことを聞き忘れたのに気がついた。
彼女のためにお金が欲しい、そこまではわかった。でも、それとランドクラフトが、どう繫がるの?
ディスプレイが切り替わる。しばらくロード中と表示された後、ぱっとあたりが明るい光で満ちた。
「えっ」
二人の口からそんな声が、ほとんど一緒に漏れ出た。
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