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【2/8発売】寺地はるな短篇集 よりイチオシ☆「コードネームは保留」全文公開!

タイムマシンに乗れない僕たち(寺地はるな)

 第9回河合隼雄物語賞を受賞された『水を縫う』に、近刊『ガラスの海を渡る舟』などなど、共感を呼び続ける寺地はるなさんの《待望の短篇集》が2022年2月8日(火)、ついに発売になります!!! 

孤独と「戦う」わけではなく、また「乗り越える」でもなく、仲良く手を繋いでとまではいかないけれども、孤独とちょうどよい距離を保ちながらともに生きていこうとするような、そういう人びとの物語を書きました。
                             寺地はるな

 寺地さんがこう語ってくれたなかでも編集部イチオシ!! の 一篇を全文公開しますのでぜひ読んでみてください。

#001 コードネームは保留

 コードネームが必要だった。みなみ優香ゆかという戸籍上の名前ではない、友だちからつけられたあだなでもない、ペンネームでもラジオネームでもなく源氏名でもウェブ上のハンドルネームでもなく、コードネームだ。殺し屋にはコードネームが必要だ。
 殺し屋。暗殺者。アサシン。刺客。なんでもいい。どうせ実際に殺すわけではない。設定としての殺し屋になる。そう決めたのだ。
 どうせならばかっこいいコードネームがいい。強そうで、冷酷そうな感じがいい。たとえばそう、デス・クロコダイルみたいな。あるいはレッド・スティングレイみたいな。いやそれはかっこよくない。むしろすこぶるださい。なし。今のなし。
 なしなし、とつぶやきながら、わたしは手帳に「コードネーム:保留」と書きこむ。それについては「これぞ」というものが見つかったらでいい。
 午後の始業、五分前を告げる曲が流れ出したから、いそいで手帳を閉じた。
 だんだんたのしくなってくる~ ドレミファふじおんがくどう~♪
 入ったばかりの頃は、この曲が流れるたびにクソださい会社に入っちゃったなと胃がしくしく痛んだ。
 藤野音楽堂は駅前の商店街の端にある楽器店だ。店の奥に事務所が、二階に貸スタジオと児童向けの音楽教室があり、わたしはおもにこの事務所で一日を過ごす。
 『経理事務 若干名』という求人を出していたこの会社の面接を受けたのは三年前のことだ。アットホームな雰囲気の、と書いてあるところからして、やばさがびしびし伝わってきた。でも失業給付をもらえる日数もそろそろ残り少なくなっていたし、とにかく再就職先を決めなければならない局面に来ていた。
 社長と副社長(社長の妻)による面接の際に「音楽は好き?」と訊かれて「いえべつに」と正直に返事をしてしまったので不採用になるだろうと思っていたが、あっさり採用されてしまった。たぶん、ほかに面接を受けに来た人間がいなかったのだろう。
 くだんの「だんだんたのしくなってくる」という曲の作詞・作曲をしたのは社長らしい。かつては作曲家を目指していたのだが夢破れて実家のミシン販売会社を継ぎ、ミシンのついでに楽器を扱いはじめて、そのまたついでに社名を「株式会社藤野」から「株式会社藤野音楽堂」に変更して、現在に至る。今では近隣の幼稚園や小学校に納入する鍵盤ハーモニカやリコーダーが、会社の売上の九割を占めている。
 そういった経緯については専務(社長の息子)が教えてくれた。息子といってももう五十代だ。会社の女性従業員をうちの女の子たちと呼ぶし、「嫁の貰い手」などの死語を連発する。
 午後の始業時間を一分過ぎたところで、「女の子たち」がにぎやかに事務所に入ってきた。セーフ、などと言っている。ちっともセーフではないのに、専務はにこにことそんな彼女たちを眺めているだけだ。
 事務所の隅の給湯コーナーに陣取って、今日のランチはよかったとか、また行こうだとか、ぺちゃぺちゃ喋っている。めいめい手にしているマグカップはおそろいで、毎日粉末のココアだとか抹茶ラテだとかを飲む。
「女の子たち」はいつも四人で昼休みを過ごす。楽器売り場の販売員がひとりと、音楽教室の受付がひとり。あとのふたりは企画と営業だ。藤野音楽堂の生徒を募集したり、演奏会などのイベントの企画を担当しているのだ。
 年齢の近い人同士気が合うんだよ、ただそれだけ」
 いつだったかやまもとさんが、わたしにそう言ったことがある。いつもひとりで昼食を食べているわたしを気遣ったつもりだったのだろうが、言っている途中でわたしも彼女たちと同じ二十代だということにあらためて気づいたらしく、かえって気まずい沈黙が漂った。
 どっちにしろわたしは昼休みに外に出られないんです」
 その説明は山本さんへの配慮だ。けっして虚勢ではない。
「電話番があるので」
 山本さんはほっとしたように「そうだね、そうだよね」と何度もうなずいていた。
「女の子たち」に自分が含まれていないことは、べつだん悲しいことだとは思っていない。仲間外れにされているわけではない。仕事上のやりとりは問題なくできているし、挨拶とか、今日は寒い(or暑い)ですね、程度の会話はしている。それでじゅうぶんだ。
 山本さんはおもに小学校をまわる営業を担当している男性で、如才ないというか、にこにこしながら他人の毒気を抜くことに長けているというか、クレームへの対応がじつにうまい。
 以前、「買ったオカリナが吹けども吹けども音が鳴らない」といって店にどなりこんできた客に、たまたまそこに居合わせた山本さんが応対したことがあった。
