今村翔吾「海を破る者」 #019
通時は最初の義絶を切っ掛けに、鎌倉に赴き、御家人の一人として出仕することを決めた。
一族と離れ、己一人でも河野家を再興しようと決心したそうだが、何より義絶されたとなれば、それ以外に生きる道が無かったのであろう。
六郎もかつて通時が鎌倉にいたと聞いたことがあるが、それは河野家の嫡男として、学びを得るためだったと今の今まで思っていた。
「これでも、なかなか出世したのだぞ?」
通時は悪戯っぽく笑った。
海の上の戦いでは刀以上に、弓が重要となってくる。故に水軍大将の家柄である河野家の者は、一族、郎党問わず、伝統的に弓の腕が良いものが多かった。
通時もまたご多分に漏れず、弓の扱いに長けていたため、建長三年(一二五一年)の正月に鎌倉の由比ガ浜で開かれた、新年の御弓始の射手にも選ばれたことがある。
また正嘉二年(一二五八年)正月には、幕府の中で最も重要な儀式の一つ、「歳首の椀飯」に参加を許されもしたという。
通時は幕府の官人として着々と出世を重ねていたのだ。伊予を離れて十年の歳月が流れていた。その間、通久は勿論、通継も含め、通時は河野家の誰とも連絡を取り合うことがなかった。
唯一、例外であったのは通久の兄で、通時からすれば伯父にあたる「別府のおんじ」こと、別府通広。あの一遍の父である。別府のおんじだけは、通時の出世を喜び、また無理はないようにと躰を気遣い、度々書簡を送って来てくれたという。通時の心情を慮ったのだろう。別府のおんじは、書簡の中で一族について何も語らなかった。ただ唯一の例外が、
「お主が生まれたことよ」
そう言って、通時は頰をふっと緩めた。
通時が廃嫡となった翌年、通久の勧めに従い、通継は紀乃とは別の人を妻に娶った。これが六郎の母である。その翌年の建長二年(一二五〇年)、六郎はこの世に生を受けたのだ。
「複雑な思いはあった。だが、通継には幸せになって欲しい。そう願っていたのは確かだ。それに……通継に子が生まれれば、河野家は何か変わるのではないか。そんな予感がしたのだ」
通時は懐かしそうにしみじみと語った。
「しかし、変わらなかった……」
「儂が伊予に戻った時のことは覚えているな?」
六郎の呟きには答えず、通時は遠くの波の音に重ねるように尋ねた。明日に備えて眠りに就いたのか、いつの間にか、先ほどまでの喧騒も消えている。
「はい。私が十八の頃でした」
文永四年、通久は改めて通時に義絶を申し渡した。ここまでは河野家の内々でのことだったが、遂に幕府にまで正式に通時の廃嫡と、通継に所領を譲る旨を申し出たのである。
理由は、二十年前、紀乃と通時が通じていたというもの。あまりの根も葉もないことに、通時はもう笑う他なかったという。
今更、河野家を継げるとも思っていなかった。ただ一つ、通継のことを考えると、これを最後にと心を決めて筆を執った。
——お主はまことにそれで良いのか。
といった内容である。
通継も妻を娶り、すでに子もいる。今更、紀乃に気持ちを寄せることもなかろう。ただこれから河野家を継ぐ者として、今のままで良いのか。そのような内容だった。
だが通時のそんな決死の想いを乗せた文も無駄に終わった。通継は耳を傾けるどころか、どう捻じ曲げて取ったのか、
——兄上は私こそが紀乃と通じていたと、鎌倉に訴えるつもりかもしれませぬ。
と、通久に耳打ちしたのである。
「恐ろしかったのだろうな」
通時は静かに語った。
後ろめたい想いは、人の思考を飛躍させるものである。出世をした通時が鎌倉に取り入り、河野家当主の座を奪わんとしていると焦ったのであろう。
「申し訳ございません……」
己はもともと父が好きではなかった。だがこの話を聞き、情けなさと、悔しさで、六郎の声は震えた。
「お主が謝ることではない。お主の父には違いないが、儂の弟でもあるのだ」
通時は鷹揚に首を横に振った。
これで全て終わらせるつもりであった通時だったが、突然幕府から呼び出される事態となった。しかも、当時の執権である北条政村自ら話をしたいというのだ。
——河野で何が起こっている。
人払いをした上、政村は単刀直入に言った。
この政村は七代目の執権。北条得宗家ではなく、傍流の出身である。先代の執権の逝去の際、現在の八代執権時宗が幼かったため、中継ぎとしてその任を務めた。
非常な才覚の持ち主にして、政の安定に力を発揮し、元との交渉においても活躍した。さらに優れた人格者であり、後に元との断交が決定的となった時には、権力を一元化させて国難に当たるべきと考え、時宗に執権の座を譲る英断を下した人でもある。
そのような政村であったから、河野家の内訌は気掛かりであったのだろう。悪いようにはせぬからと、河野家の実情を語るよう求めた。
通時はその真摯な姿勢に心を打たれ、これまでの話を全て詳らかに話した。仮に己が身を引いたとしても、このままだと河野家が再興はおろか、滅してしまうと危惧していたこともある。政村もやはり同じ考えを持ったらしく、
——通時、伊予に戻れ。
と、命じた。
そして政村は通久に、石井郷の内、八か所の所領を通時に分与するように迫ったのである。通久も流石に執権の命とあらば無視する訳にもいかず、文永五年七月二十五日、通時との間で和与が結ばれることとなった。
「父上は儂が自ら幕府に訴え出たのだと、最後の最後まで思っておられたようだ」
通時は苦々しく口を歪めた。
同じ年、通久が死去した。さらにそれを追うように紀乃が自ら命を絶ったのである。
「紀乃には可哀想な一生を送らせてしまった」
心苦しそうに通時は零した。
後ろ盾を失った恐怖からか、それともただ生きるのに疲れたのか。今となっては、紀乃が何故、死を選んだのかは判らない。ただあの日、あの時、通継の頼みを己が断っていれば、紀乃の人生は全く違ったものになったことは確かであろう。
——ようやく全てが終わる。
紀乃には申し訳なかったが、安堵したのも事実だった。また兄弟で力を合わせ、河野家を盛り立てていけるかもしれない。しかし、通時のそんな淡い期待はあっという間に打ち砕かれた。
通継は、家督と所領は全て己のものである、通時が所領を得るのは不当であると訴え出た。それに留まらず、
——認められぬならば、当方で解決致す。
と、武力で領地を奪還する意志まで表明したのである。
「その日、儂は初めて泣いた」
通時は消え入るような声で言った。
これも今となっては推測でしかないが、通継は負い目を感じており、通時からの復讐を恐れたのだろう。通時にそのような気は微塵も無かったのに。幼き日の通継の可愛らしい顔が浮かんでは消え、通時は何故こうなったのかと、幾度も繰り返したという。
この段になると、兄弟だけの問題ではなくなる。両村衆など、かねてより通継に不満を持っている者たちが、通時のもとに自然と集まった。すると通継は、通時が合戦の支度をしていると勘違いし、先制して攻撃を仕掛けて来た。
「あとはお主の知る通りだ」
こうして始まった河野の内乱は、三年後の文永八年、通時が通継を討ち取ったことで停戦となり一応の決着を見た。だが、六郎が当主となってからも一時停戦状態のまま、本家、分家の溝は埋まらず、無情に時が過ぎていったのである。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!