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今村翔吾「海を破る者」 #010

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 弘安三年も間もなく暮れようとしている。正月といえば一年のうちで最も大きな祝い事の日で、年が終わるまでに様々な支度に追われることとなる。
 庶民でもそれなりに支度をせねばならないのだ。名門御家人のこう家ともなれば、伝統だ、外聞だなどと何事も大掛かりとなってくる。屋敷の中では身分、男女の区別もなく皆で支度に奔走していた。
 しかしろくろうはというと、
 ——特段やることがない。
 のだ。何一つである。
 毎年、この季節になると、何故だろうかと六郎は考える。
 まず考えられるのは当主の威厳を保つためだろう。では何故、支度を行うことが威厳を傷つけることになるのか。古くから、働くことは卑しい者のすることという考えはあった。それに起因するのだろうとはおぼろに思う。
 だが一方で、家のことは当主が決めてよいはず。その代わりに一族郎党の面倒を見るという責務も負わなければならないのが家長というもののはずだ。
 ——今年から俺も手伝おう。
 と言ったことはあるのだが、郎党、女中に至るまで皆に一斉に反対された。河野家累代でそのようなことをした当主はいないのだという。他の御家人に知られては恥ずかしくて堪らないという外聞。
 そのような伝統に縛られ、自ら決められないことも歴然と存在し、だが責任だけ負わねばならないというのが、御家人の当主の現実である。年が暮れるまでは、ただ静かに、何もしないことが役割となってしまっている。
 それでも皆が忙しくしているのに、座っているだけというのは落ち着かないものである。ふらりと漁にでも出られればよいのだが、この季節は海が荒れることもあり、漁師たちも船を出さない。仮に出そうとしても漁師たちは、
いずみ様にお叱りを受けます」
 などと言って制止するだろう。
 結果、所在なく屋敷の中を見て回るのが恒例となっていた。
「精が出るな」
 六郎は庭に集まって作業をしている郎党、下男たちに声を掛けた。すると皆の表情が揃って苦いものに変わる。
 ——またこられたか。
 と、顔に書いてあるようだ。
 皆がしているのはたいまつ作りである。年が明けると松明を掲げ、神社に参拝するのが慣わしなのだ。百人を超える男たちが松明を手に進む姿は壮観で、夜が更けているというのにあたりは昼間のように明るくなり、村々からも見物に出る者もいるほどだ。目的の場所はかなり遠く、替えも含めてかなりの量の松明をこしらえなければならない。
はん、どうだ?」
 六郎は、皆に交じって松明を作る繁に声を掛けた。
 昨年まではこの作業に繁は加わっていなかった。神事の一環であるため、異国の者を加えるのは如何なものかという意見があったのだ。だがこの作業は郎党だけでなく、下男までが加わって行うもの。
 ——別に格式も何もなかろう。それに多忙なのだから、一人でも多いほうが良い。
 としょうろうが言ったことで、繁も今年から加わることになった。手伝わないからといって剣の修練を行う訳にもいかず、繁も昨年は所在なくしていた。それを庄次郎は見かねたのだろう。
「やっています」
 繁は木に布を巻く手を止めずに答えた。
 敬った口調である。これはここ最近あった大きな変化だった。繁やれいのような異国の者にとって、この国の言葉は極めて難しい。だから口の利き方が悪くても、とがめてはならないと郎党たちに厳命していた。故に、表立っては皆何も言わぬようになっている。
 それなのに繁は、皆がいる前ではこのように話すようになった。無用なあつれきは避けたいという気持ちもあろうが、むしろ皆に溶け込むためにそうしているのではないか。六郎は繁の様子を見てそう思った。
「すまぬな。俺も手伝いたいのだがな」
 六郎はすぐ近くまで歩み寄って言った。
「じっと座っていりゃあいい。皆、気を遣っているぞ」
 繁は誰にも聞こえぬほどの小声で囁いた。皆の前では敬った物言いなのだが、依然として己や、令那しかいない時はこれまでと同じように話すのだ。六郎は苦く微笑んでその場に屈んだ。
「なあ」
「何だ」
「何故、俺は働いてはならぬのだろうな」
「俺に訊いても解る訳ないだろう」
「いや、この国の生まれではないから解ることもあるかとな」
 二人でひそひそと話す。別に今となっては珍しいことではない。むしろ繁が己の相手をしてくれているほうが、仕事が捗ると皆も安堵しているようだ。
「俺の国でも躰を使うのは卑しいこととされていて、貴族は働かない。同じじゃあないか」
「繁のところもそうか」
「まあ……伝統か、あるいは風習というやつだろう」
「難しい言葉を遣うな」
 六郎が眉を開くと、繁はちらりと見て鼻を鳴らし、すぐに作業に戻った。
「そんなものは、なかなか変えられないもんさ。良いものも、悪いものもな」
「そうかもな」
「これは変えなくていいことだろうよ。別に六郎が動かなくても誰も困っちゃいない。むしろ助かっているのだからな」
「こいつめ」
「さっさと部屋に戻って、ふんぞり返ってろ」
 繁は顎を軽くしゃくった。その口元がほころんでいるので、六郎も息を漏らして立ち上がった。引き続き頼むと皆に声を掛け、六郎はその場を後にした。普段ならばもう少し滞在しそうなのに、繁があっと言う間に追い返してしまったので、しみが込み上げているのだろう。頭を下げる皆が笑みを堪えているようであった。
 ——次は何処へ行こうか。
 六郎は腕を組みながら廊下を歩く。
 民たちにもここは「河野屋敷」と呼ばれているのだから、当然のことながら己の「家」という性質も持っている。それはいつもそうであるし、今日もまた変わっている訳ではない。皆も悪気があって己を遠ざけている訳ではない。たった数日のことであるし、端から見たらなに馬鹿なことを言っているのかと思うかもしれないが、他人の家に上がり込んだような居心地の悪さがある。

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