 クレームを言う人はクレームを言う行為そのものが目的みたいなところがある。店の奥の事務所までオカリナがいかに鳴らないかということについての罵声や奇声が聞こえてきた時「こりゃあ長引くな」と思った。わたしはクレーマーの第一声でだいたいの滞在時間がわかる。
 しかしオカリナ鳴らないおじさんは五分もたたないうちに静かになり、わたしが様子を見にドアから顔を出した時にはもういなくなっていた。
 こっそり覗いていたら「女の子たち」のひとりが、山本さんに何度も頭を下げていた。どんな手を使ったんですかとあとで訊いたら、山本さんは「普通に話してただけだよー」とへらっと笑っただけだった。
 そんな山本さんはしかし、来月末に退職する予定になっている。今は社会全体が貧しくなっていてのんきに楽器をたのしむ人間なんかいない、子どもの数だって減っているんだから音楽教室にも生徒が集まらない、つまり藤野音楽堂には未来がない、というのが口癖だった。去年ぐらいからこっそり転職活動を続けていたというからじつに抜け目がない。
 山本さんが転職先に選んだ不動産販売の会社に「未来がある」かどうかははなはだ疑問だったが、まあ藤野音楽堂よりは良いと判断したのだろう。楽器に触れないと生きていけない人より、住むところがないと困る人のほうがたぶんずっと多い。
 山本さんが会社を辞めると聞いた時、まず最初に「づかさんが悲しむだろうな」と思った。
 小野塚さんは藤野音楽堂専属の調律師をやっている女性だ。「うちの会社は古い男ばっかりだけど、山本くんは違うよね」と、ずいぶん買っているふうだった。「女の子たち」にたいしては、総じてきびしい。小野塚さんは日中外に出ていることが多いからあまり顔を合わせないはずなのだけれども。
 背後で「女の子たち」がどっと笑う。なにかおもしろいことがあってもなくても、彼女たちはいつも笑っている。
 山本さんの後任、決まったんですか」
 会計ソフトにレシートを入力しながらわたしが小声で問うと、山本さんは手帳になにかを書きつけながら「うん。決まったみたい」と頷いた。
 山本さんの後任の求人をハローワークに出しているのになかなか面接の申し込みが来ないと専務が嘆いていたのだが、知らないあいだに社員候補を見つけていたらしい。
「なんか社長たちの親戚の子だって」
 親戚だってよ。うんざりしながらわたしはキーボードを強めに叩く。アットホームというより、もはやホームじゃないのか、ここは。
「送別会、南さんも来てくれるんだよね」
 彼女たちが事務所を出ていったあとで、山本さんが言った。
「はい」
「やった。ありがとうね、南さん」
 山本さんがやたらとわたしにかまうのは、「異性を感じないから喋りやすい」からだそうだ。もしゃっとした頭髪の感じが実家の犬に似ていると言われたこともある。いずれの言葉にもわたしは「あ、そうっすか」で応じる。殺し屋は自分のことをべらべら他人に喋ったりしない。
 わたしは残業をしない。ポリシーというわけではなく、単に残業を要するほどの仕事量ではないからだ。月に一度の税理士の訪問日だけ、すこし忙しい。それだって領収書の綴りを手渡したり会計ソフトを開いてみせたりするだけで、大事な話はぜんぶ社長がする。
 十七時二分に会社を出た。駅に向かう途中、誰かが背後からけっこうな勢いでぶつかってきた。
「邪魔!」
 後方からぶつかってきた男は、肩からずり落ちたショルダーバッグをかけなおし、わたしを追い抜いていく。以前にもこうやってぶつかられたことがあった。同じ男のような気がするが、定かではない。
 けっして狭くはない歩道の、ずいぶんはじっこを歩いていたつもりだった。人さし指と親指でつくった輪っかごしに、遠ざかっていく背中を観察する。ショルダーバッグの男が今度は歩道を歩いていた女子高生の肩にぶつかるのを見た瞬間に、頭の中で引き金を引いていた。男の頭がぱーんとはじけて、胴体がどさりと歩道に倒れる。
 現実の男はどんどん歩いていき、角を曲がってわたしの視界から消えた。
 駅のエスカレーターを見上げてから、階段をのぼりはじめた。音を立てずに、しかしすばやく。「寡黙かつびんしょう」というのがわたしの殺し屋の基本イメージであり、それに添って行動しなければならない。
 殺し屋は夕飯を買いにコンビニに寄ったりするのだろうか。吊り革につかまり、左右に身体を揺らす。そりゃあコンビニぐらいは行くだろう。食べないと身体がもたないし、お腹が空いているとふらふらするから銃の照準を合わせられないではないか。
 でもなにを食べるのか、それがわからない。お弁当は違う気がする。レジの横で売られているあのフライドチキンとかアメリカンドッグとか、ああいうのもイメージにそぐわない。
 コンビニの陳列棚の前に立ってからも、わたしのしゅんじゅんは続く。おにぎりは違うけどサンドイッチならギリギリOKなのではないだろうか。お菓子はどうだろう。すこしは食べるのかもしれないが、じゃがりことかは買わなそうな気がする。殺し屋はじゃがりこを食べない。たぶんポテロングも食べない。キャベツ太郎など論外である。
 迷いに迷って、結局牛乳だけを買って出てきた。殺し屋の設定は、ダイエットや節約にもなる。
 わたしの住んでいるアパートは築二十五年の鉄骨造りで、騒音は気にならないが湿気が多いのが難点だ。
 それからベランダが狭いことと、台所の壁のタイルが剝がれてきていることと、と数え上げればいくらでも出てきそうな気がして、このへんでやめておく。
