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河野裕「愛されてんだと自覚しな」#003

WEB別冊文藝春秋

「盗み屋」の祥子に幻の古書・徒名草文通録あだなぐさぶんつうろくを盗み出すよう依頼した杏。
神戸・六甲山麓のホテル「金星台山荘」に潜入したふたりだが、
どうやら文通録を狙うのは、彼女たちだけではないようで……

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2話 神戸金星台オムニバス

 バスルームの血だまりの中に、円柱型の透明なケースと、祥子しょうこのスマートフォンが落ちている。
 私はスマートフォンを拾い上げ、棚にあったタオルでざっと拭く。ロックがかかっていて、中の確認はできない。
 このバスルームにはもう誰もいない。死体に扮していた和谷わやさんも、祥子も。いったいふたりはどこに行ったのか——祥子の身の安全が、それなりに心配だ。ならば私は、彼女を追わなければならない。
「さて、殺人事件は解決しました。なぜならそんな事件など、初めから存在しなかったからです。私は業務に戻りますので、これで」
 ノージーさんと浮島うきしまさんに一方的にそう告げて、ふたりに背を向けた。
 そのまま颯爽さっそうと歩み去るつもりだったのだけど、部屋を出る手前で、さっそく足を止めることになる。ごん、と景気の良い音を立て、ドアになにかがぶつかったのだ。
 見れば白いタキシードに身を包んだ小柄な男が、廊下ろうかに仰向けに倒れている。私がドアで突き飛ばしてしまったようだ。
 彼の片脇には、こぢんまりと整った花束と神戸ふうげつどうの紙袋が落ちている。そして白いタキシードの胸のあたりには、血の跡がついている。披露宴を終えた新郎が引き出物を配るさなかに、恋敵が現れてぶっすりやられた、といった様子だ。
「おや。また事件?」
 私がつぶやくと、白タキシードが跳ね起きる。
「いえ。これは、運命なのです!」
「ドアに弾き飛ばされるのが?」
 彼はどうやら、ずいぶん悲惨な運命を背負っているらしい。
 けれど白タキシードは、ぶんぶんと頭を振った。
「ああ、違います。ドアに関しては僕が悪いのです。ちょうど廊下でぼんやりしていたものですから」
「ですが、その血は?」
「え? 血なんて——」
 白タキシードは自身の身体を見下ろして、「うわ! なんだこれ!」と叫んだ。
「どうしよう。これ、レンタルなんです」
 肩を落としてぼやく彼に、私はにっこり微笑んでみせる。
「その血は、貴方のおではないんですね?」
「ああ、はい、違います。先ほど、血まみれの男にぶつかりまして」
「大変じゃないですか」
「ええ、そりゃあもう。その男が美しい女性を追いかけていたものだから、何事かと思いましたよ」
「そんな大事件を、どうして放っておいたんですか?」
 呆れの混じった声でそう尋ねると、白タキシードは声高に叫び返す。
「だって今夜は僕の、人生をかけた大一番だもの!」
 まあたしかに、まずまず破格の大一番でなければ、白いタキシードなど着ないだろう。とはいえ女性を追いかける血まみれの男なんてものは、たいていの大一番を後回しにして然るべき事件性だ。
 彼の方も多少の後ろめたさがあったのか、小声でぶつぶつと続けた。
「いちおう僕だって、ホテルの人に報告しなければと思ったのですが——」
「それでどうして、廊下でぼんやりするのです?」
「いや。それは、部屋から貴女の声が聞こえたから」
 うん? と私は首を傾げる。話の流れがよくわからない。
 ともかく血まみれの男とは和谷さんで、彼が追いかけていた女性とは祥子だろう。私はこの白タキシードの事情を脇にどけ、こちらの本筋のみをぐいぐいと進める。
「件の男女は、どちらに?」
「階段を駆け上がっていきました」
 なるほど。ずいぶん都合良く情報を収集できたものである。
「ありがとうございます」
 そう言い終わる頃には、私は駆け出していた。「待って、落とし物!」と白タキシードが叫んだが、別段落として困るようなものもない。事によっては一刻を争うため、私は返事もしなかった。
 私の後に、ノージーさん、浮島さんが続く。ノージーさんの方が言った。
「待ってください! 狂言殺人とは、どういう意味ですか?」
「さあ。勢いで言っただけなので」
「和谷さんは死んでいなかったのですか?」
「そうでなければ、死体が消えていた理由がないでしょう」
「ところで貴女、足が速いですね!」
「ありがとうございます。よく走っていた時代がありますから」
 さっそく息が上がり始めたノージーさんを置いて、私は階段を駆け上がる。
 目指したのは四階の、デラックスダブルの一室だ。祥子が上に逃げたなら、行方はあの部屋だろうと考えていた。四階に到達すると、階段の手すりに血の跡がついている。ビンゴですねと胸中でつぶやいて、目的の部屋に駆け寄る。
 勢いよくノブをつかんだが、ドアは開かない。鍵がかかっているのだ。
 いつの間にかすぐ後ろにいた浮島さんが言った。
「施錠されているのなら、別の部屋ではないかな?」
「いえ。ここで間違いないようです」
 私は手のひらを彼にみせる。そこにもまた血の跡がある。ドアノブに付着していたものが、私の手についたのだ。
 加えて言うなら、ノージーさんをこの部屋に案内したとき、私はたしかに部屋の錠を開けている。鍵は未だ私の手元——ならばこの部屋に何者かが入り、内側から施錠したと考えるのが筋だろう。
 ドアを開け放った先の光景は、だいたいが想像した通りだ。
 服を血で汚した和谷さんと、祥子が向かい合っている。和谷さんの方は祥子を窓際に追い詰めているが、なんだか腰が引けている。見れば彼の左の頰が真っ赤に腫れていた。一方、祥子は身を屈め、ぐるぐると唸り声が聞こえてきそうな顔つきで和谷さんを睨みつけている。
 多少は拳で語り合った——あるいは、一方的に祥子が語った——あとなのだろう。放っておいても祥子が完勝しそうな様子ではあるけれど、ドアが開く音に合わせてふたりがこちらを向いたから、私は朗々と告げる。
「そこまでです、和谷まささん。貴方の悪事はすでに明らかになっています」
 無論これは、噓である。
 彼の悪事なんてものは、私の頭の中にばくぜんとした推測があるばかりだ。けれどこんな台詞、断言しなければ恰好がつかない。
 和谷さんが叫び返す。
「悪事だって! 私がいったい、なにをした?」
「私が思うに——」
 と、そこまで口にしてから、しばし黙り込む。
 今まさにこの瞬間、彼の悪事に関する考えをまとめていたのだ。その為の時間稼ぎを、重々しい雰囲気の演出ぶってやり過ごす。
「早く言え!」
 しびれを切らした和谷さんがそう叫んだから、仕方なく口を開く。
「私が思うに、貴方はあだぐさぶんつうろくを引き渡すことなく、その代金だけをノージーさんからせしめようとしたのです」
 間違っていれば愛想笑いでやり過ごせばよい。
 そう考えていたけれど、歪みこわる和谷さんの顔をみるに、どうやら私の言葉は当を得ていたようだ。

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