 殺し屋の心を支配しているのはおそらく圧倒的虚無感。住居の快適さにはさほどこだわらないのに違いない。
 狭いベランダに出ると、目の前は私鉄の高架だ。高架下の駐輪場は夜でも電気がついているから、寝る時に照明をすっかり落としても真っ暗にはならない。
 天体望遠鏡でも買ってみようか。ときどき、そんなことを思う。故郷の町では肉眼でももっと星が見えた。自分の指で輪っかをつくって、片目をつぶる。星に興味があるわけではないが、見えないと思うと見たくなるのだ。
「コラア、おまえコラア」というわめき声がわたしの思考をぶったぎった。視線を落とすと、輪っかの中で男がふたり、言い争っている。どちらも酔っ払っているようだった。土地柄なのかなんなのか、わたしの住んでいる地域ではしょっちゅう酔っ払いに出くわす。
 このアパートの立地からして、右隣が焼き鳥屋、左隣が一階から五階までぜんぶにスナックが入っているビルである。酔っ払い多発地帯と言ってもいい。
 うるせえな、と感じるがさすがに殺したいとまでは思わない。まるく区切られた輪の中で動く人びとは皆なぜか非力な生きもののように感じられるのだ。
 おそらくわたしはほんものの殺し屋にはなれないだろう。正直血とか苦手だし。
 いいんだ設定なんだ、とひとりごちて、買ってきた牛乳をシリアルのボウルに注ぐ。
 天体望遠鏡 価格』で検索したら、思っていたより高かった。「スターゲイザー」というかっこいい商品名の天体望遠鏡が出品されているネットオークションのページを見つけた。スターゲイザー。すごくいい。それをコードネームにしてもいいかもしれない。デス・スターゲイザー。いややっぱりデスはいらない。とたんにださくなる。
 ざくざくという咀嚼そしゃく音が部屋に響き渡る。殺し屋はきっと、ひとりで食事をする時にいちいち「あじけないな」などとは思ったりしないだろうから、わたしも思わないようにしなければならない。
「設定を生きる」のははじめてのことではない。小学四年生の頃は宇宙人という設定で生きていた。
 当時の担任は若い男性で、たしか勇気だか元気だかいう名前の、ポジティブエネルギーが全身から溢れ出ているような人だった。児童が昼休みに外に出て遊ばないのは不健康であるという考えに基づき、給食の片づけが終わると食休みもそこそこに生徒たちを校庭に追い立て、ドッジボールをやらせた。
 雨の日以外、ほぼ毎日だった。わたしはできることなら教室で本を読んでいたかったのだが、そうそう仮病も通じないし、なによりクラス全体に「ひとりだけさぼることは許さない」という相互監視の姿勢が浸透していた。
 苦痛に耐えるために編み出したのが、宇宙人という設定だったのだ。わたしは宇宙船の事故により地球に不時着した、遠い星の住人。
 エスエフ的なものに疎かったので、ディテールはふんわりしていた。人間の子どもに化けて、こっそり地球の慣習や地球人の思考を調査・研究している宇宙人になりきり「このドッジボールという奇妙な習慣、これはなんのためにあるのか、調査する必要がある……」などと考えることで、なんとかつらい昼休みをやり過ごしていたのだった。
 給食に嫌いな野菜が出た時も、「これが地球の『けんちん汁』なる食べものか……よし、ひとまず食べてみるか」と脳内でナレーションをつけることで乗り切った。
 そんな工夫をしてもなお、通知表の所見欄には毎回「協調性に欠ける面があります」と書かれていた。
「どうしていつもそうなの、あんたは」
 眉をひそめる母に、宇宙人の設定について説明してあげた。だから心配いらない、自分は平気だ、というわたしの言葉に、母の眉間の皺はますます深まった。
 現実と夢の区別がつかないほど小さな子どもじゃないでしょう、そんなごっこ遊びはやめなさい、ちゃんと自分と向き合いなさい、とのことだった。
 ごっこ遊びなんかじゃなかった。しかし「ライフハック」という言葉を当時のわたしは知らなかった。その言葉をつかって説明したところで、どのみち母の理解は得られなかっただろうが。
 山本さんの後任の社員は、山本さんの退職日の二週間前から出社して引継ぎをするはずだったが出勤日の前日になって「インフルエンザにかかりました」という電話がかかってきた。
 信じられない、だって四月よ、とは副社長の言葉だ。男のくせにインフルエンザなんて情けない、根性がない、という意味不明な発言も飛び出した。四月だろうが、根性があろうがなかろうが、男だろうが女だろうが、インフルエンザにかかる時はかかる。
 それから五日を過ぎても、後任の社員は出社しなかった。こんどは階段から落ちてけがをしたのだという。ここで働くのが嫌で噓をついているんじゃないか、とみんなは噂し合った。いや副社長が入社に反対して揉めているのだ、という話もあった。いずれの噂もわたしの背後で飛び交うだけで、せわしく電卓を叩くわたしがそこに自分の意見を添えることはない。殺し屋はのんきに噂話に興じたりしないからだ。
 後任の社員がどんな人か、誰も知らなかった。調律師の小野塚さんは「社長の親戚だしけっこうおじさんなんじゃない」と予想し、山本さんは「たぶん病弱」とコメントした。インフルエンザにかかったというデータに基づいた推理だ。
「女の子たち」のあいだではどっちにしろ冴えない男だろう、ということで意見が一致している模様だった。
 後任の社員の実体が明かされないまま、山本さんの送別会の日になった。わたしは今日もひとりで弁当を食べながら、スマホを開く。「スターゲイザー」という天体望遠鏡はもうとっくに知らない誰かに落札されてしまっているが、まだあきらめきれない。スターゲイザー。いい。スターゲイザー。声に出して言いたくなる。
 送別会は藤野音楽堂の近くのかっぽうで開かれた。料理はすでに専務たちが注文を済ませているそうだ。
 この会社ケチだから三千円のコースだよね。五千円のほうではないよね」
 山本さんがわたしに耳打ちしてくるが、特に返事はしないでおく。殺し屋はいちいち二千円分の料理の差に目くじらをたてたりはしない。
 調律師の小野塚さんの姿はない。今日行った家のピアノの調律が長引いているために遅れてくるらしい。来られないぐらい長引く可能性もあるという。
 あーよかった、と「女の子たち」のひとりが呟くのが聞こえた。
「わたし、あの人苦手なんだ」
 小野塚さんは結婚していて、七歳の娘がいる。本人曰く「娘を産んでから、女性の社会的な立場についてすごく関心を持つようになった」とのことで、セクハラなどの問題にたいへん敏感な人だ。
「女の子たち」のひとりの受付担当の人が「小野塚さんにとつぜん怒られた」という話をはじめた。音楽教室の生徒である中年男性とのやりとり(「彼氏いるの? いないの? ひとりじゃさびしいでしょ?」「そうですねー」)を見ていた小野塚さんから「あなたがさっき言われてたことって完全にセクハラだよ、ちゃんと怒らなきゃだめだよ」とお説教されたとのことだった。
「おかしくない? なんでわたしが怒られるの?」
 あとの三人が「あー」と頷く。
 なんでフェミニストの人っていつも怒ってるんだろうねと首をかしげる四人の視線がなぜかいっせいにわたしに向き、わたしがまっすぐに見つめかえすと、さっとそらされた。
 言ってることは正しいんだろうけどさー、いちいち喧嘩腰なんだもん」
 ああいうおじさんをじょうずにかわすのも仕事のうちだよね」
 そうそう。いちいち怒ってたらもう、キリないし」
「ほんとほんと」
 彼女たちの話を聞けば「そういうふうに考えるんだなあ」と思うし、小野塚さんの話を聞いても「なるほどなあ」と思ってしまう。
 けれども、どちらかに「わかる」という態度を示さなければ即座に八方美人の称号を与えられることもまた、わたしはよく知っている。
 いつも「どっち派」かを表明しなければならない。あなたの考えはわたしと違うけど、でもあなたがそう考えていることについては理解した、というわたしのスタンスは、どうもある種の相手を不安にさせてしまうらしい。
 だけどやっぱりわたしにとってそれはどうでもいいことなんだ、と手元にあったよくわからない小鉢をつつきながら思う。
 だってわたしは孤独な殺し屋だから。そう思うことで、どちらにもなじむことができない自分を持て余さずにいられる。
 小野塚さんが座るはずの、ぽつんと空いた席。よく見ると、ひとり分ではなくふたり分の空席がある。あれって誰の席ですか、と山本さんにたずねると、ビールを飲んでいた山本さんは「お、よく気づいたね、南さん」と言って、わたしに人さし指と親指を立てたピストル状の両手を向けた。だいぶ酔っ払っているようだ。
「後任の藤野くんが今日ここに顔出すんだって」
「え」
 いきなり飲み会に参加するというのは、けっこうハードルが高いのではないか。すくなくとも自分ならぜったいにいやだなと思いながら、わたしは人さし指と親指で輪をつくり、部屋を見回す。
「なにしてんの?」
「山本さんが笑っている。ほんとうのことを説明しても、きっとあの日の母親のように「ばかじゃないの」と呆れるに違いない。山本さんは他人だし、如才なさが服を着たような人だからそこまでストレートな物言いは避けるかもしれないが、とにかく理解はしてもらえないだろう。
「視力回復トレーニングですよ」
「南さん近眼だっけ」
「はい」
 俺もやろうっと、と山本さんが隣でわたしにならうので、ふいに申し訳なさがこみあげてきた。すみません噓です、と言いかけた時、スコープの先でふすまががらりと開いた。まるく切り取られた視界の中で、「遅れました、すみません!」とひとりの男性が声を上げる。黒目の大きな瞳がくるくると動いて、興味深げに室内を見回し、わたしと目が合うと即座に唇の両端をきゅっと持ち上げた。
 きらきらきら。頭の中で、なにかきれいな音が鳴った。鳴った気がしただけかもしれない。音の正体はわからない。次の瞬間、男性の姿が消えた。驚いて指を開くと、男性の足元にハンカチや携帯電話や財布が散らばっているのが見えた。頭を下げた拍子に、リュックのなかみをぶちまけたらしい。
 藤野すばる。星の名を持つ彼は、社長のお兄さんの孫らしい。引継ぎのために一緒に取引先をまわった山本さんによると「すこぶるつきにうっかりさん」だそうだ。
 名刺を出そうとしてぜんぶ床にばらまいたとか、昼に入った蕎麦屋でどんぶりをひっくりかえしたとか、帰社するたびにうっかりエピソードが蓄積されていく。年齢は二十九歳、山本さんとひとつしかかわらないが、とてもそうは見えない。年をとるのもうっかり忘れているのではないのかと思うような、あぶなっかしい若さに満ちあふれている。
「南さん、しっかりフォローしてあげなよ。隣の席なんだからさ」
 わたしにそう言い残し、山本さんは藤野音楽堂を去った。家買う時は連絡してよ、とも言われたが、しばらくその予定はなさそうだ。
 フォローと言われても、事務所にいるわたしには外回りをする彼のフォローなどしようがない。せいぜい藤野すばるがコピー機の前でかたまっている時に操作方法を教えてあげたり、電話をとってあたふたしている時にペンとメモを差し出したりする程度のことしかできない。わたしがそうやって手を貸すたびに、藤野すばるはじつに屈託のない笑顔で「ありがとうございます南さん」と礼を言う。
 昼休みがはじまって五分ほど過ぎたところで、事務所のドアが勢いよく開いた。今日は社長たちは社外のセミナーに出席する予定で、もう会社には戻らないことになっている。小野塚さんの調律の予定が変更にでもなったのかと顔を上げたら、藤野すばるが立っていた。
「あ、おつかれさまです。南さん」
 会話の中に相手の名前をひんぱんに入れると心理的な距離が縮まる。以前『詐欺師のテクニック』という本を読んだ時にそう書いてあった。
 でも藤野すばるは、おそらく無意識でやっているのだろう。そのような策士には見えない。自分と距離を縮めたがっているか否か、ということについてはなぜか考えがおよばない。策士なんかではないはずだ、というところでわたしの思考はとまる。
「今からお昼ですか、僕もです」
 午後の約束が流れてしまったらしい。コンビニに寄ってきたらしく、白い袋を掲げた。海苔をのせたごはんにおかずなし、というわたしの弁当をいちべつして「おっ、潔いっすね」とよくわからないことを言った。
「昼はごはんですよね。パンはだめです」
 藤野すばるは椅子に腰かけ、おにぎりの包装をはがしはじめる。
「なんでパンはだめなんですか」
「おなかいっぱいにならないから」
 はあ、と頷いて、わたしはごはんを口に押しこむ。弁当に手間をかけるぐらいなら一分でも長く朝は寝ていたい性質たちで、食パンを一袋と蜂蜜を持参して昼食にしたこともあるのだが、でも藤野すばるにはそれを知られたくない。
 おにぎりの具はなにが好きなんですかとか、仕事はもう慣れましたかとか、なにか会話のきっかけとなる質問をしてみようかと口を開きかけた瞬間にまた事務所のドアが開いて、専務が姿を現した。忘れものを取りにきたらしい。
「お、すばる」
 社長も副社長も専務も藤野なので下の名前で呼ばれている。いやそうでなくとも下の名前で呼びたくなるなにかが、藤野すばるにはある。
「おつかれさまです、専務」
 専務は藤野すばるが手にしたおにぎりに気づいて、目を細める。
「もっとましなもん食えよ」
「今月金欠なんで」
「弁当つくってくれる女もいないのか、お前」
「なんで金ってつかったらなくなるんですかね?」
「結婚しろよ」
「でもこのおにぎりうまいんすよ」
 ふたりの会話はまったく嚙み合っていない。
 わざとだったら、この人すごい。おにぎりを食べている藤野すばるを横目で見やる。ピントのずれた回答をすることでこのハラスメントをやんわりかわしているとしたら、かなりの高等技術。でも海苔のかけらを唇につけてにこにこしている横顔を見ていると、違うような気もする。
 専務はなおも「人間はひとりでいちゃだめなんだよ、そもそもひとりでは生きていけないんだ、ひとりが気楽なんてのはわがままですよ、少子化がとまりませんよ日本は」とどんどんぼやきのスケールを大きくしながら机の上の携帯電話をつかみ、事務所を出ていった。
「ひとりが気楽だと思うのはわがままなんですかね」
 閉まったドアを見つめながら、わたしは箸を置く。まだ半分以上残っているが、もう食べる気がしなくなった。
「わがままではないと思いますけど、でもひとりってさびしいでしょ」
 ひとりはさびしい。重たいかたまりが腹の底に沈む。なんか違う。それはなんか違う気がする。
 アパートに戻るとほっとする。でも心細い時もある。ひとりはなるほど気楽で、すこしさびしい。でもさびしさを埋めるために誰かと一緒になるのは、それこそわがままではないのか。
 人さし指と親指でつくった輪っかごしに専務の机を見ていると、藤野すばるが「あ」と声を上げた。
「それ、前もやってましたよね。なんなんですか?」
 山本さんにそう言ったのと同じく、視力回復トレーニングです、と噓をついてもよかった。でも藤野すばるには、ほんとうのことを話してもいいかもしれない。だって、この人なら「ばかじゃないの」と呆れたりしない気がする。
 すこし悩んでから「設定です。ライフハックです」と答えた。
 設定ってなんですか、と訊かれるに違いないと思っていたのに、藤野すばるは腕を組んでうなっている。
「なるほど」
「えっ」
「処世術ってことですよね。僕も仕事に行く気がしない時とかによく『会社員の役を演じてるつもり』で出勤するんです。それと同じですよね」
 働きにいくのではない、今日いちにち会社員の役を演じるだけだ、と思うとけっこう楽しく働けて、ミスをしてもあんまり落ちこまずにいられるのだそうだ。
「そうです、そうなんです」
 身を乗り出さずにはいられなかった。わかってくれた。わかってくれる人がいた。
「で、どういう設定なんでしょうか」
 殺し屋です、と正直に答えたら、藤野すばるは「なんすかそれ!」と天を仰いで笑い出した。
「殺したい相手でもいるんですか?」
「そういうんじゃなくて」
 こんどは藤野すばるがうんうん、と身を乗り出す。
 映画に出てくる殺し屋って、孤独で無味乾燥な暮らしをしてて、しかもそれをなんとも思ってない感じがして、なんかそういう、わたしもそういう心持ちでいられたら、いろんなことが平気になるような、そういう気がして。「コードネームは保留のままなんですけど」
「南さん」
 藤野すばるの目がまっすぐにわたしを見つめる。成人男性にはめずらしいほどに白目の部分が澄んでいる。ときめきとかそういうことを通りこして逆に不安になった。
「は、はい」
「南さんは、おもしろい人ですね」
 そうですか、とわたしが声を裏返らせた時、机の上の藤野すばるのスマートフォンが鳴り出した。あ、やべ、と腰を浮かせるところを見ると、私用電話らしい。はいはい、うん、と話しながら、外に出ていく。いれかわりに「女の子たち」が戻ってきた。
 あれはずるいよねー、と「女の子たち」が意味ありげに顔を見合わせている。
 彼女たちは今日も給湯コーナーに直行する。カフェラテ、ココア、抹茶ラテ、いちごラテ。匂いが事務所内に充満した。社長たちが今日はもう会社には戻らないことを彼女たちも知っているのだ。午後の始業時間を過ぎてもまだ喋り続けている。
「ああいうのを人たらしっていうんだよ」
「失敗ばっかりしてるらしいのに、ふしぎとお客さんから苦情が来ないんだよね」
「顔がいいのもずるいよね」
 藤野すばるの話をしているのだとわかった。ずるい、ずるい、と責め立てるようでいながら、語尾は愛らしくくるりと丸まっている。
 ひとりが「このあいだ、シャツのボタンつけしてあげたら『ほっさん器用だね、すごいね』って言われちゃってさー」と鼻の頭に皺を寄せた。
「ボタンつけぐらい誰でもできるよね」
「すばるくんって、ぜったい相手の名前呼ぶよね。おはよう誰々さん、誰々さんおつかれ、ってさ」
 誰にたいしてもそうなのだ、と知ってもわたしの心は沈まない。おもしろい人ですね、と言った時の笑顔を、ゆっくりとはんすうする。
「でも私、けっこうタイプかも」
 ええー、とどよめきが起きて、うち一名の臀部でんぶがわたしの椅子の背にぶつかった。あ、ごめん、という声が聞こえたが、わたしが振り返った時にはもう誰もこちらを見ていなかった。
 そっか、あやみちゃんフリーだもんね、という声がした。「あやみちゃん」は片頰に手を当てて頷いている。爪はすべてうすい桃色に塗られていた。
「つきあっちゃえば?」
 タイプかも、からフリーだもんね、で、即つきあっちゃえば、なのか。わたしは電話機のコードをいじりながらひそかにどうもくする。
「えー、どうしようかなー」
 かわいらしく首を傾げるあやみちゃんの声は、明るく弾んでいた。
 あやみちゃんことふるかわあやみさんは一階の楽器売り場の担当で、専務は彼女を「看板娘」と呼ぶ。街で発行されているフリーペーパーに噂の美人店員として取材されたこともあるそうだ。
 誰かとかぶるような名字でもないのだが、わたしが入社した時から彼女は「あやみちゃん」と呼ばれていた。古川さんと呼ぶのはわたしだけだ。下の名前で呼びたくなるなにか、がきっとあるのだ。藤野すばると同じく。
 そのなにかをわたしは持っていない。学生の頃からみんなに「南さん」と名字で呼ばれてきた。
 ふわふわとした長い髪。華奢きゃしゃな手足に長い睫毛まつ げ。見れば見るほど、古川さんにはわたしの持っていないすべての要素が備わっている。
 古川さんは翌日からさっそく藤野すばるに接近しはじめた。そうはいっても、露骨な感じはしない。わたしが観察しているからすぐにそうと気づいただけだ。以前より事務所に顔を出すようになったし、話しかける回数も増えた。
 今だって、もらいもののお菓子をみんなで食べるタイミングでいつのまにか藤野すばるの隣に陣取っている。そこはわたしの席なんですけど、と言えない。社長たちのお茶をれるのは事務員の仕事で、わたしは給湯コーナーからまだ離れられない。
「すばるさん、○○町のカフェ知ってます?」
 ローストビーフ丼っていうのがあるんですよ、すばるさんお肉好きですよね、行きませんか、みたいな話をしている。ちょうど電話がかかってきたので、わたしは藤野すばるの返事を聞き逃した。
 ローストビーフ丼、食べにいくんだろうか。歩きながらぼんやり思う。
 古川さんも藤野すばるも、わたしと同じく定時にタイムカードを押した。挨拶もそこそこに、いそいで会社を出た。ふたりが一緒にいるところを見たくなかったから。
 いくんだろう。わたしは知らなかったが藤野すばるはお肉が好きらしいし、そもそも古川さんのようなかわいい女の人に誘われて、断る理由がない。
 下の名前で呼びたいと周囲に思わせるふたり。おにあいのふたり。
 あれ以来、背後からぶつかってくる男には遭遇していない。今度見かけたら即警察に連絡してやろうと思っている。
 このあいだ小野塚さんにこのことを話したら、彼女は「南さん、それは犯罪よ」ときびしい顔をしていた。
 完全なる変質者よ、通報しなきゃだめよ、という話を聞きつけて、社長が寄ってきた。「そいつはねえ、ただのさびしい男ですよ」としたり顔で口を挟まれて、その時はじめてわたしの心に激しい怒りが湧いた。
 自分のさびしさのために、他人に危害を加えてはならない。
 電車に乗る気がせず、駅の周辺を意味もなくうろうろ歩いた。このあたりになにがあるのか、いまだによく知らない。毎日寄り道せずに帰るから知りようがなかった。
 うちの近くにあるのとは違うコンビニを見つけて、なんとなく入ってみた。おにぎりの棚の前に立つ。鮭とわかめのおにぎりを買い求めてから「殺し屋はおにぎりを食べないのではないか」と考えていたことを思い出した。そういえばここしばらく、設定のことを忘れていた。
 このままアパートに帰りたくない。いつものように外から聞こえる酔っ払いの怒号を聞きながらもそもそとひとりでこのおにぎりを食べるなんて想像もしたくない。
 設定はもうきっと、わたしを救わない。そんな気がする。
 よろよろと駅前のベンチに腰をおろした。ぼんやりと行きかう人を眺める。みんなすこし早足で、次なる予定に急いでいるように見える。
 藤野すばるも、高校生も子連れの主婦も、携帯電話を片手に早口で喋っているあの男性も、古川さんも、あの人もこの人も、わたしにはみんな星みたいに見える。それぞれに輝いていて、とても遠い。
 自転車に乗った高校生の後ろで、ふわふわの髪が揺れた。あたりはもうすでに薄暗くて顔はよく見えないが、あのスカートには見覚えがある。動くたび軽く揺れる、花のような。
 古川さんはなぜかひとりだった。わたしに気づかずに通り過ぎていく。足元がかなりふらついていて、手にはなぜかワインの瓶が握られている。
 なぜワインの瓶を、といぶかしみながら、わたしは立ち上がる。ボトルのなかみは三分の一ほどしか残っていない。歩いているあいだに揺れたらしく、白く泡立ってとてもまずそうだ。
 古川さんの身体が大きく傾いで、歩道に倒れた。側溝の網にヒールがひっかかって転んだのだ。放り出されたボトルから黄金色の液体が流れ出し、水たまりをつくっている。あとから歩いてきた会社員風の男性が、ものすごく迷惑そうな顔で古川さんをよけていった。
「あの、だいじょうぶですか」
「あれ、南さん」
 みなみしゃん、と聞こえた。完全なる酔っぱらいだ。思わず腕時計を見る。退社してからさほど時間は経っていない。古川さんはかなり酒に弱いか、よほどのハイペースで飲酒をしたか、あるいはその両方かだと思われる。
「藤野さんはどこにいるんですか」
「なんで南さんがここにいるの」
 わたしたちはほぼ同時に口にした。
「帰り道なので、それであの」
 わたしが喋っている途中で、古川さんがいきなり「いなーいー!」と叫んだ。
「え、え」
「すばるさんはここにはいないのー!」
 通り過ぎる人がみんなこっちを見ている。
「とりあえず、起きませんか」
 怪我はありませんか、というわたしの問いを聞き流し、古川さんは「うわストッキング伝線してる、最悪」と低い声で呟いて舌打ちした。会社にいる時とずいぶん違う。
「ローストビーフ丼を食べにいったのでは」
「肉は肉でも焼肉派なんだって」
 あとあの人、とぎゅっと顔をしかめて、わたしの腕を摑んだ。きれいに塗られた爪が皮膚に食いこんで痛かった。
「彼女いるんだよ、最悪」
 この人すぐ「最悪」って言うんだな、と呆れながら、わたしは古川さんの瞳から涙がこぼれ落ちるのをただぼんやり眺めている。
「あー、肉だったら僕もおすすめの店がありますよ」
 それがあの時、わたしが電話を受けて聞き逃した藤野すばるの返事だったそうだ。
 焼肉ですけどね、と続けて、すでに食べ終えたお菓子の包みを手の中でくちゃくちゃに揉んだり、空っぽの湯呑みに口をつけたりして落ち着かぬ様子だったという。古川さんが不審に思っていろいろ質問を重ねたらようやく「いや、僕の彼女がバイトしてる店なんです、じつは」と打ち明けられた。
 転んだ時にぶつけたのか、古川さんは手の甲をすこしすりむいていた。
 とりあえず立ち話もなんだから、と目についたカフェに入って、絆創膏をはってやったり時折涙をこぼす古川さんにティッシュを差し出したりしながら、わたしは長い時間をかけて話を聞きとった。
 藤野すばるはすこぶる無邪気に「じゃあ今日行きませんか、紹介したいし」とその店に誘ってきた。脈ゼロじゃん、と思ったらしいのだが、それでも彼女に興味があるので、古川さんは誘いを受けた。
 タイムカードを押した藤野すばるは「あ、そうだ。南さんも誘いましょうよ」などと言い出し、古川さん曰く「山に登った人がヤッホーって叫ぶみたいに」両手を口もとに添えて、わたしを呼んだらしい。いそいで会社を出ることで頭がいっぱいだったわたしの耳にはまったく届かなかったが。
 それは古川さんにとって、たいへん屈辱的なことであったらしい。ふたりで行くのだと思っていたら違った、ということが。
 本人の言葉を借りるならば古川さんの「女としてのプライド」はそこで「完全にズタズタになっちゃって」、急に具合が悪くなったと言い訳して、藤野すばるの前から走り去ったという。
 その後「なんか急激にいろいろどうでもよくなってきて」目についたコンビニでワインを買って公園のベンチでラッパ飲みしていたら、へんな男が寄ってきてしつこく話しかけられたのでますますいやな気分になり、場所を移そうと歩いていたところで転び、そこにわたしが現れた、という経緯だった。
 古川さんの話は時系列に沿っておらず、句読点がわりに「最悪」をはさんでくるのでたいへんわかりにくかったが、要約するとそういうことのようだ。
「ひどいよ」
 古川さんがぽつりとつぶやく。それから、すっかり冷めてしまったココアを一気にごくごく飲み干した。
 ひどくはない、と思いますけど」
 噓をついたわけでも、古川さんになにかひどいことをしたわけでもない。わたしが慎重に口をはさむと、古川さんの唇が尖った。
「南さんさ」
「はい」
「前から思ってたけどなんで敬語なの」
 同じ年齢だが会社に入った時期が一年ほど遅いからだ、と説明しても、古川さんの唇の形状は変わらなかった。
「南さんだけ私のことあやみちゃんって呼んでくれないし」
「いやそれは、なれなれしいかなって思って」
「自分の名字が嫌いだから下の名前で呼んでってみんなに頼んでるのに。それ知ってるでしょ」
「いや知りません、知りませんでした」
 わたしはあわてて首を振る。
 名字で呼ばれるたびに距離を感じる。南さんって、私たちのことバカにしてるでしょ」
「え、してないですよ」
「もういい。南さんもすばるさんもみんなひどい」
 からまれている。ようやくわたしは気づく。これがからみ酒というものか。噂には聞いていたがかなりうっとうしいものだ。居心地の悪さを抱えながら、わたしは冷めきったコーヒーに口をつける。
「南さん、すばるさんのこと好きだよね」
 すこしずつ酔いがさめてきたらしい。古川さんが強いまなざしをわたしにあてる。
「古川さんも、ですよね」
 タイプかも、つきあっちゃえば、という思考のスピーディーさから、もっと軽いものを想像していた。ゲーム的ななにか。でもその程度の気もちなら、ここまで泣くわけがない。
「好きだった、かな」
 もう過去形なのか。古川さんは肩をすくめた。
「もういいや、すばるさんは」
「もういいんですか?」
「だって彼女いるし」
 私これでも略奪とかぜったいしないタイプだから、と続けて、かすかに鼻を鳴らした。
「自分のこと好きになってくれない人を好きになったって、意味ないから」
「そうでしょうか」
 自分の好きな人が自分を好き。わたしにとって、それはもう奇跡に近い状況なのだが、古川さんは今までそうではなかったのだろうか。
「え、南さんはそういう報われない恋とかしちゃうタイプなんだ」
「報われない……?」
 どういう状態を「報われる」と呼ぶのか、それもわからない。「つきあう」をおこなえば、それで報われるのか。
 好きな人の特別な存在になりたいんだよ、だから彼女になれなきゃ意味がないの、だって男とは友だちになれないんだから、と古川さんはなおも言いつのる。
「はあ……」、「へえ……」と鈍い反応しかしないわたしに苛立ってもいるようだ。
「南さんは違うの?」
 古川さんが金切り声を発して、テーブルをばしっと叩いた。隣のテーブルの学生ふうの男女がこっちを見て、意味ありげな目配せをしあう。
「ええと、わたしは自分の好きな人の……」
「うん」
「好きな人の……ええと」
 好きな人のなにになりたいのか。それはとてもむずかしい質問だった。
 でも、好きな人にどうあってほしいか、ということならばすぐに答えられる。
「好きな人に、ちょっといい枕で眠ってほしいとよく思います」
 古川さんの口がぽかんと開く。
「は?」
 藤野すばるに、好きなものでおなかをいっぱいにしてほしい。蚊に刺されにくい体質になったり、コンビニのくじでちょっといいものが当たったり、お店に入ったら自分の好きな音楽がかかっていたり、そういう日々を送ってくれたらいいと思っている。その隣にいるのがわたしではなくても。
 はあ、と今度は古川さんが鈍い反応を示す番だった。覚えがある。自分の言っていることがぜんぜん伝わってないな、というこの、手ごたえのなさ。母と同じだ。
 それでも、口に出してよかった。たとえわかってもらえなくても、あらためて言葉にすることで、自分の感情が今たしかな形状と色を持った。
 わっかんないなー、と呟いて、古川さんは頭をがしがしといた。ふわふわの髪が乱れる。会社ではついぞ見ることのない仕草を連発する古川さんもまた、なにかの設定や役で生きているのだろうか。「女の子たち」「看板娘」という期待に添うような。
「そもそも、なんで『男とは友だちになれない』んですか」
 性別が同じだからといって、わかりあえるわけでもない。だってテーブルをはさんで向かい合っているのに、わたしと古川さんはこんなにも遠い。
「私は南さんとは違うもん」
 古川さんの目が一瞬ちかっと光って、それからゆっくりと伏せられる。
「南さんって、ふつうに男の人とも友だちになれるタイプでしょ……あ、そっか、そういえば山本さんとも仲良かったもんね。南さんみたいにちゃんと自分の世界を持ってて、ひとりでもいつも堂々としていられて、そういうのってかっこいいよ。でも私は違う。だから私は誰かの『特別』になって、それで」
 ちゃんとあいされたいんだもん。唇からふいにこぼれ落ちたような、切実な声だった。
 ひとりはさびしいでしょ。藤野すばるがそう言った時、なんか違う、と思った。でもさっき古川さんが言った、「ひとりでいられてかっこいい」という言葉もまた、わたしの実態とはぜんぜん違う。
 こんなわたしであっても、もしかしたら古川さんの目にはそれなりに輝いて見えていたのだろうか。同じ空間にいても互いの実態すら知り得ない。わたしたちは星と星みたいに遠い。そう考えて、息を吐く。遠い。でも。
「古川さんのことはかわいくて素敵な人だと思っています」
「嬉しくないよぜんぜん」
 腕を組んでそっぽを向いた古川さんの頰がうっすらと染まっていた。爪と同じ色で、とてもきれいだ。
 星と星みたいに遠い。けれどもお互いがそこにいると知っていれば、それでじゅうぶんだ。こんなふうにときどき交信できたら、なおいい。
 ひとりはさびしいのでもかっこいいのでもなくて、ただのひとりだ。そのひとりの時間を存分に慈しむのも悪くないのかもしれない。やり過ごしたり、ごまかしたりするんじゃなく。
 やっぱり天体望遠鏡を買おうかな。そう呟いたら、古川さんが「え?」と怪訝けげんな顔をした。手帳の「コードネーム:保留」を「不要」に書きかえなければならないなと思いながら、わたしは古川さんのまだうっすら染まったままのきれいな頰を見ていた。

(了)


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